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神影の彷徨 作者:ゆちゃあ
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第四話 イキトシイケルモノ / 8




 そこは人気少なく時が止まったように感じられる場所だった。唯一その場に立つ者が感じられる「時」は決して止まることのない太陽の歩みと時折流れる風によって靡く草花の動きだけであった。

 ここは生を感じられない。だが死も感じることはない。この世界にただ自分一人取り残されているような錯覚は私にとって唯一無二の快楽であった。世界を感じるのではなく、世界に自分が居ることを感じることがいつの間にか私の欲の対象になっていた。

   生きることは嫌いなのに?

 そうだ。自己矛盾だと言うことは分かっている。それでも自分の意見を忠実に述べるなら、今ここにいることを私の体は求めている。この空間に漂うことを欲している。

   その華奢な体躯で死にながら生きる気分はどう?

 悪くない。あくまで「悪くない」だ。貴方が言いたいことも分かるがもう少しだけ大人しくしていてくれ。
 太陽に傷だらけの手を翳す。またやらかしてしまった。自分が自分でなくなるといつも体に傷が増えることになる。

   当然よ。貴方の体なのは確かだけれども、同時に私の体でもあるのだから。

 分かっている。私は貴方から貴方を護るために、貴方から貴方を奪ったに過ぎない。嗜虐的な貴方はいつも自分を傷つけていた。私にはそれが耐えられなかった。

   誰にも迷惑かけていなかったのに?

 貴方は上手だった。上手い具合に体を痛めつけて数日後にはその疵痕は消え失せた。だから貴方の両親は気にしなかった。

 そう。それが問題であった。

 体が弱い貴方に傷が多少増えたところで貴方の両親は気にもとめなかった。元々傷が出来やすい体なのだから仕方あるまい。貴方の親の最大の過ちは「体が弱い者が自分を傷つけまい」という過信であった。

   そうね。そのおかげでやりやすかったわ。

 でしょうね。貴方は親の目を盗んでは自分の体を傷つけその痛みに酔いしれ、同時にその傷害行為に溺れた。誰かを傷つけるのではなく自分にその欲望を向け続けた。だから私は貴方から体を奪った。
 耐えきれなかったのだ。貴方が体を傷つけるのが。

   だけどそれが貴方の過ちだったのよ。

 そうだ。私は貴方になった。でもそれは私を私でなくしてしまった。私を思い出せなくなってしまった。そして貴方も私を思い出せないでいる。

   貴方は誰?

 その答えは持ち合わせていない。私は貴方ではない他の誰かである。そうとしか答えられないのだ。だから私は今ここにいるのだ。

   貴方は本当に出来ると思っているの?

 そうではない。やらなくてはならないのだ。私は貴方を得て私を失ってしまった。だから私は知らなくてはならない。

 貴方をこんなにも護りたくて、こんなにも愛しているわけを。


   好き勝手やっちゃって。私の体でのほほんと生きないでくださる?

 その事については平謝りするしかない。だから少しの間だけでいい。私に協力してくれ。私を傷つけないでくれ。

   貴方が生きようとしなければね。

 何故だ。何故貴方はそうやって生きることを嫌うのだ。死が恐くないのか?

   死が恐いなんて考えたこともないわ。

 やはり貴方はそうなのか……。痛みを喜ぶ貴方は致命傷の激痛への恐怖はなく、死という未知なる物に対する畏怖が薄い人間だった。そう、貴方は簡単に死へと歩み寄ることができたのだ。だから私は貴方の体という玩具を奪い取り、貴方の体という遊び相手を奪った。

   母親みたいな心配の仕方ね。

 よしておくれ。貴方の両親はご健在だろ? 
 私はこの院で必ず私を知る方法を見つけ出す。そして貴方に貴方を返す。

   そしたら私はまた好き勝手に生きられるのね?

