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神影の彷徨 作者:ゆちゃあ
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第三話 水鏡 / (終)「ふたり」(終)

 短刀によって弾かれた釘が姉妹を追う
 その軌道は正確に人間の急所を捉えているという完璧な『殺人法』であった
 菅江由音は人型を殺すことにかけては削強班の中でも上位に位置する
 歳は一番若いが実力は矢岩玄以外の者の追随を許さない程である
 表現するなら才能のその一言で済む
 彼女は人型を殺す事に長けていた

 しかし異形の者は幾度か剣を交えたがどうにも調子が狂い鏡の魔法によって助けられる事が殆どであった

 由音は異形には恐れを覚え体が震えてしまい力を発揮できなかった
 しかし人型に対しては異常とも思える程強い
 それは怒りに似た感情に支配されているためか
 彼女は己を憎悪の念に染めて人型に襲いかかる
 人の形をした生き物がとにかく憎かった

 逆に鏡は人型よりも異形の者に力を出せる
 自分の得意とする魔法を武器に異形を消し飛ばしてきた
 それは吹っ切れると言うのが一番しっくりくるのか
 姿が自分から離れている事で罪悪感が薄まるらしい
 人型によって起こる躊躇いは彼女の最大の弱点であった


「へぇ、お姉さん達上手っすねぇ」
 由音が撃つ釘は確実に妹の首刈り器と姉の大剣で打ち落とされていく
 釘は床に落ちると床に溶けるように消えていった
「この程度で私達の相手をするなんてよく言えるわね」
 妹は正確に釘を払いつつ由音との距離を縮め、その後ろを姉が付く
 距離が次第に縮まってきた
 しかし由音の顔に焦りは見受けられなかった

 相手は人型、由音はそれだけで暗示にかかった様に攻撃的になるのだった

「困るっすねぇ。自分のことをそんな風に見くびられると自分を育ててくれた先輩に失礼極まりなくなってしまうっす」
 由音は左手に魔力をつぎ込んでどんどん釘を作り出す
 作り出す釘はただの物質としての干渉だけでなく、彼女が得意な呪詛を一本一本に組み込んである代物である
 それを休む暇なく短刀で撃ち込んでいった
 しかし姉妹は少しずつ下がる由音の足よりも大きく前進し、由音との距離を縮めていく

 由音の足が壁にぶつかる
 とうとう由音は壁際まで追い込まれてしまった
 逃げ道はあるにはあるが少し廊下を戻らなくてはならない
 そこにある階段までたどり着ければあるいは形勢を逆転できるのかも知れない
 しかしその為には必殺の獲物を構えた姉妹を越えなくてはならない
 つまり既に退路は無いに等しい

 しかし由音は焦りを感じていなかった
 自分の釘の威力など結局の所頼りにしていない
 彼女は射撃兵では無い

「あら、子兎ちゃんは自分から穴の奥に入り込んで蛇と戦うのかしら?」
 妹は由音の行為を馬鹿にする
 当然だ、壁を背負って何ができるのだ

 由音は先程から一度も後ろを振り返らなかった
 それは経験の浅さから来ている失態であった
 今までの任務では事前に戦場の大まかな地形を資料として手に入れる事が出来た
 しかし今回の戦場は鬼神の城、当然資料など無い
 そんな状態で背後を気にせず闘う等無謀であった
 その結果が壁を背負うという誰しもが絶望する戦況である
 若輩者がするような余りに致命的過ぎる失敗であった

「そうっすね、穴が狭ければ前歯でガブリといきやすいっすもんね」
 しかし由音の声に焦りの音は含まれていなかった
 ポーカーフェイスと言う上等な技術は持っていない、それでも由音は冷静であった
 それは自分の武器(まえば)に絶対の自信があったから
 その武器があるからこそ彼女は削強班でも一目置かれる存在になって来たのだ
 これがあるからこそ殆ど何も知らない戦士が戦場を生き渡っていられるのだ

