第2章
次の日、あたしは自分の直属の上司である経理部長に退職願いを提出した。彼も突然のことで驚いたようだった。
「もしかして寿退社なのかな?君は中川くんの後を継いで立派な局になりたいとよく冗談で言っていたから、ぼくとしても期待していたんだがねえ。まあ次の人にみっちり仕事を引き継いでから、辞めてくれたまえよ」
「もちろん、わかっています」
寿退社についてはあえて否定しない。ただの嫌味だと、あたしにも中川女史にもよくわかっている。細かい計算が大好きな、カメレオンみたいな顔の男――次に入るであろう事務員も、彼の小さなことに難癖をつける性格には辟易させられることだろう。
「寂しくなるわね。もしヨミ先生の予言がなかったら、あたし、何がなんでもキヨミちゃんのこと、説得してたと思うわ。この会社に入社して二十七年、五人くらい相棒の事務員がかわってるけど――キヨミちゃんくらい一緒に仕事をしていて気持ちのいい子、他にいなかったもの」
「そんなふうに言ってもらえて、凄く嬉しいです」
不意に何故か、涙がこみ上げた。嫌味なカメレオン上司のことを抜きにしたとしたら、清苑不動産はとても働きやすい職場だった。他に十名近くいる営業マンたちとは別の、隔離されたスペースで、気の合う友達みたいな中川さんと比較的のんびり仕事ができた。これから先どんな職場に就職したとしても、これほど恵まれた環境を望むことはおそらくできないだろう。
「あたしも、中川さんのこと、きっと絶対忘れません。まだ新しい人も決まってないのにこんなこと言うの、おかしいかもしれないけど……あたしももう二度と、中川さんみたいに仕事のしやすい人と巡りあうことはないんじゃないかって、そんな気がするんです」
そのあとも中川さんとあたしは、カメレオンがどこかへいったあと、彼女の占いの能力のことや、これから先どうするつもりなのかについてなど、仕事の合間合間にコーヒーやお茶を飲みながらいつものように楽しく談話した。
一か月後、新しく若月菜摘さんという、あたしよりひとつ年下の女の子が入社することに決まった。今はよほど買い手市場なのかどうか、その一月の間に三十人以上の人が面接にきていた。若月さんは背が低くて小太りで赤ら顔の、あたしが言うのもなんだけど、ちょっと田舎くさい感じのする女の子だった。化粧っ気などまるでなく、癖のある髪を生ゴムで一本に束ねている。
カメレオンが何故面接で若月さんのことを選んだのか、なんとなくあたしにはわかるような気がしていた――というのも、隣の応接室で面接が行われるたびに、お茶を運んだのはあたしだったから――彼女の他に、もっと仕事のできそうな人、あるいはしっかりした経歴の持ち主、簿記の資格を持っていて事務経験のある人……などはたくさんいた。にも関わらず、カメレオンは鈍くさそうで(若月さん、ごめん)簿記の資格も事務経験もまるでない若月さんのことを選んだ。それは何故か?答えは簡単。時間をかけて仕事をしっかり教えこみさえすれば、若月さんは中川女史の局の地位を継いでくれるだろうと、経理部長はそう踏んだのだ。
「顔が綺麗でスタイルのいい娘っていうのはさあ、すぐ結婚しちゃうでしょ?せっかく仕事を丁寧かつ親切に教えても、一年かそこらで辞められちゃあねえ。だったらやぼったい感じのする、ちょっとやそっとじゃ辞めなさそうなお尻の重い女の子、雇ったほうがいいでしょ?」
カメレオンは黒縁の眼鏡をふきふき、いつものようにそんなセクハラ発言を平気でしていた。あたしは口をへの字に曲げている中川さんと目線で会話を終え、ただ黙々と手元の伝票や帳簿などを片付けていった。若月さんがトイレにいっていて、席を外している時のことだった。
「先輩、再びよろしくお願いしまあっす!」
元気いっぱい若月さんは、トイレから戻ってくるなり、どかんと事務用の椅子に座り、つつつと隣のあたしの机にまですり寄ってきた。人懐っこい子だ。
