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【雌伏編】第021章 弟の決意
 桓武以来七百年。
 長岡京より遷都され、以来ずっとこの国の中心であり続けた都は、ここ最近随分と活気に溢れている。
 天文三年(一五三四年)も十月に入り、細川晴元の軍勢が三好孫次郎利長に大敗するなど、さして嬉しくない物騒な事件が多発していたが、都はそんな素振りなど一切感じさせぬ繁栄に満ちていた。
 全ては、将軍が都に戻ってきたことが生み出した好景気であった。即ち、細川高国が滅びて以来、ずっと都を離れ、近江六角氏の庇護下に存続してきた室町幕府第十二代征夷大将軍足利義晴が、ついに都へ戻ってきたのである。その背後には、政情が不安定化する中で、細川政権の基盤を固め直したい晴元の意と、細川政権との繋がりをより高め、かつ晴元により高く将軍を押し付けられる機会を狙っていた定頼の思惑がぴったりと一致したという事情もあった。
 何はともかく、将軍が戻ってきたのである。将軍といえば、帝と並び立つ都の支配者であるから、市民の誰もが恭しく出迎え、そしてようやく天下の政道が正常化したことを喜んだ。


 足利義晴が都に帰還したのは、九月二日のことである。
 近江を離れ、二日には建仁寺に入った。しかし、将軍家累代の居所たる室町御所に入ったのは、それから一ヶ月以上もたった十月十日のことであった。
 建仁寺から室町御所へ至る将軍の行列は、それこそ盛大を極めた。義晴は、晴元配下の軍勢三千に守られ、碁盤目のように区画整理された京の町並みを練り歩くように回った後、十日も夕刻に入った頃、ようやく御所へ入城したのである。
 そして、その日の夜。義晴は改めて、自らが将軍であることを満天下に示すべく、晴元以下の群臣を前にして、自身の政府における閣僚人事を行うことにした。といっても、実質的には、実権者である晴元の決めたことを承認するだけであり、彼には何の権限もなかった。そんな無力な帝王が、自らの荒んだ宮殿に閉じこもって何よりも真っ先にしたことは、権臣細川晴元をして正式に管領に任じたことであった。
 晴元はこれまでも、自らを管領と称して、実際にそれと変わらぬ権力を握ってきたが、将軍家より正式に任ぜられたわけではなかった。しかし、これにより彼は、正真正銘の細川京兆家当主となったわけで、その権力基盤は著しく強化されたといってよかった。


 晴元による一連の細川政権強化策は、ひとえに、潮江庄の戦い以来、急激に勢力を広げる三好伊賀守利長への対抗措置であるといっても決して過言ではなかった。
 実際、椋橋城に拠る三好方の勢力は、日に日に急拡大していた。畿内をはじめとして、各地の有力諸侯は次から次へと、この新興の実力者に対して使者を派した。堺や京の豪商たちの中にも、彼と誼を結ぶべく、群れを成して謁見を求めてきたものだった。
 三好方の戦力強化も進んでいる。
 既に阿波の本国からは、城代の三好千満丸率いる二千ほどの援軍も出陣し、数日もすれば到着する見通しとなっていた。淡路を支配し、瀬戸内海の制海権を握る安宅治興も、事実上三好方に加担し、千満丸率いる三好本軍の瀬戸内海通過を援助した。阿波守護細川持隆も、比較的三好兄弟の軍事作戦に協力的で、兵こそ貸さなかったが、彼らの行動を制することもしなかった。
「阿波、淡路両国は既に御当家の勢力下にあります。讃岐については、十河城城主十河景滋殿をはじめ、我らに与力する者も多くおりますが、こちらは頑なに晴元殿への忠誠を誓う勝賀城城主の香西元成が強大な力を保っており、こればかりはなんともいえませぬ」
 と、三好康長が報告すると、孫次郎利長は「なるほど」と、大きく頷いた。
 彼は目を閉じたまま、何やら考え込んでいる風だった。こういうときの彼は、とても若干十二歳の少年とは思えぬものがあった。あらゆる苦難を乗り越えて、一皮も二皮も向けてしまった彼は、下手な大人よりも、ずっと大人だったりした。
