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【落日編】第129章 松永弾正少弼久秀の反撃
 誤算、と言い出せば、きりがないほど、このところ誤算続きの松永弾正であった。既に七月は過ぎ去り、八月、九月、十月と月日が光の如くあっという間に過ぎ去って、季節は夏から秋に移り変わっていた。冷たき秋風をその肌に感じながら、思わず溜息を吐く。弾正の不運は、これから冬に向かう季節のように、いよいよ厳しさを増す一方、なかなか終わりそうもなかった。
 弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂…。その他ありとあらゆる諺が嫌というほど身に染みる状況に、さすがの彼もすっかり参っていた。ひとたび落ち目になると、人だけでなく、運までも逃げていくものなのか。弾正は飯盛山城下の一等地に建てられた自らの屋敷の中にあって、怒涛の如き時流の中に、苦りきった顔をして、ぼんやりと漂っていた。


 最初の躓きは、内藤宗勝の戦死であったろうが、二度目の誤算は、自らの監視下にあったはずの覚慶に、まんまと脱走されてしまったことであった。何と言っても、覚慶だ。将軍の弟。足利義栄を将軍とする上で最大の障壁となりかねぬ存在。それを逃がしてしまったのだから、弾正久秀の責任は重いと言わざるを得なかった。
「くそ。覚慶め、まんまと逃げおってからに」
 振り返ってみると、覚慶の脱走こそが、全てのけちのつけ始めであるように思われた。弾正はしきりに酒を呷りながら、腹立たしそうに、落ち着きなく部屋中をうろうろと歩き回っていた。
「このままでは、ジリ貧だ。何とかせねばなるまい」
 天下に謀略家と称えられた男としては、このままおめおめと引き下がるわけにはいかなかった。ようやく、今の地位まで上り詰めたのだ。立ち止まるわけにも、引き返すわけにもいかない。振り返るわけにもいかなかった。ひたすらに前へ向かって駆け抜けなければ、この激動の乱世を乗り切っていくことなどできるはずもない。
 だが…。
 果たして、自分にはどんな手が残されているというのだろう。覚慶に逃げられたことで、彼の政治的権威は全く、完膚なきまでに失墜してしまった。有力な同志といえた篠原大和守長房とも、最近はほとんど連絡していない。聞くところによれば、三人衆としきりに書簡や使者などをやり取りして、彼らとの友好関係強化に勤しんでいると言う。まあ、機を見るに敏な長房の事だ。落ち目の自分から勢いに乗る三人衆に鞍替えしたとしても、全く不思議ではない。
「申し上げます」
 そこに、唐突にやってきたのは、重臣の林若狭守であった。
「若狭か…。で、大和守の動きはどうだった?」
 弾正は苦々しげに顔を歪めながら、藁にも縋るような気持ちで、林若狭に尋ねていた。
「…噂通りにございます」
 わなわなと怒りと悔しさに打ち震えながら、必死に言葉を選びながら喋る若狭に、弾正は「そうか」と、淡々と頷くだけであった。
「彼の居城上桜城に、度々三人衆の使者が参っていることが確認されております。また、大和守本人も、先日、堺は南宗寺にて、下野守(三好政康)と会談しております」
「…裏切りは、確実、か」
 篠原長房が自分を見限ったとなると、これからどうなるのだろうか。漠然と考えながら、ふと脳裏をよぎった最悪の結末に、弾正の顔は一瞬青ざめた。
「それと…。余りよろしくない報告にございますが、御国許においても、三人衆の手が及びつつあるようで…」
「国許? 大和のことか?」
「はッ!」
「…筒井、か?」
 何となくではあるが、弾正には全てが分かっていた。自らの本領たる大和に問題が湧き上がるとすれば、それは長らく松永弾正と激しく対峙してきた最大国人の筒井藤勝(後の順慶)を置いて他にはいないのだ。
「筒井城にも三人衆の使者が度々出入りしていることが確認されました。…ここは、大至急多聞山に御戻りになり、筒井に備えることが肝要かと思われますが」
 若狭守でなくとも、松永家の郎党たちは皆、早急に国に戻って防備を固めるべきだと思っていた。どうせ、飯盛山にいても三人衆たちの栄華を眺めているだけに過ぎないのだ。大和に戻り、支配を固め、いっそ三好家から独立するのも悪くない。そんな風に考えている強硬派も、松永家中には多いのだった。けれど、肝心の弾正は、なにやらジッと考え込んでいたが、最終的に、
「大和には戻らぬ」
 と、はっきりと断言した。
「何ゆえですか?」
 若狭が不思議そうな顔をして尋ねると、
「戻れば、ますますジリ貧となろう。日向らは、わしが大和に戻るのを手薬煉(てぐすね)引いて待っているのだ」
「さ、されど、戻らねば筒井が蜂起しますぞ」
「戻ったとて蜂起するだろう。多聞山には、久通を入れてある。奴とてわしの子。愚かではない。筒井勢如きに遅れをとることもあるまいよ」
「…さ、されど」
 それでもしつこく食い下がる若狭を、弾正はぎろりと睨みつけると、ゆっくりと上座にでんと腰を下ろした。
「よいか。ここがわしの正念場ぞ。ここで飯盛山を離れれば、三人衆は必ず義継様の名を持って攻め込んでくる。わしに謀叛人の濡れ衣を着せてな。内には筒井、外に三人衆。勝てると思うか? ならば、手は一つしかない」
「手、と申しますと?」
「言わずもがな。義継様を、こちらで押さえる!」
 弾正がはっきりと言い切ると、林若狭守通勝は、思わずごくりと息を呑んだ。