「先輩、わたしここに就職できてとっても幸せですう。あたし、前の職場でものすごおいいじめにあっててぇ、大変だったんですよお。これ、飴あげます、お近づきのしるしに。はい、中川女史と部長にも」
あたしはミント味のキャンディを受けとりながら、何故彼女が物凄いいじめにあったのかがわかるような気がしていた。なんとなく。それでも若月さんは不思議な魅力で、カメレオンのじっと湿ったねちっこい性格さえも一段階パッと明るくさせるという驚異的な業をたったの一週間で行っていた。
「部長のセクハラ発言なんてぇ、わたしが前の職場で経験していたいじめに比べたら、蚊のおならか蝿のしょんべんみたいなもんですよお」
昼休み、三人で休憩室で休んでいる時に、若月さんはお弁当を広げながらそう笑った。しゃべり方に独特の癖があるけれども、この子はあくまで天然なのだ。慣れてくるとべつに何も感じることもなく、あたしも中川女史も、彼女のキャラクターに自然と馴染んでいた。まるで一年以上も昔から三人でタッグを組んで仕事をしているみたいに。
「でも、ナツミちゃんみたいないい子が入ってきてくれて、あたしも本当に嬉しいわ。キヨミちゃんとは特別仲良しだったから、もう次の子とはそんなに仲良しさんにはなれないだろうなあって思ってたの。でも三人でこんなに楽しく仕事ができて――なんだかキヨミちゃんが辞めちゃうのがもったいないっていうか信じられないっていうか」
「そうですよねえ。どうして先輩、こんないいとこ辞めちゃうんですかあ」
「まあね、事情があるのよ。色々と」あたしは三人分のお茶をポットから淹れながら言った。「でもあたしも、ナツミちゃんがきてくれてなんだか凄くほっとしちゃった。仕事はなんといってもチームワークと親和力が一番大切だもの。これまではね、カメレオンが目の上のタンコブみたいに邪魔くさくて仕方なかったんだけど――ナツミちゃんみたいに、明るく前向きに真っすぐぶつかっていけば意外に変わるものなのねえ。びっくりしちゃった」
あたしと中川さんはくすくす笑いあいながら、互いのお弁当のおかずを一品、交換しあった。厚焼き玉子とウィンナーソーセージをトレードする。
その後、九月の半ばに会社を辞めるまでの間、あたしは毎日仕事をナツミちゃんに教えるのが楽しくてたまらなかった。彼女は確かに物覚えの速いほうではなかったけれど――それでも、あたしがいなくなったあと、しっかりひとつひとつの仕事をこなせるよう、引き継ぎノートに事細かくメモしまくっていた。その熱心さを見ていると、あたしのほうでも一生懸命教えようという気になったし、彼女の馬鹿っぽい話し方の裏に隠されたひたむきで真摯な性格に触れると――人生で一番大切なことがなんだったのかを思いだせそうな感じがするのが、何より不思議だった。
家賃が月二万五千円の1LDKのアパートからは、すぐ隣の立派なお屋敷の庭が見下ろせる。丈高い立派な松の樹や赤い実を実らせるナナカマド、紅葉している楓、それから黄色い葉っぱがはらはらと舞うイチョウの樹……昔住んでいた麻生の一軒家の隣にも、同じようにイチョウの樹が一本あったのを、この季節になるといつも思いだす。楓などの落葉樹が秋に紅葉するのは自然なことだと、子供心にもそう思っていた――でもイチョウは違う。夏の間は瑞々しいくらい緑なのに、秋になると黄色くなり、その上実を実らせる。あたしはモロと一緒に近所を散歩しながら、隣の家のイチョウの樹を、とても不思議な眼差しで見上げていたと思う。そして銀杏の葉と実を拾い集めて、モロと一緒に嬉しい気持ちでいっぱいで、家の玄関に駆け上がっていったっけ。
「ねえお母さん、これ見て!」
あたしは他に、道端で拾ったどんぐりやげんごつなどの戦利品と一緒に、その銀杏の葉っぱと実を母に見せた。珍しいものを見てきっと母も喜んでくれるだろうと、そう思ったのだ。
「駄目よ、キヨミ。そんなばっちいものを拾ってきたりしちゃ。それより、早くきちんとモロの足の裏を拭いてちょうだいね。黴菌が体の中に入って風邪をひいたりしたら大変でしょ」
