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神影の彷徨 作者:ゆちゃあ
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第六話 少女達 / 3



 梓ちゃんが椒ちゃんにお仕事で呼ばれてしまい、台所にいるのは私と槿さんと梧さんの三人だけになっていた。
 そして私の手には包丁が一挺握られている。
「あの~」
 私の情けない声に梧さんはまたもや振り返りもせずに応じる。彼女はどうやら仕事中は会話で相手を見ないらしい。普段は律義と言える程に語りかけると必ず正面を私に向けて応じてくれるのに、台所で会う梧さんはそうはしなかった。
「何でしょうか」
 掌の上で次々と豆腐を細かく解体していく梧さんの技を横目に私の手に収まっている代物は鈍く光るだけだった。
「流石にこれはやった事がないというか……正直怖いです」
 私の前に置かれているまな板の上には鶏が一匹丸々横たわっていた。内臓と羽は除かれてはいるが生前の形を十分に残しているそれは、私の様な料理経験がまだまだ浅い者にとっておいそれと刃を突き刺せる物では無かった。
「あらあら~。なら尼土様はこっちをお願いしますね」
 槿さんはそう言って野菜の小山を指差す。自分から手伝うと言ったのに何ともお粗末な結果だった。

 今晩のメニューは朱水がいないという事もあって普段と違う物を作りたいとの思いで、アイシスのリクエストである焼き鳥と、椒ちゃんや梓ちゃんが好きそうな味が濃いメニューとしての麻婆豆腐、それと初挑戦のラーメンだそうだ。ラーメンだけでなく焼き鳥も実は初挑戦らしい。流石に製麺機は持っていないため麺から作るという事はないが、スープを数時間かけて作るという本格仕様だ。ちなみに思いつき故のメニューであるためラーメン用の生麺など屋敷にある訳なく、椚ちゃんがお使いに行っている。
 本来料理係は私が白旗掲げた鶏を手際よく捌いている梧さんと、今はいないが梧さんのお手伝いをしている梓ちゃんの二人である。しかしたまに槿さんが乱入するらしい。彼女自身は料理好きであるが、そもそも食事をとる必要のある人物が少ないこの屋敷に料理係はこれ以上要らず、彼女は泣く泣く清掃係をしているとの事だった。梓ちゃんも実は仕事が無い為に梧さんの手伝いをしているらしい。そんな話をしている槿さんの横で料理を続けている梧さんから否定の言葉が無いという事はこの話が事実だと物語っている。
「実の所、私は始め、料理などに興味はありませんでした」
 梧さんはそう切り出した。鬼神城の中で唯一刃物の扱いに長けるからという理由で与えられた役職だったという。
「今でこそこうやって楽しんで料理をしていますが最初の頃は何を作って良いか分からずお手上げ状態でした」
 そんな梧さんを助けたのが清掃後の雑巾を洗いに来た槿さんだと言う。食材の山と料理本を見比べて悩みこんでいた梧さんに気付き、「私はこれが食べたいかな~」と言ってくれた事が梧さんにとって最大の手助けとなった。梧さんが悩んでいる原因が『食』への興味の薄さなのに、槿さんは同じ状況であるにもかかわらず先導してくれたのだった。
「大げさよ~。載っている見本が綺麗な色合いだったからつい呟いちゃっただけなのに~。本当は梧ちゃんの形の良いお尻を触ろうと近づいただけなのよ~」
 うわぁ……良い話で入力されていた思い出にわざわざ墨汁を練り混ぜなくても。
「はい、そういう事にしておきますね」
「む~、梧ちゃん意地悪」
 表情を一切変えずに、しかし声で楽しそうにしている事が分かる梧さんと、その梧さんの横に立って頬を膨らませている槿さん。これじゃどっちが姉か分からないや。
 それからも梧さんによる槿さんへの称賛を忍ばせた言葉が連なる。槿さんは梧さんの為に度々厨房に来ては悩んでいる彼女にリクエストをしたり、料理本を買ってきたり、一緒に料理をしたり、外で料理を勉強してきたりしていたらしい。そんな梧さんの言葉を聞く度に槿さんは照れ笑う。
 言われなくとも気付いた。槿さんだって始めは料理が好きであった筈はない。だから多分梧さんのお手伝いをしているうちに自分でも料理が好きになったんだと思う。
 槿さんはそんな優しいお姉さんだった。
 しかし御褒美だと主張して梧さんのお尻に向かった手は、梧さんの手によって捕まり彼女の冷たい視線を浴びる事となった。





 やや小さ目の寸胴にスープの材料を流し込み火にかけ始めると、二人は下拵えが終わった残りの材料を冷蔵庫へと仕舞い、一息つこうと椅子に座った。
「私達はこれから火の番をしなければなりませんが、尼土様はお暇でしょうからどうぞお部屋でおくつろぎくださいな~」
 槿さんは一緒に座った私に気遣ってそう言ってくれたが、折角の機会なので二人とお話がしたいという願望が浮かぶ。槿さんとも梧さんとも言葉を交わした事は数えるくらいしかなかった。二人が無防備になっている今こそ好機だと思うんだ。
 顎を机に載せ、備え付けのテレビの画面を薄く開いた目で注視する槿さん、机の下に隠してあった煎餅を取り出してバリボリ食べる様はほとんど主婦のそれだった。梧さんは何所から取り出したのか、作りかけのぬいぐるみ皮と思われる物に針の続きを通していた。
「わんちゃんですか?」
 茶色い布色であり、やや長い四本足と尻尾、それに長細い顔なので犬のぬいぐるみのはずだ。梧さんは先程と違っていつもの様に律義に私の方へと体を向けて応えてくれた。
「そうです。椚にあげる物です」
「椚ちゃんってぬいぐるみが好きなんですか?」
 すると今度は槿さんが机とくっついていた顎を宙に浮かせて応えてくれた。その顎は赤くなっていて少しだけ間抜けに映る。これが槿さんの可愛さなんだろうなぁ。
「椚ちゃんの部屋に行ったらきっとびっくりしちゃいますよ~。部屋中ぬいぐるみで埋まっていますから」
 彼女曰く、椚ちゃんがテレビで動物園の特集をしている所を食い入る様に見ていた所、梧さんが動物のぬいぐるみを作ってあげたら非常に喜んだため、それからもちょくちょく作ってはあげているらしい。
「梧ちゃんは両手が暇な事が嫌いなんですよ~。いつも何かしら作業していますもの」
「……確かに」
 自分の癖を他者によって初めて自覚した梧さんはぬいぐるみに驚きの眼差しを注ぐが、それでも手を止めることなく針を泳がしていた。
「椚ちゃんも可愛い物好きだから喜んでぬいぐるみを飾っていましてね、部屋の一角がぬいぐるみによって占拠されているんですよ~」
 槿さんは楽しそうに妹達の事を喋る。梧さんの好きなものが手芸や料理、椚ちゃんの好きなものが花や可愛い物なら、槿さんの好きなものってきっと姉妹なんだろうね。