 その頃。肝心の義継はというと、どうにもならぬ政情の中で、必死にもがき、苦しんでいた。なまじ聡明なだけに、彼にはこの状況が許せなかった。
 今の彼は、もはや三人衆の傀儡でしかなかった。権力のほとんどは彼らに奪われ、義継には何の力もない。重要な決定は、三人衆の合議の上で決められ、義継はというと、全てが終わった後の事後承認機関としての役割を果たすだけであった。
「くそッ!」
 このところ、めっきり酒の量も増えていた。
「…このままでは、俺はいったいどうなるのだ。日向らに全てを奪われた挙句、殺されるのか?」
 三好政権なるものが、実に微妙で、危うい基盤の上に成り立っていたのだと言うことを、義継は痛烈に感じていた。結局、三好長慶というカリスマ性溢れる有能な独裁者がいたからこそ成立しえたものであり、如何に聡明とはいえ、養父ほどのカリスマ性を持ち得ない義継の手に負えるものではなかったのだ。
 義継は腐っていた。何をやっても、思い通りになることはない。不満は募る。けれど、その一方ではたまらなく怖かった。やがて、自分も足利義輝の如く殺されるのではないか。そう思うと、いてもたってもいられなかった。
 そんな折の事であった。彼の下に、松永弾正久秀がやってきたのは…。