「言うじゃない。面白い子ね」
「そりゃどうも。それと一つだけ勘違いしている様なんで言わしてもらうっすけど……」

 妹と由音の距離は大きな踏みこみ一歩で相手の懐に潜れる程になった
 由音はその距離を待っていた

「外見だけで判断しない方が良いっすよ……」

 右手に溜め込んでいた釘を空中にばら撒く
 それが床に着く前に由音の口から呪文が零れる
 それを見て瞬時に姉妹達は前衛後衛を入れ替わった
 敵がここに来て初めて見せる魔法に備えて盾でもある大剣を姉が構える
 姉妹は相手の魔力が脅威ではないと先程からの攻撃で理解していた
 この少女は間違いなく自分達と同じ肉薄で戦う戦士、魔法は不得手だ
 ならば逃げるよりも盾に隠れた方が安全だと姉妹は考える
 下手に逃げて背中を見せるより目の前で大剣の盾に身を任せる方が次の手に繋がる

 空中に釘が止まる

「自分は貴方達より年上っすから。子供扱いは駄目っすよ」

 今度は短剣を使わぬ魔法での加速だった
 至近距離で魔力を帯びた釘の集団を受け止める大剣は大きな音を立ててその衝撃を周りへ伝えた
 その威力たるや重なる姉妹を盾ごと後ろに押し下がらせるほどであった
 金属の塊にぶつかった魔法の釘は粉々に飛び散り霧の様に立ち込める

 刹那の後、姉妹は由音の目的を理解した

 破片の霧が姉妹を囲む
 その内の一つ、一欠片から炎が立ち上がる
 炎が二人を一瞬で覆う
 破片の全てが燃え上がったのだ

 しかし姉妹もある程度の魔法は使える
 炎と言う原始的な攻撃は一瞬で力を奪われた
 妹が熱を全身に感じながら唱えた呪文によって炎が消し飛ばされた

「やってくれるじゃない」
 妹は姉の持つ盾から様子を窺おうと顔を少し出した
「……いない」

 しかし既に姉妹の前に由音はいなかった

「姉さん!」
 何かの気配を頭上に感じた妹は上に獲物を振り上げた
 姉もそれに続いて大剣を頭上へと振り上げる
 しかしその気配の正体に姉妹は愕然とする

 それは由音の上着だけであった

 姉妹は瞬時に互いに目で指示を下し、得物を対の方向に振り下した

「こっちっすよ!」

 だがその刃撃は由音の体に掠りもせず、姉妹は真横から釘の射撃を浴びてしまう
 姉はそれに応えようと咄嗟に大剣を前に(かざ)すが幾つかが壁を逃れ姉妹を襲った

 姉妹は初めて離れた

 姉は左肩に刺さった由音の釘に仕込まれていた魔法を喰らう
「これは、停滞か」
 硬直した左腕を悔しさの余り大剣に押しつける
 もっと絶命に及ぶ魔法ならば姉は勝利を掴んだのかもしれない
 しかしいくら姉の体でも停滞だけではどうにもならない
 妹に手伝ってもらうしかないが今はまだ遠い
「姉さんは下がって!」
 その言葉で姉は先程まで由音がいた壁際へと跳び退く

 こちらは明確な目的を持っての袋小路への進出であった

 入れ替わりに突っ込んできた妹が由音に得物を音速の一閃に浴びせる
 その足の速さに反応しきれなかった由音はそれを短刀で受け止めるしかできなかった
「貴方の言う通りね、外見で判断するのは愚かだったわ」
 二人は互いの顔を対面して睨み合う
 互いに歯を食いしばり目だけで相手を殺さんとする
「残念、兎じゃなくてマングースだったっすね」
「そうね。ただ噛むだけの狩りなんてつまらないわ。張り合いの持てる敵じゃなくちゃね!」
 体躯の差か、由音は妹に弾き飛ばされてしまった

 三人の息は荒かった
 例え表面上では冷静であっても命のやり取りでは体は沸騰せざるを得ない

「貴方、魔法に頼らないと私にすら押し負けるのね」
「…………」
 妹は楽しそうに喉を鳴らす
 獲物が弱り始めた事を知った喜びだった

 それは由音の弱点であった
 その体は小さく、事実非力であった
 その為に魔力で身体能力を強化していたのだ
 つまり魔力が切れると少女の腕力に戻ってしまう
 既に魔力は先程の攻撃で消耗しきっているために正面で敵の武器を待ち受ける事は難しくなっていた
 あと数合交われば恐らく由音は力で負ける

