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【雌伏編】第014章 交渉成立
 千熊丸は苦笑いした。
 唐突に晴元の本陣に呼び出されたかと思うと、与えられたのは、達成不可能な任務、端的に言うなら、実質的な死を命じられたも同然だった。
「俺は、再び晴元様に殺されたよ」
 自嘲気味に、そうぼやく千熊丸に、康長をはじめ、三好軍の諸将は驚きを隠せぬように、彼の顔をまじまじと見た。
「明日にも、俺は石山御坊に乗り込んで、和議の斡旋をせねばならんらしい。…失敗すれば、確実に死ぬだろうな」
 一見すると、幼児のようにも見える十一歳の少年は、吹っ切れたような、どこか悟りきったような不思議な顔をして、ハァと大きな溜息を吐いた。死の淵、というものを何度か乗り越えてきた彼にとり、今回の事態も、これまでの一年に繰り返されてきた地獄の再現に過ぎなかった。
「成功させればよいのです」
 そんな彼を励ますように、孫四郎長逸は殊更豪快に高笑いして見せた。本願寺との和約を取り付けることが如何に難しいことか、彼とて知らぬはずはない。だが、任された以上はやってのけるしかない。そうするより他に生き残る術がないのなら、こんなところで迷ったり、悲しんだりしていても仕方ないだろう、というのが長逸の基本的な考え方であった。
「そうですよ、若殿。…逆に、もしも、此度の一件を見事に解決へ導くことができたなら、若殿が名声は天下に轟き、御家再興の足がかりを掴むきっかけとなるやもしれませぬぞ」
 と、康長も口を揃えて言う。
 千熊丸は苦りきった顔をしながらも、ともかく家臣たちの励ましに応じるように、何度も大きく頷いていた。


 三好千熊丸が、細川晴元の命を帯びて石山御坊内に乗り込んでいったのは、六月も半ばを過ぎた、二十日のことであった。
 何の因縁だろう。千熊は、流れゆく歴史というものの不思議さに、思わず苦笑いした。
 まさに一年前のこの日。父たる三好越前守元長は、圧倒的な一向一揆軍に追い詰められて和泉国は顕本寺に自害したのだ。即ち、命日。その命日に、父を殺した下手人の下に、交渉のためとはいえ、のこのこ赴いている己の立場に、彼はただ呆れたように溜息を吐いた。
 考えてみると、あの日が、今に至る地獄の始まり。それまで当然と信じてきた常識が脆く儚く崩れ去って、凄まじく厳しい現実なるものが、千熊の肩にずっしりとのしかかるようになったきっかけの日であった。
 何はともかく、千熊は因縁の歴史を胸にかみ締めながら、副使の康長とともに、静かに城内を進んだ。殺気立った一向門徒たちが、時折こちらを睨んでくるが、その程度でいちいち動じるほど、千熊丸も柔ではなかった。


 果てしない城壁の奥に、本願寺一門の惣領証如の居所たる法主御殿が聳え立っていた。
 親鸞より数えて十代目。中興の祖蓮如のひ孫に相当する彼は、当時弱冠十七歳の青年に過ぎない。けれど、全国数十万に及ぶ一向門徒を束ねる勢力拡大著しい新興宗門の総帥として、政治的にも軍事的にも、経済的にも絶大な影響力を誇っていた。
 厳かな法衣に身を包み、若くして『証如上人』と称えられている高僧は、下座に平伏す少年を見下ろし、
「面を上げよ」
 と、殊更仰々しく言った。
「…その方が、三好筑前守が嫡子千熊丸か?」
 証如はじろりと、まるで睨み付けるかのごとく千熊丸を見据えた。弱冠十一歳ながら、その聡明ぶりを天下に轟かせている少年の力量を確かめるかのような眼差しを、千熊丸はにこやかな笑みで返した。
「此度、上人様が御尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます。…三好筑前守元長が嫡子三好千熊丸にござりまする。以後、お見知りおきくださりませ」
 そう言って、再び深々と頭を下げる千熊に、証如は思わず苦笑いした。
「左様か。で、堅苦しい挨拶はこの辺りとして、用件は何だ? ま、あえて聞くまでもあるまいか。…我らとの和睦でも、求めに参ったのであろう」
