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【落日編】第119章 剣豪将軍
 足利義輝は、三好家に何が起きたのか、その鋭い頭脳で薄々察しているようであった。
 室町幕府第十三代征夷大将軍…、なのだが、この男を見る限り、そんな雰囲気は一切ない。世に剣豪将軍と称えられているように、どちらかといえば、猛者、豪傑といったほうがよいようなイメージである。公方という言葉より、将軍という言葉がこれほど似合う男もいないように思われた。
 剣術について言えば、剣豪塚原卜伝(ぼくでん)に師事し、奥義『一の太刀』を伝授されたほどの腕前であった。彼自身、剣術が好きで、時折、名の知れた猛者たちを御所に招いては、試合を催していた。けれど、未だ義輝に勝てた者はいない。
「まさに、公方様は天下随一の猛者であらせられる」
 そう言ったのは、天下に剣豪と名高き上泉伊勢守秀綱であった。
 義輝と伊勢守が出会ったのは、今から半年前のことであった。ちょうど用あって上洛していた彼を、義輝がわざわざ御所に招いたのが、出会いとなったわけだ。その後しばらく、伊勢守秀綱は将軍の剣術指南役的な役目を担って御所に逗留し続けたが、つい、二、三ヶ月ほど前に再び彼は御所を去り、流浪の身に戻ってしまった。
「余を負かしたのは、塚原卜伝を除けば、上泉伊勢守のみである」
 そんな風に、義輝は事あるごとに伊勢守の武勇を称え、いつまでも彼の不在を惜しんだりしていた。

 けれど、足利義輝という男の真骨頂は、剣術などに代表される個人的武勇より、その鋭い頭脳にあった。これまでもその頭脳で、権威以外には何の力もない将軍家の主ながら、強大な細川家や三好家と互角に張り合ってきたのである。
 そして最近の義輝は、妙に焦っていた。長慶が死んだかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられなくなるのだ。彼の夢は幕府再興である。その絶好機が目の前に転がっていたのだから、彼が焦るのも無理はなかった。
「焦りは禁物ですぞ」
 そう言ってしきりに義輝を諌めていたのは、弟の覚慶という坊主であった。今年で二十七歳になる。興福寺一乗院門跡の地位にあり、世が世であれば、そのまま人生を終える定めの人であった。後に、織田信長に擁立されて、室町幕府第十五代征夷大将軍足利義昭になろうとは、この当時、夢にも思ってはいなかった。
「焦ってなどおらん」
 義輝は剥きになって反論し、覚慶をぎろりと睨み付けた。
「ただ、兄上。兄上は三好家の討伐を宿願とされておられるようですが、それがしが思いまするに、余り三好を刺激しないほうがよろしいのではありませぬか」
「…なんだと?」
 義輝は弟の坊主頭をぎろりと睨み付けた。けれど、覚慶もなかなかの男である。剣豪将軍義輝の鋭き眼光など気にする風もなく、逆に思い切り見返してやった。この辺りはさすがに兄弟といったところで、にらみ合う二人の顔は、実によく似ていた。
「三好を刺激し続ければ、いずれ彼らの怒りも頂点に達しましょう。下手をすれば、義教公と同じ末路を歩むことにもなりかねませぬ」
 覚慶は心配でならなかった。幕府の再興を最大の悲願とする義輝は、ひたすら三好家を敵と定め、その討滅ばかりにひた走ってきた。無論、そんな兄の気持ちは痛いほどに分かる。彼だって将軍家の衰亡を座して見守るつもりはない。出家し、興福寺の主となっているが、もしも自分になすべき役割が巡ってきたなら、この身の全てを投げ出して、兄と共に室町家の復興に尽くすつもりでいた。けれど、夢の実現のためには手段すら選ばず、盲目的に突き進む義輝の姿は、傍目から見れば、実に危険なものに思えるのだった。
「長慶がその気になれば、将軍家など一瞬で息の根を絶たれる」
 覚慶はずっとそう思ってきた。結局のところ、将軍家が今もなお存続し続けていられるのは、三好長慶が本気で幕府を滅ぼそうとは思わなかったからだ。もしも長慶がたった一言、「幕府を滅ぼせ」と命じれば、その瞬間、室町幕府と足利将軍家は、この世から跡形もなく消え去ることになるだろう。三好家と将軍家の実力差は歴然としている。近畿・四国に十ヶ国以上を領する三好家と、山城国内にほんの僅かな領地を保っているに過ぎない将軍家では、とても勝負になるものではない。
「兄上は、修理大夫こそがかけがえのない味方だということを、分かってはおられん」
 そんな風に思いながら、覚慶は困ったように苦笑いした。
 実際、強勢を誇る三好家の世論の大部分は、強烈な討幕論に染まっていた。それを総帥たる長慶が食い止めていたからこそ、幕府は幕府として、将軍家は将軍の座を保ったまま、まがりなりにも京の都にあって、今日まで存続しえたのである。
 そう考えていくと、皮肉な話ではあるが、義輝が最大の宿敵と思い込んでいる三好長慶こそが、幕府存続を図る上での最大の後ろ盾になっていたともいえるのである。それなのに、義輝は必死になって長慶を除こうとしていた。そうした兄の軽挙さを、覚慶はどうしようもなく「阿呆」と思うのだった。
「余は三好を潰す! 最近の三好家を見れば、三好修理(長慶)に何らかのことが起こったのは間違いない。この隙を逃すわけにはいかんのだ。既に、十河民部も三好実休も、安宅摂津も、三好義興すらいない。長慶に万一のことあらば、それは三好の終焉と同義。このまたとない好機を逃すわけにはいかん」
 義輝はきっぱりと言い切って、覚慶を睨み付けた。
「そう、ですか」
 これでは、もはや取り付く島もない。覚慶は、頭がよすぎるがゆえに、逆に自分の首を絞めている哀れな兄を見て、ハァと大きな溜息を吐いた。

