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【雌伏編】第010章 炎上本願寺
 天文元年(一五三二年)八月四日。
 堺に布陣中の晴元の下に、一向一揆勢は勢いよく押し寄せてきた。その数は、少なく見積もっても一万は確実であり、下手をすればそれ以上あるのではないかと思われるほどの圧倒的大軍だった。これに対し、迎撃する側である晴元軍はせいぜい三千程度に過ぎない。
「これはまずい」
 晴元は生まれて初めてといっても決して言いすぎではない恐怖を感じた。
 死。というものが、これほど明確な形で彼の前に突き出されたことはなかった。しかし、今の彼は、その死を意識しなければならないほど追いつめられていたのである。
「このままでは、自害せねばならなくなる」
 晴元は不安だった。無論、細川京兆家当主として恥ずかしくない死にざまを遂げたいとは思っているが、実際に死ぬとなると話は別だ。彼はまだ死にたくなかった。
 それでもさすがは天下を支配する細川家といったところか。細川軍の将兵は死に物狂いで防戦し、数にものを言わせた人海戦術を駆使する一揆軍の猛攻を辛うじて食い止めていた。総帥たる晴元も、自ら槍を取り、戦陣に立って戦った。
 苦戦、劣勢…。
 いくら善戦してみても、数に劣る細川軍の旗色は悪い。さすがに晴元も事ここに至っては死を覚悟し、滅亡を意識せずにはいられなかった。
「もはや、これまで…」
 彼は配下に軽く目配せすると、自室に閉じこもって、静かに脇差を引き抜いた。
 死ぬのだ。
 そう思うと、なんとなく辛い。まだまだやるべきことがたくさんあるような気がする。こんなところで死んでいいのだろうか。などと思いながらも、細川宗家の総大将たる自分が生き恥を晒すわけにもいかないのである。見事に切腹し、さすがは細川家の御大将であったと評価される最期を遂げねばならなかった。
 フゥ。
 漏れるのは、小さな溜息。
 晴元はゆっくりと脇差を振り上げる。後は突き刺すだけ。窓から差し込む太陽の日差しを浴びて、きらりと輝く刃先が、何とも言えずおぞましい雰囲気を醸し出していた。
 これで最期。
 晴元は目を閉じる。
 そのときだった。
「申し上げますッ!」
 誰かが来た。見れば、側近の三好政長であった。


 援軍到着!
 これにより細川晴元は九死に一生を得た形となった。
 援軍とは、即ち木沢長政率いる軍勢であり、彼はガラ空きになっていた一揆軍の背後を叩くことで、数に勝る一揆軍を蹴散らしたのだった。
 かくして晴元は寸でのところで助かったわけだが…。しかし、これで戦が終わったというわけではない。堺の攻防戦には敗れたが、しかし一揆軍は依然として圧倒的な勢威を持って畿内全土に君臨しており、晴元政権全体が窮地に追い込まれていることに変わりはなかったのである。
 実際、堺から撤退を余儀なくされた一揆勢は、その後も変わることなく積極的な軍事行動を続けていた。大和はもとより、摂津、山城にも兵を進め、各地で細川方の軍勢と戦った。勝つ戦もあれば、負ける戦もある。しかし一揆軍の弱点は武器と訓練の不足ぐらいなもので、それ以外、即ち兵力も、士気や統制力も、細川方の将兵を遥かに上回っていたから、一揆軍の優勢が覆ることはなかった。

 
 激化する戦乱に対し、人質に過ぎぬ千熊丸にできることは限られている。
 第一、彼は管領御所より外へ勝手に出向くことなど許されぬ身の上だった。また、周りには細川方の目が光り、頼りとなる家臣の数も少ない。晴元はともかく、その側近たる三好政長は、とにかく容赦がなかった。自身の配下を見張りとして配置し、その一挙手一投足を、いちいち監視していた。逃げる気など更々ないが、日々の行動すら縛り付ける厳しさには、千熊もほとほと困り果てていた。
 そういう中では、松永久秀と言う男は、実に使えた。目立たず、素早く、何より賢い。
「文を書きなさい。それを私が届けましょう。法華門徒たちは、それで動きます」
 と、彼は言った。
「若君の直筆ともなれば、法華門徒たちとて、よもや躊躇はしないでしょう。彼らは亡き筑前殿より、事あるごとに多大なる恩義を受けてきたのですから。それに、この私も幼い頃は法華の寺院に修行していたこともありますれば、その折の知己も少々。微力ながらわが人脈と、そして若殿の御文さえあれば、いくら頭の堅い坊主どもとて動かずにはいられますまい」
 久秀はいつものように自信満々だった。一方、千熊も「なるほど」といちいち頷いては、すらすらと筆を進めていった。情けない話ではあるが、それぐらいしか今の自分に出来ることはないのだった。
 捕虜に過ぎない今の自分に、いったい何ができるのか…、なんてことをぐだぐだ考えている暇があるのなら、何でもよいから、実際に行動に移すべきだろう。千熊丸の筆速はいつになく軽快だった。
 とにかく戦乱の激化は、彼の望むところではない。だったらどうするか。一通の文を記すだけで、たったそれだけのことで全てを収束に導けるかもしれないなら、書くだけだ。躊躇う理由がどこにある。また、そのついでに父の仇たる一向宗を踏み潰すことが出来れば、これに勝る悦びもなかった。