 証如の鋭い言葉に、千熊丸は人知れず、ごくりと唾を飲んだ。ここが正念場と、彼の中に眠る闘争心は、めらめらと燃え上がってきた。
「如何にも、左様です。晴元公は上人様との和睦を求めておられます。…これ以上、無益な戦を続け、双方互いに犠牲を出すだけなら、和議を結んで、互いに末永い平和を模索したほうが得策だと、私も思います」
 と、千熊は言う。
「なるほど。…だが、残念なことに、我らはこの戦を無益なものとは思うておらぬ。親鸞聖人が目指し、蓮如上人をはじめとする歴代の法主たちが夢に描いた理想の浄土を作り出すための聖戦なれば、和議など結ぶ必要性はない。一挙に細川殿を叩き潰して、我らの手で天下を取るのだ」
 証如はそんな風に言いながら、からからと笑った。
「聖戦、でございますか。…ま、あえて否定はしますまい。されど、上人様。ここで晴元公を滅ぼし、細川政権を潰すことで、真の浄土が作れると、本気でお思いですか?」
「無論だ」
「…左様ですか。ならば、あえて申し上げましょう。今、晴元様を倒して、上人様が実力で天下を望まれるなら、天下は麻の如く乱れ、浄土とはかけ離れた地獄が、この世に生み出されるでしょう」
「…」
「その根拠はいくつかありますが、一つずつ挙げていきましょう。まず一つ。即ち、もしも一向宗の勢力が急速に広がって、天下に大手をかけるような勢いを得れば、法華宗だけでなく、延暦寺、興福寺、東大寺といった諸寺が黙って、御寺の隆昌を見守るはずがありませぬ。彼らとて膨大な信徒を持っている強大な宗教勢力なれば、泥沼の宗教戦争が勃発することはまず間違いありませぬ」
 そんな風に言ってのける千熊丸に、証如は思わずたじろいだ。
 これが十一歳の子倅の発言なのだろうか。その一言一句、いちいち理に適っていて、全く反論の余地もなかった。確かに本願寺が勢力を広げれば、他宗派との対立は激化するだろう。
 しかし、その程度で言いくるめられるほど、証如も甘くはない。
「例え泥沼の戦になろうとも、我らは必ず勝つ。なぜなら、我らの目指す道こそ正しいからだ。多勢の犠牲を出そうとも、その先に誰もが心安んじて暮らせる浄土の国があるのなら、多くの死も、決してただの無駄死にではない」
 それはさながら開き直ったかのごとき言であったが、案外これこそが証如や蓮淳といった本願寺高僧の紛れもない本音であったりした。
「左様ですか。ならば二つ目の根拠を挙げましょう。…それは、まがりなりにも各地の群雄たちを束ねて、畿内に安定を生み出している細川政権が倒れれば、数多の如き群雄たちが、次の覇権を巡って激しい抗争を繰り広げることになりましょう。宗教戦争に、群雄たちの勢力争いも重なるとなれば、畿内は、まさに地獄と化します」
「それがどうした。どれほどの地獄になろうと、その先に天国があるなら、どんな非道も許されよう」
 すかさず返す証如は、勝ち誇ったような顔をして、にんまりと不敵な笑みを漏らした。
「なれば、あえて申し上げますが、上人様は、後の世のことばかり仰られますが、今の世に浄土は必要ないと思し召されるのか?」
「…」
「今生きる人々にも、浄土を生きる権利はありまする。今は地獄でも、その先に幸せがあるなら、今の地獄には目を瞑る。そんな考え方では、いつまでたっても地獄しかありませぬ。…上人様にお聞きします。多大な犠牲を強いた上に、どんな天国が出来上がるというのですか? 無数の骸の上に、どんな浄土があるというのです。人が死ねば、そこには悲しみと憎しみがあるだけで、それ以上の、何一つ建設的なものは生み出しませぬ。生まれた悲しみ、怒り、憎しみは、復讐と言う形で、更なる悲劇を産む。結局、その連鎖を繰り返すだけ。そのどこが浄土なのです?」
「…」
「親鸞聖人、蓮如上人らが目指し、夢見た国とは、悲しみと憎しみに満ちた、復讐のみが延々と繰り返される地獄ですか?」
 之長、長秀、元長と、三代に渡って悲劇的末路を繰り返してきた三好家の棟梁たる千熊丸だからこそ言える鋭き台詞に、証如は返す言葉がなかった。