「千満が到着すれば、俺の下には四千程度の兵がある計算になる。その上、石山の証如殿が援軍を派してくれれば、一挙に戦力は数倍に膨れ上がる。…晴元殿がどれほどの兵を集めるかしれんが、法華門徒たちの支援も得られる我らに、敗北はありえぬ」
 と言って、ニタニタと笑う彼は、少しばかりうんざりとした様子で、ハァと溜息混じりに、その場にごろりと寝転がった。
 静も死んで、その恨み、怒りのために、勢いよくここまで突っ走ってはきたが、一度主君と誓った男と、本格的な決戦をしなければならぬと思うと、孫次郎の心境は実に複雑だった。


 その頃。
 大和信貴山城を新たな居城としていた木沢長政は、晴元の下知に応じる形で手勢を集めていたが、稀代の野心家たる彼にとって、晴元と孫次郎の内紛は、自らの更なる出世をもぎ取る上で、またとない機会であった。
「禿頭、お主はもしも伊賀守と管領殿が決戦すれば、どういうことになると思う?」
 木沢に問われ、禿頭と呼ばれた男は、「ははは」と、その薄くなった頭を摩りながら、
「畿内全土は、未曾有の戦乱に陥るでしょう」
 と、言った。
「何しろ、伊賀守殿の背後には、一向宗と法華宗がおりまする。この二つが三好家に味方すれば、如何な管領家とて、容易くは倒せますまい。というより、勢力的には互角となりまする。これが総力戦を繰り広げれば、言うまでもなく、未曾有の大戦乱となるは必定」
 禿頭は、そう言ってにやりと笑った。
「…さすがは禿頭、もとい、わしが見込んだ松永久秀だけはある。くっくくく。大戦乱で、細川、三好ともに共倒れとなってくれれば、それが一番よい。無論、漁夫の利は、悉くわしが頂くが」
「ですが、木沢様。ここは考えどころですぞ」
 禿頭こと松永久秀の言葉に、木沢は「ほぉ」と呟き、ニタニタと楽しそうに彼の顔を見つめた。
「もしも細川、三好双方が共倒れした場合、確かに木沢様は今よりは高い地位を確実に手に入れられるでしょうが、少なくも天下は手に入りませんぞ」
「…」
「細川家の後釜を狙っている勢力は、畿内だけでなく、天下あちこちにいるわけです。目下、細川家が強勢を保っているがゆえに、彼らは容易く畿内へ攻め込めないわけですが、もしもその枷が外れれば、勢いよく攻め込んでくるでしょう。…例えば、近江の六角、越前の朝倉、西国の大内や尼子…。まあ、九州の大友や、東海の今川、関東の北条などが出張ってくるとも思えませぬが、しかし六角、朝倉、大内辺りは細川家衰退を見れば、確実に攻め込んでくるでしょう。となったとき、木沢様は彼らに対抗できますかな? 結局、今より多少領地は拡大できるかもしれませぬが、結果的には細川家に取って代わるであろうそれら諸侯の臣下に屈するより他にありませぬ。しかも、その場合、木沢様の立場は外様でしかなく、とてもではありませぬが、天下人の座など望めませぬぞ」
「…」
「それならば、今ある細川家で力を伸ばすが最良策でしょう。即ち、此度の騒乱を木沢様の手で鎮めて御覧なさい。管領殿は木沢様の功労を認めざるを得ず、三好殿とても同様。いずれが力を握っても、木沢様の政治的地位は一挙に高まります。その上で、着々力を蓄え、ある程度力を得れば、簒奪してしまえばいいのです」
 そんな松永の理路整然とした論理は、木沢長政の心を動かすに十分だった。彼は時折、「ははは」と笑うと、
「俺は外様だろうと、今より領地が広がるなら、それでもよいと思うがな」
 などと、心にもないことを、平然と言ってのけたりした。
「はは、それがしが見たところ、木沢様はそれほど容易いお方ではないと思いますが。…ま、いずれの道を選ばれるにしても、木沢様次第。それがしの知ったことではありませぬが」
 まるで突き放したような久秀の態度に、木沢は苦々しげに顔を歪めると、その瞬間、けらけらと笑った。


 十月十七日。
 三好千満丸率いる軍勢が椋橋城に入ると、三好方の士気は大いに高まった。
