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【落日編】第149章 義継離反
 応仁の乱に端を発し、明応の政変(室町幕府第十代将軍足利義材が管領細川政元により追放された事件)及び北条早雲(当時は伊勢新九郎長氏といった)による伊豆進攻により激化した戦国乱世は、主役の顔を度々と変えながら、しかし一向に収まる気配もなく、引き続き日本史の中にでんと居座り続けていた。
 応仁の乱が勃発したのは応仁元年(一四六七年)のことであったから、都合百年間近くこの国は乱世の真っただ中にあるということになる。これほど長い間、戦国の荒波にもまれ続けてきた民衆たちにとっては、戦乱状態こそが通常、常識、普通であって、太平だの平和な世などというものは、一種の夢物語、とるにたらぬ戯言に過ぎないと思うようになっていた。
 兎にも角にも、世の中は果てしない乱世のただ中にあって彷徨い続けていた。人々の中に、諦めにも似た感情が生まれてくるのも、無理なきことであった。


 それにしても…。
 百年余に及んだ長き戦乱の中で、様々な英雄が現れては消えていった。
 足利義尚(よしひさ)、足利義材(義植)、足利義澄、足利義晴、足利義輝、足利義栄、山名持豊(宗全)、細川勝元、細川政元、細川澄之、細川澄元、細川高国、細川晴元、細川氏綱、三好之長、三好元長、三好長慶、三好義興、三好義賢、安宅冬康、十河一存、内藤長頼(宗勝)、三好政長(宗三)、木沢長政、遊佐長教、六角定頼…。
 そのどれも、かつては大いに活躍して、世間の注目を大いに集めていた英雄たちであるが、今となっては遠き過去の人となりつつある。彼らの浮沈、興亡の歴史というのも、戦国を語る上で欠かせぬロマンなのであろうが、しかし栄枯盛衰、盛者必衰とはよく言ったものであった。例えば、戦国初期に絶大な権勢を誇った管領細川氏などというものは、時代が下るとともに衰退に衰退を重ねて、今や大名家ですらなくなっていた。あるいは畠山氏、斯波氏、山名氏、赤松氏、京極氏、六角氏、一色氏、土岐氏、今川氏、大内氏…。これらは全て、室町期及び戦国初期に名門雄藩と称えられていた家々であるが、今や見る影もなく衰弱しきっていた。中には大内氏や今川氏、京極氏、土岐氏、六角氏などのように完膚なきまでに叩き潰された家もあるぐらいで、彼らの衰退ぶりをみると、実力本位の戦国という時代の冷たさを嫌というほど感じることができる。
 逆に、この乱世を利用して勃興してきた新勢力も多々あり、例えば中央政界に絶大な影響力を誇るようになった織田信長や三好氏などは典型例といえよう。他に地方勢力の盟主として存在感を示している北条氏や毛利氏、上杉氏(長尾氏)、徳川氏なども新興勢力の代表的存在であった。
 そして…。
 新興勢力の代表格ともいえる織田氏と三好氏による近畿地方の覇権争いは、引き続き激化の一途をたどっていた。


