【飛翔編】第029章 丹波騒動
天文七年(一五三八年)九月。
従五位下越前守三好政長は、従五位上越後守に叙任し、かつ同月中に仁和寺が所有している荘園の代官職を幕府から与えられるなど、権勢を極めていた。
世人は、既に彼を天下の宰相と見、目聡い者たちは、早速、ありとあらゆる手を使って、彼の歓心を得るべく努力するようになった。
細川政権が強大化するにつれ、それに比例するように政長の地位も高まった。何と言っても、彼には細川晴元の絶対的信任があるわけで、最近では芥川山城内で酒池肉林に耽るようになった晴元に代わって、政治の全てを取り仕切るようになっていたほどだった。
例えば…。
細川政権執政の立場から、政権財政の確保を目指して、山城北部に段銭を課したり、その他様々な法令を定めたりした。そのたびに発した管領奉書には自らの名も署名するなど、その権勢ぶりは主君たる晴元に勝るとも劣らぬものであった。
けれど、こうした彼の専横を、細川政権傘下の諸大名が快く認めていたわけではない。実際、政権の強大化、即ち中央集権化を目指す政長が、反抗的な諸大名に対する締め付けを著しく強化していたことに対し、反発や不満も高まっていたのだった。
しかしこうした反発を見逃すほど、政長も甘くない。そもそも細川政権というのは、名門細川氏の権威と、将軍家をその庇護下に置いていること、幕府管領としての権限を拠り所として成立しているに過ぎない。細川家自体は、他の諸侯よりは少しばかり大きな勢力を持った大名家に過ぎず、極論すれば、将軍家を盟主とする大名連合の筆頭格に過ぎないのである。
これは余談であるが、細川晴元政権は、現代において五十五年体制を崩壊させた細川護煕連立内閣にも似ている。細川連立政権は、非自民非共産を旗印に日本新党、新生党、日本社会党、新党さきがけなど八党派が連携して成立したものだが、この際、日本新党の党首だった細川が政権首班とされたのは、肥後熊本藩主家の末裔で、近衛文麿元首相の孫でもある血筋が盟主と仰ぐに相応しいものだったからと言われている。
それはともかく…。
細川護煕政権と、それを継いだ羽田孜政権がそうだったように、絶対的な中核となりうる存在を欠いた連立政権というものは、些細なきっかけで、いとも容易く崩壊してしまうものだった(非自民連立政権の場合は日本社会党、新党さきがけの離反)。だから、三好政長にとって、ほんの小さな不満の芽も、見過ごすわけにはいかなかったのだ。盟主たる細川家の実力を、諸侯に思い知らせて始めて、政権基盤は確固たるものとなりうるのである。
「内藤国貞。まずは、これを滅ぼす」
政長は、京の管領御所で、側近たちを前にそう宣言していた。
「丹波守護代の内藤殿ですか? まあ、確かに内藤殿は越後殿がやりようをいちいち否定し、文句ばかり言っておられましたからな」
と、側近たちも一様に口を揃え、政長の判断を快く認めていた。
だから、政長も気分良く、早速芥川山に使いを送ると、内藤討伐の許可を晴元に求めたのである。内藤を滅ぼせば、彼の領地を細川の直轄領に組み入れることも出来るし、何より、彼と同調して自分の政治方針に楯突いている身の程知らずの連中を黙らせることも出来るだろう。
政長の使者は芥川山城に登城し、晴元に謁見した。日々女子に明け暮れ、酒浸りの日々を過ごしていた彼は、とろんとした瞳のまま、使者の顔をまじまじと見つめていた。
「ふーん。内藤攻め、ね」
晴元は、そういう政治絡みの話を聞くのも面倒臭いと言わんばかりの顔をして、
「越後の意に任す」
とだけ突き放すように言った。
何はともかく、これで政長は誰に気兼ねすることなく、丹波出兵に臨むことができるわけである。
だから、早速彼は内藤と敵対している丹波八上城主の波多野秀忠と連携すると、彼とともに、総勢一万六千に及ぶ大軍を従え、丹波に進軍したのであった。
内藤国貞は、八木城を本拠地として、丹波一国に大きな勢力を誇る有力国人であった。丹波守護代の地位にあり、事実上同国を支配している。
彼は元々、細川高国の家臣であった。国貞の『国』の字も、高国から与えられたものである。しかし、高国が重臣香西元盛を粛清した事件をきっかけに勃発した波多野稙通、柳本賢治(いずれも香西元盛の兄弟)らの叛乱を受け、彼は高国から波多野方、さらには晴元方に寝返った。以来晴元政権の重鎮として、事実上丹波を預かっているわけだが、自らの実力を過信して、政長批判を公然と繰り返したことが、命取りとなった。
