【雌伏編】第011章 砂上の楼閣
凄まじき紅蓮に染まりきった挙句、親鸞以来三百年の歴史と、蓮如以来の栄光を背負ったまま崩れ落ちてみると、そこに残ったのは、ただの焦げた木片だけだった。それでも、証如以下本願寺の御偉方は、どれも無事に脱出し、懲りることなく大坂辺りに新拠点の設営に勤しんでいるらしかった。ただ、今回の戦役で本願寺と一向宗の勢力が大幅に減退したことは否めず、今や洛中は、勝者たる細川政権と法華宗の天下になっていた。
まあ、本願寺総本山たる山科御坊が焼失したからといって、戦乱が全て鎮圧されたわけではないのだった。完全に鎮火したつもりでも、残り火というものは、常に存在する。
その一つが、細川晴国の乱である。
細川晴国という男は、今は亡き管領細川高国の実弟で、即ち細川一門に列する有力者なのだが、高国の弟である以上、兄の滅亡と全く無関係ではいられなかった。かくして彼は兄の滅亡とともに浪人せざるを得なくなったわけだが、だからといっていつまでも浪人身分に留まる気もない彼は、虎視眈々と再起の機会を窺っていたのだった。
そんな彼にとって、一向一揆と晴元政権の本格的対決は、自らの復活という夢を実現する上で、まさに絶好の機会であった。何しろ、強大な一向軍の力を利用すれば、仇敵細川晴元を滅ぼすことも決して不可能ではなくなるのだ。そうなれば、自分こそが天下人である。
「いよいよ、わしがこの世に打って出る機会が巡ってきたのだ」
一揆軍と晴元軍の対立が激化し始めた頃、晴国はそう言って豪快に高笑いし、その上で、一向軍に使者を出し、共闘を呼び掛けたのだった。
そんな具合に、亡兄の遺志を継ぎ、無念を晴らす最大にして最後の機会を逃すまいと、ひたすら野心の焔を燃やし続けていた彼の下に舞い込んできたのは、あっという間の一向宗の没落と、総本山山科本願寺の陥落という凶報だった。
しかし挙兵準備も整い、後は実行のみの段階となった晴国に、もはや後へ引くことは許されなかった。実際、彼の行動を察知した晴元政権は、彼を討伐すべく、三好政長を総大将とする軍勢を編成し始めたのである。そこで、九月十二日、引っ込みがつかなくなった晴国はやむなく挙兵した。
彼は京都の鞍馬に兵を進め、さらに摂津方面に引っ込んでいた一向一揆の過激派と連携を取り合って、晴元軍との本格的決戦に備えた。一方、晴国の要請に飛びついた一揆軍過激派は、とりあえず数千規模の大軍を編成すると、同月二十六日には山崎まで進軍したのであった。
これが晴国の乱の概要であるが、一向一揆の主力が壊滅した今、その残党軍をいくらか加えたぐらいで、法華宗や六角氏を完全な影響下に置いた晴元政権に敵うはずもなく、十月に入った頃には晴国軍は無惨に壊滅し、晴国自身も何処かへ姿を消したのだった。
晴元は驕っていた。
既に、見渡す限り敵といえる敵もない。一向宗が没落した今、晴元政権の基盤はかつてないほどに磐石となっていた。法華宗の急激な勢力拡大のみが若干不安ではあるが、今のところ彼らは晴元に従順姿勢を貫いている。南近江の有力大名六角定頼も、重臣の進藤貞治を都に派遣し、一向一揆鎮圧の祝辞を述べさせるなど、事実上晴元政権の盟下に入っていた。
怖いものは、何もない。
だから彼は驕った。無理もない。如何に天下最強の権力をその手に握ろうと、彼はまだ弱冠十八歳の青年に過ぎないのである。己が手の中にある、余りに大きな力に有頂天となり、浮かれ騒ぎ、驕ってしまうのも、ある意味で当然といえば当然だった。
「千熊よ。かつて御堂関白(藤原道長)は、自らの栄華を満月に例えたが、今の余もさしずめそんな気分だ」
と言って、素直に、純粋に、単純に高笑いする晴元を見ていると、千熊は思わず苦笑いせずにはいられなかった。