 元亀二年(一五七一年)五月。
 形だけは今も昔も変わることなく三好宗家の御大将である河内国若江城城主三好左京大夫義継は、このところ悶々とした日々を過ごしていた。
「酒を持て」
 彼はそばに控える近臣にそう命じると、ため息交じりに、手元に無造作に広げられた書状を思い切り蹴り飛ばした。
「くそッ!」
 今年で晴れて二十歳を迎える彼であるが、最近は何をやってもさっぱり楽しくなかった。全てが全て気に入らない。とりあえず彼は、近臣が持ってきた酒をぐびぐびと飲み干すと、
「まずいッ!」
 と言って、空になった酒杯を近臣めがけて放り投げた。
 こうなると、かつての天下人も形無しであった。義継はごろりとその場に寝転がると、落ち着きなく、ごろごろとあちこちを動き回った。
「殿、如何なされました?」
 そこに家老の池田丹後守がやってきて、そんな主君をぎろりと睨みつけた。
「フン。如何なされました、ではないわ! そちも家老なら、少しはわが苦しみを察しろ」
「苦しみ、にございますか?」
 きょとんとした顔をして、わざとらしく首を傾げる池田丹後に、義継はぷいっとそっぽを向いた。
「その書状、日向殿からのものですな」
 丹後は、おもむろに書状を手に取ると、ニタニタとほほ笑みながら、まじまじとそれを眺めた。
「なるほど。日向殿は、殿に内応を勧めておられるわけですな」
「そうだ!」
 義継はすっくと立ち上がり、そして腹立たしそうに唸りながら、庭先のほうへと歩いていった。
「昨年の戦以来、日向殿らの勢力は強大化する一方にございますからな。悪い話とは思われませぬが。実際、これ以上織田殿に肩入れする義理が、殿におありとは思えませぬ」
「…」
「織田殿の周りは敵ばかりにございましょう。見渡せば、摂津に日向殿ら三人衆、阿波には三好阿波守殿(長治)、讃岐には十河民部殿(存保)、淡路には安宅信康殿が引き続き健在。その上、顕如上人率いる本願寺門徒勢もあり、西から迫りくる脅威だけでも相当なもの。そこに加えて越前の朝倉左衛門督殿(朝倉義景)、北近江の浅井備前守殿(浅井長政)らも反織田の旗幟を鮮明にしております。西と北、両面より攻勢に晒されている織田殿の不利は誰の目にも明らかにございましょう。さらに付け加えるなら、中央、即ち都においても、比叡山延暦寺は反織田の方針をすでに固めておりますし、足利将軍家も織田殿とは不仲の御様子」
 理路整然と説明しだせば、確かに織田信長を取り巻く状況は最悪と言ってよかった。その上、将軍足利義昭の策動により、このところ反織田姿勢を強く打ちだすようになった武田信玄という最強の敵も抱えている。信長の味方といえるのは、東海に二ヶ国を領有する徳川家康のみであり、その家康とて、武田の圧倒的軍力の前には、象の前の蟻に等しい。事実、四月十九日、武田信玄とその息子たる勝頼の率いる武田軍団は、三河に攻め入り、徳川方の部将鈴木重直が守る足助城を攻め落としている。
 武田が本格的に動き出せば…。
 まず間違いなく天下の流れが変わる。少なくとも織田信長の滅亡は決定的となろう。まあ、そんな無敵な武田信玄の野望を妨げる数少ない障壁といえるのは、北国最強の軍と国力を誇る『越後の龍』上杉謙信と、関東地方の覇権掌握に大手をかけつつある東国の最強国たる北条氏政の存在ぐらいであろうが、上杉は、信玄入道の依頼に応じた本願寺顕如によって引き起こされた一向一揆の討伐に苦慮しており、また北条氏政にしても、信玄の外交戦略により反北条親武田の姿勢を顕著に示し始めた常陸の佐竹氏、房総半島の里見氏らを警戒せねばならず、やはり武田軍の動きを阻止できるだけの余裕はどこにもなかったのである。その上、北条氏の場合、当主氏政の実父にして、実質的な最高権力者でもあった北条氏康がこのところ病に臥せって、正常な判断ができない状態に追い込まれており、そのことを考えても、彼らに積極的な軍事行動ができるとは思えなかった。
 即ち…。
 畿内地方における反織田連合の勢威が強大化している以上、用意周到かつ綿密な外交戦略により、周辺強国の手足を縛ってきた武田信玄が、その総力を挙げた上洛作戦に乗り出してくるのは、まさしく時間の問題なのであった。


