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神影の彷徨 作者:ゆちゃあ
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第六話 少女達 / 5




 体にかかる柔らかな負荷を感じて私は目を覚ました。目を開いていつもと違う天井をしばし見つめた後に、自分が今朱水の家に厄介になっている事を思い出す。カーテンの隙間からは誘惑の日が零れ落ちていた。
 体を起こそうと力を入れるがどうにも持ち上がらない。その理由は何かと顔を左右に傾けてみるが布団の上に何かが載っている訳では無かった。金縛りか何かかと思ったが、私の左側の布団が大きく膨れている事に気付くと、就寝前の出来事が頭中に再来した。自由に動く右手を使って布団を押し退けると私の左腕に絡まっている物が確認出来た。勿論一緒に寝ていた由音ちゃんだった。
「由音ちゃん……おはよ」
 私は返事の期待できない挨拶を呟きつつ、剥いだ布団を彼女の頭だけが出る様にかけ直す。まだ夢の中にいるあどけない顔した少女は私の左腕に抱きつく形で寝ていた。彼女の膨よかな胸は規則的に動き、少しだけ開いた唇は時折わずかに動いて音にならない言葉を呟いている。何と心温まる寝顔なんだろうか。

 寝ころんだまま一度大きく伸びをするとドアがノックされる。

 私はその時自分が目を覚ました本当の理由を悟った。きっかけは足音だろうか、それとも第六感だろうか。どちらにせよこれから起こる事件の要因の一人が今ドアの前にいるのだった。事件の予感で私は目覚めたのだろう。因みにもう一つの要因は私の横で既に丸まっている。
「有様、おはようございます」
 家で聞き慣れた言葉がこの屋敷でも響いた。私は返事をしなければという焦りを持ちつつも、左腕にかかる柔らかな重みを思うと先に言葉を考える必要があるのではと考える。要するに言い訳のことだね。
「……失礼します」
 二度目のノックは無く、部屋のドアが開けられた。彼女は私の顔を見ると少しだけ表情を和らげ、そして直ぐにいつもの何所か不機嫌そうな顔に戻った。
「起床される時間を事前に知らされていなかったので有様の休日での起床時間に参りました。朝食の用意が出来ております」
 首を彼女、椒ちゃんのいる方向とは反対に向けて時計を確認すると、なるほど確かに私が日曜に起きる時間くらいだった。
「おはよう」
「はい、おはようござ……います」
 椒ちゃんは挨拶半ばで何かに気づく。もっとも、気付かない方がおかしい状況であるが。何せ私の頭すぐ横にもう一つ頭があるのだから。お互い目を合わせれば自然ともう一つの頭が見えるってものだ。
「…………」
「……こ、これはね、えっとね、そのね、えっとね、」
 椒ちゃんはみるみる攻撃色に目を光らせ始める。私は混乱した頭の中から何とか言葉を引き抜こうと努力するが、殺気立つ椒ちゃんを視界に収めている状態では無理な話だった。
 靴音を大きく鳴らしながらベッドに勢いよく歩み寄る椒ちゃんを私は茫然と眺めるしかなく、彼女が布団をこれまた勢いよく剥ぎ飛ばすのもお行儀良く待つしかなかった。私がさっき布団を剥がした時とは比べ物にならないくらい乱暴な行為であったので、流石に由音ちゃんも目を覚まし、瞼をこする。
「ん……おはようっす」
「ええ、おはようございますっす!」
 椒ちゃんは私の方など一瞥もくれず、由音ちゃんの眼前に乗り出し殺気だった微笑みを浮かべる。
「どうしてこちらに菅江様がいらっしゃるので?」
 声色が大分低くなってしまっている椒ちゃんは襟首を掴もうとしている両手を抑えるかの様にシーツを握り込んでいる。
だが笑顔、なので怖い。
 そしてそんな椒ちゃんを前に由音ちゃんは余裕のあくびをかます。
「どうして……あーそりゃ一緒に寝たからっす」
「…………潜り込んだなどでは無く合意の下でという事ですか」
 ええ分かりました、と小さく頷きながら今度は私に向かって睨みを利かせる椒ちゃん。
「大変仲がおよろしい事ですね」
「いや、そのね、由音ちゃんの話し相手になっていたらいつのまにかそのまま寝ちゃったみたいで」
 これは当然嘘だが椒ちゃんの剣幕を少しでも和らげようとするには必要な方便だった。
「ならそういう時は事前に私でも椚でも呼んでくださいまし。責任持って丁重に部屋まで運びますから」
 丁重という所を強調したその言葉は赤い目から放たれる気に比べたらまだ大人しかった。睨みは自重せずに敵意を私に与え続けている。正直噛みつかれそうで怖いくらいだった。
「御主人様の屋敷で破廉恥な事をなさらないでくださいますか?」
 破廉恥とまで言われてしまったが反論するだけの勇気は私には有らず、ごもっともですと首肯せざるをえなかった。
「以後気をつけます……」
「ええお気をつけくださいまし。もし私で無く御主人様でしたらどんな事になっていたでしょう」
 朱水だったらかぁ。朱水の場合は自分も由音ちゃんと寝たいとか言いだしそうな気がする。あの人ってば私だけに意識を集中させている訳じゃないから……。まあ私も人の事は絶対に言えないけどね。
 私が独りで結論付けていると由音ちゃんが火にガソリンを注ぐかの如き言葉を漏らす。
「もしかして椒さんも有君と寝たいんっすか?」
 椒ちゃんはその言葉に一瞬固まるが、見る見るお顔を赤くさせて後ずさった。
「じょ、じょーだんじゃありませんっ! 私がそんな破廉恥な行為を望む訳ありません」
「女同士で寝たくらいで破廉恥ってちょっと過剰すぎるっす。自分はよく鏡先輩と寝ますがおかしな雰囲気になった試しなんて皆無っす」
 まあそれが普通なんだろうけどね。しかし椒ちゃんは納得できない様で床に目を伏せたまま黙りこくる。拳を力強く握っているその姿は痛ましく、私はいても立ってもいられず椒ちゃんに近づく。椒ちゃんは私が近づくのを察知して一瞬だけ逃げようとしたが再び目を伏せて留まってくれた。
「椒ちゃんは朝ご飯食べちゃった?」
 彼女の事だ、ここで私が謝ったりしたらそれこそ燃え上がるだろう。ならば私が取るべき行動は一つ、椒ちゃんと由音ちゃんを一刻も早く引き離す事だった。
「……私はこの屋敷では朝食をとりません」
「それって規則なの?」
 椒ちゃんは私の目を見ると首を左右に振った。
「なら用意して貰おうよ。私から梧さんに頼むからさ」
 しかし椒ちゃんは迷っているのかあまり良い色を示してくれなかった。そこに思いもよらない手助けが入った。
「用意して貰う必要は無いっすよ。恐らくですが私の分も朝食は用意されている筈ですから、椒さんは有君と一緒に私の分を食べてください。自分は後でも構わないので」
「そうなの?」
 椒ちゃんは私の問いに小さく頷いた。由音ちゃんがあんなに大人な対応をしてくれるとは思わなかったため驚いたが、折角の好意を無駄にする訳にはいかないのでこのまま押し切る。
「由音ちゃんもああ言ってくれているんだし、一緒にご飯食べよ? ほら、私達って毎日顔を合わせて食べているでしょ。だから一緒に食べないと一日が始まった気分になれないと思うんだ」
「……分かりました。有様がそうおっしゃるのなら」
 椒ちゃんは目から攻撃色を失い、手を口に当てて小さくだが応えてくれた。
「ん、それじゃ顔洗って着替えてから向かうから待っててね」
 椒ちゃんの気が変わらない内にと、私は急いで廊下に出てトイレに向かう。しかし廊下に出て数秒後に結果的に二人を一つの部屋に残してきてしまった事に気付く。だけれど平常の雰囲気に戻った椒ちゃんと、元々実は大人な由音ちゃんとなら衝突は無いだろうと自分に納得させた。納得しなければいけないと言ったものか、このまま部屋に戻った所で何を変えられるのかという意見が脳内に生まれたのだった。私に出来る事はいち早く用事を済ませ、体を二人の前に置く事なのだろう。



