第1章
わたしは二十三歳の時、すでに老後のことを考えていた。いや、正確にはもっと早くから――たぶん中学二年生くらいの頃から、だったと思う。ありがちな話だけれど、わたしの両親は仲があまりよくなく、家庭内別居といったような雰囲気が家の居間にはいつも漂っていた。
「じゃあ、いってくるよ」
「いってらっしゃい」
「おはよう」
「ただいま」
「おやすみなさい」……
小さな頃から、挨拶だけはきちんとするようにと両親から躾けられてきた。隣近所や学校では、「松本さんちの頭のいいお嬢さん」として有名だったし――でも、ただそれだけだ。家庭にあるのは必要最低限の、冷たくも暖かくもない会話と、豊かな電化製品、満ち足りた衣食住――これ以上を望むのは贅沢というものだったろう。それでもわたしの家庭には、何かが決定的に足りなかった。それは愛情と呼ぶにはあまりにも――あまりにも悲しいものだったから、わたしはそのことを口にだすことさえ厭った。
(わたしは、お父さんやお母さんみたいには、絶対にならないわ。そうよ、恋なんてしても馬鹿らしいだけ。結婚したら結局、父さんや母さんみたいになっちゃう。それだったら、一生独身で、真面目にコツコツ働いてお金貯めて、老後は介護付き老人ホームみたいなところにでも入ったほうがずっとましよ)
「ねえ、そうよね?モロゾフ?」
あたしは飼い犬の真っ白い雑種犬のモロに、そう話しかけた。モロはそうとも、そうじゃないとも言わず、ただゴロリと寝転がり「撫でて、撫でて」と美しく黒い瞳で訴えかけてくるだけ。
モロのことは、小学五年生の時、下校途中で拾った。モロは雑種犬とは思えない毛艶の良さと上品な顔立ちをした中型犬で、あたしは雨の中、目と目があった瞬間に、彼女の存在のすべてにすっかり夢中になった。
「おっぱいが大きいところを見ると、子犬を産んだ経験があるんだろう。キヨミ、この犬はきっと、どこかで飼われていたに違いないよ。第一、とても人懐っこいし……まず新聞に迷い犬の広告をだして、それで飼い主が現れなかったら飼うことにしよう」
父がそう提案すると、母はみるみるしかめ面になったが、それでもあえて何も言わなかった。「きっと必ず、元の飼い主が見つかるわよ」と、子供の心を軽く刺す以外は。
小学五年生だったあたしは、一週間か二週間くらいだったろうか。神さまに毎晩欠かさずお祈りをした。テルテル坊主を軒下にふたつもみっつも吊るして、「お願いします、神さま。モロをうちの犬にしてください」と必死に願った。果たして神さまは幼子の祈りを聞き届けてくださったのかどうか、元の飼い主は名乗りをあげず、晴れてモロは松山家の犬となった。
モロは、とても不思議な犬だった。どこかから逃げてきたのか、それとも捨てられたのか、それはわからなかったけれど、とにかく信じられないくらい陽気で明るい犬だった。乳首がひとつ残らず大きいところを見ると、彼女は五六匹の犬を出産して育てた経験があるはずだった。にも関わらず、自分の子供たちが今どこでどうしてるかなど、彼女の頭にはまったくないようだった。かといって、自分だけ衣食が事足りて幸せならそれでいいと感じているわけでもなく――なんというのだろう、動物が持つ独特の達観精神のようなものを、極限まで極めてしまったみたいなところのある犬だった。
モロは父に対しても母に対してもあたしに対しても、示す反応が平等だった。とにかく誰かが帰宅すれば尻尾を振って出迎え、ソファや床にごろりと寝転がり、「撫でて撫でて」と艶っぽい黒い眼差しで訴えかけた。その魅力には普段厳しい母でさえ逆らうことができず、顔の筋肉が自然と緩んでしまうようだった。
モロはあたしが十九歳の時に死んだけど――あたしは不思議と悲しくなかった。もしかしたらそれは彼女に特有だった達観精神が、十年近い歳月をかけて、徐々に徐々に、あたしの魂に沁みこんでいったせいなのかもしれないと、そんなふうにも思う。
某私立高を卒業後、あたしは地元――札幌にある中堅の不動産会社に就職した。モロが死んだのは確かその頃で、あたしは彼女が死んだ以上、麻生の実家にいる必要はもはやまったくないような気がして――平岸にアパートを借りて、ひとり暮らしをはじめた。
