【飛翔編】第025章 逃避行
孫次郎にとって、これほどの大敗は、まさに生まれて初めての経験だった。哀れな敗軍の将と成り果てた彼の周りには、松永甚介をはじめ数人の側近や僅かな足軽が従うのみで、とても、今をときめく三好伊賀守の一行とは思えぬものがあった。
「…甚介、水はないか? 喉が乾いた」
と、孫次郎は実に辛そうにぼやいていた。
町を避け、人里を離れ、何はともかく敵の目から逃れ続けてきた孫次郎一行は、今日も薄暗い雑木林に野宿する破目となった。
「ここにございます。ささ、どうぞ!」
甚介はすかさず水の詰まった瓢箪を差し出すと、孫次郎はそれを勢いよく、ごくごくと呷るように飲み干した。
「すまんな。…それにしても疲れた。とにかく、一度でいいから柔らかな布団の上にぐっすりと眠りたいものだ」
などとぼやきながら、彼は落ち葉で作った布団にごろりと寝転がった。気持ちよいとはお世辞にも言えなかったが、しかし無いよりはマシである。見張りのために眠ることすら許されぬ家臣たちの身の上を思えば、贅沢を言っている余裕などないことも分かっていた。
「とにかく、雨さえ降らねば、こういう生活も快適なものですよ。それがしは貧しい家に生まれましたので、幼い頃など、兄とよくこんな夜を過ごしたこともありました」
そんな風に呟きながら、松永甚介長頼はふと昔の自分たちのことなどを思い出したようで、「ははは」と楽しそうに苦笑いした。
幼くして父母を失い、ひたすら貧しく、日々生きることすらままならなかったあの頃、兄とともに盗みを働いたり、野宿したりすることなど日常茶飯事だった。やがて兄が京の商家に丁稚奉公し、彼自身も寺の小坊主になったりして、次第に頭角を現すと、そうした苦難は全て過去の話となっていったが、こうして見事出世を遂げた今も、あの頃のことを時折思い出しては、日々の戒めとしていたのだった。
「そんなものか。…そう言えば、一度聞こうと思っていたのだが、そなたは何ゆえ俺に仕官したのだ? そなたの兄、松永久秀が推薦もあったゆえ、とにかく登用してみたが、肝心の久秀は木沢殿の客将に納まっている。…無論、お主の実力は、俺とて高く評価している。ゆえに馬廻を任じているわけだが、お主の本心というものを、これまで一度も聞いたことがなかったな」
ふと、孫次郎はそんな風に言って、まじまじと甚介長頼のほうを振り向いた。甚介はというと、困ったように後頭部を摩りながら、恥ずかしそうに俯くと、
「当初は…、兄の命により、三好の若大将がどれほどの器量を持っているのか、調べるために参ったのです」
と、包み隠さず、あえて正直に全てを白状した。
「されど、不思議なものでございますが、いつしかそれがしは殿を心底好きになりました」
「…好き?」
「はい。と申しますのは、殿はそれがしの卑しき素性を知りながらも、馬廻に取り立ててくださりました。…はっきり申し上げて、左様なお方はこれまで一人もおりませんでした。それがしも昔は貧しく、日々生きることもかなわぬ有様でしたので、それこそ恥も外聞もなく、いくつかの御家を回って仕官してきたのですが、どこも私の力量や実績を評価してはくれませんでした」
甚介は悔しそうに、腹立たしそうに、吐き捨てるように言うのである。そんな彼の様を見て、孫次郎は「ははは」と楽しそうに高笑いした。
「お前の目から見て、俺は力量を正当に評価してくれる主君ということか?」
「はッ! …それがしは兄上とは違い、自分の手柄や能力を説明したりするのが苦手ですので…」
「ははは。左様か。…俺も自身を表現したりするのは苦手だが…。なるほど、松永久秀はそういう力に長けているのか。…だからこそ、木沢殿にあれほど重用されておられるのかな?」
「…おそらく。ただ、木沢殿が兄上の弁舌力と、兄上が習得している甲賀の術を利用したいだけと考えておられるように、兄上もまた木沢殿の力を利用しているだけ…。要するに、お互い、厳密な主従とは言い難い不思議な関係ですが」
「…互いが互いを利用しあう関係、か」
「はい。兄上は、それがしなどより圧倒的な才覚を持っていますが、何分、それがしの想像を遥かに超えた野心家でもありますので」
甚介にしろ、孫次郎にしろ、お互い、あの、年齢よりはいくらか老けた青年の顔を思い出すたび、笑いが絶えなくなった。
「よし! その圧倒的な野心家とやら、いずれこの俺の家来にしてやる。甚介、できると思うか?」
夜は深まり、時折ヒュゥと肌寒き夜風が、竹やぶの笹を鳴らす。空には月がいっぱいに広がって、風流な夜を演出していた。
孫次郎が叫ぶように言うと、甚介ははっきりとした口調で、
「殿ならば、できるでしょう!」
と、言った。
椋橋城の戦いに三好軍を蹴散らした過激な一向門徒たちは、あちこちで挙兵し、やがて燎原の火の如く摂津全土を呑み込んでいった。