政長率いる討伐軍は怒涛の勢いで進軍し、やがて八木城を取り囲んだ。内藤勢も必死の奮戦を示して抵抗したものの、所詮、多勢に無勢である。このままの状況が続くようであれば、陥落は時間の問題だった。
「何とかせねば…」
国貞の焦りは深まった。
「何とか…」
彼は、いてもたってもいられぬといった様子で、焦燥感に満ち溢れている城内を歩き回った。家臣たちは、彼を前にして、平伏す力もないといった風に、疲れきった様子でへばっていた。
「ここは、伊賀殿におすがりするより他に仕方がありませぬぞ」
と、側近たちは、口を揃えてそう言った。
「伊賀殿は、三好家の宗家ゆえ、分家に過ぎぬ政長より格上にございますし、御所様も伊賀殿の進言なれば、お聞き入れ下さりましょう。我らの本意が御所様に伝われば、御所様とて我らを滅ぼそうとはなされないでしょう」
「…なるほど」
国貞も、それ以外の良策はないように思えた。三好伊賀守利長は、まだまだ若いが、しかし今や細川政権に確固たる地位を築き、絶大な影響力を誇っている。安宅氏や十河氏に養子を送り込み、両家を取り込むなど、三好家自体の国力も急激に強まっていた。
三好家が仲介すれば、あるいは晴元を動かすことも可能かもしれなかった。晴元が動けば、政長とて兵を引くだろう。
天文七年十一月五日。
内藤家から差し向けられた急使は、ちょうど堺に逗留中だった孫次郎利長の下に到着し、慌しい仕草で、国貞からの親書を手渡した。
それを読みながら、孫次郎は困ったように小さな溜息を吐いた。
「俺に御所様を説得してくれと書いてある」
と言って、彼は側近の松永甚介にそれを下げ渡した。
「聞くところによれば、八木城は越後殿の軍勢に包囲され、陥落寸前だそうですね」
「まあな。だから俺に助けを求めにきたのだろうが、…さてさて、俺にそんな力があるのかな?」
そんな風に、ニタニタと自信に満ちた不敵な笑みを漏らすと、孫次郎は溜息混じりに、ごろりとその場に寝転がった。
「実際にあるかないかはともかく、内藤殿は、あると思ったから、殿に助けを求めにきたのでしょう」
「ふーん。だが、助けを求められた以上、断るのは男ではないな」
孫次郎は弱冠十六歳である。若者特有の血気、情熱、そして正義感を全身に漲らせながら、楽しそうに体中で笑った。
「それにしても、俺の名も随分と知れ渡ってきたのだな。たかが十六歳の餓鬼を、最期の頼みとするのだからな。…ま、いずれにしても、此度の騒動、俺の手で収拾することができれば、また一人、俺の味方が増えるというわけだ」
などと呟きながらも、すっかり乗り気になった孫次郎は、早速甚介に諸事取り計らうよう指示を出すと、自らも堺を離れ、芥川山へ急ぐことにしたのだった。
十一月六日午後。
駆けに駆け、ようやく辿り着いた芥川山城は、かつて見た、堂々と天下に君臨してきた細川政権の覇府ではなく、堕落しきった魔府といったほうが良いような、何ともいえず不気味で、空しい雰囲気が漂っていた。
華美な音曲が、無性に寂しさを掻き立てる。どこともなく響き渡る妖艶な声色に、諦めにも似た侘しさを感じずにはいられなかった。
三好孫次郎利長は変わり果てた主君の有様に、ただハァと溜息を吐いた。昼間から酒を飲み続けていたらしい彼は、すっかり酩酊して、孫次郎を見る目も、とろんとして焦点の定まらぬだらしなきものであった。
「御所様におかれましては、少々御酒が過ぎますようで…。いまや天下に御所様に並び立つ者はおりませぬが、さりとて天下安泰とは程遠い現状。まだまだ御所様には頑張ってもらわねばなりませぬ」
しばらく見ぬ間に、すっかり腑抜けと化した主君の哀れな様に、孫次郎は心の中に大きな溜息を吐いた。これが、あの細川晴元なのだろうか。確かに父の仇であるし、その優柔不断には散々悩まされてきたが、基本的に、孫次郎は晴元が嫌いではなかった。
「五月蝿いぞ、孫次郎! 余は天下人なのだ。天下を治める余が、何をしようが勝手であろう」
と、凄まじき剣幕で怒る晴元は、その勢いのまま立ち上がった。けれど、たちまち崩れ、転げ落ちた。側近たちが「殿!」と、慌しく駆け寄るが、ふらふらとして、それでも必死に平静を装うとする彼の様に、孫次郎は困ったように苦笑いした。
「されば、その天下人に申し上げまする」
孫次郎とても、弁士として、これまで幾たびも修羅場を潜ってきた。晴元がどれほどに怒鳴ろうが、彼はさして気にする風もなく、
「丹波出征の儀についてでござりますが」
と、言った。
「丹波? …あぁ、内藤が謀叛したゆえ、越後が征伐に向かっているが…。それがどうかしたのか?」
「内藤殿謀叛と御所様は先ほど仰せられましたが、果たして、内藤殿はまことに謀叛など起こしたのですか?」