「でも勘違いしないで下さいね。自分の戦い方はこっちですから」
 由音は悪戯じみた顔をすると短刀を低く構えなおした

 例え魔力が尽きようとも彼女にはまだ切り札があった

「へぇ、そんな粗末な体躯で私達と白兵戦でも興じてみるつもり?」
 妹は姉に目配せを送り、まだ離れているように指示した
 それは勝利を確信した者の奢りか
「いいわよ。この距離なら鬼神達も間に入って来られないだろうし」
 決着をつけましょうか、妹は余興を楽しむ様に笑った

 二人の視線が交差する

 一拍後、妹は目の前で起きた不思議な現象に目を疑った
 由音が持つ短剣から何かが伸びたかと思うや否や彼女の持つ得物が変わったのだ
「召還とは違うみたいね」
「自分は召還魔法を使えないので」
 馬鹿げている
 召還なんて目じゃない程の行為を彼女は平然とやってのけたのだ
「あんた、魔力はないくせにそう言うのは出来るのね」
 由音は二つの短剣から出来たその長い『それ』を弄ぶ
「魔力だけなら自分は底辺彷徨ってますよ。まぁこの力を誇りに思うこともないっすけどね」
 腰を更に低く落とし、突き刺すような視線を姉妹に向ける

 その手にあるモノは黒長い何か

「さて、本気出しましょうか」
 由音は再び不敵な笑みを浮かべた





「……何よこれ」
 決着、そう言葉にするにはあまりにお粗末であった
「ふざけんじゃないわよ!」
 地面に這い(つくば)る妹は首を(もた)げて自分をそうさせた相手を睨みつける
 しかしそんな睨みなど今の由音には何の効果も無かった
「凄まれたところでびびる分けないっすよ。申し訳ないけど貴方達に私を殺すことは不可能なんすから」
 体中を支配している『痛覚』に抵抗しながら見た由音の姿は先程までのとは何かが違った

 そこに立つは女が一人
 苦痛を味わって生きてきた一人の戦士が立っていた
 その目は残虐に妹を見下し、苦悶のその姿を楽しんでいた

「姉さんは逃げて!」
 姉はその言葉を聞くと驚くほどの速さで廊下の隅へと移動し、窓を割って館の外へと飛び出していった
「撤退するって事は負けを認めたって事でいいんっすよね?」
 再び由音は相手を見下しきった表情でそう楽しそうに言った
「そりゃね、あんたみたいのがいるとは聞いてなかったからね」
 苦痛のあまり、口から唾液を垂らしながらも妹はその妙美な顔を歪ませて最後の抵抗のごとく虚勢を張る

 それは一瞬の出来事だった
 目の前の女は子供の喧嘩のようにただ何も考えずに横に振っただけだった
 剣術などと言う単語を当てはめるにはあまりに幼稚なその一閃
 それだけだった

 妹の目に映るは奇妙な現実、長い「それ」が窓や壁を突き破っている現実
 物質そのものを無視してしまうのだろうか
 それなのに妹はその一閃を手持ちの得物で防げると「勘違い」してしまったのだ
 それは簡単に妹の得物を通り抜け妹の体さえも通過してしまった

 その後に来るは激痛
 今まで味わった痛みなどかすり傷かと思わせるほどの苦痛
 体がまともに反応してくれない悶痛
 腕が痛みからの硬直でぴくりとも動かない
 それは敗北を意味していた

「苦しみの中でただ死を待つのって辛いでしょう?」
 妹の目の前で由音の雰囲気が変わった
 先程までの由音は少なくともその姿にあった子供のような雰囲気であったのだが、今の彼女の姿は(おぞま)しい獣であった