 トイレから戻ると二人は意外にも私のベッドに腰掛け隣り合っていた。その光景を見た私は入り口で固まってしまい、二人の目が私を射抜き続けていても暫らく動けずにいた。私がいつまでも凍ったままでいる為、不審に思った椒ちゃんが私の目の前に来るとやっと言葉が喉を過ぎてくれた。
「どうしたの!」
「どうしたって……それは有様がかけられるべき言葉でしょうに」
 いやまあその通りなんだけどね。それでも私が出た時と帰った時でのこの雰囲気の違いと言った物は、誰にだって私と同様の反応を要求すると思うんだよね、お姉さんは。一体何があったのだろうか……しかし折角の雰囲気を壊す訳にはいかない為、悔しくも放っておくしかないのかな。

「じゃあ朝食行ってらっしゃいっす! 自分は後からゆっくりと頂くっす」
 私の背中を押す由音ちゃんはウインクを浴びせて廊下へと私を力いっぱいに運ぶ。それに釣られて椒ちゃんも廊下へと進む。しかし振り返ると由音ちゃんはドア枠を挟んで部屋の中にまだ立っていた。
「もしかしてかもしれず、菅江様は有様の部屋で時を過ごそうなどと考えていやがりませんよね?」
 私が由音ちゃんの行動にただ首を傾げていると、椒ちゃんは大変苛立ち極まった様子で問いただした。その今にも噛みつこうと威嚇している犬の如き姿勢に対し、由音ちゃんは一切の焦り、怯えを抱えずにケロリとしていた。経験なのか性格なのか、とにかく由音ちゃんは基本的に強い子の様だ。そう考えると由音ちゃんを怯え泣かした朱水の変身は、分かる人にとっては最大級の恐怖だったのだろう。私はただただあの姿に見とれていたけど。
「大丈夫っす。物色したりしませんって」
「当たり前です! その様な行為をした暁にはとっととこの屋敷から追い出してさしあげます」
「まあ由音ちゃんなら大丈夫だよ。ほら行こう」
 由音ちゃんの首に手を伸ばしそうな椒ちゃんの手を掴んで食堂へと歩を進める。さっきの落ち着いた雰囲気は何所へ行ったのか、いつもの二人に戻ってしまっていた。
「よろしいのですか? あの人絶対いかがわしい思いを持っていますよ」
「大丈夫だって。由音ちゃんは意識的に他人に嫌われる真似はしないと思うよ」
 度を過ぎたコミュニケーション以外はね、と言いたくなったがそれでは椒ちゃんを抑える力が弱まるので口を結び付けておこう。椒ちゃんは私の意見をしぶしぶと飲みこんでくれたのか、最初は止まりがちだった足を今では円滑に動かしてくれている。
 長い廊下を私達は隣り合って歩いていた。朝の陽射しが窓ガラスを通して私達に降り注ぐ。椒ちゃんの香りが私の鼻をくすぐり、ここに来て初めて二人だけになった事に気付かされた。
私は本能のままに足を止めた。
「忘れ物でしょうか?」
 私の顔を傾げて覗くその可愛らしい少女は私に合わせて足を止める。ツンツンと跳ねた横髪が今日も元気に揺れている。
「忘れ物、そうかもね」
「私が取ってきますよ。有様は先に食堂へ……」
「ううん、大丈夫。忘れ物は目の前にあるから」
 彼女は困惑色を浮かべた瞳で立ちつくす。私はそんな彼女に向けて忘れていた言葉を投げかけた。
「おはよう、椒ちゃん」
「はい……おはようございます……?」
 椒ちゃんはこれで私から二回おはようと挨拶をされた事になるだろう。だけど本当の『おはよう』は今回が初めてなんだ。目をしっかり見て相手の存在を確かめて、何より挨拶したいという気持ちから出た言葉、意味のある言葉だった。
 椒ちゃんの困惑いっぱいの表情が面白おかしく私は隠しきれない感情をクスクスともらしながら先を歩く。椒ちゃんは不思議と私に対して怒りはせずに少しだけ速足な私について来てくれた。ガラス越しの朝世界は美しく、自分がどうしてこの屋敷にいるのかを少しだけ忘れられそうだった。



「分かりました。菅江様の分は急いで作りますので」
 梧さんは由音ちゃんの案を二つ返事で受け入れてくれ、直ぐに台所の方へと戻っていった。椒ちゃんも彼女を追って台所へと消えていく。独りポツリと残された食堂のテーブルにはフランスパンとチーズオニオンサラダ、それに緑白色のスープといった朝食が三人分置かれていた。ああそうか、アイシスの分か。なら誰かがアイシスを迎えに行っているのだろうね。
 スープから立ち上る湯気が食欲を誘うのだがアイシスが来て椒ちゃんが帰ってくるまでは手を付けるわけにいかず、かといって席に座って目の前の食事をお預け食らうのも耐えがたいため、私は朝飯前の散歩としてテーブル周りをぐるぐると歩いた。絨毯の赤さが起きたての目に眩しいが、ここにはこれ以外にも視線を奪う物が多々あって時を潰すには十分だった。暖炉には一応一式が揃っていたが煤汚れ等が無いため恐らく飾りとして設置されているだけだろう。その煉瓦組の段上には綺麗に輝いている紫水晶の群塊が大胆に置かれていた。その長さたるや私が両手を伸ばしてやっと勝てる位の長さである暖炉より少しだけ短いといった物だった。加工された物では無く天然のままで置かれているそれは、オブジェクトながら見る者に己の気高さを語りかけていた。
 数々の調度品を誰の目も気にせずに間近で鑑賞できる折角の機会だからと惜しげも無く注意を無機物に注いでいたため、真横に椒ちゃんが立っている事に気付くまでに結構な時間がかかった。椒ちゃんは私の姿をどんな目で眺めていたのだろうか……今注がれている胡乱(うろん)な視線が答えを教えてくれている様な気がしたが何も考えないでおこう。悲しくなるもんね。
「お待たせして申し訳ございません」
「いやいやいやいや」
「では朝食を頂きましょうか」
 冷ややかな笑みを浮かべながら私の顔から右に大きくずれた位置を注視している椒ちゃんは、手を朝食の前に置かれている椅子に向けて着席を催促する。私はそれに従ってとぼとぼと足を浮かして力を緩める様に椅子に落ちた。何ともかっこわるい姿を見せてしまったもんだ……最悪だぁ。
「アイシス様はしばし手が離せないので先に食べていて欲しいと仰っている様です」
「ありゃそうか。でもだからと言って由音ちゃんを急いで呼んでくる訳にはいかないね」
「そうですね。アイシス様が来られた時に料理が並んでいないという最悪の事態は避けなければなりません」
 隣に椒ちゃんが座ると料理の匂いに紛れて彼女特有の香りがふわりと流れる。
「この屋敷には朝にご飯を炊くという発想が無い為、朝食は洋食になってしまいましたがよろしいですか?」
「もっちろ~ん。全然問題無いよ」
「そうですか。たまには朝にパンを頬張るのも良いかもしれませんね」
 小母様には言わないでくださいね、と言って椒ちゃんは楽しそうにフランスパンにマーマレードを塗った。
「このバゲットも梧姉様の手作りなんですよ」
 フランスパンを持ち上げて自慢げに私に見せびらかす。なるほど、フランスパンと言ってもそれぞれに名前があるのか。
「御主人様が気にするため砂糖もバターも全然使ってないのだそうです」
 一口分に千切って口に入れてみたら確かに菓子パン等とは違って大きな味はしなかった。まあこれを主食にする人達にとって砂糖を塗り込む必要は無いんだろうね。日本で言うとご飯を炊く時に砂糖を入れる感覚なんだろうか、随分気味の悪い行為に感じるや。
「良かったら何か塗りますか?」
 椒ちゃんは網カゴに入っている小瓶を幾つか取って私の前に並べてくれた。小瓶の中にはフルーツジャムが収まっている。これも恐らく自家製なのだろう。
「椒ちゃんのお勧めはどれ?」
 彼女はしばし小瓶の群れを眺めていたが最終的に黒い物が入った小瓶を選び出した。
「御主人様は良くこれをつけていられます」
 受け取った瓶のふたを開けてみると匂いでブルーベリーのジャムだと分かった。出来ればこの時くらいは朱水じゃなく椒ちゃんの好みで選んで欲しかったという思いがあったが、だからと言ってそれを理由に選び直してもらう訳にはいかず、バターナイフを使ってパンに薄らと紫色のジャムを塗る。塊では黒色でも塗るとやはり綺麗な紫色を露呈してくれた。
「スープはほうれん草のポタージュだそうです」
 取っ手付きの大きなカップに入ったスープを椒ちゃんは美味しそうに飲む。彼女のこの様な姿を普段から見ている自分としては、この屋敷ではこれが異例として扱われるのが不思議でしょうがなかった。確かに栄養を摂取する必要が無い体ならば料理を口に入れる必要が無いのだろう。しかし味を楽しむ事は出来るのだから使い魔さん達も皆食事をすればいいのにと思ってしまう。もっとも、朱水と執事さん二人の食費である現状と、その一つ上の段階である、椒ちゃんと枳さんを抜かした計七人の食費とでは差が大きすぎるのだろう。それに現実的な話、必要の無い摂食は資源浪費と見られる可能性が高く、暗黙的にやめておこうとしているのかもしれない。
「……お口に合いませんか?」
 手が止まっていた私を不審に思い彼女は訊ねてくる。私はそんな事は無いと主張する為に手に持っていたスープをごくごくと飲み乾した。温かさが自分の中の感情を和らげてくれそうだった。自分の首を絞めてしまうこの考えを一刻も早く体の奥底に呑み落としたかった。

