【雌伏編】第020章 鬼になる
その頃、三好軍は椋橋城を占拠して立て篭もっていた。
細川軍は既にない。晴元以下一万八千の大軍は、迫る一向軍との対戦に備え、本拠芥川山に兵を引いた。
孫次郎は相変わらず椋橋城内の一室に篭って、一人静かに「南無妙法蓮華経」と唱えていた。
なぜこんなことになったのか、他ならぬ彼自身、さっぱり分からなかった。あれよあれよと言う間に反逆者とされ、しかし、気がつくと細川晴元は大軍を伴って撤退した。
だから今、彼はここにいる。彼の知らぬ間に、三好康長、長逸、岩成友通、篠原自遁ら重臣たちが勝手に一向軍との同盟工作に励んでいるという。兎にも角にも、孫次郎は自室に閉じこもったまま、一歩とて動かなかった。全てを家臣たちに一任して、何もかもなるように任せきってしまっているかのようであった。
芥川山に戻った晴元は、そこで静の方が自決して果てたことを知った。
わなわなと全身が震える。晴元は、眼前に平伏す高畠伊豆守を睨み付けると、
「余は殺せとは言わなかった」
と、凄みの聞いた言葉を、痛烈に浴びせかけた。
「さ、されど、こればかりは致し方なく…。それがしも必死で食い止めようとしたのですが…」
伊豆守は必死になって弁明した。ただでさえ短気な晴元である。その怒りが高まれば、死罪ということも十分にありうるのである。
「致し方ないだと? …たわけたことを抜かすな、阿呆が。余は殺すなと命じた。なのに、死んだ。即ち、余の命を蔑ろにしたも同義。伊豆、分かっておろうな」
「…」
「死ね。余の命に抗う者は、誰であろうと死ね」
晴元は冷酷にそう言い放つと、側に控える屈強な小姓たちに目配せした。彼らは心得たとばかり、高畠伊豆守長直を庭先まで引きずり出すと、おもむろに刀を抜き払い、大仰に構えた。
「お、お待ちください!」
そこに、慌てた様子で駆け込んできたのは、三好越前守政長であった。
「なんだ? 越前、よもやその方、こやつをかばい立てする気ではあるまいな」
ぎろりと睨み付けられて、政長は思わず息を呑んだ。けれど、自らの派閥に属し、かつ細川政権内にそれなりの影響力を誇っている高畠伊豆守の死をむざむざ傍観できるはずもなく、
「左様にございます!」
と、自らの身の危機も省みず、日ごろ沈着冷静かつ冷徹な彼らしくもなく、ただ我武者羅に叫んでいた。
「…その方も、余が命に楯突くのか?」
どこまでも冷え切った晴元が言葉に、政長は絶句した。
「越前、そなたも死ぬか?」
彼は、じっと政長を見つめている。
晴元は苛立っていた。孫次郎が謀叛したと知ってから、ずっとこの調子なのである。
一方、政長にとって、これは決して好ましくない事態だった。孫次郎に謀叛の濡れ衣を着せ、ついに彼を細川家から追い落とした。そこまではまさに最良の出来だったといっていい。しかし、肝心の晴元の、やるせない怒りが、自らに向くのでは何の意味もなかった。
「…余という男は、何と空しき存在なんだろう。信じた男、二人に裏切られる。…筑前、そなたはなぜ死んだ? 孫次郎、そなたは何ゆえ謀叛した?」
そんな風にぼやきながら、晴元はふぅと大きな溜息を吐いて、悲しそうに肩を落としながら、部屋を去った。
その後、高畠伊豆守に対しては謹慎処分を、三好政長に対しては、孫次郎を討伐すべく、軍を率いて出陣するよう命じた。
九月も、ようやく終わりを告げようとしていた。
椋橋城の三好孫次郎は、相変わらず自室内に閉じこもって、出ようともしない。食事のみはきちんと食べるが、身の回りの世話をする数人の小姓衆以外の入室は一切認めず、完全に外界から姿を消していた。
その間にも、三好康長が主導する形で、本願寺との同盟工作は順調に進み、九月二十八日、ついに正式な締結を見ることになった。
「静…。なぜ死んだ…」
外界からは完全に隔離された、狭く暗い室内に、孫次郎は一人嗚咽していた。