 堺は、辛うじて滅びを免れた細川晴元と木沢長政の軍兵でいっぱいだった。
 とりあえず、何とか一向軍を撃退して窮地を脱したものの、根本的な問題解決には程遠かった。一向軍は依然健在で、それどころかさらに勢力を増している。既に大和はとられ、河内や和泉も危うい。摂津もこのままでは一向軍の支配下に収まるのは時間の問題だった。このまま事態が推移すれば、ようやく作り上げた細川晴元政権も、あっという間に崩壊へと追い込まれかねなかった。
「木沢殿、手はないのか?」
 晴元は、懇意にしている豪商武野紹鴎の屋敷の一角に座り込むと、側に控える木沢長政に厳しい口調で下問していた。
「手、と申せば、ないわけではありませぬ」
 彼はニタニタ笑い、そして軽く頭を下げた。
「あるなら早く申せ。…こうしている間にも、一向軍の勢力は日々増している。このままでは取り返しがつかんことになる」
「…されば申し上げましょう」
 と、勿体ぶって言う彼の顔は、おぞましき野心の色に染まりきっていた。
「即ち、法華宗を味方につけるのです」
「法華? だ、だが、奴らは筑前に与力していた奴ら。筑前を滅ぼした余の命に、容易く従うものかな?」
 首を傾げる晴元の顔を、木沢は冷静に見つめていた。
「法華と一向は、いわば累代の仇。その一向宗を滅ぼすための戦となれば、御所様との些細な因縁など忘れましょう」
「…だが、う、上手くいくかな?」
 晴元は今やすっかり臆病になっていた。ようやく手にした天下。作った政権。細川京兆家という超名門一族に生まれながら、熾烈な闘争を経て家督の座を得た六郎晴元という青年の体には、圧倒的な自尊心と自負心が、溢れんばかりに詰まっていた。要するに、名門出身者としての誇りと、自らの力で全てを掴み取ったという自信だ。逆に言えば、今も昔も、彼にはそれしかなかった。だからこそ、彼は崩壊を恐れた。喪失に恐怖した。何より今に固執していた。
 木沢にとっては、そんな晴元の様は滑稽以外の何物でもなかった。けれども口には出さない。顔にも出さない。あくまで表面的には、愚直な忠臣を装っておく。晴元個人はともかく、彼の持つ権力と、晴元政権の強大には平伏さざるを得ない。いずれその全てを自分が奪い取ってみせる。けれど、それまでは、あくまで晴元に忠誠を誓っておく必要性があった。
「…それに関しては問題ありませぬ。既に法華門徒たちの協力は確約してあります」
 と、木沢が言うと、呆気に取られたように、ひたすら驚く晴元であった。
「無論、これはそれがしの独断専行なれば、罪に問われても文句は言えませぬ。されど、せっかく味方とした法華門徒。利用せぬ手はありませぬぞ。彼らさえ立ち上がれば、一向宗などは早急に片付くでしょう」
 木沢長政は、相も変らぬ自信を全身に漲らせて、睨み付けるように晴元の目を見据えた。
「…ま、まぁ、そ、その程度のことで罪に問うほど、余も狭量ではないつもりだ」
 晴元はと言うと、彼の眼光にたじろぎ、時折苦笑いなどこぼしながら、
「よかろう」
 と言って、木沢の示した道、即ち法華門徒との和解を全面的に認めることにしたのだった。


 八月の空も、やがて佳境に差し掛かった。
 木沢長政が策し、三好千熊丸の助力の下、松永久秀が暗躍する形で動き始めた法華門徒は、それまで圧倒的な勢いで、畿内全土を席巻しつつあった一向宗を瞬く間に蹴散らしていった。
 そんな彼らの活躍もあり、やがて、主戦場は洛中へと移った。即ち、各地で一向軍を蹴散らした法華門徒たちは、圧倒的大軍で都に攻めのぼり、その上で洛中に数多の如く存在する一向宗系の各寺院や施設に大挙して押し寄せると、その全てを、悉く壊し、焼き尽くしていったのだった。
 無論、一向宗とて一方的にやられていたわけではない。反撃を期して大軍を編成した彼らは、八月十九日に都を目指して進軍を開始し、ついに山崎まで迫った。かくして迎撃に打って出てきた法華軍との間で凄まじき激戦となったわけだが…、しかし数に勝り、かつ都を制したことで意気上がる法華軍の厚き壁を突き破るには至らず、撤退を余儀なくされていた。
 挙句、こうした細川・法華連合軍の圧倒的優勢の流れを受け、かねて一向宗の隆昌を疎み、妬んでいた比叡山延暦寺や、一向門徒の蠢動に頭を痛めていた六角定頼などが続々と一向討伐の兵を興したので、八月も半ばを迎えた頃には、一向側の敗勢は決定的な流れとなっていたのだった。


