【衰運編】第109章 三好義継
三月も終わりに迫ったある日のことだった。
今をときめく松永弾正久秀の居城多聞山に、篠原長房がやってきた。阿波国主三好長治の後見役であり、かつ安宅冬康の補佐役として、三好家の勢力下にある阿波・讃岐・淡路・伊予の四ヶ国に絶大な影響力を行使している実力者は、ほとんど供すら連れず、お忍びで多聞山城にやってきたのだった。
「これは篠原殿。お待たせして申し訳ない」
久秀は「ははは」と高笑いしながら、相も変らぬ禿頭を摩りながら、篠原長房の前に腰を下ろした。
「いや、勝手にやってきた拙者の不手際。弾正殿のせいではござらぬ」
と、長房が言うと、
「左様か」
久秀はクスクスとひとしきり笑った。
多聞山城表御殿内に併設されている茶室は、豊臣秀吉の黄金の茶室とまではいかずとも、十分久秀の贅沢趣味が反映された荘厳な造りとなっていた。
久秀はそれを見せびらかすように長房を連れてくると、
「茶など差し上げよう」
と言って、自ら素早く茶席についた。
「…生憎、それがしは茶は不得手でございますぞ」
「おや? 左様か。それは失敬。故実休入道様は茶道の達人と聞こえておりましたので、その重臣であらせられる篠原殿もまた、茶には通じているものと勘違いいたしました」
「…左様か。だが、生憎、拙者は堅苦しい茶道はどうも慣れんのです」
長房は吐き捨てるようにそう言うと、久秀は思わず苦笑いした。
「ま、ともかく席にお着きなさい。作法などどうでもよろしい。とりあえず、茶など飲みながら、政など語り合いましょうや」
「…承知」
久秀に言われるまま、長房は慣れぬ仕草で、オドオドと茶席に腰を下ろした。
茶室なるものは、実に狭い。窮屈な感じがするので、長房は嫌なのだった。
一方、久秀は武野紹鴎や今井宗休、千宗易(後の千利休)らに時折茶道を習っていたようで、実に手馴れたものであった。彼は素早く茶を点てると、厳かにそれを長房に差し出し、
「どうぞ」
と、しおらしく言った。
「さて、四国のほうはどうなってござる?」
茶を飲み終えた頃、久秀は唐突にそんなことを尋ねてきた。
「順調でござる。阿波は無論のこと、十河家のほうも、存保様の下でとりあえず固まり、四国も着々新体制でまとまりつつあるといった感じですな」
長房は自信満々といった様子で胸を張った。
「ははは、左様か。そういえば、来島城の河野通直が、実質的に臣従なされたようですな。四国における御家の地盤はますます磐石。まさに執着至極に存ずる」
そんな風に、見え透いたお世辞をぺらぺらと吐く久秀に、長房は苦笑いした。
「存保様の下、十河勢が伊予に攻め入りましたからな。存保様はお若いが、これがなかなか、さすがに実休様の御子でござる。養父たる亡き民部殿が武名を決して辱めぬ武人ぶり」
「はっはっは。左様か。だが、それもこれも、篠原殿が存保様の後見の任を勤めておられるからこそでござろう。まずは四国全土を御家のものにして、後顧に憂いなく、畿内制覇に乗り出さねばなりませんからな」
久秀は、ニタニタと笑いながら、
「そういえば、実休様の御正室小少将の方様は、御一族の自遁殿に嫁がれたと聞くが、誠か?」
おもむろに、そんな風に言うのだった。
長房は何も言わず、ふっと苦笑するのみだった。分かりきったことを聞くなと、ジトッと睨みつけているかのような視線に、久秀もまたにやりと不敵な笑みを漏らした。
「だが、小少将の方様はお美しいお方と聞き及ぶ。できうれば、それがしも一度は抱いてみたい…、いや、これは失敬」
「気になさるな。お美しいお方であることに変わりない」
「左様か」
久秀は豪快に高笑いすると、南蛮渡来の菓子をぱくぱくと口の中に放り込んでいった。