 サラダの大皿からそれぞれの分を取り分けているとアイシスがあくびをかましつつ食堂に入って来た。手がつけられないという事は何らかの作業をしていたのだろう、睡眠不足がありありと確認出来た。
「おはようございます」
「おはようございます、御二方」
「アイシスおはよう」
 そこでもう一度大きなあくびが起きた。
「寝てないの?」
「いえ、仮眠は取ったのですがどうにも眠気が取れず」
 アイシスはこの屋敷に所蔵されている書物で調べ物をしていたらしい。彼女が言うにはここにある本は滅多に見られない特殊な物で、一般人が手に入れられる物では絶対に無いという希少本らしい。もともと閲覧許可は取っていたのに今までは雑務の所為で上手く時間が取れずにいたのだけれど、ここにきて仕事に追われずに済む長い休みが期待出来そうだったため欲望のままに数冊読破していたとの事だ。目の下にクマをばっちりとこしらえた彼女は私の隣に座り、パンに手を伸ばすと何もつけずに千切っては口に放り投げる。
「この休暇の間に全ての本に目を通しておきたいのです」
「でもちゃんと休まなきゃだめだよ」
「それはそうなのですが……ボクの中では肉体よりも精神の方に天秤が傾いているためどうしても知識欲が上回ってしまうのですよ」
 これがアイシスを天才に仕立て上げた土台なのかもしれないね。私よりも年下なのに魔法の大学で教鞭を執っているくらいだもの、普通の精神じゃない事は確かなのだから。
「御部屋にミントティーをお持ちしましょうか?」
「助かります。今は睡眠欲より知識欲です」
 そして再び大きなあくびをする。正面にいたら口の中の物が丸見えだっただろう。サラダを取り分けてお皿をアイシスの前に置くと、彼女はじっとサラダを見つめた後ミニトマトをフォークで弄くり始めた。相当疲れているのだろうか、あまり話しかけずに彼女がしたいようにさせてあげた方がいいかもしれない。疲れている時の周りからの干渉は気持ちの良い物じゃないからね。
「皆は今日もいつも通りこの屋敷にいるんだよね?」
 首を百四十度回転させて椒ちゃんの方へと向けると、私越しにアイシスを見ていたのか二人の顔と顔が異様に近づき一瞬だけ面食らったが、椒ちゃんの方が平然としているためこちらも内心を押し殺して平常を装う。
「はいいつも通りです。私達は外へさほど出ませんので」
 そっかぁ。なら今日も色々な人とお喋りしてみたいな。
 私は唇にだらしなくオニオンを張り付けたまま呆けているアイシスの口をナプキンで拭いつつ今日の計画を思案していた。





 沢山の花に囲まれたそこは色を散りばめた美術品であった。風が吹く度にふわりと好い香りが巻き起こり、色が揺れる。レンガを境に花の絨毯が出来上がっていた。壁となっている地帯もある程だ。
 その色色の中で唯一暗めの色が頭高く存在している。その淡褐色の髪をした少女は私の存在に気付くと如雨露を水平に正して丁寧なお辞儀をしてくれた。
「おはよう椚ちゃん」
 少女は私が彼女に用があるのだと分かると如雨露を地面にゆっくりと置き、私の近くへとするすると歩み寄って来た。いやはや、椒ちゃん椚ちゃんの二人とよくもまあこんなに仲良くなれたものだと我ながら驚きを禁じ得ないね。椚ちゃんは出会った当初は無言で距離をとっていたはずなのに、いつの間にか私に歩み寄って来てくれるまでになっていた。
「お花いっぱいだね」
 嬉しいという感情が声に現れてしまい少しだけ上ずってしまった。
「どうかなさいましたか?」
「ううん、特別用があって来たわけじゃないんだ。気にせず水遣り続けてくれていいよん」
 あまり汚れていないレンガに腰をかけて、再び日課である草花への水遣りへと戻った椚ちゃんの姿を観察させてもらう。椚ちゃんはやはり私の視線が気になるのか、時々振り返り困惑の顔を向けていた。
 お花畑は一人の力で管理するには少し広すぎ、それから四十分は水遣りで時間を消費していた。椚ちゃんはスプリンクラーやホースを使う事を嫌い、如雨露を使って自分の手の加減で水を与える事にこだわりを持っているらしい。その為石敷きの道を何往復もしており、せわしなく彼女の体は前後左右に転がっていた。やっと日課を終え私の所へと戻って来た頃には道とお花畑の隙間にある土の所為で靴が泥まみれとなっていたが、一仕事終えたという充足感で満ち満ちた足取りだった。
「始終見ておられたんですね」
「なはは、ちょっと邪魔だったね~」
「いえそんな。所で本当に御用がおありで無いので?」
「用と言っちゃえば用なのかもしれない。椚ちゃんとお話しに来たの」
「私と、ですか?」
 椚ちゃんは私の行為が意外らしく本当に驚ききっていた。一体どういう意図の下による驚きなんだろうか。
「これから時間ある?」
「はい、あります。そもそも今が自由時間ですので」
 おお……本当に土いじり趣味だったのか。
「じゃあお話して良い?」
「はい喜んで」
 椚ちゃんは空になった如雨露を胸に抱いて目尻を下げた。