 そうなる。でもその時は今度は私が貴方に眠り、貴方が私にするように時々貴方を操るわ。その為の研究もちゃんとやっているのよ。もう絶対に貴方を傷つかせない。

   最悪ね。



「先生?」

 時が動き出す。

 普段は誰もいないここに他の人間が現れた。
「シタニア君か」
 ここに生徒が来るのは珍しい。ここにはあまり歓迎される存在ではないからである。
「窓から先生がここへ向かっているのが見えたので追いかけて来ちゃいました」
 てへっと可愛らしく自らの頭を小突く。外見優れる彼女がやると中々似合う行為である。
「ここに来るのは危険だと教わりませんでしたか?」
「それは先生だって同じですよね?」
 にこやかに、しかし内に何か潜めたような表情で彼女は言った。
「それに先生がいれば安心だと思ったので」
「それは私に対する嫌味ですか?」
 少なくともこの院の生徒ならば私がしょうもない魔法しか扱えないことは知っているはずである。それでよく私を馬鹿にしたような小声が聞こえてくるが、私はそのような物に構っている暇はない。
「違いますっ! 気分を悪くさせてしまったなら謝ります」
「……構いませんよ。慣れています」
 そんな物は私の研究の弊害にはならない。よって流すに限る。
「先生は魔法が苦手なのかも知れませんが、先生にしかできない術系があると聞きました」
 くだらない。私の術系はそのような事に使う物ではない。人間の能力を尖らすことを目的としている。それは組み合った歯車を組み替え直してより円滑に、より素直に回すように。
「貴方には理解できないでしょうけど私は私しか守れませんよ。それはそういう物なのです。それに今はまだ研究中ですので大したことはできません」
「そうだったのですか」
 『嗚呼、驚いた』と言わんばかりの大げさなジェスチャーをしてみせる。彼女はこのような女の武器とも言える仕草を頻発する人間のようである。
「それにしても……」
 彼女は目の前に立つ大きな樹木を見上げて大きな声を上げた。
「大きな木ですね。これがこの世少ない神の木という物ですか」
「ええそうです。これ程までに強い力を持つ木は更に数える指の数を減らさなくてはなりません。それほどまでにこの木は特別で、偉大で、危険なんです」
「危険、ですか?」
「ええ。だからこそここに院は建っているのです」
 世界に幾つかある魔法院は必ず神の木の下に存在する。それなのに生徒の多くはこの木の本当の意味を知らずにこの魔法院に集う。その危険性すら理解しようとせずに。
「この木を見て貴方は何を思いますか?」
 私の問いに彼女は再び木を見上げて全ての息を肺から出すように深呼吸すると、木の中に何かを見てそれを私に説明するように答えた。
「神を……感じます」
 ほらこれだ。ここの生徒は大方同じ事を言うだろう。だがそれが当たり前なのかも知れない。魔法という物を知ると必ず神と言う存在まで感じているような錯覚を覚えるという。
「それは正解でもあり間違いでもあります」
「と言うと?」
「神はこの木自身なのですよ」
 えっと彼女は驚くように後ずさる。まあ当然だ。目の前にある物が神だと言われたら普通は同じような反応をするだろう。
「宗教とは大きく離れてしまった神。そのうちの一つがこの木なのです」
「なら私達は先程から神様の目の前でお話ししていたのですか?」
「いえ、それも違いますね」
「はあ……」
 私の言葉が通じないために彼女は首を傾げる。
「神はここにいて、だがしかし、ここにいないのですよ」