それから五年。
生活はまあまあ順調だった。会社では事務員として能力を高く買われていたし、これといった大きな対人トラブルのようなものもなく――時々横柄な上司の愚痴につきあう程度――あたしは介護付き老人ホーム入所に向けて、毎日真面目にコツコツ働いていた。ボーナスはほとんど貯蓄にまわし、節約をかねたエコロジカルな生活(と言えば聞こえはいいが、ようするに楽しいケチ貧乏な生活)を謳歌していた。
ちらしを見て一円でも安いスーパーへ買物にいき、手堅い株に投資をし、貯蓄術や節約術といった本を片っ端から読み耽った。わたしにもし唯一趣味があるとしたら――<ケチ>と<節約>、この二文字であったかもしれない。
ところがそんなあたしの人生に最近、暗雲が垂れこめてくるようになった。毎晩のように、嫌な夢を必ず見るのだ。
――ぴちゃ、ぴちゃっ……。
――ガリガリ、ゴリゴリ……。
――バリっ、バリゴリガキッ……。
闇の中、あたしの<魂の>肉やら骨やらを、何やら言い知れぬ不気味なものが貪っているのがわかる。腕、目玉、脚……それは死んで役に立たなくなったものなので、彼らは食べたい放題だ。無造作に腕をもぎ、目玉を抉り、脚の肉を引き裂く。
(やめてえええっ!)
ついに<肉体の>あたしは堪え切れなくなって、がばりとベッドの上に身を起こした。六時二十九分……目覚まし時計の鳴る一分前だった。
あたしは汗でびっしょりのパジャマを脱ぐと、まだどきどきしている心臓に両手をあてた。
(この夢はたぶん普通の夢じゃない。病院へいったほうがいいんだろうか?……)
あたしは地下鉄東西線に揺られていつもどおり出勤しながら、頭の中で電話帳のページを捲った。朝、でがけに病院の精神神経科のところをチェックしておいたのだ。一週間も続けて同じ夢を見るなんて――それもこの上もなく不吉で嫌な夢――尋常ではないと思った。今のところ、仕事に障害がでたりはしていないが、近いうち、何かとんでもないことが起きるような気がしてならなかった。
「キヨミちゃん、なんだか最近顔色が優れないわね」
そんなことないです、と言いかけて、あたしは口を噤んだ。さっきトイレへいったら確かにちょっと青白いような顔をしていた。頬に軽くチークを入れたり、少し赤めの口紅を唇にのせたりしても、かえって他の白い肌が際立ってしまう。あたしは長年の事務の相棒である中川女史に、思いきって相談してみることにした。彼女は社長の次に偉いといっても過言ではない、清苑不動産に勤務して今年で二十七年という、ベテランの経理事務員だった。
「ふうん。毎日その、変な夢を見るんだ。ちょっと聞いた限りだと、なんていうか……まあ普通じゃないわよねえ。こういう場合ってやっぱり、病院とかで診てもらったほうがいいのかしら?」
「自分でも、よくわからなくて……」あたしは不動産売買契約書をチェックするのをやめ、目頭のあたりを手でこすった。少し、眠い。「夢の内容がかなり尋常じゃないっていうか、冷たい石棺の上に自分の動かなくなった死体が置かれているのがわかるんです。それで、そのまわりに動く石の足だけが見えて……」
「<石の足>って?」と中川女史が繰り返す。
「ええ。足から上は真っ暗な闇に紛れて見えないんですけど、それでも視覚以外の何かで感じるんです。あたしは何か、動く石の像みたいなものに、自分の魂の肉や骨を貪られているんだってことを」
「うーん……」中川女史は事務机の前で腕組みし、人の善さそうな丸顔を少し、曇らせた。
「キヨミちゃん、わたしが物凄い占いマニアだってこと、知ってるわよね?」
「あ、はい。昼休みとか、占ってもらったのが当たってびっくりしたの、今も覚えてます」
「実はね」と、中川さんは少しだけ声をひそめて言った。経理部長は今外出中で、狭い経理部門の室内には、他に誰もいなかったにも関わらず。「あたし以上にとんでもなく占いの当たるばあさんがススキノにいるんだけど、一度会ってみない?」
「はあ……」あたしはきょとんとして、軽く首を傾げた。