 テラスの上にある日の当たる白いウッドチェアーに、二人共が庭に向かう形で座っている。二人の間に置かれている小さなウッドテーブルには緑茶の入った湯呑みが二つ置かれていて、朝景色の中に湯気を立ち上らせていた。緑茶は椚ちゃんの趣味らしい。この屋敷では基本的に二種類のお茶が出され、椚ちゃんが出すと緑茶となり、槿さんが出すと紅茶となるという事実が最近になって判明した。
 私はまだ熱い緑茶を息で冷ましながらズズズと啜る。椚ちゃんが音を立てて啜っているのでそれを真似てみたのだった。彼女が出したお茶なのだから彼女が気持ちよくなれるようにしたかった。
「良い天気ですね。風が心地よいです」
 椚ちゃんはちょびちょびとお茶を啜りながら空を見上げる。空にははぐれたカルガモの雛みたいな小さな雲がポツリと寝ころんでいるだけだった。その雛も上空の強い風に追われ、らしくない速さで青を泳いでいる。
「そうだね」
 私の口からは同意だけの声が漏れる。仕方の無い事だった。空はただ青く、見る者に何も考えさせない力を纏っていたのだから。
 いけない……空の魔力に酔っている場合じゃないんだった。折角の好機、椚ちゃんとお話するんだった。
「花が好きなんだね」
「はい。大好きです」
 私達はお互いに目を合わせる事無く好き好きにテラスから臨む景色を堪能している。
「どうして好きなの?」
「どうして、ですか? そうですね……可憐だからですかね」
「可憐?」
「細い体に綺麗な頭もたげて短き命を繰り返す、とても可憐です」
 なるほどねぇ、と心中で呟く。単純な可愛い物好きという理由から来ている趣味ではないんだね。
「もしかして動物もその理由?」
「御存知なんですね」
「あはは、ごめんね。槿さんから聞いちゃった」
「いえ、そんな謝られる事ではありませんっ」
 椚ちゃんは立ち上がり、声を少しだけ張り上げ目を大きく開いた。勢い余って湯呑みから緑茶を零してしまったが幸いにして服にはかからず床を濡らすだけで済んだ。
「申し訳ございません……私、つい心で思った事を口に出してしまう様で」
「それ私も良くやっちゃう。直らないよね」
「はい、恥ずかしながら」
 お茶を零してしまうというさらなる失敗が彼女の中で重りとなってしまった様で、椅子に崩れ落ちた。
「大丈夫、私も良くやるんだからこの二人の中なら問題にならないんさね」
「はい、ありがとうございます」
「で、動物は何で好きなの?」
 放っておくと更に自分を責めかねないので慌てて話題を戻す。
「確かに思えば尼土様がおっしゃる通りなのかもしれません。花と同様、動物にも可憐の影を見ているのかもしれません」
 うむむ~むつかしい表現をなされる。まあ要するに動物も可愛いって理由だけで好きな訳じゃないって感じだろうか。
「槿姉様に訊かれたのなら私の事を可愛い物好きと表現されていられたでしょう」
「はは、大正解」
「でしょうね。もっとも、可愛いという理由も勿論ありますが」
 由音ちゃんを初めて目撃した際の椚ちゃんを知っている私にとっては『可愛い物好き』と言う表現は正にどんぴしゃりで呑みこむのに何ら抵抗無い言葉だった。
「今度椚ちゃんの部屋に遊びに行って良い?」
「はい、喜んでお迎えしますね。その時にはとびっきりのお茶を用意しておきますから事前にお知らせください」
 ぬいぐるみだらけの部屋、非常に興味があるんだよね。槿さんに言わせればびっくりするらしい。そんな少女趣味な部屋を見学してみたいというのは一女子として当然な願望だと思うんだ。


「所で尼土様はお好きな花はありますか?」
「花? そうだなぁ、考えたためし無かったや」
 花を見るのは好きだけれども一体どの花が好きなのかと問われると答えが中々喉から現れてきてくれなかった。
「椚ちゃんは『これだ』って言う花あるの?」
「はい、あります。庭桜と言う、木に咲く花です。白くて沢山咲き乱れ、あらゆる方向へと顔を向けてその綺麗な笑顔をどんな人にだって向けてくれるんです」
「素敵な花だね」
 椚ちゃんは普段見せない明るさで楽しそうに語っていた。椚ちゃんが押さえている花は私が最初思い浮かべていた足元に生える様な物だけでなく、木々に咲く花も含んでいるらしい。
「じゃあさ、私や朱水に似合う花ってないかな?」
 これがきっかけになって一つの花を特別好きになれたらと思い、椚ちゃんが思う私に合いそうな花を紹介して貰おうと訊いてみた。ついでに朱水の分も訊いておいてあげよう。
「尼土様と御嬢様に、ですか?」
「うん、沢山知ってる椚ちゃんならそういうの見つけてくれるかなって思ってさ」
 しかしどうやら私の思いつきの要求はとても難しいらしく、椚ちゃんは思慮の渦に呑まれてしまった。
「見つからないなら別にいいんだけどね」
 あまり人を困らせる様な質問をすべきでなかったと今更ながら反省し慌てて取り下げようとしたが、椚ちゃんはもう少し待ってと首を横に振った。
「そうですね……」
「うんうん」
「尼土様には勿忘草、御嬢様には月下美人……なんてどうでしょうか」
 おおぉ……見事に分からない花の名前が出てきたぞ。こいつは困った。
「どういう花なの?」
 しかし椚ちゃんは詳しい説明はしてくれなかった。面白げに微笑み口を結ぶ。
「……実物や写真を見ていただければ良いと思います。最初に自分が感じた印象、それが花に対する気持ちになるのですから」
「ほうほう」
 流石の花好きなだけはあって的を射たアドバイスをしてくれるもんだ。好きになれるかなれないかは結局自分が決めるものだからね、確かに他人の感想を混ぜるべきでないというのは納得できる。
それにしてもワスレナグサかぁ……ゲームのアイテムに出てきそうな名前だよね、これ。


 私達は会話が途切れるとお茶を啜り、景色を楽しんだ。ここには朝の空気と二人の息遣い、そして遠くの鳥達のさえずりだけが存在している。
魔法瓶も急須もあるんだ、まだまだこの時間を楽しめそうだ。

 微かな眠気に襲われてうとうととしていると椚ちゃんが一度解いた三つ編みをこしらえ直しながらジッと私を見つめているのに気づいた。
「……ん?」
 椚ちゃんは私と目が合ってからも視線を逸らさずにずっと私に注ぎ続ける。これは間違いなく何か話して欲しいという意思表示であった。椚ちゃんは構って欲しい時に相手の目を注視する癖があるらしく、両手を前で組みながら姉である槐さん達にその紫白色の瞳を向け続けている場面を度々目撃した。ただ梓ちゃんに対しては積極的に自ら関わりに行く事が多いようだ。
「椚ちゃんって普段は何をしているの?」
 細い指で束となった髪をささと編んでいる彼女はそこでようやく私から視線を外した。会話する際は一般的な目の動きをするみたいだった。
「御存知かもしれませんがこの屋敷の清掃を槿姉様と一緒に任されています」
「自由時間はどういうことして過ごしてるの?」
「そうですね……午前中なら花の世話をして、午後は梓と一緒に過ごしている時が多いです」
 確かに椚ちゃんと梓ちゃんのペアを見かける頻度は異様に高かった。姉妹の中で一番仲が良いんじゃないかな。
「梓ちゃんとは普段どういう風に?」
「えっと……本を読んであげたり髪を梳いてあげたり、ですかね。後はお昼寝中の世話だったり一緒に映画を見たりしています」
「ああ確かにそうだったね。映画好きなんだ」
「はい、二人ともテレビっ子なので。毎週私が映画をレンタルして二人で見てます」
 二人が寄り添ってテレビ画面を眺めている光景はよく見られた。ほんと仲が良いんだね。よくよく考えると椚ちゃんが独りでいる所はあんまり見かけた事が無い気がする。
「梓ちゃんが仕事とかでいない時は?」
「その場合は自室で雑誌等を読んでいますかね」
「雑誌?」
「はい、雑貨品やインテリアをメインにしたカタログ調の雑誌です。可愛いのがいっぱい載っているんですよ」
 なんて素晴らしいのか。これはますます椚ちゃんの部屋に行ってみたくなるってもんだね。きっとすごく可愛い部屋なんだろうなぁ。
「尼土様の自室にはどのような物が御座いますか?」
 突然質問を返され慌てて部屋を思い浮かべるが、出てきた自室の女子っぽさの微弱っぷりに失望する。カーテンも寒色で家具もいたってシンプルな代物であり、辛うじて女の子っぽい物と言ったら少しだけある小物くらいだった。これじゃあ叔母さんの方が可愛い部屋してるんじゃないかな……まあそれもどうかと思うんだけれども。
 心が冷える為、深く考える事を停止した脳はわずかな単語だけで質問に答えた。自己防衛機能って素晴らしい。
「普通の……物……」
「普通、ですか?」
「うん、しんぷるいずざべすと」
「はぁ」
 椚ちゃんはよく分からないと眉を曲げるがこっちの方が過去の自分に眉を曲げたいよ。なんでもっと女の子女の子した趣味してなかったのだろう。今度叔母さんの部屋を参考にさせてもらおうかな。
いや待てよ、その前にもっと良い先生がいるじゃないか、目の前に。
「よかったら今度椚ちゃんのお勧めのインテリアを見繕(みつくろ)ってよ」
 きっと椚ちゃんなら素敵素晴らしい物を知っているに違いない、そんな確信が私の中にあった。
「はい、喜んで。私なんぞの意見でよろしければ何時だって進言させて頂きます」
 これはとても素晴らしい収穫を得たもんだね。これで少しでも私の部屋から殺風景の三文字が薄まってくれると嬉しいなぁ。椚ちゃんは椚ちゃんで自分の趣味が活かせるからか凄く嬉しそうで、勢いでまだ熱いお茶を間違えて口に含んでしまい痛そうに舌を出して微笑んだ。