――わたしの母は、極度の潔癖症だった。はっきり言って、それが父と母が別れた理由だったといっていい。お母さんは多分、父さんのことを深く愛していたから結婚したのではなくて、立派な家や高い給与といった、父さんの経済的条件のようなものと結婚したかったのだと思う。どちらかというと大雑把な性格の父さんは、わりと機嫌のいい時には母さんのことを適当にあしらっていたけれど、機嫌の悪い時には面白くない顔をして煙草を吸っていることが多かった。ひどい時にはほんの些細なことで口論となり、夜中まで戻らなかったこともある。
「頼子はね、男とか家庭とかじゃなく、家そのものと結婚したかったんだよ」
お父さんとお母さんの間の仲をとりなすために、よくおばあちゃんがうちにきて、そう言っていたのを思いだす。だからどうか堪忍してやってくださいな、と。その<家>の中には喜春さんのことも含まれているし、清美のことだって含まれているのだと、そう思って……。
おばあちゃんの言うとおり(ちなみに母は今実家に戻って、今年八十四歳になる祖母の介護をしている)、母さんの<家>そのものに対する執着は、フェティッシュといってもなんら差し支えないくらいだった。自分の気に入った家具や調度品に囲まれていることにこの上もない安らぎと幸福を感じるという、母はちょっと変わった人だった。だからその自分の気に入っている空間を乱されるのが嫌でたまらなかったのだ。それがたとえ自分の夫であれ、血の繋がった娘であれ。
やがて年月とともに彼女の夫に対する愛情がどんどん薄れていくと、父さんは母さんにとって目障りな粗大ゴミ以外の何ものでもなくなった。ようするに、相手が何をしていても気に入らないようになり――そうなると喧嘩が絶えないようになり――最後には一階と二階とで完全なる別居生活を送るようになったのだ。
わたしの両親はそんなふうにして、あたしが成人するのとほぼ同時に、正式に離婚した。
闇川ヨミさんの「毎日ひとつ、いつもと違うことをしなさい」という言いつけを、あたしは忠実に守っていた。毎朝有機丸大豆の納豆を食べることからはじめ、その次にはまず家計簿をつけることを辞めた。それからその次に、毎日会社帰りに何かひとつ、無駄使いをすることに決めた。最初は100円コーナーでケチな買物ばかりしていたけど――それにも飽きると、小さなサボテンの鉢植えや食卓テーブルに飾る花、観葉植物などを集めることに懲りはじめた。
さらに、それにも飽き足らなくなったあたしは、来年の春に向けてヒヤシンスやチューリップ、ラッパ水仙やグラジオラスの球根を園芸ショップで買い漁るようになっていた。自分でも一体どうしてしまったのかよくわからなかったけど、体の中で何かのスイッチが入ったみたいに、花や球根や何かの種や土、プランターなど、園芸用品にまつわるすべてを買うことがやめられなくなってしまったのだ。
こうなると当然、1LDKの室内は花やら観葉植物やらわけのわからない園芸用品でいっぱいとなり、やがて足の踏み場もなくなった。そこであたしは本屋で住宅情報誌を数冊買ってくると、なるべく広いベランダのある部屋へと引っ越しをすることに決めたのだ。
「もっしー、ケイコちゃん?あたしあたし、レイコよレ・イ・コ。悪いんだけどさー、今日泊めてくんない?アパート帰ったらさー、大家が今日こそでてけって言うのよ。どうせ電気もガスも止まってるようなボロアパートだからさあ、酔ってる勢いもあって『ええ、でていきますとも』って、啖呵切っちゃったのよ……うん。え?キヨミ?ケイコじゃないの?」
絹笠玲子は、高校時代の唯一の親友だった。彼女はとても破天荒な性格をしていて、その後まともな社会人となったあたしとは、やがて疎遠になっていった。よくうちの電話番号を覚えていたなと思う。だってこれ、間違いなく公衆電話だったから。
「久しぶりだねえ、キヨミ。元気してた?成人式の時以来かなあ。今なにしてんの?え?失業中?」
そこで玲子は何故か「ぐはっ」と血を吐くようにしてからケラケラと笑いだした。