「は、はあ」
 シタニアは訳が分からず唖然とした顔をしたままである。意地悪い性格だと自覚しているが生徒のこういう表情を見るのは中々に私の心を清々しくしてくれる物である。
「貴方が思う神と、私が思う神は違うのです」
「つまりそれぞれの思う神がこの木という形で存在していると言うことですか?」
「ほう。貴方はやはりこの院の生徒たる素質は持ち合わせているのですね。貴方の言うとおりこの木は様々な神の姿で存在しています。しかしそれは逆に言うと一人の神が存在し続けることは出来ないのです。ましてやここは世界中の思念が集まる坩堝(るつぼ)でもある」
「刻一刻神は変わると言うことですね」
「おみごと」
 ふむ、割りと賢しいな。彼女の雰囲気で嘗めきっていたが結構鋭いところもあるようだ。
「だから神は居ないんです。その存在は確かにあるのですが姿は無いのです。何故なら皆が思う神は区々だから」
「ほへぇ」
 あまりに彼女の知識とかけ離れてしまったのだろう。彼女はただ感嘆の声を漏らすだけである。
「ですが今私達がしていることは危険なのです」
「それは何故ですか?」
「いくら思念が区々であっても、神の木を目の前にした者の中に『神に近い者』が混じっているとそれはとんでもないことになってしまうのです」
「『神に近い者』とは?」
「史上いくつかの発見例があったのです。神という者に干渉できる者の存在が確認されています。その存在は驚異であるのですよ」
 まかり間違ってその者が人を憎んでいたらと考えるとぞっとする。その干渉力が強大であったら人は滅びるであろう。ましてやこのご時世だ。人が世界の癌であるという考えを持つ人間も多数いる。その思念がどれだけ人間を脅かしているかを理解していない人間ばかりなのだ。弱い干渉力の『近き者』でも、その多くの人間の思念を背負い込んでいたらやはり人は神に滅ぼされてしまうと考えられている。
「では何故ここを開放しているのですか?」
「例えここにそのような人物がここに立っても何も起こらないからです」
「でも先程先生は……」
「そこからは貴方自身が調べて自分の道の糧としなさい。魔道に進む者ならば先人に聞いてばかりでは感心できませんよ」
 尤も、私の方が彼女より歳低いのだから先人と言えないという揚げ足も取られるが。
「そうですね。自分で調べてみます」
 彼女は恥じるように顔を赤らめながら笑った。素直な笑い顔に好感を持てる。
「やっぱり先生は凄いですね。色んな事を知っていらっしゃるのでしょうね」
「確かに貴方以上に知っているでしょう。しかしそれでは私は満足できないのです。私はもっと知らなくてはならない」
「先生?」
 いけない。いつもの癖が出てしまったようだ。
「いえ、何でもありません。それで、他に何か用はありますか?」
 ここに来たのは私を追ってきたのだと彼女は言った。それだけの理由でここまで追ってくるであろうか?
「昨日のことを謝りたくて」
 昨日……ああ、あのことか。
「いいのですよ。聞けば貴方には妹が居るみたいですね。貴方のあの行動は妹さんが好きなのだという証明なのです。確かに教師にすべき行為ではありませんが私はこのような人間なので特例でしょう。だからお気になさらずに」
「あ、有り難うございます」
 彼女は再び屈託のない笑顔を見せる。何と微笑ましい人なのであろうか。彼女が笑う度に私の中に温かい何かが滲み出てきていることが自分でも感じられる。 彼女の笑顔は人の心を穏やかにする力を持っているに違いない。


