ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
【雌伏編】第013章 苦渋の決断
 天文二年(一五三三年)は五月。
 桜は、既に散った。穏やかな日差しに包まれ、ぽかぽかとした雰囲気が漂う。時折吹き抜ける風など、思いのほかに気持ちよい。
 春は過ぎ、けれど夏ではない。
 次第に緑の深まる季節。今年で、ようやく十一歳になった千熊丸少年は、眼前に聳える巨城を眺めながら、春だか夏だか分からない微妙な大地の上に、ごろりと寝転がった。
「あれが石山御坊でございますか」
 側に控える孫四郎長逸は、呆然と立ち尽くしながら、聳え立つ敵城を眺めた。
「らしいよ。…かつての山科御坊とは比べ物にならん」
 と言いながら、千熊は思わず苦笑いした。
 考えてみると、山科攻めは去年の八月末のことだったから、既に一年近くが過ぎたことになる。それを長いと見るか、短いと見るかは人それぞれだったろうが、千熊にとっては、短いような気がした。けれど、少なくとも、本願寺は山科御坊が焼失してから、僅か一年足らずの間に、これほどの巨城を築き上げたのだ。石山御坊の壮大を見れば見るほど、一年と言う時間は、やはり長いものなのだと感じずにはいられなかった。
「石山御坊ってのは、元々は蓮如上人の隠居地だったそうですね」
 孫四郎の言葉に、千熊も静かに頷いた。
「…さすがは本願寺隆昌の基盤を作った蓮如上人というべきか。見る目は確かだよ。…この城は、堅固すぎる」
 そう言って頭を抱える千熊丸は、改めて、睨み付けるように石山御坊なる新興宗門の覇府を見上げた。
 包囲する細川軍は、当初総勢五万。今では、法華一揆がさらに加勢し、六万近くに達しているが、落ちる気配はない。一方、城内には多くて二万、少なく見積もって一万とされる兵力が篭っている。皆、一向宗を崇拝する熱烈な信徒たちであり、死を恐れぬ固い結束を最大の売り物としている。
 連日に渡り、細川軍は総攻撃を仕掛けていたが、天然の要害に囲まれた石山御坊は、びくともしなかった。何しろ、城の北側を淀川、西側を海、東側を大和川や深野池に取り囲まれており、攻撃したくとも、この三方から攻撃を仕掛けるのは、不可能とは言わないが、決して簡単なことではなかった。ならば、残る南側から攻めるより他に手はなかったが、そんなことは当然承知している城方が兵力を重点配置するなど、防御力を大幅に増強していたので、こちらも容易く攻略できそうになかった。
 これはずっと後の話になるが、桶狭間に勝利した後、一躍天下に覇を唱えた織田信長にとって、最大の強敵となったのが、この石山本願寺であった。十年間に及ぶ彼と本願寺の戦いを、世に石山合戦と称するが、圧倒的な織田軍の猛攻を幾度受けても、石山御坊はびくともしなかった。これは余談ではあるが、石山攻めの総大将となっていた佐久間信盛(当時の織田家筆頭宿老)は、ちっともはかどらない戦況を信長に咎められて、息子共々追放されているが、佐久間であろうとなかろうと、石山御坊は容易く落ちる代物ではなかった。結局、二進も三進もいかなくなった信長は武田、上杉、浅井、朝倉、毛利といった本願寺の支援者を悉く倒して、御坊を孤立させると、その上で朝廷を動かして、和議という形で決着をつけざるを得なかった。
 さらに付け加えると、信長死後、天下を継承した豊臣秀吉も、石山御坊跡地を自らの本拠地に選んでいる。城攻めの名手と称えられた秀吉の目から見ても、自らの本拠地とするに相応しい堅固さを誇っていると思えたのだろう。実際、秀吉死後に起きた二度に渡る大坂の陣では、徳川家康が二十万もの大軍を投入しながら、余りの堅固さを前に、いったんは和議を結び、その上で言いがかりをつけて外堀を埋めるという姑息な手を使わざるを得なかった。
 そんな城である。寄せ集めの細川六万に落せるようなものではなかった。
「このままでは被害が嵩みます」
 そんな孫四郎の言葉に、千熊は胸を痛めた。城攻めの先手を仰せ付かっているのは、他ならぬ三好勢なのだ。城攻めが難航すればするほど、犠牲が拡大するのは三好勢だった。
「何とかしなければいかんなぁ」
 十一歳の少年は、そう呟くと、ハァと大きな溜息を吐いた。


 細川晴元も、石山御坊の堅固さにはすっかり頭を抱えていた。
 攻めても攻めても、全く落ちない。未だ、眼前の城壁一つ抜けない有様である。一向勢は、石山御坊が誇る天然の要害、堅固な城壁に加えて、宗教的連帯を核にした命知らずな抵抗を加えてくるから、寄せ集めの烏合の衆に過ぎない細川軍の敵う相手ではなかった。
 目下、晴元が何より恐れているのは、時間だった。
 まあ、よく考えてみればわかることではあるが、各地の諸侯をかき集めた上で編成されているに過ぎない細川軍は、一向軍と比べ、統一性、団結力の面で決定的に劣っている。総大将である細川晴元も、総大将というよりは諸侯連合軍の単なる盟主に過ぎないということもあり、彼には全軍に対する指揮命令権限はあっても、それを徹底させられるほどの絶対的権力はないのだった。
 だから、城攻めが長期化し、無意味に時間が経過していくことを、晴元やその側近たちは何より恐れていた。即ち、時間がたてば、それだけ金がかかる。兵糧とて馬鹿にはならないのだ。時間がたてばたつほど金銭的負担が増大する諸侯の不満は、次第に高まっていくだろう。さらに長期化するようなら、戦線を離脱する諸侯も現れるかもしれない。誰か一人、戦線を離脱すれば、それをきっかけとして、細川軍そのものが空中分解する可能性すらある。そんなことになれば、晴元の無力を満天下に晒すこととなり、彼の政権も一挙に弱体化し、下手をすれば崩壊ということにもなりかねない。
