第一章・第四話 リスクードの湖畔10
彼女が瞳を伏せていた時間は、まるで永久にも近いものだった。
後悔と自己嫌悪、そしてギガルデンへの怒りを完全に収めるまでしばらく不動になり、ピクリとも動かなくなった。呼吸すらもしていないのではないか、というほどに。
「あ、ある…じ?」
びくびくと、ただの小娘に怯える竜族の姿など、一体誰が目に出来るものだろう。しかし現に、その様を目の当たりにしている場の者たちは、異様な光景を眼前に瞬き一つすることもままならなかった。竜族である彼の怒気と、そしてその彼が畏まる人間の少女が醸し出す異質な空気に呑まれて。
自由奔放、唯我独尊。プライドが高く、勝手気ままに生きる竜族のこれほどまでに殊勝な態度に、それでも由那はいつもの笑みを浮かべない。ただひたすらに瞳を閉じたまま時が流れゆくのを感じている。
どれ程の時が経過したのか。それは一瞬だったかもしれない。しかし永遠に相当する長い長い時間が流れた。
ふわりと穏やかな風が髪を揺らしたとき、由那はようやくゆっくりと、まるで深い眠りから覚めるかのように重たい瞼を持ち上げた。
ギガルデンが気がついたときには、もうその漆黒は彼へと向いていた。
「ギール」
紡がれた言葉は意外と柔らかく、さきほどまで無表情に近かった顔色はいつもの穏やかな微笑みが浮かんでいた。
すっと伸ばされた両手は、彼女のよりやや高めのギガルデンの両頬へと宛がわれ、先ほどの衝撃で赤くなった頬を労わるように優しく、癒すように包みこむ。温かな感触に瞠目するギガルデンに、応える由那の視線はどこまでも優しげだ。
「辛かったね。とても、とても辛かったね。すごく苦しかったよね。悲しかったよね。…ごめんね、ギール。ごめんなさい」
笑みを深くして小さく首を傾ける。身長的に由那がギガルデンに抱きつく形になったが、それは彼女がギガルデンを抱きしめているようだった。
優しく慰める労わりの言葉。慈愛に満ちたささやきに促されるようにして、彼の表情がくしゃりと歪んだ。
「…っ、…エルグイン…!」
奥歯を噛みしめ、必死に耐えていたギガルデンはしかし、優しく頭を撫でる感覚に耐えかねて嗚咽を零す。
肩口に顔をうずめて咽ぶ彼の震える背を撫でながら、温もりに自らもすり寄るようにして、由那はギガルデンの悲しみを受け止めていた。
「怪我はありませんか?」
ようやく落ち着いたギガルデンから離れ、事態の確認をするべくフィスフリークたちの方へと歩み寄る。目の前で起きた事態に、呆然と放心状態の彼ら、特に相対していた少年を何よりも心配する。
「すみません。ちょっと失礼しますね」
しばらく待ってみても返答がために強硬手段を取る。さすがに現状で平静でいられる強靭な精神力を持った人間などいようはずもないのだから、と無遠慮ながら由那は少年の肩にまず触れる。
「!!」
「じっとしていて下さい。何も危害を加えようとしている訳じゃありません」
「そっ…わ…。そ、それは分かっている。そうじゃなく、俺はその、怪我などどこにも負っては……」
だから手を離せ。とでも続くように顔を背けた少年の言葉に、しかし由那はまったく気にした様子はなく、依然として少年の腕や腹部、背中などを確認していく。
ぽんぽんと全身を探り、負傷箇所を確認していた由那の手がちょうどろっ骨あたりを捉えた瞬間。
「…っ、いっ!?」
全身が痺れたように声を詰まらせ、少年は苦い表情をあらわにする。
「ほら、やっぱり怪我をしていますね。他にはないですか?」
「大丈夫だと言って……いって! …いってぇっつうの!」
「え? ああ、ごめんなさい。でもどこを怪我しているか確認しておかないと、治すとき余計に手間がかかってしまうので」
くわっと噛みつく少年をさらりとかわし、マイペースかつさらりとひどいことを言いながら治療箇所の断定を進めていく。今探った中ではとりあえず肩のすり傷、ろっ骨の骨折、そして腰の傷くらいだろうか。
ぐい、と右足のふくらはぎ辺りを押す。その少年の反応に、終始穏やかだった由那の表情が激変する。同時に、照れくさそうな不機嫌そうな少年にも異常が生じた。
「が…はっ…!」
「!? ギール!」
途端、吐血した少年に、鋭い声でギガルデンを射抜く。
それまで所在無げに不安定な表情を晒していたギガルデンも、さすがに険しい表情に変わった。
「あなたの友人とやらは、なんて厄介なものを残してくれたのかしらね!」
苛立たしげに少年の足に浮かび上がった印を見つめる。実に忌々しそうに顔を歪める。
黒と青で描かれた複雑怪奇な印。細部まで解読する時間はほとんど皆無だが、恐らくこれは呪いに近い。相手を遠隔で殺すための印が少年の足に絡みつくように光り出す。
由那が触れたことで力が干渉してしまったとはいえ、いくらなんでも発動が急激すぎる。これはどちらかというと相手をじわじわと蝕んでいくタイプの印だ。恐らく術者が死んだことが異常反応を引き起こしてしまったのだろう。本当に、まさしく呪いの類だ。
「くっ…、解除する時間が足りない! ギール、あなたは血を。シャオ、あなたは爪を。お願い!」
『うむ。だが我の場合は唾液の方がよかろう』
「じゃあそれを。ギール、あなたも早く! 今は四の五の言っている場合じゃないでしょう!」
彼が友人の敵だろうが、胸の内に溜めに溜めた文句もろくに言わずに見捨ててしまってもいいのか。そう由那はギガルデンを急かす。
