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【飛翔編】第031章 無血上洛
 天文八年一月五日。
 阿波を発した三好利長の軍勢は、総勢二千五百に達していた。
 既に阿波守護の細川持隆の了解は取ってあった。彼としても、三好政長の専制政治には大いに反発していたところだったから、孫次郎利長の決起を英断と称えた上で、兵員こそ貸さなかったが、兵糧や矢玉などの軍需物資の一部を与えて、事実上彼の味方についたのだった。


 孫次郎動く。
 この報に、天下はたちどころに騒がしくなった。
 まず、三好家と縁深い安宅氏、十河氏が与力した。続いて丹波守護代八木城主内藤国貞も、伊賀守支持の姿勢を鮮明に打ち出すと、早速自身兵を率いて都に迫り、三好政長を牽制した。
 一方、安宅水軍に乗り込み、阿波を出港した三好軍は、一月八日には堺に上陸した。世直しを大義名分に掲げ、士気高く進軍する彼らを、居並ぶ諸侯はただ傍観するしかできなかった。
 無論、三好政長などは、
「これは伊賀守の明確な謀叛である。討伐せよ」
 と、近隣諸侯に指令は飛ばしていたのだが、世人に人気が高く、かつ圧倒的な潜在力を誇る三好利長と決戦する勇気のある大名などどこにもなく、結局、三好軍はほとんど無抵抗のまま、悠々と進軍を重ね、一月十三日に山崎に入ると、翌十四日には、ついに入洛を果たしたのである。


「…案外、楽でしたな」
 三好康長のそんな軽口に、孫次郎利長も、思わず苦笑いした。
 実際のところ、孫次郎も三好家の面々も、これほど楽に上洛できるとは夢にも思っていなかったのであった。必ず細川方の抵抗があるに違いないと、最新の武具を備え、兵糧を蓄え、準備万端整えた上で挙兵したというのに、これでは全く拍子抜けというものである。また兵の中には、郷里の家族に己が死後のことまで指図して、後顧に憂いなく従軍している者もいたぐらいだったから、彼らにしても、よい意味で意表を突かれた展開に、ただ呆然と溜息など吐いていたものだった。
「楽といえば楽。だが、これからが厄介な政治の世界と言う奴だ」
 と、孫次郎が気を引き締めるように言うと、
「左様ですな」
 と、康長も大きく頷いた。


 翌十五日。
 三好利長は管領御所に鎮座する管領細川晴元の下に赴くと、そこで年賀の挨拶をした。基本的に、孫次郎の挙兵上洛というのは、実際のところはともかくとして、細川晴元の上洛命令に応じたもの、という形をとっているから、彼が晴元の下に挨拶に行くのは、至極当然のことであった。
 だが…。
 管領御所の周りを、三好方の精鋭で囲み、その上で先の年賀に出席しなかった三好利長以下、内藤国貞、安宅治興、十河景滋ら三好方諸侯が群れを成してやってくる様は、なかなか壮観であり、何より圧迫感に満ちていた。
「此度、管領様の御召しに応じ、上洛仕りました次第にござります。新年、おめでとうござりまする」
 四諸侯を代表する形で、孫次郎利長が言うと、上座にある晴元はただ「うむ」とだけ言って、軽く頷いた。
 やがて、鬱陶しいほど面倒臭い儀式に満ちた謁見式が終わると、内藤、安宅、十河ら各将は自陣へと戻っていった。利長はというと、相変わらず晴元の側にあって、彼の冷たく厳しい視線を一身に浴びていた。
「孫次郎、何ゆえ此度、大軍を率いて上洛するなどと物騒な真似をした?」
 日ごろの酒色のせいか、体のあちこちに贅肉がつき、かつての凛々しさを失ってしまった貴公子の言葉に、利長は思わず小さな溜息を吐いた。
「御所様に現実を知ってもらおうと思ったまでのこと」
「現実、だと?」
「左様です。御所様は、確かに天下人なれど、その基盤は如何に脆く、弱弱しい砂上の楼閣に過ぎないのだということを、知ってもらいたかったのです」
「…」
「ここ最近の御所様は何ですか? 全てを越後殿に委任しきって、日々芥川山城にて酒と女の日々だというではありませぬか。未だ天下定まらぬとき。天下人たる御所様がそんな有様では、御所様の天下もそう長くはありませぬ」
 歯に衣着せぬ孫次郎の鋭き言葉に、晴元は思わず言葉を失った。
 孫次郎の言い分は、至極尤もで、晴元に反論できるはずもなかった。彼自身、酒と女子に明け暮れている自分に、時折嫌気が差すこともあった。けれど、面倒臭い政治に比べれば幾分マシであると、現実から逃げたい一心で、ひたすら酒と女にのめりこんで来たのである。だが、天下人として良いことかと問われれば、悪いことだとはっきりと断言できる。
「…それと、亡き父筑前守が旧領、そろそろ御返還いただきたい。かつて、御所様は全て返すと仰せでした。あれから七年。されど、未だ父の旧領は、越後守殿や左京亮殿の手の中にありまする」
「あ、あぁ…。あれか」
 晴元は苦りきったように顔を歪めながら、しかし実に正当な孫次郎の要求に、やはり返す言葉もなかった。
「そ、そうだ」
 ふと、彼は何やら思いついたように、パンと手を叩くと、側に控える小姓に目をやった。小姓はすかさず立ち上がり、去ったかと思うと、しばらくして戻り、そして一羽の鷹を晴元に差し出したのだった。
「これはの、去年辺りだったか、尾張の織田備後守(信秀)より送られし鷹じゃ。確か、美濃で捕えたとか申しておったが、なかなかに見事なものじゃ。…とりあえず、これをその方にやろう。約束が遅れに遅れた詫びと思え」
 と言って、彼はその鷹を孫次郎利長に与えると、驚く彼の様を見てはからからと楽しそうに笑っていた。
 