小少将の方は、夫たる実休の死後、篠原自遁に嫁ぐことになった。これは、篠原長房が画策し、松永久秀が全面的に支援することで、ようやく成立にこぎつけた、典型的な政略結婚だった。
自遁は篠原家の一族であり、長房の弟とも兄とも言われる。長房より早く長慶に仕えていたが、今ではすっかり彼に追い抜かれ、実質的に長房が阿波の名族篠原家の棟梁の座を占めていた。そんな長房を、自遁は健気に支えている。
ともかく、自遁と小少将を結婚させることで、長房は自らの権力基盤の更なる強化を図ったのである。小少将は、阿波三好家の総帥である長治や讃岐十河家の当主となった十河存保の実母であり、彼女を篠原一族内に取り込めば、篠原家の地位は格段に高まる。そんなことは赤子でも分かる計算だった。
久秀は、長房のために運動することで、彼と強い同盟関係を結ぶことに成功した。四国三好党を実質的に支配している長房と密接に繋がっておくことは、彼の大望を実現する上で、まさに必須事項といってよかった。
「後、問題は少将殿でござるなぁ」
長房がぼんやりと呟くと、
「少将ではない。土佐守だ」
と、鋭い口調で誤りを指摘しつつ、
「土佐守など、もはや問題ではない」
久秀はきっぱりと言った。
「奴は自滅する。そういう筋書きになっている。そして、もう一人の厄介者も、彼と道連れに滅びる手はずになっているのだ」
自信満々といった表情で、ぽんと胸を張る彼に、
「大丈夫だろうな」
と、長房は少しばかり不安そうな顔をした。
「大丈夫さ。案ずるな」
久秀はニタニタと笑っている。長房は、それ以上は何も言わず、彼から差し出された茶菓子などを頬張りながら、ひたすら飯盛山の空を見上げていた。
三月が終わり、四月になった。
三好家の新たな世子と定められた三好義継は、飯盛山城内の西の丸に居殿を与えられ、今はひたすら学問と鍛錬に明け暮れる毎日を過ごしていた。
「若様、若様は必ずや義興様を超える名君にならねばなりませぬよ。それが、三好宗家の跡目となったあなたの責務なのです」
そう言うのは、義継が飯盛山に入って以来、母代わりとなってきた雅の方であった。十河重存と言った頃から、何かと親身になってくれる彼女のことを、義継は実の母のように慕うようになっていた。それゆえに、このところ、兄の範政が政権中枢から失脚するなど、彼女の立場は実に微妙であったが、義継はそんなことなど全く意に介する風もなく、今までどおり、彼女の下に通い続けていたのだった。
春風に浸りながら、爽やかな汗を流す。義継はまだ若い。実父には似ても似つかぬ、端正な優男といった顔立ちの彼は、ニコニコと絶えることなき笑みを浮かべながら、ひょこひょこと雅の方の下にやってきた。
「母上様。義興様とはどういう御方だったのだ?」
義継は未だ、義興と最期に会った日のことを覚えている。それは、期せずして義興最期の日ともなったわけだが、ともかく、最近の彼は、三度の飯より、義興のことを知りたがった。
「うーん。一言で言えば、努力家? かしらね」
「努力家?」
首を傾げる義継に、
「そう。世間は天賦の才と持て囃していたようだけれど、あのお方は父上様の期待に応えるべく、日々精進を重ねて努力を怠らなかった。武芸にしても、学問にしても…。芥川山城で父上様に代わって政務を執られていた頃も、父上様に代わり、御家を支えるのだという理想に燃えて、努力に努力を重ねてこられた…。まあ、行き過ぎの過労が祟って、あんな最期を遂げられてしまわれたけれど」
少しばかり悔しそうな顔をして答える雅の方であった。
「そう、ですか…」