 椚ちゃんは用事があるらしく、最後に私の湯呑みをいっぱいにしてくれてから屋内に戻ってしまった。私はまだ熱いお茶をズズズと啜りながら今度は独りで景色を楽しむ。すると視界の隅に何やら動く影があり、それを追って私の目も動く。その影は遠目に見ても誰なのかが十分に分かる個性を持っていた。私は無感情に立ち上がり、この行為に自分で驚きながらも折角立ったのだからとその人物の後を追ってみる。行き先はもう分かっていたから追うのは簡単なんだよね。

「椒ちゃん」
 その人物は彼女のお気に入りと聞く場所に立っていた。何をするでもなく、ただ佇んでいた。
「有様……」
 由音ちゃんの来訪を毎度察知する椒ちゃんにしては珍しく、声をかけるまで私の存在に気付かなかったのか、振り返ったその顔は驚きに満ちていた。
「どうなさいました?」
「椒ちゃんに会いにきたんだよ~」
「はあ、お暇なんですね」
 ちくりと刺さる言葉を遠慮無しに投げかける彼女は、それでもにこやかな表情を浮かべてくれていた。
「ここが好きなんだってね」
「そうですね。ここは風を感じますから」
 しかしおかしな事に椒ちゃんは自分の言葉に何所か失言が在ったみたいに慌てて私の表情をうかがってきた。だけれど私には今の言葉の何所に問題があったのか理解できなかった。
「確かにここは風が強いね」
「自然に出来た風の流れなんです。ここから先は地面がデコボコになっていて、その合間を風が流れ、そしてここで再び一束になるんです」
 ほうほう、道理で他と風の強さが違う訳だ。またいつもの魔法的な現象かと思いきや普通の自然現象だったのか。私達が顔を向け合っている間も、風は途切れる事無く泳いでいる。草はサワサワと歌い、耳も風の存在を知らせていた。
「ああ、だから花が咲いてないのかな」
「はい?」
「いや、風が強いから花びらが耐えられなくて自然淘汰されてしまったのかなって」
 周りの緑にはぽつぽつと鮮やかな色が混じっているが、ここにはその様な物は無かった。
「いいえ、そういった理由では無いのです」
 茶色と緑に支配された地の中心に立つ黄色の少女は挑発的な視線を私に向ける。私にはそれが苦痛だった。最近の私に対する顔とは違っていたのだった。
「私が抜いたんですよ。ここらの花は人工的に消されたんです」
 人工的という言葉は私が使うと変な気がしますが、そう彼女は唇端を曲げる。
「椒ちゃんが……どうして?」
「どうしてって、以前お教えしたはずです。私は花が大嫌いだと」
 嫌いだから排除するんですよ、椒ちゃんはまだ私に挑発的な視線を注ぐ。私は自分の目が微かに潤い始めた事に気付く。まずい……椒ちゃんの目の前で涙しそうだ。年下に泣かされるという悔しさよりも、椒ちゃんに自分がこんなに弱いのだという事を分からせてしまうのが嫌だった。
 しかし急に椒ちゃんの目が緩む。
「……冗談ですよ。まあ半分は、ですが」
「半分?」
 彼女が目を逸らした隙にばれない様に涙を袖で拭う。瞼を一度下すだけで雫は落ちてきた。
「私が抜いているというのは嘘ですが、原因が私にある事は事実です」
 曰く風上に彼女が立つ事によって彼女の力である糜爛の呪いが微かに風に漏れ流れてしまうのだという。それを連日浴びてしまった所為で一部の生命力が強い草以外は絶えてしまったのだった。
「生きるって事は迷惑かける事に等しいのですね」
 椒ちゃんは足元に生えている背の低い草を撫でながらそう呟いた。