 火の番をしている間だけでなく、調理再開後も槿さんの姉妹話は止まることが無かった。梧さんは仕事モードなのであまり反応していなかったけれども、そんな梧さんの横顔に何度も槿さんは笑顔を向けて沢山喋っていた。

 それでもやはりその姉妹の話の中に(からたち)という名前は現れなかった。





 夕食を終えて自分の部屋に戻ってみると、自分を囲っている世界の温度差から寂しいと思わず呟いてしまう。体をベッドに放り投げ、大の字になって天井を見上げる。
先程まで鼓膜を震わせていた少女達の声と食器の音がこだまの様に脳裏に反響する。あれだけの人数での食事だったため、テーブルマナーやエチケットなど何所かに放り投げて、各自が好きな様に口に物を運び、口から声を発していた。今日の夕食は使い魔さん達も椅子に座り、しっかりと食べていた。
彼女達は普段から物を食べる必要性は無いが、それでもたまに朱水の提案で椅子を並べ食事をする催しが開かれているらしい。栄養を外部から摂取する必要はなくとも味覚はある為、一緒に美味しいと頬を緩ませる事は出来るのだった。
 アイシスは自分がリクエストした焼き鳥の塩気に驚き、慌てて水を喉へ流し込んで、それ以降一本たりとも手を触れずにいた。既に皿に取り分けていた為戻すのも如何なものかと思ったのだろう、きょろきょろと周りを見回して私の視線に気づくと皿上の焼き鳥を指差し、食べてくれないかという手振りを繰り出してきた。しかし私がその為に席を立つ前に、アイシスの隣に座っていた由音ちゃんがアイシスに何かを告げて皿を譲り受けた。美味しそうに鳥肉を歯で取り外し幸せそうに噛みしだいている由音ちゃんをアイシスは奇異の目で眺めていた。その隣では椒ちゃんが麻婆豆腐を熱そうに頬を膨らませながらも次々と蓮華にて胃に収めていた。辛さが利いている味だったため、辛い物が好きな彼女はえらく気に入った様子だった。更にその横では椚ちゃんが梓ちゃんのラーメンをふーふーと息を吹きかけて冷ましながら食べさせていた。彼女達の反対側には私と槐さん、槿さん、梧さんが座っていて、槿さんと梧さんは台所から続いている話題で持切りであり、私は槐さんと言葉を交わす形になっていた。


「あーそういや後で部屋に来るって言ってたなぁ」
 食器を片づけ終え、皆で自家製アイスクリームを食べている時に、直前までとは打って変わって声量を落とした槐さんがそう告げてきたのだった。何の用かと聞き返したが彼女は笑顔の裏に答えを隠したままであった。他人に聞かれるとまずい事なのだろうか。しかしそれを敢えて私に言うという点が腑に落ちない。何故なら私と槐さんの直接的接点はほとんどなく、また重要な内容であるなら朱水同席の状況で告げられる物だと思っているからだ。

 楽しかった時間の余韻に寝転びながら暫らく浸っているとドアを打つ音がする。脱力しきった体を勢いづけて立たせ、ドアを開くと案の定槐さんが立っていた。
「おくつろぎの所申し訳ございません」
「いえ、良いんですよ」
 いつもの槐さんの年上の雰囲気は何所へ行ったのか、目の前にいる女性はもじもじと体を動かし落ち着きのない挙動を示していた。
「尼土様、折入ってお願いしたい事があるのですが」
 そう言って私の手をぎゅっと握る。なんだろう、とても重大な事なのかな。彼女の顔には困惑の相が貼りついていた。
「私に出来る事なら……」
「尼土様でなければいけないんです」
 槐さんは私の眼前へ顔を寄せる。間近で見る槐さんはやはり朱水に似ていた。私よりも背が高い槐さんにこう迫られると一種の圧迫感があるが、その不安そうな表情のおかげで何所か可愛らしい。
「私じゃなきゃ?」
「はい、こんな恥ずかしい事妹達には頼めませんもの」
 眉尻を上げた彼女の喉から唾を飲み込む音が聞こえた。





 プラスチックの風呂桶が床を鳴らす音が浴槽に響き渡る。
「なんともお恥ずかしい限りで」
 槐さんは私の後ろに座り、スポンジを桶の湯に浸しながら照れ笑う。
「普段から朱水様と入浴しているものでして独りで入るのには少々抵抗があるのです」
「だから私なんですね」
「はい。こんな情けない事を妹達に頼む訳にはいきませんから」

 槐さんから出てきた頼みとやらは意外すぎる物であった。私と一緒にお風呂に入りませんか、それが彼女の口が放った言葉である。想像していた方向との違いの所為で私は拍子抜けして直ぐには反応できず、その間槐さんは唇を固く結んで羞恥の念を堪えていた。

「尼土様は朱水様よりも御髪(おぐし)が長いですから洗いがいがありますね」
 槐さんは私の後ろ髪の先端をまとめて持つと興味津津と言った様子で弄ぶ。
「ここまで長い髪は枳くらいしか見た事ありませんね」
 彼女の口から件の女性の名が出てきた事に驚くが、私は唇を結んで余計な反応は控えた。槐さんと枳さんの間にどのような出来事があったのかを知っていれば当然の行為だと思う。
「でもあの子とこういう風に一緒にお風呂に入るなんてした事無かったからちょっとドキドキです」
 しかし槐さんの方が枳さんの話を続けるため、こちらとしても無言でいる事は叶わず、言葉を選んで返した。私は一度だけ椒ちゃんと一緒の時に枳さんに出会っている。しかし余計な心配はかけまいと思い、見た事無いという体を貫こうとした。椒ちゃんが朱水に報告していたなら嘘を吐いたと分かってしまうだろうが、例えそうであっても槐さんなら私の意を汲み取ってくれるだろう。
「枳さんって……髪が長いんですか?」
 槐さんは私の頭にシャワーを浴びせながら更に声色を和らげる。
「そうですよ。あの子は髪のお手入れが趣味みたいな子でしたから。膝裏にまで届くくらい長いんですよ」
「それは凄いですね」
 あの時は緊張で思考が停止していたので改めて彼女の長い髪を思い浮かべる。風呂椅子に座ったまま自分の太股をなぞり、それがどれだけ長いのかを実感する。私の髪は一番長い部分がお尻に届くくらいで、気に入ってはいるが生活する上で色々と不便な所もある事を私は知っている。つまり膝裏まで行く髪を持つ生活の苦労は多大であるはずだ。
「よくお風呂上がりに食堂で髪を乾かしながら他の妹達と楽しそうにお喋りしていたんです」
 彼女の言葉は語尾に向かうにつれて少しずつ間を取っていった。この浴室には温泉施設にありそうな壁に備え付けられた鏡は無い為、彼女が今どのような表情を顔に浮かべているのか確認できないけど、きっと悲しい目をしているに違いない。
 二度と戻る事の無い風景を湯気の向こうに見ているのだろうか。