 かといって、晴元自身に諸侯の負担を肩代わりしてやれるほどの財政余力などあるはずがなかった。彼の直轄領はそれほどに多くはないのだ。彼が全軍の盟主として君臨しえているのは、名門細川の棟梁としての権威であり、また一人一人の諸侯の頭一つ抜き出たぐらいの国力を保持しているためであったが、その程度の力で、六万もの全軍を養えるはずもなかった。
 となると、早急な解決こそ、晴元の至上命題であった。しかし力攻めで落とせないとなると、兵糧攻めなどは論外である以上、もはや打てる手立てはなかった。
「和睦、というのも一つの手ではあります」
 ぎろりと、怨めしそうに石山御坊を睨み付ける晴元の後ろから、三好政長はそう言って、恭しく畏まった。
「…和睦、か。それも、一つの手ではあるな」
 晴元は空しげにぼやくと、声にならぬ小さな溜息を一つ吐いて、御坊から目を背けた。
 現状、和議以外の手があるとは思えなかった。このまま包囲を続けても、御坊を攻め落とせるとは思えない。長期化して、軍が空中分解するようなことになれば、細川政権そのものの存亡にかかわる危機ともなりかねなかった。
 ならば、ここらで和議を結ぶのが、一番の得策であるように思えたのだった。現時点なら、まだ細川軍優位のままに決着させることもできる。宿願だった本願寺討滅は不可能になるが、政権そのものが崩壊することに比べれば、幾分マシである。今後、政権をより強大化させれば、いつかは滅ぼす機会もやってくるかもしれない。今は、何はともかく、戦を決着させることが急務だった。
「だが、証如は応じるかな?」
 晴元の抱いた不安は、彼だけでなく、細川軍将士の誰もが抱いた共通の不安であった。和議以外の手はない。そう思う者は、何も三好政長だけではなかった。だが、和議を結べるか否かは別問題だ。本願寺にとって、細川晴元は僅か一年前に自分たちを利用した挙句、その舌の根も乾かぬうちに裏切った憎むべき仇敵であるし、細川方の主力である法華宗は、ここずっと、実に何百年来に渡って対立を重ねてきた正真正銘の仇だった。だから、和議といっても容易く結べるはずもないのである。それに本願寺側とて、細川方の苦境は知っているだろう。篭城を決め込むだけで、細川政権を崩壊に追いやることができるかもしれないなら、彼らとて、安易な和議など結ばず、このままずっと絶対的な宗門の覇城に閉じこもり続けるに違いなかった。
「応じるか否かはわかりませぬが、やってみるだけの価値はあると思われます」
 と、政長は自信に満ちた目をして、そう言った。
「ならば、誰に任せればよいのだ? 下手な人間を送り込んでも、証如の意を動かせるとは思えんが…」
「左様ですな。今回の一件、任すに値するのは、それがしが見るところ、千熊丸殿などが適役かもしれませぬ」
「せ、千熊だと?」
 驚きを隠しきれぬように、呆れた顔をして、晴元は飄々とそこに立っている側近の顔を見つめた。
「だ、だが…。千熊と一向門徒は、いわば仇敵同士。三好家は法華宗の庇護者だし、一向宗は、筑前に手を下した張本人…」
「だからこそです」
 すかさず、政長ははっきりとした口調で言った。
「考えてみてください。この状況では下手な人間を送っても、証如の心は動かせないでしょう。だからこそ、意表を突く形で、千熊丸殿が適役だと思うのです」
「…」
「ま、とりあえず、それがしにお任せあれ。それに、千熊殿が失敗したとて、我らに何の問題がありましょう。失敗したら失敗したで、次の手を考えればよいだけのこと」
 そんな政長の台詞に、晴元は苦りきったような顔をして、プイッとそっぽを向いた。
 気に入らぬ。
 晴元の顔は、そう言っている。実に正直な人だと、政長は思った。けれど、彼は自分の意見を退けないだろう。それ以外に手がないことを、他ならぬ彼自身が痛いほど承知しているのだ。
 和議を結ぶ。
 言うは易し、行うは難し。あくまで平凡な人間を使者に立てても、証如の心を動かせるとは思えなかった。逆に、千熊に全てを委ねてしまえば、意表を突く形で、案外良い結果が生まれるかもしれなかった。
 晴元にしても、ここは考えどころだった。和議を結ぶ以外に手はなく、そのために千熊丸が必要な存在であるということもわかっている。だが、万一失敗すれば、千熊はどうなるだろう。証如により殺されるか、あるいは自分がその失敗をあげつらって殺すことになるのだろうか。彼の父、三好筑前守元長を殺したことも、今となっては後悔しつつある晴元にとって、彼の子である千熊を、そのような窮地に追いやることは、余り気が進まなかった。
 けれど、それ以外に手がないなら、仕方あるまい。千熊の身の上よりは、天下人としての今の自分の立場を守るほうが大切だった。
「任せる」
 と、散々逡巡した挙句、苦渋に満ちた顔をして、小さく呟く彼の言葉に、政長は殊更大仰に頷き、そして大きく頭を下げた。
 にやりと、思わず漏れる不敵な笑みを、必死になって押し隠す。これで千熊を葬り去る絶好の名分が出来たと、一人内心に高笑いする三好越前守政長であった。
cont_access.php?citi_cont_id=991008964&size=300 オンライン小説/ネット小説検索・ランキング-HONなび


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。