 孫次郎にとっては、実に二年半ぶりとなる実弟千満丸との再会だった。久方ぶりに会う弟の大人びた顔に、彼はこみ上げる嬉しさを隠しきれなかった。
「お前も随分甲冑姿が似合うな。…互いにまだ幼いのに、かような宿命を背負わされて、実に難儀なことよの」
 と、孫次郎が言えば、千満丸も、
「左様ですね」
 と、昔と変わらぬ笑みとともに、小さく頷いた。
 お互い、いろいろありすぎて、昔とはすっかり変わってしまった。孫次郎は弱冠十二歳、千満丸は八歳に過ぎないが、子供のままではいられない政治状況が、彼らを大人へと変えてしまった。
「ところで兄上は、真に御所様と決戦なさるおつもりですか?」
 こう言うときの千満丸は、実に子供らしく、可愛げな仕草で首を傾げる。そんないじらしい彼の態度に、孫次郎はにっこりと微笑んだ。
「ま、それを御所様が望むのだから仕方あるまい。…何しろ、俺を謀叛人扱いして、しかもあろうことか御前を殺した。これまで俺が御所様にどれだけの忠誠を尽くしてきたか。父上を殺され、家中が怒りに燃え滾っていた頃も、俺は皆を説得し、宥めて、ひたすら御所様が御為に働いてきたのだ。それを仇で報いた以上、俺は御所様を滅ぼす。そのために戦いが必要なら、それもまたやむを得まい」
「…そうですか」
「お主は、御所様と戦うことに反対なのか?」
 孫次郎に問われると、千満丸は戸惑った。言うべきなのか否か。兄が決戦を決意した以上、その覚悟に水を差すようなことをして良いものなのだろうか。
「そういえば、先日も木沢殿の特使として、松永久秀が参って、和睦したらどうかとは言ってきたが…」
 ふと、そう呟く孫次郎を、千満丸はまじまじと見つめていた。
「兄上は如何お考えですか? 和議を結ばれるのですか?」
「…お主はどう考える?」
 孫次郎は意地悪く、戸惑う弟の顔を見つめながら、おもむろに「ははは」と笑った。
「和睦など断じてありえん。ま、ありうるとしたら、晴元殿が俺に敗北を認め、以後は俺に従うことを誓うならば、和議もやぶさかではないがな。だが、現状のまま和議を結ぶなど、断じてありえぬ。…この程度で、俺が受けた屈辱、怒りを晴らすことは到底できぬ」
 と、燃え上がるような凄まじき怒り、憎しみを全身に滾らせながら、いつになく興奮した様子で怒鳴る兄に、千満丸は思わず息を呑んだ。
「…千満。お主がどう考えているかは知らぬが、俺は管領細川晴元殿に対し、決戦を挑む考えでいる。晴元殿を打ち滅ぼした後は、この俺が天下を取る。曽祖父が目指し、父が夢見た三好家の栄華を、この俺の手で作り上げるのだ」
 それはもはや、千満丸がこうと信じた冷静沈着な兄の姿ではなく、ひたすら怒りに燃え、憎しみにその身体を奪われている、哀れな復讐鬼に過ぎなかった。
 けれど、そんな兄の気持ちも、千満丸には痛いほど分かるのだった。父を殺され、愛する人すら殺された。他ならぬ千満丸とて、父を殺した晴元を許したわけではない。これまで三好家が飲まされてきた煮え湯の数々を思えば、晴元を滅ぼし、細川家を倒すことは、彼にとっても積年の夢となっていた。
「なぁ、千満丸」
 と、孫次郎は穏やかな声色で言った。
「俺たちで、天下を取ろうぞ。俺たち兄弟、力を合わせ、天下を取ろうぞ。…この際、もはや細川など関係あるまい。俺たちの手で天下をとって、こんなくだらぬ殺し合いの世の中に、終止符を打ってやろうぞ」
 気がつくと、孫次郎の眼から、一筋の涙が流れ、やがてそれは水滴となって地に落ちた。その目は、きらきらと悲しげに輝いている。声にならぬ必死の嗚咽も、千満丸にはよく聞こえた。
 そんな兄の様を見て、千満丸は深く、そして力強く誓うのであった。常に、どんなことがあろうとも、自分は必ずや兄を支え、兄の力になるのだと。三好家がため、兄がために、この命を捧げるのだと。何より、兄のためなら、修羅にでも鬼にでもなってやるのだ、と…。
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