 彼女達は本来いてはいけない存在
 だから彼女達が与える影響は不自然
 それは彼女も分かっている様だった

 突然何かに気付いた椒ちゃんは私の靴を指差した。
「靴紐が解けていますよ」
 指の延長線を見ると確かに靴の紐が解けていて土で大層汚れていた。深夜に降っていた雨の所為で今朝の土は湿っている為、泥汚れの段階まで来ていた。こりゃ酷い。
「そのまま歩いてしまったから紐であんよまで汚れてしまっていますね。どうぞこれをお使いください」
 そう言って椒ちゃんは黒いハンカチを差し出してくれた。それにしても『あんよ』ねぇ……椒ちゃんってたまに幼児語を使うんだよね。可愛いから絶対に指摘しないけど。
 椒ちゃんの事だ、指摘したら絶対真っ赤になって噛みついてくるもん。
「でもハンカチ汚れちゃうよ?」
「良いんです。その為の黒なのですから」
 もう一方のポケットから白いハンカチをチラリと見せてしたり顔を作る。なるほど、こういう時の為に二つ持ち歩いているのか。流石メイドさんだね!
 私は受け取った黒いハンカチを使ってパンツについた泥を拭うがこれがなかなか落ちない。私が悪戦苦闘していると彼女は私の手からハンカチを抜き取り、代わって泥を落としてくれた。コツを知っているのか、見る見るうちに汚れはハンカチに移って行った。
「ありがとう」
「いえ。ついでに靴紐も結んでおきますよ」
 彼女は自分の指が汚れるのを気にもせずに整った蝶結びを作ってくれた。綺麗な細い指が汚れていく様を見るのもそうだが、彼女が私の足元で跪いているのは気分が良いものでは無かった。
 それにしても椒ちゃんの近くにいると本当に心地好い香りでとろけそうになるなぁ。
「ありがとう、椒ちゃん」
「ふふ、有様も女性なのですから身だしなみに気をつけてくださいまし」
 もう一方の靴の紐も解いて再び結び直してくれた。左右対称となった靴紐はバランスよく靴上に載っている。
 彼女の手と紐を一緒に視界に捉えているとふと思い出す。
 紐……そうだ私はあの紐を借りっぱなしだったんだっけ。あの紐とは以前由音ちゃんを侵入者と勘違いしていた時に、持っておいてくれと渡された物だ。
「ねえ椒ちゃん、前に借りたあの紐って返した方が良いんだよね?」
 椒ちゃんは最初何の事か理解していないのか、しゃがんだまま目をパチクリとさせていたが、私が紐の形状を手で形容すると私が何を指しているのか分かった様だ。立ちあがると私の手を取って言い聞かせる様に声を低める。
「あの紐は私に返さなくてよろしいのです。私よりも有様の方が必要としているはずですので」
「そうなのかな。うん、分かったよ、大事に持っておくね」
「それと有様、ちゃんとしっかり携帯していますか?」
 ……今は机の引き出しに眠っております。
「あー、ごめんなさい」
「常に持ち歩いていないと駄目ですよ。緊急時には必ず必要となりますので」
 命を救ってくれるというとっても大事な道具だとは念入りに教え込まれたのだったが、つい甘えが私を支配してしまっていた。そしていつの間にかその存在すら忘れていたのだった。
「そうですね、忘れてしまうというのなら鬼眼の輪に巻きつけておくというのはどうでしょう。あの紐は私達と同様、本質的に汚れる事は無いので体に常に付着していても清潔ですので。…………す、すみません」
 自分の言葉で思い出したのだろう、慌てて椒ちゃんは私の手からその手を離した。本質的に汚れる事は無いと言っても表面に汚れが付着する事はあるわけで、今まさに椒ちゃんの指には泥が付いていたわけで。しかしこちらこそ申し訳無さに縮こまっていたので、椒ちゃんと一緒に汚れたのはむしろ嬉しかったりする。
「おててを出してくださいな。どうして後ろに隠すんですか」
 自分の指を黒いハンカチで綺麗に拭ってから今度は私の指をと構える。
「いや、拭かなくて良いよ」
「良くありません! 有様はもっと身だしなみに気を配ってくださいまし」
 後ろ手にした腕を無理やり掴み出されて指を払拭されてしまった。丁寧に伝う柔らかい布地が気持ちよく、汚れにこだわっていた心ごと綺麗に浄化された気がした。
「はい、これで良いです。後で石けんでも丁寧に洗ってくださいね」
 はは、まるで子供を相手にしている様な言葉だなぁ。
「とにかく、あの紐は常に携帯しておいてください」
「うんわかったよ」
 未だにあの紐の本当の意味が分かっていないけれど大事なものである事は間違いなさそうなのでしっかり言いつけ通りにしておいた方が良いだろう。
 そうだ、あの時は時間が無くて訊けなかったけど今なら説明して貰えるのかもしれない。
「ねえ椒ちゃん、あれってさどういう物なのかな? あの時って焦ってたから紐自体の説明は端折っていたでしょ? 良かったら教えて欲しいな」
「ああ……確かにそうでしたね。良いですよ。ですが立ち話では足が辛いでしょうから歩きながらにしませんか?」
 椒ちゃんはそう言って屋敷の方向へと足を進め始める。私もそれを追って彼女の足跡を重ねて踏む。私の靴よりも少しだけ小さかった。
「あれは私達の臍の緒なのです」
「臍の緒?」
 触った感じはとてもじゃないが生物の欠片の様なグロテスクな印象を得られなかった。自分の臍の緒どころか人間の臍の緒を直に見た事の無い私でも、あれが一般的に示される臍の緒とは違う物だと分かる。確かに編んである普通の紐とは違って網目など無くゴムの様な見た目だったけど、触り心地は布に近かった気がする。
「ただ実際に私のお臍についていたわけではありません。母体との繋がりであった物という意味で臍の緒だと表現しています」
「母体、かぁ。椒ちゃん達のお母さんって?」
「すみません、勘違いを生みやすい言葉でしたね。母と呼べる生き物がいるわけではないのです。私達の母体はこの星その物ですから」
 彼女は地面を軽く踏み鳴らす。地球がお母さん……なんかファンタジーなお話だ。
「星との繋がりの名残があの紐なのです。そしてあの紐を使うと再び胎内、つまり私達が存在していた場所に戻る事が出来ます」
 つまりその力が私に以前説明してくれた緊急時用の脱出方法なんだね。そんなにすごい道具だとは知らず、無造作に机に仕舞っていた自分が馬鹿に思える。
「私がそこに飛ばされても平気なの?」
 反射的に口から出た私の質問は椒ちゃんを困らせる。どうやら答え辛いみたいだ。
「平気かどうか……それは分からないのです。何せ前例がありませんから」
 椒ちゃん自身、まだその場所に戻った事は無いらしい。ただ梧さんは何度も出入りしている為、現実世界に戻れる事は実証できているとか。しかしそれはあくまで鬼神城という存在である彼女の場合であり、私や朱水がその場所に行っても戻ってこられるかどうかはやってみないと分からないとか。また、何度も覗いているはずである梧さんはその場所がどういった様子なのかを語ろうとはしないらしい。
「でも梧さんは紐を持ってないって言ってたよね?」
「はい、所持はしていません。梧姉様の分は御主人様が携帯していられますから」
 ほうほう、存在しないわけでは無く単純に『持っていない』という意味だったのか。でもそうなると紐を持っていないのに梧さんは胎内へと帰っている事になるよね。
「はいそうです。姉妹で唯一、戻り紐が無くとも単独で還る事が出来ます。そしてこれまた唯一、術者による召喚が無くとも再びこの世界に戻れるんです」
「うへ~、凄いよねそれって」
 つまりいつでも逃げられて、そして何ら犠牲無く帰ってこられるんだから。ゲームで言う所のセーブ&ロードの関係、何度でもやり直せるってことだ。便利の二文字では勿体ないくらいの凄技だね。
「勿論です。我々鬼神城はそれぞれ能力が違いますが誰もが一流の存在なのです」
 彼女は自慢げに鼻を鳴らした。
「おまけに梧姉様の場合、この世界に戻る場所は私達の様に一か所に限定されているのではなく、もう一つ選択肢があるのです」
「もう一か所?」
「紐の在り処、です」
 という事は朱水の近くって事か。朱水は常に紐を持っているのだから。違った見方をするとしたら、いつでも犠牲無く梧さんは朱水の下へと飛んで行けるのだ。逃げる為だけでなく、守る為にも彼女は地球に戻る。それは従者という立場からすると最高の力なのだろう。
「凄い……凄すぎる」
 私は感嘆する事しか出来なかった。私の驚ききった顔を見ると椒ちゃんは楽しそうに再び鼻を鳴らした。
 彼女にとって姉妹というのは誇り高き存在であるらしく、その姉妹の自慢話をしている最中は熱中しすぎてしまい、たまに地面の段差に足を取られかけていた。悪いと思ったがその姿を笑ってしまうと彼女は頬を膨らませた。

 テラスに到着し椅子に腰かけても椒ちゃんは姉妹の自慢話を爛々と輝く目をして続けていた。その楽しげな様子を見ているだけで和んでしまう私は、相槌を適度に挟んで彼女がもっともっと心地よくお話できる状況を作ろうと努力していた。
 お昼前の幸せの時間を空の湯呑みを横に過ごした。