「なによそれー!今のあたしと同じじゃん。あたしも今プー子ちゃんなのよ。あんた今も昔と同じとこ住んでんの?じゃあこれからそっちいくわ。積もる話はそのあとしようよ……うん。そいじゃあ、したっけねー」
ガチャリ、と電話が切れる。あたしは住宅情報誌を閉じると、この部屋にふたり並んで寝るのはきついかもしれないなと、花と観葉植物のジャングルのようになっている、ワンルームの狭い室内を見回した。夜の十二時過ぎのことだった。
「あーんた、なによこの部屋、おもしろーい!」
玲子は二時過ぎにうちへやってくると――なんと、ススキノから平岸まで、彼女は歩いてやってきたのである!――開口一番そう言った。
「前にきた時はこの部屋、必要最低限以外のものが何もない、至極シンプルな部屋だったわよね?なあに?もしかして心境の変化ってやつ?」
二時間ほど歩いてすっかり酔いが醒めたのか、彼女は素面に戻ったように<わりと>まともだった。長い髪をかきわけながら、テーブルの前にどっかとあぐらをかいている。
化粧がとれかかっていても、彼女は昔と同じようにとても綺麗だった。早速とばかり、バッグの中からマルボロをとりだし、それに火をつけている。うちには灰皿というものがないので、かわりに空缶を灰皿がわりに差しだした。
「相変わらずだね、レイコは。確か前に会った時も家賃滞納して電気とガス止められて……みたいなこと言ってなかったっけ?」
「そうだったっけ?」レイコは空缶の口のところに灰を落としながら笑った。「いつも似たようなことばかりやってるから忘れちゃった。それよかさー、一体どうしちゃったわけ?この部屋。キヨミ、なんかあったんと違うの?」
昔と同じく勘の鋭いところも全然変わってない。あたしは降参するみたいに、清苑不動産を辞めた経緯を、レイコに話すことにした。他の人だったら笑ってしまうだろうこんな話も、レイコが相手なら、何故か自然と話せてしまえた。
「ふうーん。なんか凄い面白い話だね……いや、面白いなんて言っちゃ駄目か。生き方変えないとマジ死ぬ予定だったってことだもんね、キヨミは。だとしたら、あたしたちが今こうして久しぶりに会ったことにも、何か意味があるのかなあ?」
レイコは煙を赤い唇から吐きだすと、考え深そうに小さなちゃぶ台の木目をじっと見つめていた。その彼女の瞳の端に、住宅情報誌が目に入る。
「……もしかしてキヨミ、引っ越すの?」
「うん。部屋の中が植物だらけになっちゃったからね。もう少し広い、ベランダ付きのところに引っ越そうかなあって。よかったらレイコ、うちにいたいだけいるといいよ。あたしも失業中で暇だしさ、ゆっくり……」
と言いかけたところでレイコは何故か、隣に座るあたしの両手を、ぐわしっ!と力強く握りしめた。
「ほんっとうにいいの!?実をいうとねー、大家の親父に家財道具全部、処分されちゃったのよ。たった四か月家賃滞納したくらいでさー、まったく心の狭い親父よ。キヨミ、あんたはあたしの命の恩人だわ。どうせならこれから一緒に家賃折半して同居しない!?あたし、すぐに職見つけて、ガンガン働くから」
――レイコの言っていることは全部本当だった。たぶん、わたし以外にも彼女の言う<命の恩人>は他にも数名いるはずだった。彼女がいつも貧乏なのは海外へよく旅行にいくためで、そのためにレイコはアルバイトを幾つもかけ持ちしたりして年の半分は実によく働くのだ。
「い、いいけど……」レイコの勢いに気圧されながらあたしが頷くと、彼女は「やったあ!」と両手を天井に向けて振り上げ、ジャンプしている。
「じゃあ早速これから、ふたりで住むのによさそうなとこ、探そうよ!」
「う、うん……」
それからあたしたちは三冊も四冊も住宅情報誌をテーブルの上に広げて、夜が明けるまでビールを飲みながら目ぼしい物件にチェックを入れていった。地下鉄駅からなるべく遠くなくて、ベランダがあって、2LDK以上のアパート……あたしとレイコは時々柿ピーをつまみながら、いつしか高校時代の話に夢中となり、その日は結局四時半頃になってようやく、のろのろとふたりでひとつの布団の中へもぐりこんだのだった。