今の彼は間違いなく頂点を極めている。まだまだ子供に過ぎない千熊丸だが、その程度のことはわかった。しかし、満ちた月はいずれ必ず欠けるものだ。藤原北家がそうであったように、今や絶頂を極めている細川京兆家も、やがては衰退の道を歩むに違いない。もしそうなったとして、そのとき、自分はどうなっているのだろう。いろいろな考え、思いが、頭に浮かんでは消えていく。
「ま、ともかく今宵は無礼講。正月ゆえな。今日ぐらいは、そなたも身分を忘れ、思い切り酒を飲め」
とにかく細川晴元にとって、これほど楽しい新年は他になかったろう。これほど心地よい正月は初めてだったろう。何しろ磐石なる天下人として過ごす、初めての一月一日であった。
「後は将軍家と正式に和睦を結んで、都にお戻しすれば、余の地位は磐石のものとなる。くっくくく。もはや、何人たりとも余には勝てん。はっはっはっは」
そんな風に豪快に笑いながら、彼は浴びるほど酒を飲み、そして何を思ったか、唐突に立ち上がると、今なお楽しげに騒ぐ家臣たちを横目に、縁先のほうへと歩いていって、そこで、げぇげぇと、全てを吐いてしまった。
天文二年(一五三三年)に入った頃、晴元政権はいよいよ強大化して、もはや細川晴元の右に出る存在はなくなった。
だから晴元は、日々自らの力を誇示すべく贅沢な享楽に明け暮れるようになった。連日連夜、重臣、公家たちを集めて酒宴を開いてみたり、煌びやかな行列を従えて、有名な寺院や史跡を巡ったりした。さらには、管領御所や芥川山城を天下の支配者の居城に相応しき代物にせんと、細川政権配下の諸大名を度々動員しては、増築工事にあたらせていたのだった。
今の晴元は、栄華を極めた英雄、というよりはずっと欲しくてたまらなかった玩具を手にして、有頂天になって喜んでいるただの子供に過ぎなかった。
けれど…。
晴元の無邪気さに翻弄される諸侯の不満は、日増しに高まっていた。恩賞一つにしても、彼は公明正大さより己の感情を優先した。要するに余り功績のない者でも、晴元の信任さえ得ていればそれなりの領地を与えられたし、逆に、功績を挙げても彼の信任がなければ、領地を与えられるどころか、逆に没収されたりした。その上、管領御所や芥川山城の増築にかかる費用は、政権傘下諸侯に等しく求めてきたのである。ただでさえ相次ぐ合戦で、どこも軍費が嵩んで、財政的に厳しい状態に立たされているのに、晴元の個人的趣味のために、更なる出費を強いられるとなれば、諸侯の不満が高まるのも、当然といえば当然だった。
晴元政権は強大である。だから諸侯も怒りを胸に堪え、ただ黙々と従っていた。けれど、たまりにたまった不満と不審は、いつ爆発してもおかしくないほどに膨れ上がっていた。
晴元政権は磐石である。
だが、それは外から見た場合のことで、中から政権の実態を眺めるなら、ぐらぐらと揺れ動く脆き砂上の楼閣の上に、辛うじて存在しているに過ぎなかった。
白き雪が、ぱらぱらと世界に舞っている。
それはどんどん積もって、世界中を瞬く間に白銀に染めていった。いろいろ複雑に折り重なっていたはずの文明の全てを飲み干して、全てを真っ白に塗り替えていく。
この日、世界は史上稀に見る大雪に包まれていた。近畿地方にこれほどの雪が降ったのは初めてではないかと思われるほどだったが、芥川山城から見るそれは、なかなかに風流だった。
「千熊よ、ここがわが居城だ」
と言って、晴元は高笑いした。
この日、千熊丸は晴元とともに芥川山城にいた。彼は、初めて見る細川政権の牙城を、ただ呆然と眺めていた。少なくとも、それは三好家の居城芝生城や、勝瑞城の比ではない。やはり、細川高国が築き、晴元に受け継がれた細川政権累代の覇城ともなれば違うものだと、ひたすら感心するばかりだった。