「ご、ごめんなさい、こんな雰囲気にしてしまって」
「いえいえ~」
「まずは御髪から洗いますね。こんなに長いと洗いきれなかったシャンプー等の残さを髪が背中に保持してしまう為、肌荒れの原因になったりするんですよ」
 彼女は雰囲気を打開しようとわざとらしく口を動かしていた。
「ほうほう、知りませんでした。勉強になります」
「でも尼土様の背中はお綺麗ですね。上手に洗い落せているってことなんでしょうね」
 そう言って槐さんは私の背中を優しく摩った。その不慣れな感触に思わず声を上げそうになるが、洗ってもらっている手前そんな失礼な態度は良くないと我慢する。
「シャンプーは朱水様のと同じでよろしいでしょうか?」
 槐さんが私の前に腕を伸ばして手に持ったのは、液体物を詰める為の空ケースとして売っている代物だった。当然商品名など書かれていない。
「もしかして……特注品とかですか?」
「御名答です」
 流石朱水、こだわっている所はこだわっているね。
「朱水様の髪質に一番合う様に調合されているのですが、だからと言って他の人には合わないという訳ではなさそうですし。折角の機会ですからお試ししてみませんか?」
 槐さんは悪戯っぽくそう言った。だけれどこちらの返答待たずして彼女は既にポンプを押して手に薬液を出していたりする。
「お願いします」
 答えられる選択肢は他に無いはずだがそれでもちゃんと声にしておこう。悪戯の共犯者としてね。

 槐さんに髪を洗ってもらっている間、自分でシャワーヘッドを持って体を温める。彼女は私の髪を両手で優しく包み擦り合わしたり、指を滑らせ解したりして丁寧に洗ってくれる。その気持ちよさに顔が緩んでしまっているのが自覚出来ていた。いやはや、鏡が無くて本当に良かった。湯を浴びるのが私だけでは悪かろうと槐さんに訊ねるが、彼女は慣れているから平気だとやんわりと断った。確かに季節柄、浴場の空気は裸であっても寒くなく、彼女が平気と言うのも本当だろうけど、自分に当てるついでに彼女の足にも湯がかかる様にした。
 そうそう、もう一つ鏡が無くてよかったと思う事があるんだ。
 どうにも槐さんの裸体を直視出来ないでいる自分がいた。多分朱水に似ているという事実が私の脳内で彼女の裸を朱水の物と重ねてしまっているからだと思う。そりゃ女同士でお風呂に裸で入ることなんて当たり前の事で、重々分かっている事だ。以前由音ちゃんと入った時だって微塵も恥じらいは無かった。だが待てしかし、相手が朱水となると別の話である。朱水とだと彼女を直視できずに始終床のタイルを見ている自分が容易に予想出来る。そんな朱水と似ている槐さんでも私のおかしな頭は反応してしまう様で、脱衣所で服を脱ぐ瞬間から無意識的に槐さんから視線を外していた。しょうがないじゃないか、ドキドキしちゃって顔に出ちゃうんだから。きっとこの顔を晒してしまうと槐さんに自分が何を考えているかを悟られてしまうに違いない。そう言った意味でも鏡が無い事が嬉しいのだった。鏡面に相手が映るって事は、同時に相手からも自分が見えるって事だからね。