高校時代、レイコは一種独特のカリスマ性を持った娘だった。あたしとレイコが通っていたのは偏差値がやや高めの女子高で、まわりにいるのは真面目で品行方正を絵に描いたみたいなタイプが多かった。でもレイコはそんな中で、ただひとりまるで違っていた。スキンヘッドで登校してきたかと思えば、その次の日にはカツラを着用して先生たちを黙らせたり――かと思えば放課後、校門の前でギターの弾き語りをし、妊娠しちゃった同級生の堕胎費用を集めたり――とにかく型破りな行動ばかりの目立つ生徒だった。
そんな彼女と、真面目で品行方正なあたしが何故親友だったかといえば、それは同じ部に所属していたからに他ならない。高校時代、レイコは演劇部の花形スターだった。あたしはただの大道具や小道具を作る係だったけど――彼女の演技には一年の時から光るものがあった。あたしだけじゃなく、他の部員の誰もがレイコはきっと将来女優になると信じて疑ってないくらいだった。
「懐かしいなあ。二年の時にやった『ベルサイユのばら』。後半はほとんどギャグだったけど……」
ビールの缶を握りつぶしながら、レイコがくくくと押し殺したように笑う。
「あーあれね、あれ。『死んじゃ駄目だ、アンドレ。あたしと結婚してくれるって言ったじゃないかあっ!!」ってレイコがアンドレの襟をつかみながら揺さぶるシーン。そんでアンドレ役の有川先輩が『す、すまない……オスカル』って言ってガクっと死ぬところ。本当は感動的なシーンのはずなのに、何故か会場中が大爆笑っていう」
昔の思い出話をしながら、ふとしんみりした時、あたしはレイコに思いきって聞いてみることにした。女優になる夢を、今はもう諦めてしまったのかどうかと。
「うーん……どうかな。一応今も年に一回か多くて二回くらい、舞台には立ってるよ。まあアマチュアの劇団だけどね、みんな一緒にいて楽しいし……その楽しいっていう領域をいつまでたっても卒業できないのがあたしの限界なのかもしれないなあ」
「そっか。でも羨ましいよ、レイコが。あたしなんてこれといって何も才能なんてないしね。打ちこめる趣味らしきものっていったら、最近はまりはじめた園芸だけかもしれない」
「これだけ道具が揃ってれば上出来よお」
レイコが部屋の中を見回しながらそう笑ったので、あたしも一緒になって笑った。そしてどちらからともなくシクラメンの鉢植えやら観葉植物のアジアンタムやらポトスやらベンジャミンやらの鉢植えを部屋の隅に詰めて置き、その他シャベルやテラコッタや肥料なんかを適当に整理すると、あたしたちは押し入れから布団を一組だして、ふたりでその上に横になり、すやすやと深い眠りに落ちていったのだった。
その次の日からあたしとレイコは不動産屋めぐりをはじめ、中島公園のそばに2LDKのベランダ付き、ペット可という掘出し物物件を発見した。家賃は月四万円で、ふたりで折半するとしたら月二万円という代物だった。
といっても、ふたりとも今現在無職なわけで――家賃を四か月分前払いするという条件で、なんとか大家さんに入居を許してもらうことができた。
引っ越し当日はレイコの劇団仲間が軽トラックに三人乗って手伝いにきてくれ、大いに助かった。レイコの三人の男友達は以前引っ越し会社でアルバイトをしたことがあるという強者たちばかりで、実にてきぱきと大物も小物もうまく梱包し、要領を得たやり方でえっさほいさと次から次へトラックの荷台にそれらを運んでいった。
古い21型のテレビやらツードアの冷蔵庫やら、その他ソファにタンス等など……一番手間だったのはやはり五十数個はあろうかという鉢ものだったが、美島くんも真鍋くんも浅倉くんも文句ひとつ言うでなく、ひたすら地道に時折ジョークをかましながら二階と一階とを何度も繰り返し行き来していた。
「それにしても姉御と同居とは、これから大変っすね、松山さんも」