「今も普請の真っ最中なのだ。後数年もすれば、余の居城として相応しき威容を誇ることになる。そして余はここで政務を執るのだ。余が死んでも、余の子、孫、ひ孫と、代々余の嫡流が天下を治めることになるだろう」
晴元は芥川山の麓に広がる盛大な城下町を眺めながら、そんな風に呟いた。町には無数の人々が犇いていて、どれも細川政権の絶対的な権勢を象徴するかのごとく、活き活きと、活気に満ちた一日を過ごしているようだった。
「…御所様は、御自身の幕府を開かれるおつもりですか?」
そんな彼を見ながら、千熊丸は不思議そうな顔をして尋ねた。
「幕府? …幕府ねぇ。それもよいかもしれんが、幕府なら今もあろう。いちいち潰して、新しいものを作り出す必要性もあるまい」
「…では、御所様は如何にして天下を治められるのですか?」
と、千熊が問うと、晴元はにんまりと微笑み、そして足早に部屋のほうへと戻っていった。
「執権北条氏。お主もそれぐらいは知っておるだろう」
「ほ、北条氏? で、では…」
「想像通りだ。余が目指すのは、第二の北条だ」
晴元は嬉しそうに笑い、千熊は「なるほど」と、納得したように、何度も何度も頷いていた。
執権北条氏というのは、源頼朝以下源氏将軍家嫡流三代が絶えた後、鎌倉幕府を事実上支配した一族のことであるが、彼らはどれほど強大な権力を握ろうとも、自ら将軍になろうとはせず、あくまで執権として形の上は将軍家を守り立てていた。無論、北条氏の意に背く将軍は次から次へ追放し、さらに政敵となりうる有力御家人も悉く排斥して、都合十六代百年以上に渡り、この国を支配し続けてきたわけだから、形は将軍家の御家人でも、実質は天下人も同然の存在であった。
晴元が執権北条を己が政権の模範にすると明言した以上、彼が目指す政権もおおよそ見当がつくというものだ。即ち、室町幕府及び足利将軍家の存在は認めながら、それはあくまでも形式的な存在に止め、実権は管領家たる細川家が握る。晴元は、執権を管領に、北条氏を細川氏に変えた第二の執権政治を室町幕府に復活させようとしているわけだ。無論、政権の根拠となる管領職は、細川家、それも晴元嫡流が独占世襲するものとすれば、そのとき、名実ともに管領細川氏による天下が完成する。
「北条は桓武平氏の末裔とはいえ、初代執権の時政の代まではただの伊豆の土豪に過ぎなかった。要するに家格は圧倒的に低かったわけだ。それが偶然頼朝公と出会い、娘政子を嫁がせたために飛躍のきっかけを掴んだ。だが、わが細川は、源氏の名門足利家の血脈を受け継ぐ分家の筆頭。…卑賤の北条如きにできたことを、わが細川に出来ぬわけもない。今の世に執権政治を復活させ、天下に君臨するは、わが細川であり、その細川を統べるのは、この晴元が血統でなければならぬ」
そう言って、常になく自信に満ち溢れた表情を浮かべた彼は、ニタニタと不敵な笑みを漏らしていた。
けれども、そう上手くいくものかと、千熊は内心首を傾げていた。あの当時と今では、時代がまるで違うのだ。時代が違えば環境も異なり、環境が異なる中で昔と全く同じ体制を構築するというのは、果てしなく至難の業のように思えてならなかった。何より、他ならぬ足利将軍家が、管領家の傀儡に甘んじるとも思えない。将軍家には将軍家の権威と地盤があり、零落れたりといえど、無視できぬ勢力を保っている。執権北条が将軍を制御して幕政を専断してこれたのは、幕府内に地盤のない摂家や皇族から将軍候補を招聘したためであり、もしも頼朝以来の嫡流が健在であったなら、彼らもあれほどの権勢を握ることは出来なかったに違いない。
晴元がどういう天下を考えているのか、その本音など、千熊丸に分かるはずもなかったが、ただ何となく、彼の天下は余り長続きしないような気がした。なぜか、具体的な説明は出来ない。あくまで直感に過ぎないが、ただ豪快に高笑いするだけの彼を見ていると、確かにそんな気がしたのだった。
