【雌伏編】第002章 臥薪嘗胆
天文元年(一五三二年)は六月二十一日のこと。
この日、阿波国屈指の大豪族たる三好家は驚天動地と言っても決して言いすぎではないほどの大混乱の只中にあった。
三好家累代の居城たる芝生城には既に主だった一門、重臣たちが勢揃いしている。しかしそのどれも沈うつな面持ちで絶望に打ちひしがれていた。三好筑前守元長の代となり、以来飛躍的発展を遂げてきた繁盛の武門とは到底思えぬ雰囲気はそれだけ今回の事態の重さを証明しているようであった。
ざわざわと騒がしい。居並ぶ家臣たちはきょろきょろと落ち着きなく周囲を見渡しては、今後、三好家はどうなっていくのか。自分たちはどうなるのか。などと必死な形相で同僚たちと語り合っていた。
人と言う生き物に未来を見通す力などない以上、人々の不安は募る一方だった。とかく精神面で脆い人間は、悪い方悪い方へと物事を考えすぎるきらいがあるので、それがさらに人々の不安をあおるのだった。そして、それを抑える人間が目下ここには誰もいなかった。ゆえにこそ誰もが日ごろの冷静さを忘れ、ただただ闇の中に置き去りにされた己の立場を嘆くだけだった。
そこに、
「若君様の御成り!」
と、小姓衆の甲高き大音声が響き渡った。諸臣は神仏を仰ぎ見るかの如く、てくてくとやってくる小さき御曹司を見つめた。
三好筑前守元長が嫡子三好千熊丸は上座にちょこんと腰を下ろすと、下座に平伏す家臣たちをじろりと睨み付けた。思いもよらぬ凶報にすっかり浮き足立っている彼らを見て千熊はふぅと小さな溜息を吐いた。
「皆の者!」
声色こそ未だ声変わりしきっていなかったが、それは堂々たる三好の棟梁に相応しき大音声だった。
諸臣ははっとした様子でしばし硬直した後、慌てて「ははぁッ」と恭しく頭を下げた。彼らは皆、そこに若かりし頃の主君元長を見ていた。あの腕白でどうしようもないいたずら小僧からは想像できない姿に感銘を受けた者も少なくなかった。
「既に、皆も此度の一件については聞き知っていることと思う。そしてそれは疑うべくもなき事実である。事実は事実として受け入れ、以後我らが取るべき道を考えねばならぬ」
そう千熊が言うと、すかさず、
「今後我らには様々な難問が降りかかってくるだろうが、真っ先に決めておかねばならぬのは、殿亡き後の御家を担う存在……。即ち、家督承継を済ませ、新体制を整備せねばならぬ」
と、一門の重鎮たる三好康長が阿吽の呼吸で口を挟んだ。
「無論、家督は若君様が受け継がれるべきであり、それについて皆の衆も異存はないだろう。そして、以後のことは新当主たる若君様、いや殿の仰せに従うべきである。これについて、異存ある者あらば、この場にて名乗られよ」
康長に睨み付けられて諸将は黙り込んだ。もとより異論などあろうはずもない。ただ状況が状況だけに若干十歳の少年に全てを託すことが本当に正しいことなのかどうか、そこに一抹の不安を感じずにはいられなかっただけである。けれども先の千熊丸の堂々たる姿を見せられている彼らには、そうした反論もしにくかった。
一通り諸臣が納得したと見ると、康長はすかさず上座の千熊に目配せした。千熊は心得たとばかり、
「今後のことは全て俺が決める。だから皆は安心して欲しい。とにかく今日はこれでお開きとする。以後は俺の沙汰があるまでは何もするな。特に、父上が死なれたからと、殉死したり、あるいは復讐したりしようなどとは思うな。全ては俺が決める。俺の命なく勝手な行動をしたら、一族縁者悉く同罪として打ち首に処するから、そのつもりでいろ」
と言って、諸臣に釘を刺すと後は逃げるように大広間から去っていった。
