第四話 イキトシイケルモノ / 3
ちょっと一般的でない言葉を使っています。
3
「君が知ったのは真実だけだ。事実ではない」
その女は俺の足を踏みつけながらそう見下して言った。
「さっき君は言ったね。後悔していると」
既に感覚が無く、まるでゴムでも膝下に付いているのかと錯覚してしまうくらい不味い状況にある俺の足を、その女は更に捻り踏んだ。
「後悔なんて言葉使わない方が良いよ。それはね……」
ガンガンと鉄を叩いているような耳鳴りの中から何とかその女が発する言葉を聞き取る。正直、もう限界だ。
「過去の自分への責任転嫁なのよ。人間はいつもそう、自分が可愛ければ過去の自分も未来の自分も裏切ってみせる汚い生き物なのよ」
視界がぼやけていく……。これは死んだな……。
「おや、こんなものかね? 君の名は響いていたので少しは期待していたのだが、これでは何も楽しめないではないか。晩食が不味くなると言うモノだ」
ふざけやがって……。お前みたいな化け物と一緒にすんな。俺は至って普通の魔法使いなんだよ。
「つまらないなぁ。まあ良い。今日はあいつの所にでも行って蜜夜でも興じてみるか」
左腕が欠けているその人間の化け物は俺の顔を覗き込むとあざけ笑った。
「じゃあな、弱者」
▽▽▽▽▽
人は苦しみによって自己の安全を図る。それは未来の自分に出来るだけロスを残さないようにと言う考えなのか。苦しみを感じられない人間は、つまりロスを気付かずに溜め込み、そして死んでいく。ならば人より多くの苦しみを感じやすい人間は、一体何のために「多感」でいるのであろうか……。
「必要死よ」
「アポトーシス?」
昨今チープな言葉となってしまっている『魔王』という存在を馬鹿らしくなる程に体現できているアケミは、ボクという何の力のない人間に魔の意義を説いてくれた。
「そうよ。人間が増えすぎた場合、免疫分子がその絶対数を減らすのよ。これは必要なことなの」
手に持っていたグラスの縁を滑らかに舌で嘗めて見せたその鬼は、ボクに対して挑発的な目を向ける。
無論、ボクに対する目ではなく人間と言う存在に対する目であることは十分に理解している。
「アイシス、貴女は自分の体のことを理解しているかしら?」
どういう意味であろうか。ボクという、決して普遍的とは言えない体質のことを指しているのか、それとも人間という定義に存在する範疇での情報を指しているのか。
「免疫組織の話ですか? それならボクの専門分野でないのでよく分かりません」
「そう」
アケミはロックアイスを机に置くと、アイスピックでそれを細かく砕いた。
「これが人間、これが私達とするわね」
細かい氷粒の山を二つに分けそれぞれを指さす。
「そして同時に異物と、免疫分子とする」
アケミは人間・異物と指さした氷をいくつか指を使って溶かす。
「異物が消える。するともう一方はこうなるわ」
今度は魔・免疫分子とした方を同じようにして溶かす。
「捕食の問題ですか?」
「それもあるけど、もっと大きな理由があるわ」
ふむ。人間が消えると魔が減る。昔は捕食の問題であったが今では魔は当たり前のように人間以外を食すことが出来る。ならば何だ?
「わからないかしら?」
「思い当たりませんね」
ボクが首を横に振ると、アケミは魔の方の氷を二つ摘み、それをお互いにくっつけた。
「私達は本能として好戦的に作られているの。これが答えよ」
面白い。アケミが言いたいことはつまりこうだ。
魔は人間を殺しすぎると、己の本能に従って同種で殺し合うことによりその数を減らす。
そう言えば聞いたことがある。白血球の中には他の白血球を抑える物が存在すると。それと同意と言うことだろう。
「上手く作られているでしょう。地球は常に『均衡』を目指しているのだから、このようにしないと私達だけが生き残ってしまうことも考えていたのでしょうね」
魔が好戦的なのにはそんな理由があったのですか。単純に力による蹂躙欲の所為だったのではなかったのですね。
「均衡……そうね、アポトーシスという言葉と同じ言い方だと『ホメオスタシス』というのが丁度いいかしら」
ホメオスタシス、恒常性か。確かに地球にとってはどちらかに傾いてしまうとそれは異常と言うことになり、病と表現することも出来るのだろう。
「ならば、今この時、世界は老化しているのでしょうか?」
「老いているのかもしれないわね。赤子から成人に移り変わる時その時、それはきっと地球その物の劇的な変化の時代よ。それ以降、つまり生物で溢れているこの世界は地球にとって『余生』でしかない、そう考えても良いのでは? 悪性新生物に食い荒らされるのを待つだけの病者、とね」
やや凄味を顔に映していたアケミは、口を一度一文字に結んだ後クスリと笑いながら続ける。
「奇想天外な例の説ならば、現世は老人の夢だということになるわね。そうね、そうだったら好いのにね」
ボクがアケミの言葉と、その言葉に含まれている真意を理解しようとしていると、扉がノックされ、アズサの首がひょこっとドアの隙間から飛び出した。
「あの、ケーキを焼いたんですが良かったら如何ですか?」
アズサはいつもと違って何処か一歩退いたような様子である。彼女らしくない態度であった。何かあると言う考えは失礼かもしれないがやはり大人しいには理由がある筈である。
「アズサが焼いてくれたのですか?」
「そう……です」
何故だろう。嫌な予感しかしない。
「梓、貴女が誠意を込めて作った物ならアイシスはちゃんと喜んでくれるわよ」
何故か既にそこにアケミの名はなかった。
「そ、そうですか? なら今すぐお持ちしますね」
アズサは廊下を走る靴音で喜びを表しながら戻っていった。
「アズサは料理係でしたよね」
「ええそうよ」
アケミは机の上で完全に水となった氷を布で拭う。何かを誤魔化すかのように鼻唄を歌いながら。
「ただし、滅多に調理自体に手を出す事は無いわ」
……そうですか。
▽▽▽▽▽
そいつは言った。
「人間の欲にはざっくり切り分けると食欲、睡眠欲、性欲があることは知っていますね」
「ああ」
そいつは三つ立てていた指にもう一方の手の指を一本横に添えて立てた。
「もう一つあるんですよ。分かりません?」
そいつの面は楽しそうに歪み、そして楽しそうに喉を鳴らした。
「自殺欲ですよ」
そいつは本当に楽しそうに……笑った。
アポトーシスは本来「計画死、組織的死」という意味の方が近いですが、この話では肉体形成時の「必要死」の方を使いました。
ちなみにアポトーシスもホメオスタシスも広辞苑に載っています。