 槐さんが丁寧に洗ってくれるものだから私の長い髪では時間がかかっていた。しかし彼女はそんな事を気にしていない様で楽しそうに鼻歌交じりで指を動かしている。
「はい、そろそろ終わりますよ。シャワー貸してくださいな」
 言われた通りシャワーヘッドを手渡すと、槐さんは髪の上方からゆっくりと先端までヘッドを移動させてシャンプーを落としてくれた。四往復程した後、彼女はシャワーを床に当て私に訊ねた。
「普段はシャンプーの後に何か付けていますか? 一応ここにはリンスとトリートメントがありますが」
 リンスが朱水の物で、トリートメントは賓客用に念の為備えてある物だと言う。朱水は髪質が優れていて、トリートメントを付ける必要が無い。トリートメントを髪に馴染ませる時間の無駄を嫌い、リンスを好んでいるらしい。また、使い魔さん達はリンスやトリートメントを使う必要がそもそも無いらしい。羨ましい事に髪が傷むという現象は彼女達には起きず、髪に付着した埃等を落とすためのシャンプーだけでいいとの事だ。食事もしなくていいと言うし、ほんと凄い肉体だ。
「長いから髪先の痛みが心配なんでいつもトリートメントを付けているんですよ」
 でも折角の機会だから恐らくこれまた特注であろう朱水のリンスを付けてみたいという願望もある。しかしそんな事を自分から口外するのは少々我儘であるという意識が働き、言葉にしなかった。まあ何時か髪を切った時にでも使わせてもらおう。
 槐さんはトリートメントの容器を手に取り、先程同様、丁寧に薬液を延ばしてくれた。
「槐さんって普段どういう事をしているんですか?」
 今度は自分だけシャワーを浴びるという事もせずに、シャワーヘッドをタイルに置いて彼女の優しいケアを受ける。水音の無い静かな空間と、髪への優しいマッサージとが私に自然に口を開かせていた。
槐さんの仕事は家計管理だとは知っていたけどその言葉だけではどういう物か具体的なイメージが湧かず、前々から疑問だったんだよね。それに普段の私生活もこの館に住んでいない私にとって未知であり、あわよくば聞いてみたかったりする。
「そうですね……お金の管理と朱水様の御付でしょうか」
 槐さんはこの屋敷に関わる金銭の全てを管理しており、彼女が不要と判断すれば朱水ですら希望品の購入が却下されると言う。
「朱水様に浪費癖は無いのですが、たまに突発的に物に執着なされるんです。そして悪い事にその目当ての商品は大抵の場合結構な御値段でして……。多少の贅沢なら構わないのですが、そういう場合に限って一級品を所望されるため、言いくるめるのに一苦労です」
「へー、朱水にそんな一面がねぇ」
「私は値段の相場と言う物を勉強しております故、余りに逸脱した商品は申し訳ありませんが例えそれが朱水様の渇望であってもお断りしています。お金と言うのは有限、切り詰められる所はしっかりと切り捨てなくてはいけません。この前だって大変でしたんですよ」
 彼女は思い出し笑い混じりに言葉を弾ませて語る。それでもその手は未だに優しく私の髪をいたわってくれていた。
「『有とツーショットの写真が撮りたいの』と言う理由でカメラを所望されたのですが、『あの子との初めての写真なんですからまともなカメラじゃなきゃ嫌よ』と仰るんですよ」
「うえぇ、ごめんなさい」
 朱水の事なのであろうが何と無く私も謝らなくてはいけない気がしてついぺこりと頭を下げてしまった。
「いえいえ、尼土様は悪くありませんよ。それでですね、カメラに明るい知人に御相談なさった所、朱水様は何十万もするカメラのパンフレットを複数取寄せまして……。カメラというのはこだわればこだわるだけお金がかかると言う事は理解しておりますが、如何せん素人による記念撮影程度の目的です。故にそれ程の高級品を持つ必要は無いと再三の説得の後、朱水様が折れるという結果を勝ち取りました」
 あの朱水を言いくるめるのは大変だっただろうに。本来は他人事ではあるがやはり自分が間接的にでも関わっているので申し訳ない気持ちになる。
 それにしても意外な話だった。朱水と言えばお嬢様のそれであって、今の話の様に制限を科されるとは思ってもいなかった。成程、お金持ちがお金持ちである所以は、収入の大きさだけでなく支出の無駄を省いた結果なのかもしれない。
 だがそこでまた新たな疑問が湧いてしまう。この館の収入源ってそう言えば何なんだろうね。だって朱水は高校生だし、使い魔さんも執事さんも大体この館にいるんだもん。まさか内職って事は無いだろう。しかしこんな事を訊ける程私は無粋ではない。この質問は胸にしまっておこう。
「まあそうやって今まで支出の管理をしてきたのです。無論、朱水様のお口に入る物はなるべく高品質であって欲しいですし、そこに糸目はつけません。また領主であられます故、みすぼらしい外見であられる訳にはいきません。ですけどやはり無駄と思う所はきっちり財布の口を締めていきますよ」
 でも流石に何もかも審査するというのは可哀相と思い、しっかり高校生としてはほんの少しだけ大きい金額のお小遣いは手渡しているとの事だ。確かに私と一緒に帰っている時に私に合わせて買い食いしているからね。それは妹達も、そして槐さん自身も、はたまた執事さんも同様で、給与と言う名のお小遣いにて趣味を満喫しているという。梧さんの手芸材料や、槐さんの本棚にある本がそれであろう。
「ああそういやさっきアイシスを探している流れで槐さんの部屋に無断で入っちゃいました。許可を取ってから入室すべきでした」
「いいんですよぉ。アイシス様にも私が働いている間なら自由に出入りしていいと伝えていますし。アイシス様は私の本をご覧になられていたんでしょう?」
「はい」
 本の内容が内容だったが、そこは他人の趣味、触れないでおこう。
「そうそう、尼土様も読書がお好きだとか」
「そうですけどどうして槐さんが……って椒ちゃん経由ですか?」
「勿論です。あの子が楽しそうに話していたのでしっかり脳裏に刻まれていますよ。でもその話をしている時には朱水様も横にいらして……」
 槐さんは何故か少しだけ言葉を溜めて間を開ける。
「尼土様、椒に読書が趣味だと教える以前に朱水様に趣味を伝えた事はあられますか?」
 嗚呼……そういう事ですか。槐さんはこれまた何とも楽しそうな声色であった。
「『私はそんなこと教えてもらってないのに』と落ち込んでいらっしゃいましたよ。流石に椒の前では毅然としていられましたが、私と二人きりとなった途端ため息交じりに、ですね」
 その後が大変で槐さんはずっと朱水を慰めたんだとか。重ね重ね申し訳ないです。
 そんな事を話している内に髪のケアは終わり、槐さんは私の髪を頭に巻きつけタオルで包んでくれた。こうした方が更に馴染むという話だ。
 髪を包み込む際に前髪も一緒にしようと私の前に槐さんが来た時に、思わずあからさまに目線を逸らしてしまった。
「…………ふふふ、私も朱水様が知らない尼土様を教えてもらおうかしら」
 槐さんは今の動作で私が一体何を考えているのかを察してしまったのか、ボディーソープを掌に出し悪戯な笑みを浮かべる。
「朱水様と同じ方法で御体を洗わせて頂きますね」
 そう言って槐さんはぺたりと薬液で冷たい手で私の両腕を掴んだ。その力は簡単に外せそうな程に優しかった。
「な、何をなさるつもりで?」
 動揺のためか何故か敬語になってしまう。
「ですから体を洗わせて頂くんですよ」
 私の体の表面をほんの少しだけ力が籠った掌が滑る。その朱水の手に似た優しい暖かさは体の触れた所を熱くさせる。
「いや、ちょ、ちょっと待ってください。朱水ってこんなの毎日してるんですか!」
「朱水様は肌が弱いので手で洗うしかないのですよ。ですから湯浴みの相手が要るのですね」
 な、成程、確かに理屈は分かる。独りじゃ背中洗えないもんね。だけれどこの状況はいただけない。非常に精神衛生上よろしくないって!
 だって……対面の先に……槐さんの裸があるんだもの。目のやり場に非常に困るんだって。いや、それより他人にこんなに触られるという事の方が重大な気がするけれど。
 しかしそんな事知ったものかと言わんばかりに槐さんの手は私の体をまさぐる。
「ま、待ってくださいよ。ほら、さっき槐さん自身が言ったじゃないですか。薬品の落とし残しがあると肌が荒れるって。だからまずは髪の毛を洗いましょうよ」
 なんとかこの状況を打破するための案を練るために時間を作らなくてはいけないと思い、口から出まかせを言う。その割にしっかり理屈に合っていた所は我ながら評価したい。
 しかし槐さんは不敵に微笑み、どこ吹く風かと手を動かし続ける。
「そうですね。ですから背中だけは髪を洗ってからにしましょうね」
「あうぅ~」
 万事休す、もはやされるがままである。