 部屋に戻ると既に由音ちゃんの姿は無かった。昨日の言葉からするときっとまだ私の部屋にいるだろうと思っていたので無人の箱はちょっぴり寂しい。話し相手を失った私はしょうがないのでバッグに忍ばせていた携帯ゲーム機を取り出し、妙に綺麗に整っているベッドへと身を投げた。
 画面の向こうの箱庭で動物と戯れて時を過ごしているとコンコンとドアがノックされた。私はうつ伏せでお尻をドアに向けた状態のまま返事をする。椒ちゃんか由音ちゃんだと思っていたからだった。しかしドアが開く音はしたがそれ以降はゲーム機から出てくる物だけが唯一の音であった。その静寂すぎる来訪者は誰なのかとやっと顔を入口方面に向けると、一つの目と出会った。それは静寂なのが納得いく女性であった。
「梧さん……」
 来訪者の意外性に驚くと同時に今の自分の無様な姿を客観的に想像して慌てて姿勢を正す。スカートでなくてほんと良かった。
「何かあったんですか?」
 梧さんは視認できる片目を私に冷ややかに向けて無言で立っている。その態度が呆れではなく彼女の標準なのだと知っている私はとりあえず落ち着いて対応できたのだった。
「昼食はどのようなメニューがよろしいでしょうか?」
 ああ、お昼ご飯のリクエストを取りに来てくれたのか。こういう時は相手に任せるという答えは失礼だと最近理解した私はまずは調査から入る。
「もう由音ちゃんとアイシスには訊いたんですか?」
 梧さんは言葉無くただ首を横に振った。動く前髪の奥に普段隠れている右目がわずかな間だけ見えた。
「う~ん、そうですか」
 二人に訊いてないなら私が答える内容でメニューが決まっちゃう可能性大だね。二人も私みたいに前者の意見に乗っかろうとするかもしれないから。
「じゃあお昼は甘い物が食べたいかも、です」
「甘い物ですか。ならホットケーキでよろしいでしょうか?」
「おお、名案ですよそれ」
 メープルシロップとバターが染み渡った暖かいケーキを想像するだけで涎が垂れてしまいそうになる。しかし冷たい視線を浴びている事を思い出すと涎より涙がこぼれそうになった。
「では他の方にも訊いてまいりますので昼食まで今しばらくお待ちください」
 梧さんは綺麗なお辞儀をして一歩下がった。元々部屋へは一歩しか入っていなかったのでそれだけで彼女の体は廊下という別の領域へと移ろってしまった。
 いけない、このまま逃がしてなるものか!
「あの」
 声をかけると梧さんは一度閉じかけたドアを再び開き、隙間から顔を覗かせる。
「はい」
「急いでいますか?」
 梧さんは首を傾げる等の身ぶりは一切せずにいいえと短く答える。私はその小さな口の動きを見た途端小さくガッツポーズをしてしまう。自制心よりも感情の高ぶりが上回ってしまったのだった。梧さんの目が一層冷たく光った気がしたが見なかった事にしよう。
「じゃあ良かったらここに」
 そう言って私の横を叩く。柔らかいマットレスが良い音を立てた。
「……分かりました」
 おお……おおおお…………。まさか本当に乗ってくれるとは思ってもいなかった。梧さんは使い魔さんの中で一番距離がある人だったのでてっきり断られると構えていたのだけど、彼女はすんなりと承諾し、私の横へと座ってくれた。やはり律義な性格な様で、ここだと指定した私の横に実際に腰を下ろしたために、私達はお互いの睫毛の本数が数えられるくらい近かった。いくら手の短さから起こる表現の制限であったとしても、それを説明して今更距離を開けるのは失礼すぎるので、恥ずかしいがこのままの距離でお話するしかなかった。梧さんは照れくさくしている私とは違って視線を逸らさずに私の言葉を待っていた。
「えっと」
 いざ目の前に来られると何と切り出して良いのか分からなくなり、とりあえずの場繋ぎ言葉を口にする。親交が薄いので何から喋って良いのか分からない事に今更気付いたのだった。
とりあえず、常套的に行こう。
「梧さんって普段はどんなことしているんですか?」
 梧さんは私の言葉が終わらない内に少しだけ眉頭を下げた。何だそんな話か、そう言いたげであった。私はくじけずに隠れて手汗を拭きつつ言葉を紡ぐ。
「梧さんの事もっと知りたいなぁって」
 梧さんはしょうがないと諦めた様子で瞼を一度深く下ろすと答えを聞かせてくれた。
「御嬢様と長の御食事の用意をさせていただいております」
 勿論梧さんと言ったら料理だった。包丁捌き鍋遣いはお見事なもので、齧った程度にしか料理できない私からするとプロとの差が見受けられない程であった。
「習得したレシピって幾つくらいあるんですか?」
「そうですね、三桁はあると思います」
 三桁……返って来た答えはとんでもない数字だった。飲食店も簡単に開けそうな量だよね。今度ご教授願おうかな。
「やっぱり和洋折衷、それどころか中華その他各国の料理を?」
「一応はですね。ただ御嬢様の好みは和食洋食ですので偏ってはいます」
 おお、めっけものだね、良い情報を聞き出せたもんだ。
「良かったら今度一緒に料理しませんか?」
 親睦も深めて朱水の情報も掘り下げて。私の提案に梧さんは刹那に戸惑いを見せたがゆっくりと首を縦に振る。
「御嬢様方の食事の用意に差し支えない時間ならいつでもよろしいですよ」
 ありがたい事に梧さんは二つ返事だった。普段からの言動を見ていると冷たい人だと思ってしまいがちだけど、実際の人物は優しい所も沢山持っていた。椚ちゃんへのぬいぐるみプレゼントとか正にだよね。微笑む事は無いけれど、行動で優しさを体現している人だった。
「梧さん自身はどんな料理が好みなんですか?」
「私、ですか?」
「はい。料理をする人が好きな料理って興味あるじゃないですか」
「そうなのですか? 私が今まで作った料理の中で一番舌に残っているのはポトフですね。シンプルですが具材が作り出す味の層が楽しめて料理として非常に興味深い存在です」
「興味深い、ですか?」
「はい。薄らとした囲い味の中に具材個々の味を見いだせる素晴らしい料理です」
 なるほど、梧さんはそう言った見方で料理を捉えているのか。単純に美味しいかろう好かろうではないんだね。
「好い機会です。尼土様の好みもお教えください」
 おっと、これは意外な、梧さんの方から話を広げてきたのだった。「意外」とは失礼だけど、今まで感じ取ってきた印象からすると梧さんは自ら会話を伸ばそうとはしない人物だったから。もしかしたらこれは梧さんとの距離が縮まったという事なのかな?
 片方だけ臨める瞳には温かい光が映っていた。
「私は単純な料理が好きですね。おうどんとか唐揚げとか」
「単純な物ほど奥が深いのです。ポトフも単純な調理方法ですが煮込む時間、スープ自体の味、具材の大きさ等の諸々の要因で全体の表情が変わりやすいのです。唐揚げだって同じですよ」
「そうなんですか」
 やっぱり料理に力注いでいる人は言う事が違うね。梧さんはベッドに置いていた両手を膝上にて組み合う。
「いずれ研究して美味しいうどんを尼土様に食して貰いましょうかね」
「本当ですか! 楽しみにしてます」
 梧さんからこんな言葉をかけられとは……やだ、ほんと嬉しい。
 私は梧さんから見えない方の手を強く握って過剰な喜びを表に出さない様にする。自然に映っていると良いなぁ。感情に流されて大げさにしてしまうと引かれちゃうもんね。
「お仕事以外の間は何をしているんですか?」
「調理以外ですか? そうですね……槿姉様の言う通りですね」
 ああ、手が寂しくない様に常に作業をしているって話だっけか。
「お裁縫とかですよね。女性っぽい趣味でうらやましいです。私はちょっと男っぽいんで」
「女性的、ですか。その様な趣味だとは思っていませんでしたが。女性的というとやはり椚の様な趣味を指すのでは?」
 確かに椚ちゃんは女の子女の子してるよね。お花とか動物とかぬいぐるみとか。でもそれは少女的であって梧さんのみたいな女性的な趣味とは少し違う気がする。
「そんな事ないですよ。梧さんの趣味だって可愛いです。ほんと羨ましい」
「可愛い……」
「はい、可愛いです」
 梧さんはここにきて初めて目を私から大きく逸らした。もしかして照れてるのかな。ホントか~わいっ。
「……後は得物の手入れなどをしております」
 梧さんは咳払いをして強引に話題の路線を修正した。今度は何とも女性らしさの欠片も無い奴が来たもんだ。脳内に光を反射しているナイフを白い布で丁寧に拭いている梧さんの姿がぽつと浮かぶ。これが妙に似合っていた。梧さんは使い魔さんの中で唯一、マスキュリンというか男性的な凛々しいかっこよさを持っているからかな。趣味もその容姿から繋がりにくい物だから普通以上に可愛らしく捉えているのかも。
「その、刃物の扱いが得意だと聞いたんですけど」
「そうですね。刃物の手入れ方法、扱い方に関しては他の姉妹の追随を許さないでしょう」
