【雌伏編】第012章 逆襲
堺より細川晴元を追放した後、一向軍は先の戦いで失った勢力を取り戻すべく、積極的な軍事作戦に打って出ていた。何よりも、本願寺一門の総帥たる証如自ら、諸国の一向門徒に檄文を飛ばしている時点で、今回の騒動に対する本願寺の本気度も分かるというものである。
既に堺の町は一向軍の支配下にある。そして、次に証如が狙うのは、本願寺の新たな総本山石山御坊のある摂津全土の制圧であった。
「まずは伊丹城の伊丹親興。こいつを滅ぼさねばならぬ」
未完成の石山御坊の一角で、若き法主証如に対し、大叔父の蓮淳はそう言って、眼前の地図を指差した。
「伊丹城を落せば、摂津の半ばは我らの支配下に入る。何よりまずは摂津を固め、その上で上洛する。既に門徒たちは集まっているから、法主たるそなたの号令があれば、数万の大軍で伊丹城を取り囲めるぞ」
蓮淳は、とても気高き高僧とは思えぬ、俗気に満ちたおぞましき笑みを浮かべると、迷う証如の顔を睨むように見つめた。
「事ここに至ったからには、もはや迷っている場合ではない。既に賽は投げられた。法主殿、うかうかとしていると、淡路に逃れた晴元が反撃に転じてくる。都には法華の者どももいる。奴らとの再戦を考えれば、早急に摂津を取り、地盤を固めなおさねばならんのだ」
「…ですが、大叔父上…。我らは勝てますか?」
証如の脳裏には、今もなお炎上する山科本願寺の、無惨で哀れな様が焼きついていた。せっかくここまで作り上げた石山御坊が、山科御坊の如く崩れ落ちる様は見たくなかった。
「勝てるとも。何を弱気になっているのだ。我らには既に数万の兵がいる。憎たらしい法華どもを叩き潰して、我らが天下をとるには今しかない。その後は、晴元も追い落とし、それなりの人間を細川の跡目に立てておけばいい。実権は我らが握る」
「…」
「とにかく迷っている場合ではない。…そなたが動かねば、わが本願寺は滅び去るのだぞ」
そんな風に蓮淳に強く迫られると、証如には反論のしようがなかった。他ならぬ大叔父であり、かつ教団組織の実権を事実上握っている実力者なのだ。如何に法主たる証如といえども、彼の意向を無碍に扱うことはできなかった。
本願寺十世法主証如の号令が下ると、各地の一向門徒たちは、揃いも揃って怒涛の如く、伊丹城に向かって進軍を開始したのであった。
その数は二万とも三万とも言われている。本願寺の坊官下間兵庫、下間丹後兄弟を事実上の総大将とした大軍は、二月中頃に伊丹城を取り囲むと、城主伊丹大和守親興の手勢と激突した。
「降伏は…、しそうにないか」
下間兵庫は苦りきった顔をして、ハァと溜息を吐いた。
「伊丹勢は二千。兵力差は十倍。これだけの力の差を見せ付けられて、なお抵抗する奴は、ただの阿呆か、それとも何らかの勝算があるのか…」
と、下間丹後も悔しそうに唸っていた。
総攻撃をかけるのは容易い。圧倒的兵力にものを言わせた人海戦術で攻め込めば、数日のうちに落城するだろう。
だが…。その策は、余りに犠牲が大きい。無論、兵たちは誰も死などは恐れないだろうが、大切な門徒たちである以上、出来うる限り最小限の犠牲で全てを片付けたいというのが、総大将たる下間兄弟の願いなのだった。
「とにかく、今一度使者を送ろう。それで駄目なら、総攻撃を開始する」
総大将下間兵庫がそう言うと、副将の丹後も大きく頷いた。
木沢長政は、京都にいた。
突如として発生した一向一揆が、たちまち堺の晴元を追い落とし、今では摂津全土の掌握を目指して伊丹城を取り囲んでいるという緊迫した情勢下、彼に出来ることは、洛中の実権を握っている法華宗を動かし、彼らの力をもって一向軍を撃退することであった。
「木沢様が今よりさらに勢力を広げるには、此度の騒乱は、またとない機会なんでしょうな」
皮肉じみた松永久秀の言葉に、木沢はふんと鼻で笑った。
「君がどう考えようと、わしのすべきことは、淡路に逃れられた御所様に成り代わり、一向一揆を鎮定することだ。その結果、わしがどういう立場になろうと、それは結果論であり、わしの知ったことではない」
「…左様ですか」
基本的に、久秀は全てを見抜いていた。生まれつき勘がいいのである。如何に強大な一向一揆といえども、その裏に暗躍していた木沢の存在なくしては、あれほど鮮やかに堺から晴元を追い落とすことはできなかっただろう。晴元が無防備に近い状態で堺に赴くことを、予め知っていなければ、本願寺側もあの疑り深く、用心深い三好政長を出し抜いて奇襲攻撃に打って出ることなどできなかった。それを伝えたのは、他ならぬ木沢であり、また晴元に堺へ赴くよう勧めたのも、木沢だった。全てが彼の陰謀。一連の出来事は、悉く彼の手のひらの上に起きたことであった。
食えぬ男だと、久秀は思う。人のことを言えた義理ではないと思うが、自分に輪をかけた陰謀家のひねくれた笑みを見ていると、なぜだか無性に腹立ってきた。それだけ自分が若いのか、それだけ自分が冷徹になりきれていないのか。けれど、木沢はそんな彼を見つめながら、全て見抜いているかのように、ニタニタと笑った。
「ところで松永。その方は最近、三好の若によく会うようだな」
ふと、木沢はそんなことを言った。