 数分後には耳裏からつま先まで丹念に洗われてしまっていた。柔らかい掌が通って行った私の体は異様に熱くなっていて、体を洗いながら同時に汗をかいてしまっている様だった。
「あわわわわ」
「ふふ、大事な所は流石に御自分で洗われた方がいいですよね?」
「も、勿論!」
 しかし両手を私の両腿に置いて白い歯を見せつけている悪魔は、末恐ろしい事に自分で問うているにもかかわらず手を少しずつ足の付け根まで進めて来る。
「え、槐さんもお体を洗ってはどうですか? と言うか私が洗ってあげます!」
 守りは無理と悟った私は攻めに転じる為に、中が既に冷めきっている風呂桶に浮かぶスポンジを手に取る。このままでは冷たいであろうが、それも私の体を弄んだ罰と言う事で足元に置かれたボディーソープをスポンジに出すと勢いよく彼女のお腹に擦り付けた。
「……そうですね、お願いします」
 ようやく私の体から手を離した槐さんはくるりと回り、背を私の方へ向ける。私は彼女が振り返られない様に椅子を前に出して体を密着させた。これはこれで十分恥ずかしいが先程までの悪魔の所業よりは断然ましである。槐さんの体は綺麗で、羨ましい事に本当に肌に染みや出来物は存在しなかった。髪を洗う前に体を洗ってしまっているけど、恐らく彼女達の体には無関係な話なんだろう。
「前は自分で洗ってくださいね」
 こちらから見えている部分を粗方洗ってあげた後、彼女の前にスポンジを突き出す。
「それじゃ不平等と言う物、お願いしますよ」
「断固拒否です! えっちぃ人の体を洗ってあげられる程私の器は大きくありません」
「残念です」
 落胆の心など一切含まれていないその言葉を吐くとスポンジを受け取って自分の体を洗い始める。その間に私も…………。



「気持ちいい~」
 湯船に肩まで浸かると条件反射に言葉が喉元を通って行く。
「そうですね。お風呂は心の癒しです」
 私の隣に座る槐さんも、これまた深く息を吐き出して気持ちよさそうに目を閉じる。
「朱水様のいらっしゃらないこの屋敷で過ごされて如何でした?」
 覗き見ていた私の視線に気づくと彼女は微かに唇を曲げる。
「朱水がいないのはちょっと寂しいけれど皆さんがいるから楽しかったです」
 普段あまり接する事の無い槿さんや梧さん、それに目の前の槐さんと沢山関われたのが何とも嬉しい。明日は他のお手伝いさんにも積極的に語りかけていこうっと。
 湯気の世界で見る槐さんは、髪を下ろしている所為もあってかいつも以上に朱水に似ていた。
「槐さんは朱水と雰囲気が凄く似ていますよね」
「……ええ」
 ……それは触れてはいけない事だったのだろうか。彼女はお湯を揺らしていた腕を止め、私の目を普段とは違った目で見返してきた。間違いなく今の彼女は普段の優しいお姉さんでは無い、そんな気がした。怒りの視線ではない、しかし少なくとも好意的な代物では決してなかった。暖かい湯船に浸かっていながら私の体は凍えた様に震えた。
「あの、ごめんなさい」
「……一体何を謝られていらっしゃるのでしょうか」
 彼女はわざとらしく首を傾げる。これ以上踏み込まないで欲しいという意味であろうか。
 私が二の句を継げずにいると、槐さんは私に擦り寄り、両肩に手を載せ耳元で囁いた。
「朱水様には絶対に今の言葉を言わないでください。約束してくださいますか?」
「……はい」
「そうですか」
 槐さんは無理やり喉を震わせた了解の音を確認すると私を開放してくれた。触れられた部位は体を洗っていた時とは違って冷感を帯びていた。
「理由はお教えできませんが今の言葉は朱水様を非常に傷つけますので」
 私は何度も頷いて彼女の信頼を得ようと必死だった。
「折角の雰囲気を壊してしまい申し訳ございません」
「そんな、私が悪いんですって」
「いいえ、尼土様は悪くないのです。もっと上手く出来たはずでしたのに、お風呂で気が緩んでいた所為で……情けない」
 槐さんは己への腹立たしさに唇を噛む。しかし何時までも後悔の念に染まっている訳にはいかないと思ったのか、お湯を掬って顔を洗う。再び上げられた顔は既にいつもの優しいお姉さんである槐さんの物に戻っていた。
「むむむ、いけない雰囲気ですね……ここは槿式で行きましょう」
「はい?」
「要するにこうするんですよ!」
 彼女は急に私の背後に回るとガバリと抱きついてきた。
「いきなり何なんですかぁ」
 慌ててその腕を剥がそうとするがこれが中々強固に絡みついていてどうやっても魔の手から逃れる事は叶わなかった。
「槿の抱きつき癖もこういう時には役に立ちますね。ほら、尼土様も元気になられました」
「元気ってそういう意味じゃないと思いまぁぁぁっす」