 扱い方ってつまりソウイウ意味だよね。武器的な、ね。
「ははは、凄いですね」
 梧さんの表情が少しだけ暗む。私の反応が今一だったからだろうか。あや~、私の馬鹿ぁ。
「そういや梧さんって背高いですよね。かっこいいなぁ」
 ここは戦術転換、褒め褒め攻撃で行こう。
「姉妹でも槐姉様だけにしか負けていませんから」
「私もそれくらい欲しかったです。朱水と一回りくらい離れているから悔しいんですよね」
「御嬢様は立派に成長されました。しかし尼土様程の背丈が何かと便利と聞きますが」
 まあ高からず低からずだからね。それに可愛さなら由音ちゃんクラスにならないと無理だし、同性受けなら朱水の様な高い背の方が良いし。
 ……って、何考えているんだか。自分の思考の根本が朱水寄りになってきている事にびっくりだや。
「高い方がかっこよくて羨ましいですよ。私なんて中途半端ですもん。それにモデルさんとかも背高い人が多いですし」
「モデル……?」
「はい。やっぱ背が高いと足も長いですから見栄えが良くなるんですよね。梧さんもスタイ……」
「あの」
 礼儀正しい彼女にしては珍しく相手の言葉に被せる様に口を開いた。
「はい?」
「それは何なのでしょうか?」
「それとは?」
「モデルというのは何なのでしょうか?」
「え、知りませんか?」
 いけない、また不用意に相手を傷つけそうな言葉を口にしてしまった。幸い梧さんは気にした風も無くコクコクと頷くだけだった。
「ファッションモデルです。ブランドの服を着て、そのブランドの広告塔になるお仕事ですよ」
「はあその様な仕事が存在するのですね」
 普通に生活していたら絶対に耳に入れる単語だとは思うんだけどね。
「すみません。私テレビや書物に食指が動かないものでして。世間に疎いんです」
「いえいえそんな。それに知らなくても生きる上で差支えないですし、知りたいならこれから知っていけばいいんですよ。なんだったら料理を教えてもらうお礼に私が教えますって」
 ポンと胸を叩いてみせる。ど~んと来~いってね。
「それも面白いのかもしれません。好い機会です、尼土様の様な表を闊歩できる方の目線を借りてみるのも一興ですね」
 梧さんは組んでいた手の上下を入れ替える。その刹那、彼女の唇が微笑みの相を形作った様な気がした。瞬き一回で見逃してしまいそうな光景は、それでも私の目に焼きついてくれた。
 そうだった、私は梧さんが微笑んでいる所をかつて一度だけ見たんだった。それは朱水に抱きしめられている時、彼女は確かに喜びを目に見える形にしたんだった。
 つまり、私に対して一瞬でも笑顔を作ってくれたという事は、それだけ梧さんにとって私が近しい存在になりつつあるという事なのではないだろうか。
「尼土様?」
「あ、ごめんなさい」
 嬉しさから魂が一瞬抜けてたや。
「ついでによろしいでしょうか?」
 梧さんは私の横にある物を指差す。それは先程まで遊んでいた携帯ゲームだった。
「これは何ですか? これもパソコンという物ですか?」
「あーこれはゲーム機ですね」
 ハードの名前なんて言っても分からないだろうからとりあえず大まかに教える。モデルを知らない人がゲームのハードウェアに知識が及んでいるはずが無いだろう。それにしてもパソコンは知ってるんだなぁ。
 梧さんはそれでもまだピンとこないみたいで、一つしかない瞳を延々とゲーム機に向けていた。
「やって……みます?」
 その向けるだけでゲーム機を融かしてしまいそうな視線の梧さんを平常に戻す為には実際に手にとって理解してもらうしかないと思ったので彼女の目の前に差し出す。梧さんはより近づいた機体を、難問に立ち向かった時の様な難しい顔をして眺めている。
「やる、ですか。これは能動的に関わる物なのですね」
 ゲーム機を手に取った彼女はその外見をくまなく観察する……と思われたが手に取った途端焼け石でも掴んでしまった時の様にベッドに即座に置いてしまった。丁寧に置いてくれたため損傷は無いが、意外な展開に私は戸惑ってしまった。
「どうしました?」
「すみません、いきなり手渡されたので」
 梧さんは申し訳なさに縮こまってしまう。勝手なイメージではあったが一番勇猛な方だと信じて疑っていなかった私は彼女のその行為に軽い衝撃を受ける。でも確かにいきなり渡されても困るだけだよね。
「えっとですね、ゲームって分かりますか?」
「はい。梓が持っている玩具でたまに皆で遊びますから」
 ああこれはきっとトランプやこの前の人生を疑似的に歩むゲームみたいな物を指しているんだろうな。
「じゃあこれはその延長線にある物だと思ってください。この画面の中に架空の世界が在って、その中の人物を操ったりして物語を進めたりするんです。物語を干渉できる映像で読んでいくって感じですかね」
 何だか自分で説明してて恥ずかしくなってきたよ。これは照れなんかじゃなくて間違いなく羞恥の心だった。世間一般的に「ゲーム好き」という肩書に向けられるマイナスイメージを今一度叩きつけられた感覚だった。相手がゲームに触れた事の無い人であるからなおのこと高威力である。
いいもん、楽しい物を楽しんで何が悪いのさ。
「という事は一人用なので?」
「そうですね。基本的にマンツーマンです。これがソフトって言って、この子が本で言う印字みたいな立場ですね」
 ソフトを取り出して掌に載せてあげる。梧さんはそれを恐る恐るといった感じで眺める。
「そしてこの機体自体は本で言う紙の部分、つまり印字が載っている部分ですね。字が紙の上に居座って初めて私達が物語を知る事が出来る様に、このゲーム機とソフトの間柄も切っても切れない関係なんですね。両者が同時に存在して初めて成り立つみたいな」
 梧さんは無言でコクコクと頷く。理解しているのか、圧倒されてしまっているのか。
「要は物語その物がソフトで、それを現実世界で形にするのがハード、ゲーム機って感じです」
「なるほど、その概念は私達にとって受け入れやすいです。良く分かりました」
 彼女は一度ソフトを裏返してから私に返す。どうやら納得してくれたみたいだけどどうして受け入れやすいのだろうか。気にはなったが梧さんが説明を急かす様に無言の圧を送っているので私はそのまま説明を続けた。
「ちなみにこのソフトはいわゆる箱庭ゲームって呼ばれるジャンルで、土地を開拓して野菜や果実を育てたり家畜を飼ったりする物なんです」
 自分が一番好きなジャンルなので少しだけ興奮気味になる。しかし私の波は梧さんの微動だにしない感情船を撫でるだけで空しく消えていった。彼女の不変のまばたきに私の興奮も冷まされてしまった。
「それは『ゲーム』なのですか?」
「……楽しいのでゲームなんじゃないでしょうか」
 箱庭ゲームは理解されにくいからなぁ。もっと違う物を持ってくればよかった。
「やってみますか?」
 こうなったら無理矢理に引き込んでやるぞ。だけれども梧さんは時計をチラリと見ると首を横に振った。そう言えば今は昼食の支度までの合間で、そこを無理に捕まえたんだった。
「申し訳ございませんがそろそろ昼食に取り掛かる時間ですので。貴重なお話ありがとうございました」
 貴重だなんて……言葉を発する度に自分を削っていた私にとっては的外れすぎる表現だった。今度は私の身が縮こまる。
「そうだ、これから二人の所へ向かうんですよね?」
「はい」
「だったら私も行きます。もしホットケーキが通ったら皆で焼きましょうよ!」
「よろしいのですか? 昨晩も手伝って頂いたのに」
「いいんですよ~。それに皆で作った方が楽しいですって絶対」
 ホットプレートさえあればホットケーキは複数人で同時に作れるからね。
「椒ちゃんも良いですかね?」
「一人くらいなら問題ありません。四人分の材料なら確保できます」
 四人というと私に、由音ちゃん、それとアイシスと椒ちゃん……
「もう一人忘れてますよ」
「そうでしたか?」
 最後の一人を探そうと梧さんは指を折って数える。何度も繰り返し指が動くがそれは最後まで四本目までだった。
「思いつきません」
「やだなぁ。梧さんってば自分で作ったのに食べないんですか? 皆で食べましょうよ」
 梧さんは最後の一本である小指で自分の顔を指す。
「そうですね。たまにはつまみ食いも許されるのかもしれません」
 五本全ての指が無事に折れた拳を左手で包むと目を瞑って穏やかな顔を見せた。
「じゃあまずは居場所が分かっているアイシスから確保しに行きますか」
 私の提案に頷きで乗っかった梧さんはベッドを整えるとしなやかに廊下へと出ていった。


 ぐうと狙った様にお腹が鳴った私は、まだ生地すら存在していないホットケーキを鼻に感じながら梧さんの後ろを追ったのだった。


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