【雌伏編】第019章 裏切りの代償
九月。
それは未だ残暑厳しき季節である。どんよりとして、纏わりつくような蒸し暑さは、まだまだ収まる気配を見せない。
夏であって夏でなく、秋であって秋でない。
そんな季節の変わり目を、その肌に堪能しながら、静の方は縁台の上で一人静かに涼んでいた。
「今日の御部屋様は、変ですよ」
女中たちのそんな言葉に、静はにっこりと微笑んだ。
「何をお考えなのですか? …若殿様のことですか?」
ニタニタと、興味津々といった様子で、嬉しそうに笑う彼女たちに、静は「ふふふ」と、軽く笑った。
静の方も、今や十四歳になった。少女といえば少女であるし、その顔立ちや体型など、まだまだ子供の如き可愛さに満ちている。けれど、その一方で、時折見せる妖艶な表情は、大人顔負けの色気に溢れていた。子供の可愛さと、大人の美しさ。その二つを絶妙に併せ持った美少女は、じっと西の空を見上げていた。
「ですが、噂は本当なんでしょうかね?」
ふと、女官の一人が、そう言った。
「誤報よ、誤報。絶対そうに違いないですよ。若殿様が謀叛なんて、そんなことありえるはずがないじゃありませんか」
すかさず別の女が返し、誰もが大きく頷いた。
けれど、皆不安ではある。日ごろの孫次郎利長を見る限り、彼が細川家に弓を引くとは思えなかったが、何と言っても三好家にとって、細川家は仇敵以外の何者でもない。重臣の間には、今もなお晴元の打倒を夢見ている者も少なくないらしく、もしも孫次郎がそうした重臣たちの意に流されれば、謀叛ということも十分考えられるのである。
もしも孫次郎謀叛が本当だとすれば、当然、この屋敷に細川方の兵が迫ってくるに違いない。何しろ、ここは他ならぬ細川晴元の本拠地なのである。晴元が殺せと命じれば、その瞬間、屋敷にいる全ての者の命はない。
「気にすることはありません。…御殿様を信じるのです」
と、静の方は、居並ぶ女子たちを落ち着かすように、いつになく強い口調で言った。
けれど、静にしても不安は不安だった。
孫次郎が謀叛するとは思えない。彼が安易に重臣たちの強硬論に流されるとも思われない。だが、謀叛の濡れ衣を着せられてしまったということは十分考えられるのである。
静にとって、孫次郎は今や唯一の家族だった。父母も兄弟もなく、縁者といえる縁者もない。その孫次郎の身に万一のことがあれば、もう生きてはいけない。何より、生きていく気もない。ただ、逆に自分の身にもしものことがあったとき、孫次郎はどう感じてくれるのだろうか。
空が赤い。
まるで血塗れの地獄に佇んでいるような気がして、静は不快になった。元々、夕焼けは好きではなかった。父と母が死んだときと同じ色をしている。
「御部屋様、御食事の支度ができましたが、如何なさいますか?」
静の方の身の回りを世話している志津という少女が、恭しく頭を下げる。そんな彼女たちの様を見ていると、時折自分という存在は何者なのだろうと思わずにはいられなかった。
考えてみるまでもなく、静は一年前までは貧民の娘で、日々生きることすら難しい儚き日々を送っていたはずだった。さらに年貢が上がれば、遊郭に売られ、遊女として男たちに媚び諂う毎日を送る。それが自らに定められた宿命だと思い、事実、自分と同じ境遇にいた女たちは、皆その宿命と寸分違わぬ道を歩んでいた。
しかし、今や三好屋敷の女主のような立場にあって、多くの女性たちに傅かれている。孫次郎の実質的思い人という、極めて微妙な立場だが、誰もが彼女を側室と見、側室として遇している。正室のいない孫次郎の下では、側室も正室も、大した差はなかった。
「食べましょう。…ここに持ってきてください」
静はそう言って、にっこりと微笑んだ。
食事も終わって、日も暮れた。
静の方は、思い立ったように筆を取ると、蝋燭の明かりのみ頼りに、一通の文を書いた。
何とも言えず、不吉な予感がする。いつもは心を和ませ、暖かくしてくれる月明かりも、今では、ただ青白く、冷たい、悲しみに満ちたものにしか感じられなかった。
文は一通しか書いていない。無学のためか、字も決して上手くはない。ただ、この半年近く、懸命に学んできた成果もあってか、とりあえず何とか書き終えた。そして、自ら表へ出向き、詰めている家臣の一人を呼び寄せると、
「これを阿波の千満丸様にお届けして欲しいのです」
と、言った。
「大至急ですよ。急いでください」
静の方の厳命に、家臣は一瞬戸惑いながらも、はっきりとした口調で、「はッ!」と、いつになく大仰に平伏し、そして頷いた。
文も書き、飛脚も飛ばし、とりあえずやるべきことを全て終えた彼女は、配下の女子たちを従えて、厳かに己が寝所へ戻っていった。そして、予め敷かれた布団の上に、ゆっくりと寝転がる。