 私達は同時に湯船から上がりシャワーで体を再び洗う。これくらい広いお風呂だと二人同時に動いた所で不便な思いをする事が無いから好いよね。
「それじゃあ上がりましょうか」
 槐さんは来る時に脱衣所から持ってきたお風呂セットを小脇に抱えてそう言った。
「あれ……?」
「どうかしました?」
 お風呂セットとはシャンプー等で、朱水専用の物の事である。さっきまで私達が使っていた朱水専用の風呂桶に諸々一式が収納されていた。賓客用は浴室備え付けであるが朱水が普段から使う物は区別するために脱衣所に仕舞って管理しているらしい。そのため今日も槐さんは浴室に入る前にそのセットを戸棚から取り出していたのだった。そしてここである事に気づく私であった。
「スポンジ……」
「スポンジ、ですか?」
「あるじゃないですかスポンジ」
「はあ……ありますねここに。…………あらら」
「あるじゃないですかここに!」
 槐さんの言葉通り朱水が体を洗う時にスポンジを使わないというなら、どうして朱水専用のお風呂セットの中にスポンジがしっかりと収まっているのか。
 答えは簡単だ。槐さんが嘘をついているとしか考えられない。
「あららーばれちゃいましたね」
「どうしてあんな嘘をついたんですかっ」
「尼土様の反応が非常に楽しかったのでつい」
 槐さんは舌をペロっと出す。そんな物で誤魔化されるもんか!
「まあまあ。それに尼土様の為にもなったはずですよ?」
「私の為?」
「本番のためにですよ」
 本番? どういう意味であろうか。
 槐さんは私の手を取り、彼女のまだ水滴伝わる胸へと当てた。ふにと柔っこい感触に指が跳ねる。
「尼土様は恐らく朱水様と初めてお風呂に入る時に始終空回りしてしまうでしょう。そうならないために私で段階を踏んでみた、そう考えていただければ無事解決です」
 もはや呆れを通り越して脱帽の域だった。彼女の言葉を否定するだけの自信が無い私は喉の奥に溜まり込んだ言葉を吐けずに歯痒く彼女を怨念籠った視線で見ることしかできなかった。
「そんな怖い顔をなさらずに。可愛いお顔が台無しですよ」
「可愛くなんて無いもん」
「既にその反応が可愛らしいです。朱水様が尼土様に夢中になられるのもこれなら致し方無いですね」
「むぅ~」
 駄目だ、完敗だった。私はこの人には敵わない。朱水を言いくるめる事が出来るくらいなのだ、伊達じゃないのだろう。これが長女の貫録と言う物なのか。
「ほら、早く御体を拭かないとこんな時期なのに風邪をひいてしまいますよ」
 槐さんは立ちっぱなしの私をふわふわと肌触りの好いバスタオルで拭き始める。自分でやると言いかけたが、彼女がどうにも嬉しそうに拭いているので好意に甘える事にした。槐さんは世話好きな人なのだろう。恐らくここに私を呼んだ理由である『寂しいから』というのも、独りでお風呂に入るのが寂しいのではなく、本当はお風呂で世話をする相手がいないから寂しいという本意があったのかも知れない。
「なら槐さんの体を私が拭きますよ」
「ふふ、よろしくお願いしますね」
 槐さんにバスタオルをもう一枚取ってもらい、それを彼女の体に優しく押し当てる。
「たまには拭かれるというのも心地好いですね」
「朱水は拭いてくれないんですか?」
 槐さんは私の言葉に苦笑いを浮かべる。
「それは当然ですよ。主従関係なんですからね」
「そういうもんなんですね」
 でも主従関係であっても必ずしも従者側だけが主に尽くす必要は無いと思うんだけどなぁ。
 私達はお互いが体を拭き合うという幼子がやる様な行為を恥ずかしげも無く行っていた。十分に体の水滴が消えると、私は下着と寝間着の下側を着て髪をドライヤーの温風に当てる。その横では既に上下共に寝間着に着換え終えている槐さんが私を待っていた。
「もう髪乾いたんですか?」
 まるで始めから髪を洗っていなかったと錯覚してしまう程の早さであった。ドライヤーの騒音の中で何とか聞きとれた単語達から解釈するに、彼女達の髪は水気をあまり吸い取らないと言う。その為タオルで拭けばそれだけで髪は乾ききってしまうのだとか。髪の手入れ等も本来は不要なのだが枳さんはどうたらこうたら……。最後の方は槐さんの声が小さくなったため上手く聞き取れなかった。
 それにしても槐さんは予想よりも遥かに枳さんに対して未だに親しみを覚えている様であった。てっきり彼女の名を言葉にする事すら忌わしいと感じるのだと勝手に想像していたのだけれども、実際の槐さんはそうではなく、枳と言う名を普通に声に出していた。確かに今もどんどん声量を抑えていったが、それも恐らく枳さんに酷い事をされたという自分が枳さんを軽々しく話題にするのは体裁上好ましくないとでも思ったためではないだろうか。
「今夜は少しだけ暑いですね」
 彼女は私の視線から逃げる様に背を向けて、当り障りの無い話題を振った。
もしかしたら……彼女は話したいのかもしれない。
 朱水とも、妹達とも違う存在である私に話し相手になって欲しいのかもしれない。彼女達の前で被害者である自分が枳さんを楽しげに語るなんて事は出来ないのだから。
「槐さん、訊いても良いですか?」
「はい、何でしょう」
「枳さんってどういう方だったんですか?」
 直球を叩きつける。怒られたって良い、これが見極めになるだろうから。
 槐さんは目を丸めると口を固く閉じた。そしてそのまま私の目を不思議な感情のこもった瞳で見つめてきた。
「言いたくなかったら別にいいんです。ただ興味があったと言うか……」
 私の言葉は広い脱衣所で空しく崩れた。ようやく槐さんの口が開いたのは私の耳に響く脈音の数えが三桁に届いてからであった。
「私だからこそ、枳の事をお教えできるのだと思います」
「……はい」
 彼女は一度ニコリと破顔すると脱衣所の出口へと進む。
「どうぞ私のお部屋へ。この様な場ではあの子達と鉢合わせてしまうかも知れませんからね」
 彼女は本当に嬉しそうに手招きをしていた。良かった……私の思い違いでは無かった様だ。




「お待たせしました」
 一度私を自分の部屋に通してから、槐さんは飲み物を取りに台所へ向かっていた。帰って来た彼女の手にはウーロン茶の大きなペットボトルとグラスが二つ握られていた。これから訪れる時間が心待ちにしていると語っているその顔は大変晴れ晴れしかった。それ程に彼女は枳さんに対する感情を溜め込んでいたのだろう。
「しばしお待ちを。写真があったのですが……」
 本棚にあるアルバムを持ってきて床に置き、ページを一枚ずつゆっくりと捲る。私も横からそれを見させてもらった。そこにはこの屋敷を撮った写真、朱水が写った写真、お手伝いさんや執事さんが写った写真、何所かの景色が収まった写真等、色々な物が挟まれていた。
 アルバムのページを捲るスピードは非常に遅かった。彼女は挟まっている写真一つ一つを懐かしむ様に見て、一つ一つを私に紹介していたのだ。その声色は温かく、被写体に対する彼女の愛が詰まっていた。
「ありました。この髪の長い子が枳です」
 朱水の写真が集められていたページ群を通り、使い魔さん達が現れるようになって来てから数ページが過ぎた辺りでやっとお目当ての写真が見つかったらしい。
「ふふ、ほんと可笑しなくらい長いわね」
 写真の中で微笑んでいる女性の桃色の長髪を槐さんは指でなぞる。
「この人が枳さん……」
 他の使い魔さんと同じくメイド服を纏った女性は、膝裏にまで届く長髪を風になびかせていた。あの時の女性とこの写真の人物が同一とはどうも信じられない。椒ちゃんとの潰し合う様な視線のぶつけ合いを目の当たりしたのだから仕方ないのかもしれない。私の中では彼女は危険な人物であると刻みこまれてしまっていた。
「枳は椒ととても仲が良かったんです。それはもう、朱水様と枳とで椒をとり合いするくらいにまで」
 クスクスと遠い記憶を思い出しながら槐さんは笑う。
「椒も枳に懐いていてよく二人で行動を共にしていました、そうですね、椚と梓みたいな感じでしょうか」
「相当な仲好しさんだったみたいですね」
 椚ちゃんと梓ちゃんの間は姉妹の中でも特に密着していて、仕事以外の時は常に二人で過ごしていた。そんな二人と同じ様だったと言うのならその仲はかなりの密っぷりであったんだろう。
それがああなってしまうのか……。
 更に一枚ページを捲ると花柄の日傘を得意気に差している枳さんの写真が何枚かあった。他にも日傘と思われる傘が複数立てられた傘立だけを撮った写真も収められていた。
「あの子には収集癖がありまして、特に傘に対して異様な愛を示し、月に一度は新たな傘を求め出かけていました」
「良い趣味をお持ちで」
 傘立ては複数あり、折り畳み式の日傘の山も別に存在していた。一体どれだけの数の傘があるのだろうか。枳さんの手に収まっている傘はどれも日傘であったが、それは撮影が常に晴れの日に行われていたからであって、傘立ての中には普通の雨傘と思われる物も立てられていた。中には洋傘だけではなく和傘まで飾られていた。蛇の目傘と言うのだろうか、綺麗な赤や紺の和傘が広げた状態で床に置かれていた。
「そうですね。あの子が買ってくる傘は確かに良い物ばかりでした。目が肥えているのでしょうね」
 それからも日傘を差した枳さんが続いていた。姉妹と一緒に写っている物でも彼女は日傘を差している。写真の中の彼女は皆微笑んでいて、私が知っている彼女とは全くの別人であった。
 この頃の枳さんと出会いたかったと思ってしまうのはいけない事なのだろうか。
 いや、そう思っているのは私だけじゃないはずだ……私の目の前に私以上にこの枳さんに会いたい人物が座っているのだった。彼女は悲しそうに微笑みながら四角い紙を一つ一つ名残惜しそうに目で追っていた。私が帰ってしまえば二度と他人に枳さんの事を語れなさそうで……。