「殿。ここは冷静に御判断なされたほうがようございますぞ。少なくとも、我らには織田殿のために戦い続けねばならぬ義理などないのです」
 そこまで言って、池田丹後守は義継の下から立ち去った。
 義継は、しばらく一人になって考えてみた。確かに、滅びゆく織田にいつまでも従う義理はない。恩義だって受けた覚えはない。だからといって、ここで織田を見限り、おめおめと三好方に帰参することが許されるのだろうか。
 いや…。
 義継はひとり呟く。許される、許されないではない。自分には、今は亡き三好義興が遺した忘れ形見たる孫次郎義資に、今ある地位をそっくりそのまま引き渡すという責務がある。そのためであったら、表裏定かならぬ卑怯者と罵られようと、ここは恥を忍んで三好方に帰参するしかない。このまま織田家と心中するようなことになれば、現時点で辛うじて保っているにすぎない北河内国の領地と若江城までも失うことになるのだ。
 ならば、選択肢はたった一つしかない。
「…やむをえぬ、か」
 義継はふぅと静かに息を吸い込み、そしてハァと吐いた。
 はたしてこの判断が吉と出るのか凶と出るのか。
 それは誰にもわからない。しかし吉と出る。そう思い込むよりほかに仕方がなかった。


 元亀二年(一五七一年)五月中ごろ。
 三好左京大夫義継は、摂津越水城に陣取る三好長逸らの下に使者を送って、いざというとき彼らに味方する意向を正式に通達した。そして、それから間もない頃、大和国主たる松永弾正少弼久秀もまた、織田を離れ、三好につく方針を鮮明に打ち出したのだった。
 かくして、信長はその人生における最悪ともいえる極端な窮地に陥った。西の北に、東に、そして膝元に…。四方八方、強力な敵を抱え込んでしまったこの当時の彼の心境とは如何ほどのものだったろう。現代に生きる我々としては、推測するよりほかに仕方がないが、彼なりに不安ではあっただろう。
 とにかく人間というものは、運のないときはとことん運がないもので、伊勢国は長島に陣取る一向一揆軍を討伐すべく、信長が差し向けた柴田勝家以下の軍勢が完膚なきまでに大敗。重臣の氏家直元(西美濃三人衆の一人たる氏家卜全のこと)が戦死するなど、手痛い打撃を被っている。


 ちなみに…。
 元亀二年という年は、世代交代が進展したという意味において、戦国史上、案外見過ごせない重要な年であった。
 即ち。
 六月十四日には、一代にして中国地方に確固たる覇権を築き上げた英雄毛利元就が没している。また同じ六月二十三日には、薩摩国主であった島津貴久が病没。貴久は島津氏の戦国大名化を強力に推進し、次の義久の代における島津氏隆昌の土台を築き上げた名君であった。以後、毛利氏は幼君輝元(元就の嫡孫)を中心に、輝元の叔父たる吉川元春、小早川隆景が引っ張っていく新体制が確立し、島津氏では、いよいよ戦国史上に名高き島津四兄弟、即ち長兄島津義久を筆頭に、次男義弘、三男歳久、四男家久らが本格的に登場し、島津氏を九州地方の覇者へと飛躍させていくことになるのだった。
 そして、十月三日には、後北条氏三代目当主たる北条氏康が病没した。初代早雲が築き、二代氏綱が固めた北条家を最盛期に導いた、戦国屈指の大名君。巧みな政治手腕により、統治が難しいとされた関東地方を見事に束ねた名政治家であり、かつ、上杉謙信や武田信玄、今川義元といった英雄たちを相手に一歩も引かずに立ち向かい、互角以上の戦いを演じた名将でもあった。
 その氏康が、ついに没した。享年は五十七歳と伝えられている。
 以後、北条氏は当主氏政と、その子たる氏直を中核に、氏政の実弟たる氏照(うじてる)氏邦(うじくに)氏規(うじのり)の三人(長兄氏政を加えて、北条四兄弟と称される)が国政運営において中心的役割を果たす新体制へと移行することになる。
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