こちらは本当に緊急を要している。もう力を隠すだの、正体を隠すだのと言っている場合ではない。
「…ちっ。…ったく。わーったよ!」
ぴっと爪ですばやく手首を切りつけ、その血を印の中心に落とす。シャオウロウもまた同じく。
「よし。じゃあ、始めます」
呼吸困難に陥っている少年を見つめ、由那は一つ息を吐く。ぱんと両手を合わせ鳴らし、気合を込める。
印に手をかざし、天を仰ぎ見るように詠唱を紡ぐ。それはまるで神への祈りのように厳かで、神秘的な雰囲気を醸し出す。
「銀の脈動。紅玉の業火。結ぶは己が息。
時の絡み。逆行せし流れを遮り、導きを断絶する。その歩み、即ち全の行方は我なり。
掌握。支配。蹂躙。統べる干渉を解放し、光陰の癒しを捧ぐ」
詠唱に呼応するように光り出す印は、漆黒の輝きが次第に白く、より透明に色が抜けていく。まるで印自体が浄化されているかのように。
透明になりつつある印はその円の外側から徐々に崩壊し、そして霧散する。印が消えるまで冷静に見つめていた由那は、落ち着きを取り戻した少年の呼吸を確認すると、ようやくほっとした表情をになる。素早く要所を見て取り、傷の確認も忘れない。
彼を侵食していた竜の爪痕は恐らく取り除けたはずだ。爪痕といってもそのままの意味ではなく、殺戮に狂った竜エルグインがその身を滅ぼした者へ掛けた最期の抵抗のようなもので、恨みがこもっている分効果はしつこく、解除に緊急を要した。もしかしたらと言わず、由那が解かなければ確実に彼の命に関わるものだった。
「…よかった。無事完治したみたい。
大丈夫ですか? もう苦しくはないと思いますけど、他に痛む所はありますか?」
さきほどまで息が苦しく呼吸困難なるほどに重く、足を千切られんばかりの痛みが一瞬にして解放されたこと、各所の傷という傷全ての痛みが癒えていることに呆然と自らの体中を探っている少年。一体何が起こったのか分からないといった様子だ。
そんな彼を見、もう大丈夫そうだと判断した由那は安堵する。静かに見つめる漆黒に、少年が小さく首を振ったのはすぐあとのことだった。
「そうですか。でも体力、そして気力もだいぶ消費されているはずです。早くしっかりとした治療を受け、そして十分に休息を取るべきですね」
忠告をした途端、眠気を覚えたように瞼を重くする少年。一瞬目を細めると由那はぐるりと周囲を見まわし、視線を合わせたシャオウロウに命ずる。
「シャオ。彼をそうね、私たちが借りている部屋に運んでくれる?」
『む。こやつを、か?』
「ええ。お願い」
拒否を一切受け付けない表情。協力を乞う言葉とは裏腹に、目がやれと如実に語っている。
『…承知した』
「あ。行くなら、下に降りて窓から入った方が早いからね」
『………』
本来ならば医務室へ運ぶべきだろうが、ギガルデンが振りまいた殺気に城の者たちが無影響なわけがない。これから医務室は戦場となるだろう。
それならば静かに休める、由那たちが借りている客室の方がゆったりと静養することが出来る。
彼の怪我はすべて由那の力で治療済み。今の彼に必要なのは、術の影響で消耗した気力、そして諸々で消費した体力を取り戻すこと。つまり、十分な睡眠だ。
「シャオはそこでそのまま待機。あ、それと、荷物から青い小瓶に入ったハンナさん特製の煎じ薬を飲ませてあげて」
この城へ来る際に投げ捨てた荷物。それはあの後に開かれた晩餐会の時にシャオウロウに取りに行ってもらっていた。その後に色々と整理したので、小瓶はすぐ見つかる場所にある。
『…仕方あるまい』
ギガルデンの殺気にやられ、なおかつ見知らぬ飼獣が場内に進入している様を見られたらどうなるか。そのことを危惧する由那の意図を素早く汲み取ったシャオウロウは、しぶしぶ頷く。
彼は見た目大型の狼であり、そんな彼が唐突に現れれば、女性などは悲鳴を上げて倒れてしまってもおかしくない。まだ由那の存在も城の使用人たち全員に行き渡ってはいないだろうし、これ以上の混乱を招く真似はすべきではない。
「噛みついたりはしませんから、安心してください」
「そんな心配はしていない。飼獣など、俺は乗り慣れている」
顔色悪く、近づく白い飼獣を見つめる少年を宥めるつもりで声をかけたのだが、逆に軽んじられたと勘違いされてしまったようだ。ムスッとした少年の声音が返ってくる。
「じゃあ大丈夫ですね。シャオ。お願い」
目線を合わせ頷くと、それを合図とするようにシャオウロウは少年を乗せる。大口を叩いても恐々と跨る少年を背に、心底不本意なシャオウロウはひらりと階下へ降りて行った。
「さて。残るは後処理だけね」
優雅に中空を駆けて行った霊獣を暫し見つめながら、由那は一瞬含んだ笑みを覗かせる。だが振り返った彼女は、その表情を完璧に消し去る。そこに張り付けているのは、いつもの微笑みだ。
だからか、少し違和感を感じたフィスフリークがその雰囲気と由那を結び付けることはなかった。
視線の合ったフィスフリークに微笑みかける由那。ギガルデンにお灸を据えるのは彼女の仕事だが、後のことは彼の管轄。もうお役御免だろう。
これからは彼の采配を存分に拝見させてもらうことにしよう。
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