「そのね、いい歳したおばさんがこんなこと言ったら不気味に思われるかもしれないんだけど、あたし、昔から物凄く神秘的なものに興味があったのよ。世界の七不思議とか、ノストラダムスの大予言とか……まあ科学的にいったら、一度病院の精神神経科?そういうところで診てもらったほうがいいのかもしれない。でも病院の先生の手にも負えないようだったら、一度そのおばあさんのとこにいってみるといいかもしれないわ」
「そう、ですね……」
中川さんは社用箋に簡単な地図を書き記すと、向かいのあたしの机の上についっとそれを差しだした。
「そのおばあさん、闇川ヨミっていうんだけど、本当にほんまものの占い師なのよ。業界でも影の陰、裏の裏の占い師って感じらしくてね、わりと表にでてる占い師がわざわざ占ってもらいにいく占い師っていえばわかるかなあ。とにかくそういう人だから、夢見が悪いって言えば、何かおまじないになるものをくれたりすると思うのよ」
「えっと要するに、習字で<獏>と書いたものをベッドの頭に貼るとか?」
「キヨミちゃんも一度いってみればわかるわ」茶化そうとしたあたしを、中川女史は眼鏡の奥から真剣に見つめた。「なんであたしがそんなばあさんと知りあいなのかっていうのはあくまで内緒なんだけどね、まあ見料は二千五百円くらいだから、騙されたと思って一度見てもらうといいわ」
どうしたもんかなと思いつつ、あたしは中川女史が描いてくれたススキノの地図を眺めながら、その日の午後は二十日締めの請求書を印刷し、それに宛名を書いて終わった。
――P.M.7時30分。
あたしは白石駅から電車に揺られ、大通り駅で降りるとススキノまで歩いていった。きらびやかなネオンサインの下を、夜はまだこれからといった人々がいき交っている。背広姿のサラリーマンに、男女の若いカップル、その他年齢層は様々だ。四十代か五十代くらいのおばさんたちが横並びになって通行の邪魔をしていたり、かと思えばシャッターの下りた店の前でギターをかき鳴らす高校生のグループがいたり……あたしは飲み屋が軒を連ねる通りを、地図を見ながら首をきょろきょろさせた。挙動不審に思われたのかどうか、何かの呼びこみらしい黒服の男に声をかけられたりもしたけど――あたしは終始徹底無視して、目的の<闇川ヨミ>さんのお宅を探した。
中川女史の話によると、今は使われていない雑居ビルと、ボクシングジムの間に挟まれているとか……あたしは紫や黄色や桃色などの、極彩色のネオンサインを見上げながら、本当にこの方角でいいのかしら?と首を傾げたくなった。地図に従うとするなら、確かに間違いはないのだけれど。
あまり人通りの多くない飲み屋の通りを抜けると、いきなり闇の溜まり場のような空き地にでる。空き地には<社有地>と看板が立っていたけど、どこの会社のものかは明らかでない。有刺鉄線に沿って、明かりのない道をとぼとぼ歩いていくと、ぽっかり豆電球が燈っている木造の平屋の家屋があった。近くまでいくと、確かに隣は廃墟のような雑居ビルらしき建物で、ボクシングジムに至っては、何故か看板に<ボクシング事務>と悪戯書きされているという荒れようだった。
一瞬その落書きにぷっと吹きだしそうになりながら、あたしは山吹色の豆電球の下に立ち、心を入れ換えるように深呼吸した。病院に電話してみると、その多くが予約制で、どんなに早くても診てもらうのは来週以降になるということだった。もしまた一週間もあの夢を見続けるとしたら――あたしは多分どうにかなってしまうだろう。それじゃなくても食欲とともに、体重がどんどん落ちてきているのに。
「すみません。わたし、中川敦子さんの紹介できた、松山清美という者なんですけど……」
あたしは木とガラスで出来た横開きのドアを開け、小さな声でおそるおそるそっと挨拶した。七月だというにも関わらず、室内には小さな電気ストーブがひとつたいてあり、微かな熱波が玄関先まで漂ってくる。十畳ほどの居間らしき場所には、豆電球がひとつ小さく光っているだけ。見たところ、電気ストーブ以外に電化製品と呼べるような代物は他になく、古い畳敷きの埃っぽい感じのする部屋には、背の小さなおばあさんが背中を丸めているだけだった。
「あのう……」
もしかして耳が遠いのだろうかと思い、あたしは少し大きな声で言ってみた。おばあさんはストーブに両の手のひらをかざしたまま、振り返りもせずに言う。
