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【雌伏編】第017章 少年と少女
 少女はしばらく怯えて、数日は名すら明らかにしなかった。
 一方、孫次郎も村に留まって、しばらく占領軍政に力を注いでいたが、十二月に入った頃、晴元の命により芥川山城に伺候すべく、村を去らねばならぬようになった。
 とはいえ、その頃になると、既に少女も心を開くようになっていて、孫次郎とだけは気さくに話したりすることも多くなっていた。


 連日のように、孫次郎少年は少女の下に足を運んだ。何となく気になる、といった程度の感覚でしかなかったが、今までに感じてきた思いとは何か違うような気もした。
 何はともかく、少女は微かに笑うようになった。そして、何より喋るようになった。
「私の父も母も、死にました」
 言いづらい記憶。封印したい過去。分かってはいるが話さずにはいられない少女と、聞かずにはいられない少年。何とも言えず気まずい雰囲気が流れ、少年は、ただ小さく「そうか」とだけ言った。
「ま、俺の父ももういない。…案外、似たもの同士かもしれんね」
 と、孫次郎が言うと、少女はクスッと微笑み、「そうですね」と言った。
 彼女は、自らを静と名乗り、ゆえに孫次郎は勝手に『静御前』の生まれ変わりだなどと騒いでは、「御前」と嬉しそうに呼んでいたのだった。
「で、御前。そなたは父母もなく、家族もなく、となると、これからどうやって生きていくつもりだ?」
 孫次郎はじっと、静の顔を見た。そのいつになく真剣な眼差しから、彼女は困ったように目をそむけた。
「頼る身寄りもないというなら、俺の下へ来い。…ま、俺もこれでも一国の主だからな。女子一人どうにかならぬものでもない」
「…よろしいのですか?」
「よい。俺は泣く子も黙る殿様だぞ。これくらいの我侭は許されてもよかろう」
 と言って、ぽんと胸を張る彼に、静はクスクスと笑った。


 孫次郎の思いつきは、当然のように群臣の猛反対に遭った。
 相手の身分が悪い、というのが家臣たちの反対の大部分を占めていたが、その程度の理屈で言い負かされてしまうほど、この少年は甘くなかった。
「お主たちは、俺にどういう殿様になってもらいたいと思っているんだ? 困っている人を、助けられる立場にありながら、むざむざ見殺しにするような非情な主君になってもらいたいのか? もしそう言うなら、なってやるぞ。だが、そうなってしまったとき、俺がどういう人間になるのかは分からんぞ。血も涙もない、史上最悪の暴君となって、お主たちに仇名すようになるかもしれん。そうなっても、そのときに文句を言うなよ」
 と言って、家臣たちを脅しにかかるのである。
 弁舌力では、家中広しといえども、孫次郎に敵う者はいなかった。これまでもこの力で、幾度となく危機を乗り越えてきた彼なのである。
「ま、お主たちが心配するようなことはない。彼女は、いうなれば友達だ。だから案ずるな」
 そんな風に言って高笑いする彼を、家臣たちは困ったように見つめていた。


 女子というものに、元来それほど興味があったわけではない。
 十一歳というのは、年頃的にも微妙である。異性というものを全く意識しないわけではないが、しかしまだ幼さを残している。異性を異性と意識しつつ、一方ではまだ互いに等しい存在だと信じていた。
 孫次郎は、そういう意味では決して大人びているわけではないから、異性に対する興味関心は、そこそこにしかない。それに、日々戦陣に暮らしているような彼は、女子と出会う機会すらないのだ。そんな彼が、まがりなりにも女子に興味を示したのだから、家臣たちとすれば、ただ温かく見守るより他に仕方がなかった。
 それからしばらくの間、戦らしい戦は鳴りを潜め、天文三年(一五三四年)になった。
 この短くも確かな平和は、孫次郎にとっては、父が死んでから、初めてといっていい楽しく、愉快なひと時となった。日に日に明るさを取り戻す静と過ごす時間は、何より面白かった。だから、仕事が終われば、彼は毎日、彼女の下に通った。その日のことを話したり、昔の話をしてみたり、囲碁、将棋…。会えば二人は、いろいろなことをして過ごした。
 孫次郎にとって、静はいつしか動かし難い親友になった。無論、彼自身の感覚としては、それ以上でも以下でもないが、二人の親密が深まれば深まるほど、周囲は彼らの関係を当然疑う。中には、実質的な側室と見る者も出るほどで、
「この調子なら、案外早いうちに御世継ぎも生まれるやもしれぬ」
 などと、随分気の早い話をしている家臣たちもいた。
 