 一歩一歩ゆっくりと彼女は近づいてくる

「普通の苦しみは慣れる物だけど、こればかりは慣れることがないのよね。私もその気持ち分かるよ」

 床に先端が潜り込んだその武器の姿が目にちらつく度に妹の体は痙攣する

「『どうして私が』、その痛みは忘れる事はできない、慣れることなんてできやしない」

 由音の言葉はその幼さに似合わぬ重みを持っていた

「お前何者……」

 言葉は途切れた
 妹のその言葉が終わる前にその女は妹の顔面から何の躊躇もなく、死相に対する遠慮もなくその右手に持つ得物を突き刺したのだ

「言ったでしょ。教えられないって」

 鼻に突き刺される瞬間までそれの(きっさき)を目で追い続けていた妹は、それが自分の喉を通る頃には動かなくなっていた

 この場に既に鬼神達は存在しない
 それは幸いか
 この姿を見たらかの鬼神でも由音を今後平然な目で見ないだろう
 しかし由音自身はそんな些末な事を考えていなかった
 どうにでもなれ、それが彼女を支配していた意志それだけである

 動かなくなった妹にしっかりと『後処理』を終えた由音は何の反応のない廊下にぼうっと虚ろな視線を泳がせていた

「もう一人」
 その自分の言葉を合図に再び体を大きく揺らして古傷の痛みが支配する体をゆっくりと前に進める
「間に合うかな」
 汗が滴り落ちるその顔は再びいつもの由音の顔に戻っていた

 誰もいない背後から何かが由音を見つめていた

▽▽▽▽▽

「っはぁ」
 絞れば水が滴り落ちてきそうな空気に包まれた暗い森の中では大きな溜息の音が響き渡った。
「何だこの森は」
 走っても走っても一向に壁にたどり着けない。
「また幻術か……だけど私達がちゃちな幻術にかかるはず無い」
 息を少しでも整えようとぜいぜいと呼吸しながらも周りを注視する。

 何か見えた

(何だ…………人か?)

 森の中に何かが居る。しかし魔の気配はしない。ならば彼処にいるのは人か……。

 その影はこっちに近づいてきているようだ。

(追っ手か)

 姉は整えられない呼吸を再び荒くして大剣を構える。ここまで近づいてしまっていたらもはや逃げ切れないことは明確だからである。それにいくら何でも人間にそう簡単に負けるような体はしていない。そう言う為に作られたこの体なのだから。

 いや、体を最大に利用するなら負けてからが勝負なのかもしれない。一瞬の隙を作るには最高に有利なこの体を持っているのだから。
 死こそが勝利を招く。

 その影は二つに分かれた。二人いたと言うことか。
「お前か」
 聞こえてきた声に姉は驚愕する。それは跳ね回っている心臓を一瞬で凍りつける程の衝撃だった。
「兄様……」
 その人間は持っていた魔具に火を灯した。その灯りに照らし出される男の顔は過去に幾度か見たあの男の顔であった。忘れはしない、忘れることは出来ない。私達姉妹の唯一の理解者なのだから。
「玄、こいつは仲間なの?」
 兄様の後ろにいる女が私を指さしてそう言った。馴れ馴れしい……。

 だが彼女の思っていたと違う流れとなった。

「さぁな」

 …………今、何って言った?

「へぇ。ま、それは後で良いわ。で、どうすんの?」
「総班長がこれを持たせた訳が分かった。こういう事か」

 兄様が……私に何かの先を向ける。

「兄様、私です」
 しかし兄様は軽く頷いただけで冷ややかな目をしたままだ。その目は明らかに拒絶の意を示していた。
「悪いが、死んで貰う」

 …………え?

 目に映るのは兄様の凛々しいお顔。一拍で私の懐に潜り込んできた兄様のその目は熱く蕩ける様に私の目と合う。

 何か熱い物が私のお腹に入り込んだ。いや、冷たかったのかも知れない。気が動転しすぎて感覚が覚束無(おぼつかな)い。

「兄様、忘れたんですか?」

 いけない……あまりの出来事に口が勝手に兄様に対して憎まれ口をたたいてしまう。

「私は死なないんですよ?」

 おかしい……兄様が私の中に差し込んだ物はどう見たって小さな刃物だった。そんな物が刺さったところで、例え毒が塗ってあったとしても、例え麻痺などの呪詛が練り込んであったとしても、その一傷程度では私の体は止まらないはずなのに。先程の停滞の呪詛すら既に解け始めているというのに。

