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水溜りの秘密
作:谷川修一郎


 良く晴れた日の水溜りには天国が映るのだと教えてくれたのは、十年前に他界した父方の祖母だった。そんなわけがないと私は内心で馬鹿にしていたけれど、今ではちょっとだけ信用しかけていたりする。
 というのは、もうすぐ四歳になる息子が書いていた一枚の似顔絵のおかげだった。
「誰を書いているの?」
 私がそう訊ねると、息子は、ひいおばあちゃんだと答えた。そう言われてみると、垂れ目で温和そうな面持ちがなんとなく祖母に似ていた。
「でも、曾お祖母ちゃんなんて見たことないでしょう?」
 そうだ、祖母は息子が生まれるよりもずっと前に死んでしまったのだから。写真を見せた覚えもないし、そもそも祖母の写真が私たちの家にあるのかどうかも分からなかった。「あるよ」
「どこで?」
「うちの前の水たまりで」
 それで私は、昔祖母に聞いた話を思い出したのだ。良く晴れた日の水溜りに映りこむ天国の様子はどんなに頑張っても想像できないけど、なぜか心がうきうきし始めていた。
「じゃあ見に行ってみようか」
 息子は自慢げに大きく頷いた。考えてみれば、秘密の場所へと案内してもらうのはそれが初めてのことだった。息子は私の手を引いて、こっちこっちと玄関へ向かう。私は散らかしっぱなしの玩具に何度も躓きながら、なんとか転ばないようにして引っ張られていく。
 脱ぎ捨てられたままの長靴は横倒しになっていて、水も滴っていた。おそらくは中もぐしょぐしょだろう。そう思って手を入れてみるとやはり湿っている。私は別のを履くように息子を宥めたが、息子は頑として譲らなかった。
「長ぐつじゃないとダメなんだ」
「でも、こんなに濡れた靴を履いてたら風邪ひいちゃうよ」
 母親ぶるのは苦手だった。母親になった今でも、あまり実感はない。おしめを換えても、おっぱいをあげても、それでもやっぱり母親になりきるのは難しい。
「ねえ、どうして長靴じゃないと駄目なの?」
 私は中腰になって、息子の目を覗き込む。
「水たまりにマルをつくれないでしょ」
 マル。いったい何を指しているのだろう。良く分からないけれど、祖母と会うのには長靴が必要らしい。やれやれ。折れるのはいつも私のような気がしてきた。
「じゃあ、帰ってきたらすぐにお風呂に入るよ。約束できる?」
 息子は大きく頷くと、腰をかけて不器用に片足ずつ長靴を履いていく。冷たいと言っては可笑しそうに笑っていた。
 玄関を抜けると、燦燦と初夏の日差しが降り注いでいた。乾き始めているアスファルト道には点々と水溜りができていて、小さく眩い光を映しこんでいる。さて、このうちのどれが天国へ繋がっているのだろう。
「こっちこっち」
 息子が家の前の道路に立って、私に手招きをしていた。
「危ないよ。車きてない?」
「大丈夫」
 家の前とは言っていたが、天国という言葉がちらついていたので、私はしっかりと施錠をすることにした。水溜りに祖母が映ったなら、話したいことが山のようにあった。結婚をしたこと、息子ができたこと、話題が尽きるような気はしない。
「ねえ、どれが曾お祖母ちゃんの水たまりなの?」
「あれだよ」
 息子は、アスファルト道にできた水溜りの中でも一番大きなものを指差して言った。
 期待に胸を躍らせて近づいてみたが、何のことはない、普通の水溜りだった。
「ひいお祖母ちゃんいないね」
 そこに映っていたのは真っ白い雲、それから眩いばかりの太陽がぽかりと浮いているだけだった。なあんだ、天国なんか映っていないじゃない。落胆しかける私をよそに、息子はなにやら呪文めいたものを唱えている。耳を澄ますと、どうやら誰かと話しているようだった。
「誰と話しているの?」
「ひいおばあちゃん。お母さん連れてきたよ、って」
 しかし、水溜りには祖母が映っているような気配はないのだった。
「お母さんには見えないわ」
「ちょっと待ってね。今見せてあげるから」
 言うなり、息子は青い長靴で、すっと水溜りの中央に歩いていった。なるほど、マルというのはその一踏み一踏みが作り出す波紋のことだったのか。確かに、映りこんだ空へと綺麗な輪を描いている。
 そのとき、一瞬だけ波紋の中に祖母の顔が見えた気がした。いや、きっと気のせいだろう。そう思って瞬きをしたら、もう何も見えなくなっていた。
「ねっ、ひいおばあちゃんでしょ?」
 息子は無邪気に笑っていた。
 不可思議な体験だったが、後で旦那に話したら笑われた。
 そんなことあるわけがないだろ。お前まで何言っているんだ。などと散々言われたけれど、私は決して悪い気がしなかった。旦那に内緒で、息子と秘密を共有できたのが妙に嬉しかったのだ。
「白日夢だ。二人して同じ夢でも見ていたんじゃないのか?」
 旦那はそう決め付けて、ビールをやり出した。
 さあ、それはどうだろう。少なくとも、ひいお祖母ちゃんなんて言葉を、私は教えた覚えがなかったのだから。














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