 孫次郎は、今や晴元の信任厚い側近である。
 まだ幼いが、しかし様々な経験を積み、一面では大人以上の大人であったりする。智勇に秀で、機転が利く。何より、晴元をずっと支え、今の地位まで押し上げた功臣中の功臣、三好筑前守元長の跡継ぎでもある。元長を殺したことを、未だ気に病んでいる晴元にとって、孫次郎を重用することは、せめてもの償いだと思っているらしかった。
 晴元政権は日増しに強大化して、晴元自身、既に並ぶ者なき圧倒的な権力者になっている。朝廷は彼に対して細川宗家当主が代々世襲してきた右京大夫の官職を与え、従四位下の位階も授けていた。
「お主、静とか申す娘にすっかり入れ込んでいるようだな」
 晴元は、ニタニタと楽しそうに笑って、恥ずかしそうにはにかむ孫次郎を見た。
「ま、お主が女子に入れ込む気持ちは分かる。余も女子には目がないほうだからな。…だが、時と場を弁えろよ。今は確かに平和だが、いつ何時、一向門徒どもが兵を挙げるとも限らんからな」
 などと言いながら、晴元は豪快に高笑いした。


 またそれから幾日かの歳月が流れた。
 天文三年は八月。
 即ち八月十一日、一向門徒たちが再び挙兵し、摂津の椋橋城(くらはしじょう)を拠点に精力的な活動を開始したとの報告が、芥川山の晴元の下に届いたのである。
 それまでずっと沈黙していた門徒たちの、性懲りもない暴走に、晴元はすっかり頭を抱えてしまった。いつになったら終わるのか。どうしたら終わらせられるのか。終わりの見えぬ戦いの繰り返しは、強勢を誇る彼にしてもどうにもならぬ難題だった。
「伊賀守。此度の賊徒どもは、余自ら退治することとする。その方は余の補佐として従い、余を支えよ」
 と、晴元が言えば、家臣としての孫次郎に異を唱えることは許されなかった。
「御所様が仰せに従います」
 だから、彼は恭しく頭を下げ、準備のためとして主君の御前から引き下がった。


 三好屋敷に入った彼は、そこで、長らく続いた平和が終わったことを、静に伝えた。
「また出陣することになった」
 と、彼が言うと、静はすっかり大人びた笑顔で、
「わかりました」
 とだけ言った。良人を見送る妻の如き顔をして、深々と頭を下げる彼女に、孫次郎は思わず苦笑いした。
「戦ゆえに、死ぬことになるやもしれんが、そのときは、国許にいる弟の千満丸を頼れ。無論、死ぬ気は更々ないが、万一というときもあるからな」
「…全く縁起でもありませんよ。ですが、千満丸様ですね。分かりました。覚えてきましょう」
 静はにこりと微笑み、そして大きく頷いた。
「そうだ」
 殊更大きく頷き、そして少し悲しげな顔をする彼女の眼前に、ゆっくりと腰を下ろした。
「ま、俺は死なんよ。というより負けない。父の恨みを晴らし、父が夢を果たし、俺の目標を実現するまでは、俺は死ねない」
 と言ってにっこり笑う彼に、静は変わることなき笑みを浮かべて、何度も「そうですね」と頷いていた。


 八月四日。
 従四位下右京大夫細川六郎晴元を総大将とする、総勢二万余騎の大軍は、一路摂津椋橋城を目指して進軍を開始した。
 三好伊賀守利長や、三好越前守政長、木沢左京亮長政、細川播磨守元常ら晴元配下の有力な重臣たちが一堂に会した、そうそうたる大軍団は、それだけで今回の出陣に晴元がどれだけ力を注いでいるか、誰の目にも一目瞭然だった。
 そして…。
 八月十一日、細川軍は椋橋城を取り囲み、翌日より総攻撃が始まった。熾烈な攻防戦が延々と繰り広げられた後、九月に入って間もない頃に、ようやく陥落した。
 けれど、これで戦いそのものが終わったわけではなかった。椋橋城を脱走した者たちや、さらには別の一向勢力が合流を重ねた挙句、彼らはあちらこちらで蜂起するようになった。
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