 弾正は随分老けたように見える。
 他人事のように、そう思う義継もまた、齢十四の少年にしては随分とやつれていたが、ともかく二人はジッと睨み合うと、
宿老(おとな)の意向に従う必要はありませぬぞ」
 弾正久秀がまず口火を切った。
「三好の御大将は義継様にござりますれば、宿老の意に構わず、政治を行われませ」
 そんな弾正の言葉に、義継はしばらくきょとんとしていた。宿老の意に構わず…、と彼は言うが、その宿老の一人が弾正ではないか。そう言いたげな彼の視線を感じながら、弾正はにっこりと微笑んだ。
「既に義継様も当主と御成りあそばれて、一年半以上の歳月が流れました。ならば、これ以上後見役に過ぎぬ宿老たちが出しゃばるのはよろしくありますまい。義継様には是非、御先代にも劣らぬ名君となられ、民草に号令なさりますよう、この弾正、伏してお願い申し上げます」
 結局、彼は何が言いたいのだろう。義継にはいまいち分からなかった。号令を下すと言っても、三人衆がいる。義継には何の権力もない。
「弾正。そなたの言葉は嬉しい。だが、わが意を無視し、勝手に政治を壟断する者も多い。奴らを無視して、余が勝手に政治を行うは難しいのだ」
 と、率直な思いを伝えると、弾正はそんな弱気な義継をぎろりと睨み付けた。
「左様な弱腰で何となされますか。三好の御大将は義継様にございますぞ。義継様の御意向を無視し、政治を壟断する者がいるとは、言語道断にござるが、ともかく、義継様が御親政を御執りあそばすなら、この弾正、全力を挙げて支援いたしましょう」
「…そなたが支持するというのか?」
「はッ!」
 義継はしばらくジッと考え込んだ。弾正が支持してくれるなら、あるいは自らが実権を取り戻すことができるかもしれない。三人衆の圧倒的な権勢を嫌っている者もいるだろう。三好家当主たる自分と弾正が組めば、実力的には三人衆と互角。ならば、こちらに味方してくれる者も出るかもしれなかった。
「弾正。そなた、本当に余を助けてくれるか?」
 どうせ、このまま事態が推移すれば、ジリ貧に陥るだけなのだ。ならばいっそ弾正と手を結び、起死回生の一手を打つのも悪くない。結果、失敗したなら、それはそれ。そうなったときぐらいの覚悟はもう出来ていた。
「無論にございます」
 弾正がきっぱりと断言すると、
「よかろう。ならば、これからは余が全てを仕切る!」
 義継もまた、はっきりと言い切った。


 三人衆が違和感を感じ始めたのは、その直後のことであった。何しろ、彼らが全てを決めて実行に移そうとしても、
「義継様は左様なこと、一切許可を出していない」
 と言って、積極的に妨害を加えてくるのである。それだけならまだしも、義継自ら積極的に政治を執り、矢継ぎ早に指示を出していくものだから、三人衆の意向など、何の意味もなさなくなった。
 三人衆が地団駄踏んで悔しがったのは、言うまでもない。けれど各地の諸侯は、元々三人衆の余りの台頭に眉を顰めていたこともあり、当主たる義継の命令に背くような真似はしなかった。かくして、三人衆政権はあっけなく崩壊したのである。その余りの脆さに、義継などは拍子抜けしていたが、結果から言うと、当主たる義継の権威と、三人衆政権の脆弱さを明確に突いた松永弾正の懸命な謀略工作が功を奏しただけともいえる。
 即ち、彼は義継の御朱印状という形で、三人衆の頭越しに命令を次々と発布させた。その朱印状に彼自身が連署することにより、義継が弾正を支持していること、逆に義継の命令を弾正が支持していることを各地の部将に印象付けることに成功したのである。そのほか、篠原長房の専横に頭を悩ませていた三好長治、十河存保、安宅信康にも手を伸ばし、四国三好党の分裂も策していた。とりわけ、長房の意向に唯々諾々と従わねばならぬ現状に不満の念を強めていた十河家、安宅家では、弾正の謀略を待つまでもなく、長房を無視した独自路線に突き進みつつあった。また阿波三好家内部においても、筆頭家老として絶大な権勢を誇る長房に不満を抱く勢力が、主君長治を擁して、主導権を握ろうと必死になって画策していたのである。こうした四国三好党に稀代の謀略家たる弾正が目をつけぬはずもなかった。


 永禄八年(一五六五年)十一月八日。
 三好三人衆と称される三好日向守長逸、三好下野守政康、岩成主税助友通の三人は、京の都にあって、善後策を協議していた。弾正の猛烈な反撃にあって、一転、窮地に追い込まれた彼らとしては、ここらで一発逆転の手を打たねば、かつての弾正の如く、一挙にジリ貧に追い込まれかねなかった。
「問題は、義継殿」
 日向守長逸が、そう切り出すと、他の二人も大きく頷いた。
「彼を何とかすれば、弾正の姦策も尽きると言うものだ」
 長逸は既に何か、大いなる決意を固めていたようであった。政康、友通両名も、思いは長逸と同じらしく、
「やりますか」
 と、少しばかり緊張を隠しきれぬ面持ちで、そう言った。
「やるほかあるまい」
 長逸がきっぱりと断言すると、
「やりましょう」
 三好政康、岩成友通は大きく頷き、フゥと静かに小さな溜息を吐いた。
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