 覚慶が都を去ったのは、十一月に入った頃のことであった。
 一方、義輝は着々と、三好討伐に向けた準備を進めていった。兵を集めたり、室町御所の堀を深くしてみたり、あるいは諸国に三好討伐の軍を起こすよう命じたりと、その活動はいよいよ積極さを増してきた。
 けれど、こうした露骨な動きが、三好方の耳に届かぬはずもなかった。そこで、松永弾正久秀、三好日向守長逸、三好下野守政康、岩成主税助友通ら宿老四人と、一門衆の最長老たる三好笑岩を加えた政権の最高首脳が飯盛山城に集結して、善後策を討議することにしたのだった。
「いよいよ、あの狸公方が動き出しましたな」
 まず下野守政康が苦々しげな口調で、そう切り出した。
「如何に公方様の所業であろうと、捨て置くことはできん」
 すると日向守長逸は、きっぱりと断言した。
「ま、確かに…。各地に書状を送りつけたり、兵を集めてみたり、御所の堀を深くしてみたり…。そんなに戦がしたいなら、いっそお望みを叶えてやるのも一興だ」
 岩成友通が続ける。基本的に、宿老たちの意見は、将軍討伐で一致しているようであった。
「ただ、将軍家に刃を向けるとなると、これは相当の覚悟が要りますぞ。何しろ、相手は将軍ですからな」
 笑岩の言葉に、四人の宿老たちは苦りきった顔をしつつも、大きく頷いていた。
「…ならば新たな将軍でも立てますかな」
 松永弾正の言葉に、
「新たな将軍?」
 他の四人は不思議そうに首を傾げ、そして「なるほど」と、口々に相槌を打ち始めた。
 将軍の候補なら、今もなお阿波にいる。かつて細川晴元や三好元長が擁立した堺公方足利義維(よしつな)の嫡子義栄である。三好家にとって、縁浅からぬお方であるし、何より現将軍足利義輝の従兄弟であり、先代将軍足利義晴の甥でもあった。血筋的にも立場的にも、三好家が推す次期将軍として、なんら問題はなかった。
「鬱陶しい公方殿には、この際、退場していただきますか」
 岩成友通は逸りに逸っていた。ようやく、あの将軍を殺せるのだと思うと、いてもたってもいられない、といった様子であった。

 三好義継は、もう一時間近くに渡って、松永弾正久秀と、三好日向守長逸の二人と睨み合いを続けていた。
「誠にやるのか?」
 義継はぎろりと二人を睨む。
「無論です」
 久秀が宿老たちを代表して、そう断言した。
「…相手は公方様だぞ」
 先ほどからずっと、この会話を延々と繰り返していた。相手は将軍。ゆえに躊躇する義継に対し、将軍だろうと何だろうと、事ここに至ったからには、殺るしかないと覚悟を決めている久秀と長逸。両者の意見は激しく対峙し、しばらくは結論が出そうにもなかった。
「それに、養父上(ちちうえ)も反対なされておられた」
 義継がぎろりと二人の宿老を睨みつけると、
「あの折とは情勢が変わりましてございます」
 弾正久秀は淡々と答えた。
「それに公方様だからとて、我らの敵であることに変わりはありませぬ。かつて御屋形様と、故実休入道様は、御家に敵対した細川持隆公を粛清いたしました。持隆公は紛れもない我らの主君でございましたが、我らに仇名すようになったがゆえに、斬ったのです。…例え相手が誰であろうと、敵である以上は殺らねばならないのです。殺らねば、殺られる。それが、この乱世でございます」
 弾正に続いて長逸が畳み掛けるように言うと、その瞬間、義継は返すべき言葉を失った。
 細川持隆粛清事件(見性寺の変)のことは、義継もよく知っていた。何しろ、彼の実父十河一存も、実休入道を補佐して大いに関わっていたからである。長慶や実休、一存が何を考え、どのような覚悟で主筋の持隆に手を下したのか。その裏事情全てを嫌というほどに承知している義継だけに、持隆のことを持ち出されると、何も言えなくなってしまうのだった。
「若殿! 御決断を」
 長逸が厳しい口調と激しい顔で迫り、
「御家の力、天下に示してやりましょう」
 久秀が続ける。
 宿老衆筆頭格の二人に迫られて、否と言えるほどの力はない無力な義継であった。彼らが将軍家を倒す、と決めた以上、義継としては、これを追認するしか道はなかったのである。
「…そなたらの好きにするがよい。ただし、その戦には、余も参加する。余自ら兵を率いて、将軍家に引導を渡すことにする。それが、せめてもの償いになろう」
 義継としては、これが精一杯の抵抗だった。少なくとも、将軍攻めという三好家の一大事に、当主たる自分が蚊帳の外に放り出されることだけは避けたかった。
「無論にございます。…若殿が御出馬なされれば、兵の士気、大いに高まり、勝利は確実のものとなりましょう」
 久秀の言葉に、義継は「ああ」と頷くほかはなかった。
 足利義輝と戦う。そのこと自体に、義継も何の異存もない。ただ、義輝が身に纏う将軍の衣が厄介だった。赤松満佑に続いて、将軍殺しの汚名を背負うことになるのかと思うと、義継の気持ちは、暗澹たるものになった。
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