「別に悪いといっているわけではない。…あの若君殿には随分世話になった。此度も、法華門徒どもを動かすのに、彼の名を騙らせてもらうつもりだしね。…それにしても、法華の門徒どもは、どれも三好と聞けば素直に従う。その三好を背負っている千熊丸殿はまだ十歳で、しかも彼は門徒たちに何の恩も施していないというのに」
「…」
「ま、利用できるものは利用する。わしが越前殿(三好政長)の反発を買うのを承知で、わざわざ千熊殿の命乞いに協力したのも、全てはこういうときのためなのだからな」
と言って、彼はその顔を醜く歪めた。
久秀はこういう木沢長政という男が、嫌いではない。けれど、余り好きにはなれなかった。まるで自分を見ているかのような気がするのだ。同属嫌悪というべきなのだろうか。そして彼は自分という存在そのものを、余り好いてはいなかった。野心高く、何より人を信じない。そんな自分が何より嫌いだった。もっと他に生き方があるのではないかと、心の底では思いながら、これまでの一生は、常に人を騙し、欺き、裏切って、自分のためになることだけを求め続ける毎日だった。
三月に入り、ようやく軍備の整った法華一揆は、木沢長政軍とともに京を発すると、一路伊丹を目指して進軍を開始した。
その数、およそ二万。
一方、一向軍に包囲され、苛烈な猛攻を受け続けてきた伊丹城は、奇跡的に、今もなおその威容を保っていた。一向方が数日中に落ちると見た城は、一ヶ月近くたった今も、昔と変わらぬ堅固を維持していたのだった。
伊丹親興の想定外の奮戦と、伊丹城の堅固さに加え、ここに来て寄せ集めに過ぎない一揆軍の弱点が露呈したことも痛かった。
そして三月二十九日。
伊丹に到着した木沢軍は、早速総攻撃を開始した。伊丹城を取り巻く一向軍も、とりあえず反撃してきたとはいえ、木沢軍と、城方により挟撃される形となった彼らの不利は否めず、同日午後には、もはや軍としての形すら失った。次いで、下間兵庫、下間丹後ら軍首脳が真っ先に逃亡したことにより、敗北は決定的となったわけだが、残された門徒たちは、ただ獰猛な肉食獣に追い立てられる草食獣の如く、無惨に、哀れに逃げ惑うだけで、後は勝勢に乗った木沢勢により一人ずつ確実に狩られていった。
形勢は、逆転した。
淡路島に逃れていた晴元は、伊丹城攻防戦の結果を知ると、そう思わずにはいられなかった。既に伊丹城には木沢長政を筆頭とする法華軍が大結集を始めているという。一向方に靡きつつあった摂津諸豪族も、皆、慌てふためいたように、かつての敗将晴元の下に、次から次へ使者を送り、改めて自らの忠誠を誓っていた。
今や晴元の下には大軍が揃っている。反転攻勢を期すべく、四国より呼び寄せた軍勢であり、淡路衆、阿波衆、讃岐衆、伊予衆など合わせて総勢一万五千となっている。
「一向宗如きに舐められてたまるものか」
すっかり自信を取り戻したらしい晴元は、洲本城の一角で豪快に高笑いしていた。
既に軍備は万端だった。地上戦力は一万五千。それを悉く乗船させて、なお余りあるほどの大船団もある。瀬戸内海を牛耳る海賊衆の首領たる安宅氏の棟梁安宅治興が率いている水軍衆であるが、眼前一面を埋め尽くす圧倒的な大水軍を見ていると、かつて木曾義仲に追われながら、再び都に攻め上らんと虎視眈々力を蓄えていた平家の気持ちがわかるような気がした。
ただ平家のようにはならぬと、晴元は誓う。必ずや畿内に戻り、都を取り戻し、一向宗を叩き潰す。それだけの力が自分にはあるのだ。しかも、敵方に源義経はいない。
「御所様、全軍乗船完了いたしました」
そこに、安宅治興が報告のためにやってきた。晴元は静かに頷くと、彼に案内されるまま御座船に乗り込んだ。その甲板に吹き抜ける潮風をひしひしと感じながら、ふと思う。堺から抜け出すときに浴びたものとは、全く違う風。これから天下を取り戻しに行くのだと思うと、不思議と心が高鳴った。
淡路を発した晴元軍が目指したのは、堺であった。
海路より晴元が、陸路からは木沢長政が、それぞれ圧倒的な大軍を従えて進軍した。一方、堺に立て篭もっている一向軍は、脱走兵も多く、とてもではないが、勢いに乗る細川軍に太刀打ちできるような状態ではなかった。
だから、彼らは戦わずして逃げ出した。堺を主戦場にしたくない会合衆による説得工作もあったとはいえ、天下に精強を称えられた一向軍の無様な姿に、上陸した晴元たちはただ呆れ、そして嘲笑っていた。
「後は、石山御坊のみ」
と呟きながら、晴元はにやりと不敵な笑みを漏らした。
「総攻撃をかけますか?」
すかさず三好政長が口を挟むと、彼は殊更大きく頷いていた。
「既にここには五万ほどの兵力がありまする。如何な本願寺とて、今度ばかりは年貢の納め時でしょうな」
そんな木沢長政の言葉に、晴元はただ苦笑する。
後は石山御坊のみ。ここを落し、今度こそ証如以下鬱陶しい一向宗の高僧どもを叩き潰すことが出来れば、目障りな一向一揆も、それなりに息を潜めるに違いない。晴元にとって、自らの政権の基盤を固める上で、一向宗の殲滅は、動かし難き至上命題となっていた。
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