「なんで…。なんで、死ぬんだ」
何度考え、どれだけ悩んでも、静が生き返るわけでもない。
孫次郎は己が涙ですっかり跡形もなくなった書状を再び握りつぶすと、思い切り放り投げた。何度も、何度も畳を殴る。声にならぬ涙を流し、涙にならぬ嗚咽を吐く。
静の死を知って、既に一週間近くがたつ。
孫次郎はずっと、この調子だった。
「…許さん」
この日、彼は、それまでの涙とは違う、赤色をした涙を流した。
ぎりぎりと、唇をかみ締める。眉はぴくぴく動き、やがて体全体がぶるぶると震えだした。
静は死んだ。もはや、それは動かし難き事実である。
ならば、誰が殺したのか。誰が殺させたのか。
孫次郎の顔は、たちまち憤怒に燃え上がった。
「晴元殿が、殺させたのか?」
その瞬間、彼は「ははは」と笑い出した。表情は相変わらず鬼の如き憤怒の形相をしている。声だけで笑う彼は、壊れた人形の如く、しばらく笑い続けた。
孫次郎が表に現れたのは、九月二十九日のことである。
驚きを隠せぬように、重臣たちは久方ぶりに姿を現した主君の顔をまじまじと見上げた。
彼らにとって、孫次郎が何と言うのか、その一挙手一投足に興味があった。というより、不安だった。もしも彼が、謀叛はならぬと言い切ってしまえば、これまで進めてきた本願寺との同盟も、たちまち何の意味もなさなくなってしまう。
主君の命は絶対である。
だから、康長たちは、孫次郎の顔をじろりと見つめ、そして、ごくりと息を呑んだ。
「我らはこれまで、父を殺された恨みを乗り越え、晴元様に純忠を尽くしてきた。だが、晴元様は我らの忠誠を疑い、あろうことか、俺の家族にも危害を加えた。忠を以って尽くした者に、仇でもって返すしか出来ぬ無能な主君に、これ以上忠義を貫く必要性などない。俺はこれより兵を挙げる。だが、言っておくが、これはわが父筑前守元長が仇討ちのための戦ではない。この俺が、細川晴元を滅ぼして天下を取るための戦だ」
孫次郎はぎろりと諸将を睨み付けると、有無を言わさぬ迫力で、そう言い切った。
「よいか。これより俺は、鬼になる。そして、我ら三好の力の程を思い知らせてやる。何より、宗家家督を狙い、姑息な陰謀を企み続ける愚かな政長殿に対しては、徹底的に報復する。分家の主風情に、この孫次郎利長を滅ぼすことは、断じて出来ぬ!」
それは、十二歳になった少年の、凄まじき決意だった。家臣たちはただ唖然と、呆然としていたが、主君の覚悟の程を知るや、どれも「ははーッ!」と、恭しく深々と平伏していた。
十月一日。
三好孫次郎利長率いる三好勢二千余騎は、椋橋城を発した。そして、三日には孫次郎討伐のために芥川山を発した三好越前守政長の軍勢と、潮江庄(現在の尼崎市周辺)で激突したのである。
戦陣に立つ孫次郎は、本陣より、憎むべき仇の軍を見つめていた。もはや、容赦はせぬ。一族だろうと何だろうと、三好政長は仇敵以外の何者でもないのだと、心に誓う。
「見ていろよ。必ずや蹴散らしてくれる」
そう呟くと、彼は自らの床机に腰を下ろすと、駆け込んでくる伝令の報告に、逐次耳を傾け、にんまりと微笑んだ。
「手筈通りにやれよ。作戦が上手くいけば、我らに負けはない」
孫次郎は自信ありげに微笑むと、諸将は緊張した面持ちで、「はッ!」とだけ頷き、そして去った。
必ずや、政長を討ち取り、己が天下を掴み取ってやる。
孫次郎はそう思い、そう誓うと、ゆっくりと立ち上がった。右手に握る鉄色の采配が、不気味に鈍く光っていた。
戦いは熾烈を極め、激しさを増した。
政長勢は五千で、孫次郎の二千を若干上回っている。無論、政長勢は先鋒に過ぎず、細川方の主力軍は今もなお芥川山に篭っているが、しかしこれまで晴元に従っていた諸侯が日和見姿勢に転じたこともあり、かつてほどの威容はどこにもなかった。
それでも数に勝る政長軍は、終始孫次郎軍を圧倒した。孫次郎軍の先鋒を率いる孫四郎長逸らの部隊は次々敗走し、見る影もなく後退を重ねている。