いひひ、と何故か訳知り顔で脚本担当の美島くんが言った。姉御、と彼は言ったけど、実際には彼のほうがわたしたちより三つも年上だった。細面の、眼鏡をかけたひょろりと背の高い青年。ふたり掛けのソファを真鍋くんと持ち上げた時、その柳腰が折れたらどうしようと、あたしはかなり本気で心配になった。
「そうですよねえ。姉御、酔ってうちの水道の蛇口、壊したことあったじゃないですか。その他大吾の家では玄関フードを、今川の家ではガラステーブルにヒビを……こんな歩くデストロイヤーと同居したがる人なんて、滅多にいやしませんよ」
こちらも三つ年上、二十六歳の真鍋くんが手で髭をこすりながら言った。隣でベランダの柵にもたれていた浅倉くんが、穏やかに微笑む……とりあえず荷物を全部運び終わり、みんなでジャンボサイズのピザを食べている時のことだった。
「なによ、みんなであたしのこと、一升ビン持った怪獣か何かみたいに……」
美島くんと真鍋くん、そして浅倉くんが同時に顔を見合わせて爆笑している。
「いまだに自覚してないんだよ、この人」
「劇団『リリック』はじまって以来の酒豪だもんな」
「鬼ごろしや魔王を片手に中島公園を歩くレイコさんが、今から目に見えるようだ」
三人は口々にそう言い合い、思い思いに三階の窓から見える中島公園の姿を見下ろしていた。天気は気持ちのいい秋晴れの空で、ぬるい空気がベランダからは吹きこんできている。なんだか真夏に帰ったみたいな変な天候だった。
正直いってあたしは四人の友情の堅さみたいなものの間にうまく滑りこんでゆくことができなかったけど――それでもなんとなく頷いたり、一緒に笑いあったりしているだけで楽しかった。そして引っ越し代が浮いたことのお礼として、夕方には特上のお寿司を五人前とることにしたのだった。
「こんな奴らに特上の寿司なんてとってやることないのよ」
レイコは三人の目の前でそう堂々と言い放ったけど、あたしとしてはそれがせめてもの感謝の気持ちだった。美島くんも真鍋くんもフリーター生活が長く、寿司なんて食べるの何年ぶりだろうと感動しながら、何故か涙ぐんでいた。なんでも、ワセリンなしでいつでも泣けるのが、真鍋くんの得意技なのだとか。
「えっと、じゃあ美島くんが劇団の脚本担当で、真鍋くんが俳優……浅倉くんもやっぱり同じく役者さんなのかな?」
適当な大きさのダンボールをふたつ、くっつけてテーブルがわりにした。五人でそのにわか作りのテーブルを囲ってお寿司を食べていると、あたしの質問に、何故か四人の動きがぴたりと静止する。
「やっぱり、そう思うわよねえ、キヨミも」
「だよなあ。俺よかおまえのほうがよっぽど男前だしさ、どっちかっていうと、俺のほうが大道具係でおまえが俳優って、誰でも見た瞬間にそう思うと思うぜ」
腕組みをしてうんうん頷いている美島くんにつられて、あたしもつい、頷きそうになってしまった。正直、真鍋くんはちょっとぷっくり小太りで、鉢巻きの似合う大工さんみたいな風貌だった。それに比べて浅倉くんは、すらりと背が高くて色黒で、サーフィンやってるイケてる兄ちゃん的容姿だった。
「な、なんだよ。俺、絶対役者なんて嫌だからな。最初から大道具専門ってことで、リリックには入ったんだから」
かーっ、惜しい!と言って、レイコが指を鳴らす。どうやら話を聞いていると、浅倉くんは劇団一の美貌の持ち主であるにも関わらず、そのシャイな性格ゆえ、舞台には絶対立ちたくないという、そういう人なのらしかった。
たぶんこのことはこれまでに何度も、みんなの間で話し合われてきたことなのだろう。会話としてはすぐに立ち消えとなってしまったけど――あたしは三人がごちそうさまと言って帰ったあとも、彼が恥かしそうに頬を染めたところを、何故か何度も思い返していた。まるでビデオテープを巻き戻して再生するみたいに、部屋の片付けをぼんやり、ほとんど自動的に行いながら……。
「あいつ、ちょっといいでしょ」