 そう、何かが滲み出てくるのだ……


   『その子』


 熱い何かが


   『私と同じ匂いがするの』


 腕に激痛が走る。
「くっ、何のつもりですか」
 私の腕に刺さるナイフを握っている手は間違いなくシタニアの手だった。
「あれ…………私何してるんだろ?」
 彼女は刺さっているナイフを見つめ、自分がしたことに疑問を抱いているようにその手を見つめる。

 それは急に訪れた。
 彼女の笑顔が急に歪み、その手に隠していた何かを私に向けたのだ。それが鋭利なナイフだと気付いた時には私の腕に深く差し込まれていた。何の躊躇もなく彼女は私を刺した。
「あれ、おかしいな……私、何で先生刺してるんだろ? 先生分かります?」
 巫山戯ろ。分かるわけ無いだろ。

   『あらそう? 貴方ならきっと分かるはずよ?』

「あー思い出した。私先生のことが好きだったんですよ」
「…………」
 いけない。体躯はあちらの方が大きい。それに私はこの体を上手く動かせないのだ。背後に大木を迎えている私はあまりに不利だ。
「でもこの前先生に覚えて貰ってないことを知って……それで……」
「そのようなことで殺されかけるというのも不本意すぎますね」
「だって……あの子もこうしたら言うこと聞いたから……」

   『その子、私と同じよ』

「あの子?」
 彼女はナイフにべっとりと付いた私の血を眺めて恍惚とする。その顔はとっくに理性を失っていることを知らせるには十分すぎる情報であった。眼が逝かれている。
「そう。私の可愛い妹。シスベラって言ってね、すっごく可愛いんですよ」
 その見開いた眼は瞼で覆われる頻度が少ないために血走り始めていて、それが彼女の顔の狂相っぷりをさらに誇張させていた。
「あれはいつだったかしら。あの子が私を拒んだからつい頭に血が上って手に持ってた果物ナイフをあの子に刺したんですよ。そしたらあの子、泣いて私に許しを請い始めたの。その時私知っちゃったんですよ」

   『人を傷めるのが大好物なのよ』

「人を従わすには暴力が一番だって」
 その目に映るのは私の体のみ。
「聞いて安心しましたよ。先生は身を守る手段が少ないって」
 っち、あの問いはその事を確かめるためだったのか。
「私、これでも優等生なんですよ? だから殺傷能力を持つ魔法も少しばかり学習していたりするんです」
 ますます分が悪い。私の術はまだ完成していないので頼りにならないし、どうすべきか。
「でもね、先生。私はコレが一番好きなの」
 ナイフを逆手に持ち変える。それはよく殺しに慣れた者が構える方法だった。興味本位で覗いた護身術の本で見たことがある。

   『私に任せてくれないかしら』

「貴方は黙っていて」
「先生? 誰と話しているんですか? 私を無視しないでくださいよ」
 一歩一歩ナイフをちらつかせながら近づいてくる狂気。私は一体どうすべきなのだ。