既に彼らは、石山御坊の統制下から完全に独立していた。本願寺証如が幾たび止めるように促しても、彼らは全く聞く耳を持たなかった。そして彼らは、重税と戦乱に苦しんでいる貧民たちを糾合し、その勢力を急速に広げていった。
一向軍の急激な勢力拡大は、やがて中島を包囲する細川軍にも影響を及ぼすようになった。椋橋に集結した一揆軍が中島を救うべく進撃を開始すると、細川軍を率いる三好政長は、迎撃すべく高畠伊豆守を大将とする三千の軍を派し、高畠伊豆守は椋橋と中島の、ちょうど間に位置する神崎川に布陣したのだった。
けれど圧倒的な一揆軍の人海戦術の前には、高畠勢の奮戦も大した意味はなかった。たちまちのうちに蹴散らされ、彼らは怒涛の如く中島を目指したのである。
「退く以外に手はありますまい」
摂津大塚城主の山中又三郎が恐る恐る進言すると、政長は実に悔しそうに、思い切り床机を蹴り飛ばして、
「孫次郎の阿呆が!」
と、激しく怒鳴っていた。
何はともかく、政長は観念して全軍に撤退を下令した。かくて細川方による中島攻囲は失敗に終わったわけだが、政長自身は手勢を従え、中島に程近い自らの居城江口城に入ると、以後も中島の一揆軍を牽制する役目を担ったのだった。
孫次郎の逃避行も、決して楽なものではなかった。
各地に大小の一揆軍が跳梁跋扈し始めた今、彼にとり、民は皆、敵であった。だから民家を避け、町を離れ、兎にも角にも厳しい逃亡生活を、実に半月以上に渡り続けていたわけだが、三月も二十日になった頃、彼はようやく松永甚介の案内の下、大和は信貴山城まで辿り着いたのだった。
信貴山城。
ここは畠山氏筆頭家老、細川晴元の信任厚い近臣たる木沢長政の居城として、その城下町は近年急速に整備の進んでいる新興の有力都市の一つであった。
元来、木沢は河内飯盛山を居城としていたが、あえて信貴山に移したのは、大和に勢力を広げんとする彼の野望の表れでもあった。彼が目指しているのは、ひたすらに天下であったが、そのためにも地盤となりうる領地は少しでも広げておきたかったのである。そこで彼が目をつけたのが大和であり、名族畠山氏の筆頭家老たる立場も相まって、今では大和でも有数の大勢力となっていた。
何はともかく、信貴山に入った孫次郎一行は、そこで木沢長政の手厚いもてなしを受けつつ、先の戦いで散り散りになった家臣たちを呼び集めることにしたのだった。
信貴山城の西の丸に居所を宛がわれた孫次郎は、そこでひたすら反省の日々を過ごしていた。
結局、自らの血気が招いた敗戦であることを、彼も認めないわけにはいかなかった。もう少ししっかりと一向軍の動向を調べていれば、勝てないまでも、ここまで無惨な敗北は喫しなかったろう。自分の血気盛んが、ついに無数の兵を死に追いやったのだと思うと、やるせない気がした。
一方、孫次郎が信貴山にいると知った家臣たちは、続々とここに集まってきた。日に日に増えていく家臣たちの数は、いつしか二千を越え、三千に迫った。
「迷惑をかけたな」
孫次郎は、居並ぶ群臣を前に、溢れ出す涙をぐっと堪えながら、そう言った。
「殿もご無事で何よりにございます。殿と我らが健在ならば、先の戦の雪辱も、必ずや果たせましょう」
と、康長が家臣団を代表して言えば、
「左様。次こそは一向門徒どもを叩き潰してやろう」
孫四郎長逸も楽しげに騒いでいた。
家臣たちに絶望の色はない。不満も感じられなかった。負けたなら、次は勝てばいい。そんな具合、どこまでも前向きな考えに固執している彼らに、先の敗戦における孫次郎の責任を問う気など毛頭なかった。
「次、か…」
彼らの豪快な笑みを見ていると、ずっと悩み、苦しんで、ひたすら後悔の殻の中に閉じこもっていた自分が、なんとも情けなく思われてならなかった。負けたなら、勝てばいい。一度の敗北も、そこからより多くを学んで、次の勝利に活かすことが出来れば、必ずしも悪いことではない。歴史上、屈辱的な大敗を喫しながら、その後逆襲に転じて勝利をもぎ取った事例も多い。要するに、諦めるか否か。そこが大切なのだと、孫次郎は思った。
「そうだな。次こそは、必ず勝とう。そしてこの無念を何としても晴らしてやるのだ!」
孫次郎はそう力強く宣言すると、群臣たちはどれも「おおおうッ!」と、殊更嬉しそうに拳を振り上げると、大地を揺るがすような凄まじき大音声で応えた。
四月六日。
信貴山を発した細川軍は、木沢長政の手勢五千、三好利長の三千を中核とし、総勢一万に達していた。
彼らは大和、河内、摂津方面の一揆軍を一掃しつつ進軍を重ね、四月二十日には、一揆軍の根城たる中島を攻囲した。その後、江口城に立て篭もって、今に至るまで一揆軍を牽制していた三好政長の軍勢一万五千と合流したので、第二次中島包囲軍は総勢二万五千に達したのだった。
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