「分かってる。でもな、不死者への対処は既に完成されているんだよ」
 兄様は倒れる私に小さく言った。

 体中が熱い。世界がグニャリと歪む。全てが暗転し私は大きな睡魔に襲われ、

 目を閉じた。

 不死者、それが彼女を指す言葉である。機関によって作り出された作品の一つ。故郷で彼女のことを知らない魔法使いはいない程広く知れ渡っているこの『恐怖』は、また同様に日本という地域でその名を知らないと言われる穿の狩人の一手によって簡単に崩れ落ちた。

 意識が薄れるという、己が今の体になってからは一度も味わったことのない現象にただただ畏怖しながら彼女は深い眠りに落ちていった。

▽▽▽▽▽

 事が終わった森は静寂を取り戻した。
 (しじま)に包まれた二人は目の前にいる人物を哀れむように眺めている。
「これが絶対魔法具の力なのか」
 目の前に倒れる女は呆けたまま闇夜の空をただただ眺めている。眠れるように倒れた後、再び開かれた瞼の中にある瞳はもはや生気を含んでいなかった。
「こんな物を自殺のためだけに作り上げたって言うんだから驚きね」
 鏡は玄が持つ小さなナイフを忌み嫌う様にそう言った。
「不死者でもこれには勝てない。不死者にも弱点はある」
 玄はナイフを慎重に鞘へと仕舞った。少しでも肌が触れた時点で全てを失うことを知っているが故の行動だ。
「記憶だけは不死の定義から外れているんだっけ」
「そうだ。だからこの絶対魔法具なら不死者でも終わりだ」

 玄が持つナイフは数年前、とある魔法使いが己の死のために作った物であった。その魔法使いは最大の到達として『痛み無き死』を掲げていた。


 彼は天才であった。あらゆる魔法を若いうちに習得し、院の探求物の一つに(よわい)五十程で辿り着いてしまったのである。若過ぎたのだ。
 彼はその日から次第に目の輝きを失っていくこととなる。会う人皆から視線を逸らし自分の研究室に引き籠りがちになった。
 ある日、毎度の夕食に来ない事を心配に思った院の小間使いが彼の研究室の扉を開くことになる。そして発見されたのは毒薬を飲んで自害した一人の天才の遺体と、後に物議を醸すこととなったこのナイフであった。
 小間使いは急いで重役達を収集し、その状況を見せた。
 その中には院の重役となったばかりの一人の幼き女子もいたが魔法院院長は直ぐさま彼女だけを部屋の外へと閉め出した。この遺体となった天才の姿が彼女にとって毒にしかならないことを彼は分かっていたのである。
 その事件から数日が経ち、研究室の整理が行われた際に院長は小さな手記が机の裏に隠されるように貼られているのに気付いた。その手記には彼の苦悩が長々と書かれていた。そして最後の頁にあったのが遺体と共に倉に厳重に管理されている小さなナイフについての説明文であったのだ。
 院長は震撼することとなる。
 彼が遺した物は彼が生前到達した魔法と同等、もしくはそれ以上に危険な物であったからである。
 生物としての死でなく人間としての死をそのナイフはもたらす。それはあらゆる記憶を根こそぎ奪うのだ。恐らく死の恐怖を感じぬようにこのナイフを自分の腕に突き刺したのだろう。死を知らない状態になった彼は恐らくただ静かにこの世を去ったに違いない。

 恐怖の対象である死を知らなければ、畏れることはないのであるから。
 毒を飲んだ事も忘れてしまえば最期の時を隣に死を感じながら待たなくても良いのであるから。

 多少の痛みなど気にしなかっただろう。いや、それが痛みとわかっていなかったのかも知れない。それならば魔法使いとしての無意識での抵抗すら起きないのであろう。

 嗚呼、それは綿羽(めんう)の様に優しい死なのであろう。

 それが彼の求めていた『痛み無き死』なのかは彼だけが判断できる。痛みがあったのか無かったのか、それを『知って』いるのは犠牲者だけなのだから……。

 この意味を瞬時に察した院長はある友人に相談する。その友人とは重役の中で唯一の日本人である人物であった。
 友人はそれの危険性を考えて院から遠く離れた日本に隔離する案を出し、そうして今一人の天才が作り出した名も無きナイフが日本にあるのである。