大奥に閉じこもった千熊はそこでわんわんと泣いた。
お福ら大奥の女性たちは、このいじらしい哀れな御曹司にかける言葉もなくただきょろきょろと戸惑っていた。
千熊だけでなく、大奥もすっかり騒がしくなった。三好家の存亡に関わる大事件とあっては彼女たちが慌てるのも無理はなかった。
「若殿、ご立派にございましたぞ」
そこに一通り家臣たちに事態の説明を終えた三好康長がやってきて、泣き崩れる千熊の眼前に恭しく頭を下げた。
「とにかく家臣たちは宥めました。……後は、若殿がどうすべきか決めるのみです」
康長はひとしきり言い終えると、お福の差し出した茶をぐびぐびと呷った。
一方、千熊丸は相変わらずひくひくと声にならぬ泣き声を上げた。こみ上げる悲しみは容易く癒されるものではない。何しろ父が死んだ。それも、父が忠誠を尽くし、全身全霊を賭して仕えてきた主君により殺されたのだ。千熊丸の受けた衝撃の大きさが如何ほどのものかあえて記すまでもあるまい。
「若殿、お気持ちは分かりますが今や若殿は三好家の惣領。いつまでもメソメソなされておられる暇はないのですぞ」
かく言う康長も、殺された三好元長の実弟だった。悲しみの度合いは甥の千熊に劣るものではなかったが、元長の弟として、また新当主千熊丸の叔父だからこそ果たすべき役割があると信じ、そのために私情の一切を捨て去り問題の対処にあたらねばならぬと思っていた。無論、齢十歳に過ぎぬ千熊に自分と同様の冷静を保てとは言わないが、しかし当主たる千熊が自らの口で三好家の全権を掌握すると群臣に宣言した以上、彼にはある程度の冷静さは保ってもらわないと困るのだった。
「……叔父上、父上は何ゆえ殺されたのですか?」
と、千熊は心の底から抉り出すような、どす黒き声色で、叔父康長に尋ねた。
「何ゆえ殺されねばならなかったのですか? 俺は断じて許しませぬ。父を死に追いやった者、それに加担した者、その悉くを必ずや罰して見せまする」
今まで見たこともない千熊丸の姿に康長は思わずごくりと息を呑んだ。よもや彼は復讐戦争に乗り出す気ではないだろうか。万一、千熊がそのつもりならもはや康長に制御する術はなかった。三好家の世論は既に決起論に凝り固まっている。千熊が号令を下せば、皆は喜んで出陣するだろう。
だが……。戦って勝てる相手ではない。相手は、京を支配し、天下に絶対的勢威を持って君臨している細川晴元なのだ。如何に三好家が有力な大豪族とはいっても、細川家とまともにやりあって勝てる見込みなどあろうはずもなかった。
「叔父上、俺は決意しました」
そんな叔父の懸念など知る由もなく……、いや気づいていたとしても素知らぬ風を装ったまま千熊ははっきりとした口調でそう言った。
「決意?」
康長はまじまじと彼を見る。彼が何と言うのか。一挙手一投足に全神経を配った。彼の言葉次第で自分と三好家の運命も決まるのだ。
「かつて越王勾践は、呉王闔閭を滅ぼした。闔閭の世子たる夫差は、復讐を誓って勾践を倒した。そして倒された勾践は、しばらくの雌伏のときを経て、ついに夫差を滅ぼすことに成功した。この一連の故事が臥薪嘗胆なる言葉の由来だという。…叔父上、俺はこの故事に倣い、臥薪嘗胆を期することにいたしまする」
「臥薪嘗胆……」
「左様にございます」
それは齢十歳の少年千熊丸が示した凄まじき決意の表れだった。康長は呆気にとられたように彼を眺めながら、
「それが若殿の仰せとあらば、我らに否やはありませぬ」
と言って、恭しく大仰に平伏した。
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