 鷹など貰ったところで、それだけで孫次郎の気持ちがどうにかなるものでもない。彼と言う人は、余り鷹に興味はなかった。
 だから彼は、三好屋敷に戻るなり、鷹の処置は配下に委ね、とりあえず日も暮れたので、とにかく休むことにした。挙兵から上洛に至るまで、やたら神経を使い続けてきただけに、彼の精神的疲労は限界に達しつつあった。
「だが、織田備後守か…。織田と申せば、尾張の守護代。そんな田舎の小大名ですら、都に食指を伸ばしてくるとは…。天下にはなかなかいろいろな人がいるものだな」
 などと思いながら、ゆっくりと目を閉じる。けれど、天下に数多犇く英雄たちのことを思うと、なかなか容易くは眠れなかった。
 孫次郎も、とりあえず戦国を生きる大名の一人であるから、天下の情勢くらいは把握しているつもりである。当然、織田備後守信秀のこともある程度は知っていた。
 織田信秀という人は、尾張守護代を代々世襲する織田氏の一門であるが、その家格と身分は決して高くなかった。当時織田氏は清洲織田氏と岩倉織田氏の二つに分かれて対立していたが、信秀は清洲織田氏に仕える三奉行家の一つ弾正忠家の当主に過ぎなかったのである。しかし、彼は自らの力と才略、胆力でもって次第に頭角を現し、守護の斯波家はもとより、岩倉織田家、清洲織田家といった主筋にあたる織田諸家を遥かに凌駕する実力を手に入れ、事実上尾張国主と呼んで差し支えない地位を手に入れたのだった。
 人呼んで『尾張の虎』。
 後世においては、織田信長の父親として著名になる彼だが、美濃の土岐氏(実質的には土岐氏を傀儡化し、その後乗っ取ることになる斎藤道三)や、三河の松平氏、さらにはその松平氏を傘下に加えた駿河・遠江の今川氏と激しく争いながら勢力を広げていく姿は、決して偉大なる息子に劣るものではなかった。
「俺も急がねばいかんなぁ。こういう英雄たちが、どんどん力を強めていったら、俺の出番もなくなるぞ」
 そんな風に思いながら、孫次郎はいつしか眠りについた。遠のく意識の中で、彼は何を夢見ているのだろう。負けたくない。自分が天下を取ってやるのだ。そんなことを思っているのかもしれない。ニタニタとしまらない笑みを浮かべ、唾をたらす様は、お世辞にも、天下にその名を轟かした三好孫次郎利長とは思えなかった。


 一月も過ぎ、二月も半ばに達した頃、三好利長は焦れていた。
 細川晴元に散々要求しても、旧領返還について全く音沙汰がなかった。晴元はまるで逃げるように芥川山へ引っ込んでしまうし、管領御所を守っている三好政長に言っても意味がない以上、孫次郎は苦りきったような顔をして、毎日屋敷内で怒鳴っていた。
「御所様は、相変わらず我らの力がわかっておられぬようだ」
 孫次郎は晴元が嫌いではないが、しかし彼の余りの優柔不断には、業を煮やさずにはいられなかった。
「されば、幕府に訴え出るのは如何でしょう?」
 と、そこに聞こえてきたのは、どこか聞きなれた、年寄りじみた青年の、特徴ある声色であった。
「お久しぶりです。伊賀守様」
 そう言って、静かに孫次郎の下にやってきたのは、松永久秀であった。弟の松永甚介長頼に伴われてきた彼は、時折ニタニタと笑いながら、
「幕府の力を借りればよいのです」
 と、言った。
「幕府だと? だが、幕府即ち管領。御所様が幕府を支配しているのに、その御所様が首を縦に振らぬ以上、幕府とて頼りにはなるまい」
 そんな風に孫次郎が言うと、松永久秀は「ははは」と豪快に高笑いした。
「確かに幕府に対する管領殿の支配力は絶対的。されど、本来幕府とは何でしょう。幕府とは、即ち将軍。管領というのは、将軍の補佐役に過ぎませぬ」
「…」
「公方様を動かすのです。将軍家の命とあらば、管領殿とて無碍に扱うわけには参りますまい。何と言っても、将軍家の権威あってこその管領でございますからな」
「…なるほど」
「また将軍家にしても、管領殿に全権を握られている現状を快くは思っておられますまい。もしそれがしが公方様の立場なれば、ここは三好家に味方し、細川、三好の対立を上手く利用しながら、将軍家の勢力回復に繋げようと思うでしょうな」
 久秀の言葉に、孫次郎は何度も頷き、やがて、「それしかあるまい」と呟いた。
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