「勝った」
政長は、にやりと不敵な笑みを漏らした。この戦に勝ち、孫次郎を討ち取れば、そのときこそ自身が三好家の惣領となれるのだ。細川家における自らの立場も、磐石のものとなるに違いない。
栄光は、もうそこまでやってきていた。絶頂は、すぐそこにある。
苦節十数年。一族の元長を滅ぼし、あらゆる権謀術策を弄して掴み取った今の地位。そして、ずっと夢見てきた最高の栄誉が、眼前に横たわっている。
政長は溢れ出す笑みを、もう堪えなかった。嬉しそうに、腹を抱えて高笑いした。
そして、そのときであった。
「も、申し上げます!」
使番が慌しく駆け込んできた。彼は政長の前に平伏すと、
「お、お味方の第一陣、敗れました!」
と、思いもよらぬ凶報を告げた。
信じられぬといった顔をして、小高い丘の上にのぼり、戦場を見た。すると、確かに味方が成す術なく敗走している無様な姿が、その目に飛び込んできた。それまで勝利を疑わなかった味方の軍勢が、悉く崩れ去っていく様に、彼は呆然と立ち尽くした。
「だ、第二陣も敗れました。…越前様、も、もはや三好軍の勢いを抑え切れませぬ!」
「…な、なんだと?」
唖然としている彼の下に、更なる続報が飛び込んでくる。
「第三陣も崩れました」
「敵軍、御本陣に迫っております!」
その全てが、政長にとって信じ難い凶報ばかりだった。
なぜ、どうして?
いくら考えても、彼にはわからなかった。数に勝り、実際優勢だったではないか。それがなぜ負けるのか。
後に分かったことであるが、三好軍の勝因は、いわゆる釣り野伏せと呼ばれる戦法を完璧にこなすことができたためであった。
釣り野伏せというのは、一つの戦法で、即ち、囮となる部隊を敵軍と交戦させ、負けた振りをしてわざと後退する。これが『釣り』である。後退する囮を追い詰めるべく追撃してきた魚を、後方に隠れていた別働隊(伏兵)が一挙に叩く。これは、追撃に打って出ると、陣形が乱れるという点を突き、かつ奇襲攻撃の強みを上手く取り入れた最強の戦法であったが、指揮官と兵が、まさに一体となって初めてできる、非常に難度の高い技でもあった。即ち、特に囮となる部隊において、指揮系統が乱れていれば、敵を釣る前に、こちらがやられてしまう。やられない程度の強さを保ち、しかし囮だとばれない程度に力を弱める。この微妙な力加減を間違えると、作戦は全く意味を成さなくなる。
戦国大名でいえば、島津氏が得意とした策であり、実際この戦法の威力は朝鮮の役における泗川の戦いでも存分に発揮されている。この戦いにおいて、島津義弘は僅か七千足らずの兵力で、明・朝鮮連合軍二十万を完膚なきまでに叩き潰したという。
細川晴元、三好政長憎しに凝り固まって、類稀な団結力を誇った三好軍にとっては、この戦法の難易度などさしたるものでもなかった。そして、この作戦が上手く決まったとき、三好政長軍五千などものの数でもなく、圧倒的な完勝をもぎ取ったのである。
政長軍の退却を見守りつつ、孫次郎は全軍に深追いせぬよう命じると、再び自室に閉じこもった。
勝利といっても、政長の首がないのでは、余り嬉しくはなかった。犠牲者が両軍合わせて一千に達しつつあるという報告も、彼の顔を暗くするに十分だった。
「ははは、大勝利だな。後は芥川山に攻め上って、憎き晴元を打ち破るのみ。既に本国からは、千満丸様の援軍が発したって話だ。到着すれば、我らはいよいよ天下をとれるぞ!」
と、孫四郎長逸などは嬉しそうに高笑いしていた。
そんな彼らの無邪気な笑いに、孫次郎利長は一人静かに小さな溜息を吐いた。そして、これからますます熾烈を極めていくであろう、己が戦いの一生に思いを馳せると、ただ苦笑いするより他に仕方がなかった。
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