「おしまい、ですね」
 枳さんの姿が写真から消え、他の姉妹だけが写る様になってから数枚ページを捲った後、槐さんは寂しそうにアルバムを閉じた。重いページで圧された空気の音が空しく部屋に響く。
放心に近い状態の彼女はアルバムを膝に、私を無言で見つめる。私はその意図の分からない視線に耐えきれず視線を外し、畳の網目を見ていた。重苦しい空気が私の首を更に横にしていた。

「あの……戻ります」
 暫らく彼女からの行動を待ってはみたが、彼女はただただ虚ろな目を時折瞼で隠すだけで言葉一つかけてくれなかった。何と声をかけたら良いのか分からない私は逃げ去る事しか考えられず、背を丸めて罪悪感を胸に一歩一歩と後ずさる。靴まで後数歩となった時、彼女の体に再び魂が宿ったのか、急に立ち上がって私に駆け寄ってきた。
「ごめんなさい……気まずい思いをさせてしまって……。また私、やってしまったのですね」
 枳さんの話をすると彼女はかなりの頻度で先程みたいな状態となってしまい、妹達を怖がらせてしまうのだと言う。だから妹達の前では枳さんの話をしないと決めていたのだとか。
「駄目ですね……尼土様になら大丈夫だと思ったのに」
「槐さん……」
 槐さんは咄嗟に掴んだ私の右手に視線を落とすと、やっと自分が私の手を握っている事に気付いたかの様に、手の力を緩めた。力の入っていない私の手は自重で滑らかに落ちた。
「明日も……」
「はい?」
「明日も良かったら一緒にお風呂に入りませんか? 朱水様が戻られなかったらの話ですが」
 朱水が明日の夜までに戻るのなら槐さんは朱水の入浴のお手伝いをしなければならない為、私とは入れないのだと言う。
「良いですよ!」
 槐さんは私の了解の返答を聞くと顔から悲哀の相を消し去りいつもの使い魔さん達のお姉さんに戻っていた。私はその顔を確認すると静かに部屋を後にした。



 物音一つしない廊下は私を優しく包んでくれている様だった。
 本当に彼女が求めていたのは湯浴み相手ではなく、離れていった妹についての話を聞いてくれる役であった事は分かり切っていた事だったが、私は自分でも理由が分からない恐怖心でその手を振り払ってしまっていた。
 何時ぞやの椒ちゃんの強い言葉、実際に目の当たりにした枳さん、過去と現在という単語の間にある大きな溝、これらが槐さんの言葉を耳に入れる事を拒み続けていた。広い視野を持たないと言うのは良くない事と分かっていても、相反する枳さんを受けいれるのは信頼している人を裏切る様で心に穴をあける行為だった。
 物音一つしない廊下は私を責め立てる様にうるさかった。





 部屋に戻ってもテレビから流れる雑音を耳にしながら私はぼうっとして今日という時間の残りを食いつぶしていた。
 枳さんの問題は難し過ぎる物であった。そんな難問に傍観者ですらなかった私が首を突っ込んでしまっていた。いや、私の道にいずれ必ずや飛び出てくる問題なのだろう。最初は本人があちらから出向いてきたのだから。私は寒気を覚え自分を抱く様に体を縮ませる。夜の空気は確かに暖かいのに、私は得体の知れない寒気に襲われ続けていた。