 そして八月二十三日。
 一向宗の総本山たる山科本願寺を、細川晴元、六角定頼、法華門徒、延暦寺衆徒など総勢四万の大軍が取り囲んだ。
 このとき既に、洛中及び周辺地域は悉く連合軍の支配下に入っていたが、難攻不落の要塞と化していた山科本願寺のみは、陸の孤島の如く、ずっと頑強に抵抗を重ねていたのだった。しかし、各地の与党が次々と討伐され、山科御坊が正真正銘、陸の孤島と化した今、如何な難攻不落の堅城に立て篭もっていようとも、本願寺側に勝機などあろうはずがなかった。


 八月二十四日。
 細川晴元は、山科本願寺に程近い清水寺に陣を敷き、続々と舞い込んでくる報告に耳を傾けていた。厳かな甲冑を身に纏って、如何にも万軍の総帥といった風格を醸し出している彼は、床机の上にどっかりと腰をすえて、時折小さく溜息などを漏らしていた。
「…で、山科は落ちそうか?」
 晴元が問う。すかさず、
「脱走兵も相次いでいます。総攻撃の御下知あらば、半日もせず落城するでしょう」
 と、越前守政長が答えた。
 不思議なものである。晴元は、ふと、そんな風に思った。
 僅か半月前、自分たちは極端な劣勢に立たされていた。怒涛の如く押し寄せる一向軍のために、堺にまで追い詰められたこともある。だが、今やそれが遠い過去、夢幻だったかのように、今度は自分たちが一向軍の、それも総本山を包囲して、その滅亡を勝者として眺められる立場にいた。
 全ては法華門徒のおかげだと思うと、晴元は余り心地よい気はしなかった。けれど、これで当面の危機は去った。元長粛清に始まる一連の騒動も、ようやく収束するのだ。即ち、これで自分の天下はより磐石なものとなる。
「越前、全軍に命じよ」
 連合軍盟主として、晴元は言う。政長以下諸将は恭しく平伏し、そしてその命を待った。
「これより直ちに総攻撃を開始する。山科を一挙に攻め落として、必ず将来に禍根を残すな」


 千熊丸は晴元の勧めで、山科本願寺を取り囲む木沢長政の軍勢に従軍していた。今風に言うところの観戦武官的な立場であるが、とりあえず軍監の肩書きで、木沢の側に侍っていた。
 そして、彼はこのとき初めて戦というものをその目で見たのだった。恐るべき紅蓮の炎が、この世のものとも思われないような大寺院を猛然と飲み込んでいく様は、無垢な少年にとって果てしなく大きな衝撃であった。
 盛大な仏教寺院群を構成する御堂や伽藍などが、哀れなほど無惨に、そしてあっけなく崩れ落ちる様を見て、千熊丸の全身は、途端ぶるぶると震えだした。恐怖からなのか、それとも武者震いなのかは、彼にもわからなかった。けれど、自らの目の前にて阿鼻叫喚の地獄絵図にも似た惨劇が繰り広げられていながら、少なくとも、それが酷いことだとは思わなかった。
 これが乱世なのだ。
 少年は実に素直に、眼前に広がる現実を受け入れていた。
「これが戦だ。分かるかね、千熊丸殿?」
 木沢長政は、そう言ってカラカラと笑った。
「坊主だろうと、女子供だろうと、戦に関わったからには容赦なく死んでもらう。それが戦国の倣い。例外はないのだよ」
 そんな風に一人呟き、高笑いする木沢を、千熊はジトッと見つめていた。
 その間も、連合軍の容赦ない総攻撃を受けて、完全に炎上した山科本願寺は、既にこの世の地獄と化していた。僧侶やら女子供の泣き叫ぶ喚き声が、あちこちにけたたましく轟いている。人が死に、人が殺す修羅の世界では、人はもはや人ではなく、鬼も同然だった。そんな様を、千熊は遠目に、しかし確かにその小さな眼で眺めていた。
「それはそうと、千熊殿には感謝せねばならんな」
 と、木沢は唐突に言った。
「感謝?」
 千熊が首を傾げると、そこで木沢はようやく薄汚い笑いを止めた。
「左様。貴殿が認めてくれた書状のおかげで、法華門徒を動かすことが出来た。此度の戦功は悉くわしのもの。…礼を申すよ。ふふふ。それでこそ、お主の命を助けた甲斐があったというものだよ」
 などと呟きながら、彼はにんまりと、不気味なほど不敵な笑みを漏らしていた。
 そんな彼に対し、千熊少年は何も言わず、ただずっと、じっと、ぎろりと見つめていた。
 だから何だ!
 そう言わんばかりの、少年の好戦的な瞳に、木沢長政は面白くなさそうに、フンと鼻で笑うだけだった。
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