   『貴方はここで死ぬわけにはいけないのでしょう』

 その通りだ。しかし、だからといって……。

   『あの子の考えは私にはわかるのよ』

 ……分かった。一時的に私は退く。後は頼むぞ。

   『任せて。必ず……』

「先生?」
「必ずこいつを殺してみせるわ」
「……あはは。先生ったら何言ってるんですか」
 既に残り数歩と言うところにまで来てシタニアは立ち止まった。その顔は自信に満ちていた。
「先生が私に勝てるんですか?」
 シタニアは小さく何かを呟いた。
「でも何だか不吉なので一応保険張っときますね」
 するとナイフは赤く光り始めた。
『あれは何?』
(恐らく単に熱を与えただけかと。ただし実際に熱を刃に与えているのではなく、熱の殻を刃の周りに形成していると考えた方が近いように見えます)
『そう。貴方の知識は頼りになるわね』
(いえ、こういう事態では知識を持っていたとしても犬死にしてしまうことの方が多いでしょうからあまり誇れませんね)
 更に赤くなったナイフを構えるシタニア。その目は殺意に満ちている。
「先生私ね、昔から小さい女の子が大好きだったの。だからね、先生を見たとき体中を電気が巡ったんですよ?」
「あらそう。私も貴方と同じで小さな子を傷つけるのが大好きなのよ。でもねお前はそう簡単に私を殺せないわ」
「え……先生?」
 急に変わった口調に驚いたのだろう。今、体を支配しているのは彼女であり、私ではない。だから言葉を発することが出来るのは彼女だけである。
「ほらどうしたの? 私を殺すんでしょ?」
 また挑発か。一体彼女は何を考えているのだろうか。マタドールでもお手本にするつもりかね?
「ふふ。赤い布ならぬ血染めの袖で遊んでみましょうか?」
「……へぇ、先生結構余裕ですね」
 追いつめたはずの脆そうな子供が恐怖に怯えていないことで怒りがこみ上げてきたのだろう、シタニアの眉間に青筋が立ち始めた。もう後戻りは出来ない。この世界、殺し殺され等ざらにあるのだ。
「じゃあね先生。先生は妹と違って私に服従しそうにないからいらないわ」
 何と自分勝手な。これで優等生だというのだから聞いて呆れる。
『あら違うわよ? 貴方も十分自分勝手なのだからお互い様でしょ?』
「精々痛がってくださいね? じゃないと私、今夜の楽しみが無くなってしまいますもの」
「っへ、いっちょまえに発情してんじゃないよ。あんたごときに私が殺せるなんて勘違いしないでよね」
 シタニアはゆっくりと前に体を傾け、その頭が私と同じ高さになると同時に襲いかかってきた。しかしそれはあくまで人の速度、ましてや少女のそれだ。『私』はそれを難なく横に避けた。
「人間の急所の中でさ、素手で簡単に仕留めることが出来るのは何所だと思う?」
「……さあ、興味ありませんね。私が興味あるのは先生がどんな叫び声を上げてくださるかだけですもの」
 上気した頬を手で恥ずかしそうに隠す。もはや壊れている……殺傷行為がそれほど楽しみか。
「そう。知っておくといいわよ。私のような小さな体でも出来ることがあるの」
 『私』はシタニアがナイフを構えている左手目がけて右手を一直線に伸ばした。刃物を持つ手を何の躊躇いもなく素手で狙う。
「そんなの避けられるに決まってるじゃないですか」
 そう言ってシタニアは左手を退いた。退いてしまったのだ……。
「バーーーーーカ」
 『私』は伸ばした右手を引く力を利用して腰を大きく捻り、左手を勢いよくシタニアの背中に伸ばし、服を思いっきり引っ張った。体重の全てを後ろに預け、全ての力で彼女を引っ張ったのだ。
「なん!」
 既に重心が背中側に移っていたシタニアの姿勢ではそれに耐えることは出来なかった。体を強く地面に叩き付けられてうめき声を上げた。
「誰もが思いつくところだよ。でもね、普通の人間は躊躇うのさ」
 倒れたシタニアの左手を全体重かけて踏みつける。ゴキリと小気味好い音が静かな世界に響き渡った。
「っっっっつ」
 シタニアは声にならない声を上げる。ナイフを握ったまま踏みつけられたために関節を全て砕いてしまったようだ。
「でもね、私は躊躇わないの。貴方と同じで人を痛めつけるのが大好きな人間なのよ」
 痛みで左手を抱くようにしたまま転がっていったシタニアを、獣が地を這うように追いかけ馬乗りとなる。
「綺麗な血を流して頂戴ね」
 そして諸手を大きく振りかぶり、中指だけを尖らせるように拳を造り、その二つの凶器をシタニアの両目に叩き下ろした。
「ギャアアァァ」
 遠くの森で鳥たちが騒ぎだした。それほど彼女の叫び声は大きく、それほど彼女の負った傷は致命的だった。
 致命的? そう、致命的だった。

『止めなさい!』
「ふふ、貴方は黙ってなさいな」
『もういいでしょ。もう戻りなさいよ!』
「嫌よ。折角こんなチャンスが巡ってきたのだもの。最後までやらせて貰うわ」
 最後まで……最後までと『私』は言った。