「…」
「それがしが聞き及ぶところ、内藤殿が謀叛をしたなどというのは、全くの誤報にござる」
「…なに?」
晴元は、すっかり酔いから醒めきったような、常の如き顔をして孫次郎を睨み付けた。
「かつてのそれがしもそうでしたが…。此度の一件、全て越後守殿が企んだ陰謀でござりまする。即ち、越後殿の施政方針に多少反発していた内藤殿を血祭りに上げることで、越後殿は他の諸侯に対する見せしめとしたのです」
「…見せしめ?」
「左様。…無論、見せしめとするも、決して悪い話ではござりませぬ。越後殿の政治は、全て御家のため、御所様が御為です。されど、やり方が厳しかったため、諸侯の反発を買ったのです。その反発を押しつぶすため、手っ取り早く内藤殿討伐の兵を興したというわけです」
「…」
「そして、既に内藤殿は徹底的に追い詰められています。見せしめとはいえ、これ以上やる必要性がどこにあります? 現時点であれば、諸侯も御所様の力の強さを知り、無意味な反発はやめましょう。されど、これ以上やれば、次は自分の番であると思い、その恐怖はやがて御所様に対する不満、不審、怒りへと変わります。…かつて、六代将軍足利義教公が何ゆえ殺されたのか。そのこと、よくよく御考え下さりませ」
孫次郎はきっぱりと言い切って、晴元に二の句も告げさせなかった。晴元はといえば、まだ酔いの残る頭で、しばらくぼんやりと考え込んでいたが、「それもそうだ」と呟くや、彼の意を受け入れる覚悟を決めたようで、
「よかろう」
と、言った。
そして、十一月十日。
この日、晴元の派した急使が、八木城の内藤国貞と、八木城を囲む三好政長本陣に到着した。
越後守政長は、晴元の上使を前にしても、あからさまな不審と不満を隠そうともしなかったが、しかし晴元の上意である以上は、抗うわけにもいかなかった。無論、城に立て篭もって、陥落寸前の危機に追いやられていた内藤国貞に、拒む理由などどこにもなかった。
かくて、和議は成立したのである。
内藤国貞は、政長軍に城を明け渡した後、釈明のために十一月十五日、芥川山城は晴元の下に伺候した。その上で、改めて晴元より八木城を与えられ、さらに引き続き丹波守護代として同国を支配することが認められたのである。とはいえ、領地の一部は没収され、それは三好政長と、波多野秀忠の両名に与えられた。
十二月二日。
無事、八木城に戻った内藤国貞は、そこで孫次郎利長の使者としてやってきた松永甚介と面会していた。孫次郎の意を受け、密かに八木に入った甚介は、
「今後とも三好・内藤両家、親しく付き合って参りたいものです」
と、分かりきった社交辞令を述べ、恭しく頭を下げた。
甚介がわざわざ出向いてきた狙いが分からぬほど、内藤国貞も鈍感ではない。彼の不敵な顔の中に、凄まじき覚悟を感じ取ると、内藤は仰々しく何度も大きく頷いた。
「左様ですな。それにしても、此度のことは、伊賀殿には何とお礼申し上げてよいやら分からぬというものでござる。この次、伊賀殿に万一のことあらば、この内藤国貞、家を挙げて、伊賀殿の御為に尽力する覚悟です」
そんな風に言う内藤国貞の殊勝な姿に、松永甚介長頼はにやりと不敵な笑みを漏らした。
「いずれ、内藤様にお会いしたいと、わが殿も申しておりました。その折は、是非よろしくお願い申し上げます」
「いや、こちらこそ。…本来、わしのほうから出向かねばならぬ身を、わざわざ松永殿が御越しくださり、恐悦至極に存ずる」
と、内藤は恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。甚介もまた愛想笑いを浮かべつつ、内心は大袈裟に高笑いしたい気分だった。
内藤もおちた。
労せずして…、と言う言葉は決して適当ではないが、しかし戦という常套手段を用いずして、着々その勢力を飛躍的に広げていく主君孫次郎利長の政治的力量の凄まじさに、甚介は心の底で舌を巻いた。これならば、彼が天下を取る日も近いのではないか。そう思うと、途端、彼の心は、体は、なぜだか熱く燃え滾ってきた。自分のことのように、興奮が泉の如く湧き上がってきた。
天下を取る人。
そう思って、孫次郎利長という人を思い浮かべると、確かにそうなるべくして生まれた、選ばれし者であるような気もした。とにかく、陪臣に過ぎない自分に対してまで、恭しく頭を下げている丹波守護代の男を見ていて、彼はそう思わずにはいられなかった。
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