義継はしばらく考え込み、そしてにっこりと微笑んだ。「努力」という言葉が、殊のほか気に入った様子だった。彼はすかさず庭に戻ると、「えい」「やぁ」と、必死になって武芸に励んでいた。
何はともかく、義継は努力の人だった。
そして、優しい男でもあった。
あるとき、こんなことがあった。
「これは、京の菓子にございまする」
西の丸御殿の一角。義継と、西の丸様こと雅の方を上座に仰ぎ、有力な女官たちが勢ぞろいしている。そんな中、運ばれてきたのは昨今、美味しいと専ら評判の京菓子であり、有力公家からの献上品とのことだった。
「美味しそうですね」
雅の方は嬉しそうに微笑み、義継のほうを見た。
「まずは御毒見を…」
それは、別段普通の光景、日常だった。特段、変わったことなどない。美味しそうな献上品を前に、まず女官の一人が毒見する。毒見がすめば、ようやく義継や雅の方も食べることを許されるのだ。
だが…。
今日は、いつもとは明らかに違った。
「うぐぅぅッ!」
毒見役の女官は、激しく嘔吐し、苦しそうにもがき出した。
「ど、毒よ!」
女官たちが騒ぎ始める。
「医者を! 薬師を呼べッ!」
雅の方が怒鳴り、義継は何が何やらさっぱり分からぬといった様子で、きょとんと動揺する世界を見つめていた。
結局、その女官は一命を取り留めたが、問題はそんなことではなく、誰が毒を仕込んだのか。その一点にあるといっても過言ではなかった。
とりわけ、三好長慶は寵愛している養子義継の危機とあって、烈火の如く激怒した。それこそ、毒菓子に関わった者全てを斬罪に処せと怒鳴り散らしていたほどで、安宅冬康や三好康長らが説得しなければ、本当に飯盛山城奥御殿に血の雨が降りかねぬ勢いだった。
だが、ここで動いたのが義継だった。彼は養父長慶の御座所に赴くと、
「此度の事件、それがしの差配にお任せ願いたい」
と、言った。
「お主の?」
長慶はきっぱりとした物言いで迫る義継の堂々たる態度に驚いた。何やら幼い頃の十河一存を見ているような気がしたのである。
「だが、お主はまだ若かろう。…采配が執れるのか?」
「執れまする! それがしは、三好宗家の跡取り…。いや、十河一存と三好長慶の子。天下に聡明と聞こえた三好義興の弟にございます」
「…そ、そうか」
一存の子で、義興の弟。そう言われると、長慶には何も言えなくなってしまった。何より義継の堂々たる態度が、彼には嬉しかった。十河一存の若き頃、そして往時の三好義興そっくりの顔をしていた。
全てを任せられた義継は、毒を仕込んだのが誰なのかということに軸足を置いた捜査を開始させた。それがはっきりとするまで、とりあえず処分は保留状態としたのである。
その結果、毒を仕込んだのは、女官の一人であることが判明した。甲賀辺りの女忍びらしく、あらゆる拷問にかけたが、何一つ吐かず、死んでしまった。結局、黒幕が誰なのか判然とせぬまま事件は幕を閉じることになったのだが、義継はその女忍び以外の誰も殺さなかった。毒入り菓子を献上した公家も、それを義継の御前に運んだ女官、その他一切誰も殺さず、その罪全てを不問に処したのだった。
「殺さぬのか?」
不思議に思った長慶が、そんな風に義継に尋ねると、
「殺しませぬ」
彼ははっきりと断言した。
「そうか」
彼に任せると言った以上、長慶には何も言えなかった。
以来、義継は慈悲深き若様と、その名声と評判を大いに高めることになった。結局、黒幕こそ分からなかったが、この毒菓子事件は、義継の名声を高めたという点で、災い転じて福となったと言えたのだった。
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