「こいつがあれば不死者なんて目じゃねぇな」
 玄は先程から呼吸しかしない姉の様子を観察しながら呟いた。
「そうね。でもこれは簡単には持ち出せないわよ。今回は何故か許可が下りたけどもう二度と触れることは無いかも知れない」
「まあな」
 玄は鏡の言葉に適当に相槌を打ちながらも横たわる女の肩を掴み背負った。
「夢の中でさえもこいつは二度と死んだ妹に会えなくなっちまったんだろうな」
 彼は珍しく哀れみの言葉を呟いた。





「あら、今日は鼠が多いわね」


 響き渡るはあの声。暗い森に凛として澄み渡る綺麗な声だった。

「私達は鼠なんですか?」
 鏡は苦笑しながらも朱水に挨拶をする。
「お騒がせして申し訳ありません、とだけ言っておきますね」
 本当に挨拶程度の謝罪の言葉だった。
「はいはい」
 一方の朱水もどうでも良さそうに手を振ってそれに応える。
「由音ちゃんがまだ屋敷の中にいるわよ」
 しかし二人は屋敷に向かおうとはしない。
「良いんですよ。今は別行動って事になっていますから」
「あら、意外と放置主義なのね」
 何故か鏡はその言葉にキョトンとするが、話を続けようとはしなかった。
「私達はこれで失礼しますね。面倒なことは後々にして今晩はさようなら」
「あら、由音ちゃんの安否は気にしないの? 貴女達結構酷いのね」
 鏡はよもや情を鬼神に指摘されるとは思ってもいず、こみ上げた笑いを隠すことなく現実へ露見させてしまった。その失礼な様に朱水は少し眉をひそめるが一々そんな事を双犬に関して感じたところで疲れるだけである。
「良いんですよ。対象が逃れていようがあの子によって始末されていようが関係ありません。由音が生きていさえすればそれで良いんです。どうやらちゃんと生きているようですから私達はこのままこの場を去るだけです」
 そうは言うがどうやって由音の安否を彼女は知っているのであろうか。朱水は疑問符を打ちたかったが訊いた所で答えるはずが無いと思い心に仕舞う。
「それではお騒がせしました」
 一礼すると、女を背負った玄と共に鏡はさっさと暗い森へと消えていった。
「削強班には森の呪術は効かないのね。つくづく厄介な敵だこと」
 朱水はその後ろ姿を苦笑しながら見送った。
「御嬢様、これ以上の夜風はお体に障ります」
 後ろから付いてきた梧が手にカーディガンを持って現れた。
「あら、気が利くわね」
 朱水はそれを受け取って羽織る。その姿を梧は頬を赤らめて見つめていた。
「何?」
「いえ」
 朱水の問いに梧は首を軽く振るだけである。
「そう。で、貴女はどう思う」
「はい」
 朱水の言葉に梧は一瞬で顔を引き締めた。鬼神城の中で唯一の参謀としての力を持っている剣士は朱水が訊かんとしている事を理解していた。
「削強班にあの様な物があるというのは初めて知りました」
「私もよ。随分と危険な物を持っているのね」

(一度の失態で全てを失うのか……危険すぎるわね)

「残念ながら我々の方で対処することは出来ないかと。尤も、御嬢様ならあの様な刃が触れる前に消し去ることが出来るでしょうから安心でしょうね」
 梧は淡々とそう述べた。

 勘違いしている。朱水は自分のことなんか心配していないのだから。

「そうね。では戻りましょうか。由音ちゃんもどうやら一仕事してくれたようだし今日はゆっくりと寝られるわね」
 朱水は梧の肩を抱くと屋敷へと歩み始める。
「今宵は冷えそうです。温かくしてお休みなさいませ」
「そう、ありがとう」
 朱水は梧の頬に口付けをした。


「それにしても、死と言う物はこうも呆気ない物なのね」




                           第三話 完
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