 証如はちらりと、側に控える蓮淳のほうを振り向いた。事実上、本願寺一門を支配しているこの老僧は、腕組み、目を閉じたまま、何も言わなかった。
「和睦案についてですが、細川家は今後一切、御寺のことには口出ししない。この御城についても、もしも資金が入用なら、細川家よりいくらか援助いたしましょう。加賀の支配も公認いたします。その代わり、御寺も我らに対し、攻撃せぬことを確約していただきたいのです。和睦が締結されれば、その日より、全軍の撤退を始めます」
 と、全く絶妙な間合いで具体的な和睦交渉を切り出した康長を、千熊は頼もしそうに見つめていた。一方の証如も、苦りきったような顔をしながらも、それを無碍に扱うことはできなかった。
「…和睦のこと、決して悪いようにはするまい。だが、千熊殿。一つ聞かせていただきたい」
 と、観念したような顔をして言う証如に、千熊は下げた頭をゆっくりと上げた。
「その方の父を殺した我らが言うのもなんだが…、そなたは、何ゆえ晴元殿に従うのだ? 何ゆえ、筑前殿が殺されたときに、挙兵しなかったのか? 何ゆえ晴元殿がために、こんな危うい任務を引き受けたのだ?」
 一つ、と言いつつ、気がつけば二つも三つも尋ねている自分に苦笑いしながら、彼は不思議そうに首を傾げていた。
「…そうですね。いろいろ理由はありますが、一言で言うなら、それがしも、仮初にも多数の家臣を束ねる主君ですからね。その責任感、でしょうか」
「責任感…」
「はい。私の肩の上に数千の家臣たちの命が乗っかっているのです。些細な恨みなど忘れ、前向きに生きるしかありますまい。過去ばかり見ていても、仕方がないのです。…確かに父上のことは悲しくはありますが、私は父上ではありませぬ。父のことに囚われて、私自身の可能性を潰したくない、というのも晴元様に尽くす理由の一つかもしれませぬ」
 そんな風に飄々と言ってのける千熊の颯爽とした態度に、証如はただ呆然と、唖然としたように、ぽっかりと口を開いたまま、「ははは」と苦笑いした。
「ま、よかろう。和議のことは、快く引き受けよう。これでもわしも仏門に生きる男。御仏にお仕えする我らが、無益な殺生を強いていては、門徒どもに示しがつかんよ」
 そう勢いで言ってのけた後に、証如は少なからず後悔した。もっと交渉の余地はあったのではないか。和睦案を呑むにしても、この状況で快諾した自分の判断は正しかったのか…。
 けれど、ひとたび口にした以上、前言撤回するような大人気ない真似はできなかった。証如とて僧侶である前に男なのだ。男に二言はない。


 案外あっけなく、しかし見事に和議を纏めた千熊丸は、意気揚々、さながら凱旋将軍の如く、晴れ晴れとした出で立ちで、石山御坊を去っていった。
 その果てしなく大きな背中を眺めながら、証如はふぅと小さな溜息を吐いた。
「和議など結んで、よかったのでしょうか」
 勢いで言った手前、証如には余り自信がなかった。結局千熊丸の弁舌にすっかり乗せられてしまっただけのような気もする。彼は恐る恐る、さながら叱られるのがわかっている子供の如き顔をして、大叔父蓮淳のほうを見つめた。
「悪くない」
 蓮淳は、そう言って、証如の肩をぽんと叩いた。
「ま、千熊とか申す餓鬼が、あれほどの弁舌能力を誇っているとは思わなかったが、ともかく、和議は我らにとって規定路線だ。…博打は、常に引き時が肝心。これ以上やって、万一細川政権が潰れれば、あの餓鬼が申したように、法華だけでなく、あらゆる宗門を敵に回す破目となりかねない。…今はとにかく力を蓄えるべきだ。細川に我らが力の程を見せ付けることが出来た今、徹底抗戦は無用」
「…さ、左様ですか」
 証如はほっと、安堵の余り大きな溜息を吐いた。蓮淳は、そんな彼を見て、彼とは違う溜息を吐く。
 そんな二人の溜息が入り混じる中、激しさを増した石山攻防戦は、千熊丸と三好衆の声にはならぬ歓声のみ残して、ひっそりと幕を下ろした。
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