え?と振り返ると、レイコのすっぴんの笑顔がすぐ横にあった。しみもそばかすもない、綺麗な白い素肌に、長い睫毛に縁どられた、
ぱっちり大きな瞳……ほとんど手入れなんかしていないというのが信じられない。羨ましいと、ほんの少しだけ女心が疼く。
「あいつって、もしかして浅倉くんのこと?」
「他にいないでしょうが。美島はいい奴だけどこんにゃくみたいに優柔不断だし、真鍋はああ見えて一応彼女いるし……同じ劇団の子でね、すったもんだの揚句に、来年の春挙式予定なのよ」
「うん、聞いた。俺の青春はもう終わりだとかなんとか」
「あの三人の中で――っていうより、うちの劇団の中で唯一まともっていうか、一番まともなのがシンなのよ。あいつのこと今日呼んだのもさ、あたしの男友達の中で胸張って紹介できそうなの、あいつっきゃいないからなのよ。まあ昔、家具職人になる前、引っ越し屋でバイトしてたっていうのももちろんあるけど」
その時あたしは新聞の包みからだした鉢植えに、水をやったり霧を吹きかけたりしていたところで――正直、驚きのあまり噴霧器を床に落としてしまった。
「な、なによそれ。あたしそんなこと一言も……」
「そうよ。べつに頼まれてなんかないわよ。もちろんシンにも何も言ってない。でもあいつとはかれこれ五年のつきあいになるけどね、今日のあいつ見たかぎりだと、脈ありって感じだったな。普段あいつ、あんなにしゃべんないもん」
五人で八時過ぎまで話しこんでいたため、正直荷ほどきは十時現在、あまり進んではいない。とりあえず植物たちをダンボール内の息苦しさから解放し、あとは身の回りのものを必要最小限片付けた程度。居間とキッチンを挟んだ玄関側の部屋があたしの部屋で、押し入れのついた寝室にあたる部屋がレイコの部屋ということになっていた。
「見た目結構モテそうに見えるけど、あいつもオクテだからね。この秘密バラしたらシンに殺されそうだけど、あいつ色が黒くて鼻筋が通ってて外人みたいな顔してるでしょ?ずっとそれがコンプレックスだったんだってさ。小さい時からみんなと写真撮るたびに自分だけ違うって思ってたんだって……つまり、そういう内気な奴なのよ」
「でもわたし、関係ないし」と、あたしは宝珠やベンジャミンの葉っぱなんかに、艶だしスプレーをかけながら言った。「もちろん引っ越しを手伝ってくれたことに感謝してるけど、だからどうっていうこともないでしょう?確かにちょっと格好いいなとは思ったけど、でもそれだけよ」
「ふうん。ならいいけどさ」
とりあえず今日は居間に敷いた、布団の上にごろりとレイコは横になっている。トレーナーを脱ぎ、ブラジャーを外すと、その上からストライプのパジャマを着ていた。
「一応、それでも一言いっとくよ。自分の心に素直じゃない女の子には、恋の神さまは振り向かないんだからね。そんじゃあおやすみ」
――スナオじゃない女の子には、コイの神さまはフリムカナイ。
隣でレイコの歯ぎしりを聞きながら、あたしは薄暗闇に目を凝らした。まだカーテンをつけていないので、満月の光がベランダの窓から煌々と差してきている。
(恋なんて……)
とあたしは思った。ろくに恋愛経験もないのに、あたしは恋というものを馬鹿にしていた。もちろんあたしも、片想いくらいはしたことがあったし、友達にお節介を焼かれて、相手を紹介されたりだとか、そういう経験は人並みにあったけど――浅倉くんとだなんて、全然ピンとこなかった。ああいうファッション雑誌でポーズを決めてそうな男の子には、同じようにファッション雑誌から抜けでてきたような女の子がお似合いだと、そう思った。たとえば、レイコみたいな。
(もしかしたら彼、レイコに気があるのかもしれないわよね。レイコが自分でそうと気づいてないだけで……)
あたしはそこまで考えると、浅倉真一郎くんの浅黒い顔を思い浮かべるのをやめた。女がふたりで同居していて、ひとりの男を奪いあった揚句、気まずくなって別居……だなんて、昔のトレンディドラマじゃあるまいし。やめたやめた、馬鹿馬鹿しいって、本当にそう思った。