 後一時間で曜日が変わる頃、ドアをノックする音が響いた。自分がいつの間にか浅い眠りに浸っていた事を知らせる突然の来訪者は、ノックの後に中を覗く様な真似はせず行儀良くそこに立ち続けている。
「は~い」
 目覚めたばかりなためにおかしな発声となった返事をしながら私はドアのノブを握る。するとその時再びドアがノックされた。その音の発生位置があまりに低いため最初は誰かと思ったが、このまま居留守を続ける訳にはいかずドアをゆっくりと開けた。
「ありゃ、由音ちゃんか」
 夜の廊下には癒される底抜けに気持ちの良い笑顔を浮かべている由音ちゃんが立っていた。久しぶりに見る髪を下ろした由音ちゃんはドアが完全に開かれると同時に私のお腹に抱きついてきた。
「うあっ! びっくりだよ」
「えへへ、有君ちぃーっす」
 可愛らしい八重歯を見せつける由音ちゃんはいつもの挨拶をした。夜でもその挨拶なんだね。
「今日は全然お喋りできなかったから寂しかったっす~」
 由音ちゃんは甘え声を出して巻きつく力を強める。そう言えば今日は由音ちゃんと顔を合わす事が少なかったと今更ながら気付いた。
「今日はどんなことして過ごしてたの?」
 彼女にとって決して居心地の良い場所では無い筈であるこの屋敷で果たしてくつろぐ事は出来ていたのだろうかと心配に思う。
「たはは……割と部屋に籠ってたっす。だって監視の目が怖いんですもん」
 どうやら彼女の行く先々で何人かの使い魔さん達が現れて声をかけられたらしい。それは確かに気持ちの良いもんじゃないね。
「誰と会ったのかな?」
「えっと、椒さんと椚さん、それと槿さんっすね。特に椚って人の目が怖かったす。狩られるんじゃないかって思うくらいジッと見つめてくるんですよ」
「んー、お姉さんは椚ちゃんに関してはきっと他の思惑があったんだと思うな」
 と言うか間違い無く椚ちゃんはいつもの可愛い物好きが発動して由音ちゃんを凝視していただけに過ぎないだろうね。監視と言うより何か語りかけて欲しくて近くにいたと言う感じかな。槿さんだって恐らく構いたかっただけだと思う。まあ椒ちゃんは……十中八九監視の視線だったと思うけど。椒ちゃんは真面目だからどんなに仲良くなっていたとしても由音ちゃんの持つ肩書が光る限り、彼女はこの屋敷で由音ちゃんを自由に歩かせる気は無いのだろう。
「それで何度か有君の部屋に来たんっすけど全然居ないし……心細かったっす」
「あはは、ごめんね~」
 罪滅ぼしに頬をぐにゅぐにゅと揉んであげると、由音ちゃんは目を細めてもっとやってとアピールしてきた。ああもうほんと癒されるなー。
「それじゃ今から少しお話しようか?」
「いいんっすか! やったーっ」
 由音ちゃんは歓喜の声を上げるとベッドまで走り勢いよく跳び込んだ。真夜中なのに元気いっぱいだね。
「居場所無くって辛かったんですよ~」
「居場所……」

 そうか、そうだったのか……。この恐怖心がどこから生まれるのかやっと分かった気がした。

「ん? どうかしたんっすか?」
「んー、ちょっとお姉さん悩んでいた事があったんだけどたった今解決したんだよね。手伝ってくれたお礼にこれからいっぱいお話し相手になってあげる」
「何もしてないっすけど御役に立てた様で光栄っす」
 私も由音ちゃんの隣に腰を下ろす。やはりこの子の横にいるのは心地が良い。
「朱水の屋敷はどんな感じだった?」
「こんな家に住んでみたいっす。流石と言うか何と言うか、本物のお金持ちって感じの家っすね」
 確かにそれは同感だ。ここは豪邸という言葉が恐ろしい程に似合うくらいの大きさで、もはや小規模な城だね。庭には彫刻などが品好く並べられていて、その間を埋める様に草花が植えられていた。椚ちゃんが手入れしているおかげで植物は元気の良い姿を披露してくれている。L字型の屋敷は部屋が沢山あり、そのほとんどに高級調度品がしっかり備えられている。また部屋それぞれに違った趣を演出するために家具やカーペット、その他の備品を部屋ごとに統一した様式で揃えていた。例えば槐さんの部屋が完全なる和室である様にね。
「後、食事が楽しかったっす。あんなに大勢の人達で物を食べるっていうの初めてだったんで」
「そうなんだー。確かに学校でも私達と屋上で食べているもんね」
「出てきた料理には予想外過ぎて面食らったすけど美味しかったんで文句無しですね」
 ああー分かるよその気持ち。こんな屋敷で頂く夕食がラーメン、焼き鳥、麻婆豆腐だなんて驚きかもしれないよね。でも普段の食事はコース料理も多いって話だから今日は本当に特別だったんだろう。
「そういやアイシスと随分仲良くなっていたみたいだね」
「まあ立場上は鬼神城さん達よりは会話しやすいですしね」
「難儀だねぇ」
 由音ちゃんは由音ちゃんで大変らしい。しかしここに由音ちゃんがいる理由である私は肩をすぼめる事しか出来なかった。私の意思だけで彼女を屋敷の外へ解放してあげる訳にはいかないんだよね。そんな事したら後で朱水にこっぴどく叱られるだろうし。
「まあ有君がいるんだから仕方ないっす。それに状況的にはいつも以上に安全なんすから」
 確かに鬼神城と呼ばれる使い魔さん達が6人もいるここなら私の身は安全なんだろう。
「そうそう、前から訊きたかったんっすけど……」



 口を動かし続けて数十分もすると由音ちゃんの口がいきなり大きく開いた。どうやらおねむの様子だ。
「眠いんだ? じゃあそろそろおやすみしよっか」
「えぇー、自分まだまだお話したいっす!」
「でも由音ちゃんの体は眠りたいって言ってるよ? それに明日だって同じ状況なんだからさ」
「うむむ……やっぱりもう少しだけ……」
 中々頷かない由音ちゃんはベッドの中心に移動すると布団を丸めて抱きしめる。梃子でも動かないという意思表示なのだろうか。しかし布団と密着したら逆効果に眠くなるんじゃないかな。
「そうだ、このまま一緒に寝ましょうよ! お泊り会って奴っす」
 うむむ~、完全に眠りに入る前までいっぱいお喋りできるというのは魅力的だけれども、間違いなく後で椒ちゃんとのいざこざが起きる訳で……。
 しかし期待の眼差しを爛々と浴びせてくる由音ちゃんに負け、彼女を横にすると私も隣に並ぶ。
「明かりは消していいよね? それとも小さいのだけつけておく?」
「完全に暗くても平気っすよ」
「うん……わかった」

 彼女の些細な言葉一つに私は反応してしまう。これでは折角彼女が明るく振舞っているのにこちらからつまずかせてしまうかもしれない。けれども良くない事だとは分かっていてもどうしても思い出してしまうのだった。
 暗闇の中独りで湯に体を沈めていた由音ちゃんを。

 部屋が暗くなると、隅にある消灯と同時に点灯する小さなランプだけがこの部屋で明るみを生む物となる。
「由音ちゃん、手握って良い?」
「いいっすよー」
 彼女が嬉しそうに応えてくれた事に私は内心で安堵のため息をつく。小さな手は少しだけ冷たかった。
「有君、訊いていいっすか?」
「なあに?」
「有君と朱水さんの事っす。ちょっと興味があって……」
「はは……うん、答えられる内容なら良いよ」



 まだ夜は長い。由音と言う少女を実感できるこの時を私は大切に扱いたかった。私が知らない彼女をほんの少しでも感じたいと思っていたのかもしれない。

 それは枳さんに対する物とは正反対の感情であった。今の枳さんだけが私が知るべき存在であり、槐さんの中に眠った過去の枳さんを知る事は私の本心は求めていなかった。


 姉妹に存在する『ある可能性』がたまらなく怖かったんだ。



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