そして、まさにそのときのことだった。
夜は深まり、空には、不気味なほどに大きな満月が、煌々と輝いている。時折ヒュゥヒュゥと響く風の音のほかは、何の気配すら感じられぬ、無音の世界だった。
そんな世界に、突如、殺気が漲った。
無数の男たちが、山を下り、街を走った。
「我らはこれより謀叛人三好伊賀守が一族郎党を退治すべく出陣する。女子供一人たりとも逃してはならぬ。…基本的には生かして捕らえよとの御命令であるが、反抗する者に関しては、容赦なく斬り捨てよ」
声高に轟く大音声は、無音の世界によく響いた。それはやがて、おぞましい殺気へと変わって、城と町の全てを呑み込んでいった。
彼らが三好屋敷を取り囲んだのは、それからしばらくたった後のことである。細川晴元家臣高畠伊豆守長直(通称甚九郎)を隊長とする総勢三百余の軍勢は、たちまち屋敷全土を覆い尽くすと、
「三好伊賀守謀叛之儀、知らぬとは言わさぬ。我らは御所様の命を受け、詮議のために参った。邪魔立てする者は容赦せぬ。投降する者は、命のみは助けよう」
と、高らかに怒鳴り、そして勢いよく総攻撃を開始したのだった。
勝てるわけがない。もとより、戦う気もない。
屋敷の人々は、次から次へと細川軍に降伏した。静の方自らそうするよう命じて回ったのが、案外功を奏したのかもしれなかった。戦ったところで勝ち目などないし、無闇やたらに犠牲を増やすだけである。
しかし、肝心の静の方だけは、屋敷の奥御殿より出ようとはせず、一人、女の砦に立て篭もっていた。
やがて、屋敷内をあらかた制圧した細川勢が、静の下にも殺到した。彼らはどれも、そこにずっしりと構えて、微動だにせぬ少女の圧倒的な迫力に、ただ驚き、唖然とした。
「あなた方は御所様の御家来衆ですね?」
静の問いに、
「無論だ」
と、大きく頷く高畠伊豆守であった。
「伊賀守殿は本願寺光教(証如)と結び、御所様に反逆した。それゆえ、御所様の命により、その方を逮捕する。悪く思うな」
伊豆守はにたりと笑うと、側にいる兵に向かって、顎で指示した。けれど、
「…一つお聞かせ願いたいのですが」
と言って、静はぎろりと伊豆守以下細川の侍たちを睨み付けた。
「真に、伊賀守様は謀叛したのですか?」
「無論だ! 実際、孤立した伊賀殿を救うべく、下間兵庫率いる一向門徒の大軍が椋橋城に迫っていると聞く。これ即ち、伊賀殿が本願寺と結び、御所様に弓引いた紛れもない証だ」
「では、伊賀守様の軍勢と、御所様の軍勢が直接槍合わせしたというわけではないのですね」
「…ま、まぁ、そうだが」
高畠伊豆守は苦りきったように顔を歪めると、腹立たしそうに静の方を睨み付けた。
「ならば、何ゆえ謀叛と決め付けるのです。…本願寺の策略かもしれません。なぜ謀叛と決め付けるのか。その理由をご説明ください。もし納得できるようでしたら、私は潔く投降します。ですが、もしもそうでないなら、私はここで、喉を掻き切って死にまする!」
力の限り声高に、大音声を張り上げて怒鳴る静の方の凄まじき迫力は、高畠伊豆守らを脅かすに十分な威力があった。
伊豆守は答えに困った。静は既に短刀を自らの喉にあて、いつでも死ねる構えをとっている。「殺さず捕らえよ」というのが、晴元より下された厳命である以上、伊豆守は彼女の決意と覚悟に、ただ戸惑い、そして何より焦った。
「答えられないのですね」
醒め切った瞳をして、ジトッと睨む彼女は、小さく深呼吸すると、少しずつ、しかし確かに、右手に握る短刀に込める力を強くしていった。
ぽたぽたと、真紅色の鮮血が刃先、腕を伝って、やがて地上へと落ちていった。
死とは何か。死んだらどうなるのか。
彼女には分からなかったが、けれど怖くもなかった。あの日、あの時、孫次郎に助けられるまでは、何より死が怖かった。けれど、今は違う。怖くない。目の前にある死と、今ある生が複雑に入り混じって、何が何だか分からなくなってきた。
もっと力を込める。その分だけ、流れる血も多くなった。
高畠伊豆守とその郎党は、焦りに焦って、もう何をしたいのかすら分からなくなっていた。このままでは、彼女は死ぬ。殺すなと命じられている以上、死ねば当然、命令違反として、晴元の怒りを買うことにもなりかねなかった。
「やめろ!」
いてもたってもいられず、伊豆守は飛び出した。
「やめるんだ!」
必死になって走る。そして、静の下に駆け寄ったとき、既に彼女の短刀は、その柔首を鋭く貫いていた。
「伊賀守様…」
とだけ呟くと、彼女は静かにその息を引き取った。
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