二月。
この頃、細川晴元は堺にいた。細川政権の絶対性を堺衆たちに見せ付けんとする、一種のデモンストレーションを兼ねての逗留であったが、彼自身はそんなことより、堺の豪商たちが常日頃仕入れている南蛮渡来の珍品名物のほうに興味があったらしく、連日、商家を訪れては、あれも欲しい、これも欲しいと、金に糸目をつけぬ買占めに明け暮れていた。
だが…。
全く無防備な状態で、堺に遊んでいる晴元は、彼を憎む勢力からすれば、攻撃するにこれ以上ない絶好機だった。無論、晴元には常に数千規模の兵が従い、側近の三好政長も警戒を怠ってはいなかったが、数多い民衆の中より、自然発生的に現れ出る一向一揆の前には、そうした努力は何の意味もなさなかった。
本願寺証如以下、一向門徒たちの恨みは深い。
彼らにすれば、他ならぬ晴元の要請で元長を討伐してやったという思いがある。それなのに、それから僅か一ヶ月程度で、手のひらを返したように法華宗と結び、攻撃してきたのだ。彼らが怒るのも無理はないだろう。挙句、総本山であった山科本願寺を焼き討ちされ、無数の信徒たちが虐殺された。これで平静を保てる人間がいたとしたら、それこそまさに仏と言えよう。
兎にも角にも、彼らの中に渦巻く怒りや憎しみは、晴元の油断をきっかけとして、勢いよく燃え上がり、そして爆発した。
「…一揆勢が?」
晴元は、一瞬きょとんとした。購入したばかりの南蛮品を愛でながら、心ここにあらずといった様子で、ぼんやりと「一揆勢ねぇ」と呟く彼であった。
「一向軍二万余が、一路堺を目指して進軍しております」
しかし、伝令の告げる詳細なる報告に、彼の顔はどんどん青ざめていった。
「に、二万だと…」
彼とて無能ではない。馬鹿ではないのだ。「二万にございます」と伝令が止めを刺すかのように、言い加えた。
すると、そこに三好政長が慌しく駆け込んできた。晴元の御前に進み出ると、深々と頭を下げ、そして、
「お逃げくださりますよう」
と、言った。
「一揆勢の数はさらに増え、もはや我らの手に負えるものではありませぬ。…ここはひとまず逃げ、再起を期すべきでしょう」
「…逃げる?」
晴元はぎろりと、おぞましき視線を政長にぶつけると、
「貴様は、余に、この余に、逃げよと申すのか?」
ひどく冷め切った、鋭い罵声を思い切り浴びせかけた。
「それ以外手がありませぬ。…残念ながら、一揆勢の勢いは凄まじく…。さ、再起さえ期せば、必ずや倒せまする。それまでの辛抱でござりますれば、ここはお耐えくださりませ」
政長も必死である。こうしている間も、次第に一揆勢は迫ってきている。まともに戦っても勝ち目がない以上は、逃げるより他に仕方がなかった。
政長の必死な態度に、晴元もやむなく頷いた。彼も馬鹿ではないから、彼の言わんとしていることは、重々承知していた。
会合衆(堺の有力豪商たちで作る自治組織)の用意した船に乗って、堺を離れた晴元は、陸地から遠ざかるたびに、自分の天下が壊れていくような、不穏な気持ちに苛まされていた。
一日前まで絶頂にいたはずの自分は、僅か一日で敗軍の将にまで転げ落ちてしまった。砂上の楼閣とはよく言ったものだが、このとき初めて、晴元は自分の立場が実に危ういものの上に成り立っていたことを実感したのだった。
けれど、世の中というものは、実に分からぬものである。生き延びただけでも良しとすべきなのだろうが、晴元はすっかり打ちひしがれたように、穏やかな瀬戸内海の潮風をその肌に感じながら、甲板の上に項垂れていた。
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