 『私』はシタニアが『私』から転がり逃げる際に手放してしまったナイフを拾った。既に魔法は消え失せていた。しかし、

 いけない……。

「残念なことに血で涙かどうか分からなくなっちゃっているけどまあいいわ」
 ナイフを振り上げシタニアの太ももに勢いよく下ろした。トスッと小さな音がした。
「っはぁ」
 シタニアは血涙流れる顔をしかめて泣き叫ぶ。既に痛いであろう足を手で庇おうとする反射すら見られない。
「貴方なら分かってくれるでしょう? 小さな女の子が流す血ってすっごく扇情的なのよね」
 シタニアのももに突き刺さっているナイフを上下左右に揺すり抉り、噴き出した血を指で掬って嘗め取った。
「最後までやらなきゃ勿体ないわ」
『最後って貴方……』
「安心して。バラバラにするのは趣味じゃないのよ」
 大きく草が動く。『私』の口から出たバラバラという言葉にシタニアは体を跳ねらせたのだ。
「あら? 貴方削られる方がお好みだったりするの?」
 シタニアは見えないであろう潰れた目をこちらに向けながら、勢いよく顔を左右に振った。当然だ、そんなもの喜んで受ける人間は居ない。
「そう、勿体ないわね。痛みを味わうという高尚な趣味を理解できないなんて」
 地面に何か垂れた。それは恍惚とした笑みを浮かべる『私』の口から漏れた涎であった。
「さ、続けましょう?」


 それからシタニアの反応が無くなるまで『私』はナイフを振り下ろし続けた。その度に響き渡る悲痛な声は誰にも聞きつけられることはなかった。そう、それは元々シタニアが求めていたことだった。まさか自分が逆に殺されるとは思っていなかっただろう。

『酷すぎる……』
 転がる死体には数えきれないほどの穴が空いていた。刺し傷なんて物じゃない。『私』がナイフを刺す度に抉ったために大きな穴となっていたのだ。そこから零れ出る血が地面を濡らし、足下は泥のようになっていた。
「何て……美しいのだろう……」
 げに恐ろしくは『私』の感覚であろう。このような光景を見て感嘆のため息を流すとは……。
「あら、それは違うわよ?」


「貴方は私を護りたかったのではなく、羨ましかったのだから」
『そんな、そんなわけない……』
「違わないのよ。私は知っているのよ? 貴方が考えていること全部」
『嘘だ……』
「貴方は自分のことが分かっていないだけなのよ。貴方は私のことが分からなくても私は貴方のことがわかる」
『……』
「思い出しなさい。よく貴方が何気なく考えていることを。そして直ぐに忘れてしまうことを」
 いえ違うわね、と彼女は続けた。
「貴方は必死に忘れようとしていたのよ」




 その日、院から学生一人が消えた。
 何、この世界ではよくあることだ。騒がれることでもない。

 きっと、きっとそう……。
   きっとその学生は魔道の犠牲者になってしまった敗者なのだ。

 皆がそう思い、そしてその事を直ぐに忘れていった。
 誰も見ていない。神の木の近くに何かを埋めようとしている子供の姿など。





 これ程までに生きるのが辛いなどと考えたことがあっただろうか。全てが辛く、全てが憎い。
(私は自分を知らなかったのだ)

 今すぐにでもこの首を掻っ切るのも良いが、私の頭はもっと別のことを望んでいる。
(私は自分に失望した)

 全て消えてしまえばいい。その消滅に私が巻き込まれるだけで良い。自分一人いなくなるのではなく、世界が欠ければいい。
(もう、何も信じられない)


 階段に座る私の目の前で誰かが立ち止まる気配がした。
「君は何かを背負い込んだようだね」
 顔を上げるとそこには長く髭を伸ばした白髪の老人が立っていた。長く毛深いまゆ毛の奥には優しげな目がどっしりと居座っていた。
「院長……」
「全てを話す勇気があるなら、私も君の力になろう」
 生ける魔法使いで最も偉大な者の一人に数えられる院長は優しく微笑んだ。その瞳は私の中を見透かすように、しかし凍ってしまった私の中身を溶かすような不思議な力を持っていた。
「私は!」
 言って良いのか? この人物に話してしまっていいのか?
「私は……」
 いや、もう私一人ではどうしようもないことなのだ。今まで信じていた自分のあり方を否定されてしまったのだから。もう、何もかも放棄してみたい衝動に駆られているのだ。そうすれば楽になるなどと、決して有り得ない未来を想像して。
「学生を殺してしまいました」




 それは私にとって、私達二人にとって大きな意味をなす出会いであった。

 そして私は、

 そして『私』は、

 別々の器に分かれることにしたのです。

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