「寒いから、早くそこの戸を閉めとくれ。あんたがここにくることは、とっくにわかっとった。夢見が悪いんじゃろ?そうじゃな?」
「えっと、その、まったくそのとおりなんですけど……」
もしかして、中川さんから連絡がいったのだろうか?そう思いながら、あたしは戸を閉め、玄関で靴を脱いだ。
「おお、さむ……。まったく冗談じゃないよ、七月だっていうのにさ。あんたもこっちにきてストーブにあたるといいよ」
この熱いのにストーブにあたれだって?それこそ冗談じゃないよ――と思いかけて、あたしはぎょっとした。居間に上がってみると、すぐ脇にさびれた台所があり、そこにあった青い大きなポリバケツには、水死した鼠の死骸があったからだ。
「ああ、それね。べつに気にするこたあない。この家は見てのとおりのボロ屋だからね、台所の下に鼠の奴がしょっちゅうでるのさ。そいつは今朝、鼠捕り機に引っ掛かってたのをバケツの水に沈めて殺したんだ」
あたしが声もなくその場に立ち尽くしていると、闇川ヨミという名のばあさんは、初めてこちらのほうを振り返った。
「やれやれ。あんた、こんなところまでくるわりには、意外に小心なんだね。たかが鼠一匹にそんなにびくつくなんてさ――まあ心配しないでいいよ。その鼠の内臓を引っぱりだして、ネズミ占いとかね、あたしはそんなことはしやしないから」
くくく、と喉の奥で笑うおばあさんのことをまだ少し不気味に思いつつ、あたしは部屋の中央あたりに正座した。本当に、小さなストーブ以外何もない部屋だった。もしかしたら襖の奥にもうひとつあるらしい部屋が。おばあさんのプライヴェートルームで、そこに大切なものがすべてしまわれているのだろうか?
「あんた、敦子の紹介できたとか言ってたね。まあ昔からの馴染みの客の紹介ってことで、特別に見料のほうはただにしてやるよ。そのかわり、ひとつだけ条件がある」
「はい」
「あんた、ここへきたことは他の誰にも言うんじゃないよ――そうさね。まあ信頼できる人間になら、ひとりだけ話してもいい。でも
それ以上は駄目だ。その約束が守れるなら、あんたのことを占ってやろう」
「わかりました」
あたしが神妙な顔つきで頷いていると、おばあさんは頭に被っていた紫色のショールを外して、畳の上に敷いた。そして灰色のコートの内側から黒水晶の玉をとりだし、それを三角形のショールの中央に置いている。
「ふうん。可哀想にあんた、どうやら家族愛に恵まれずに育ったようだね」
黒水晶の玉の上におばあさんが両手をかざすと、それは深緑色に変色し、さらにおばあさんが手を交互にまわし続けると、濃い青色へと変化していった。
「は、はい」
あたしはその水晶の玉の、あまりに美しい色合いに目が離せなくなりながら言った。父と母は三年前にとうとう離婚した――あたしが成人したので、これで親としての義務は果たした、というのがその理由だった。
「父と母は、昔からずっと、一階と二階で家庭内別居しているような状態だったんです。ごはんを食べるのも別々で、あたしは母と一緒に食事をしながらも、上の父がインスタントものを食べたり、コンビ二のお弁当ばかり食べたりしているのがいつも気になっていました」
「ふむ。で、あんたはそんな両親を見て育ったから、結婚に夢ってもんをまるで持ってないようだね。このまま敦子みたいにオールドミスになるつもりかい?」
「えっと、その……」あまりにズバリと言い当てられて、あたしは言葉に詰まった。
「でもあんた、このままいったら何年か後に発狂するよ」
「えっ!?」
「水晶玉にそうでてる。あんた今、一体どんな変な夢を見てんだい。もちろんそれだって、あてようと思えばあてられなくもない――けどあたしも歳をとったからね。あまり余計に力を使って寿命を縮めたくない。よかったら、あんたのほうから話しておくれでないかね」
「はい」
あたしは正直に夢の内容をすべて話した。最初は自分の体が石棺に安置され、そのまわりを得体の知れない何かがひたひたと歩きまわっていた。その夢を見たのが三日。それからその<何か>があたしの亡骸を石棺の中からとりだし、貪り食べはじめた。そしてその<何か>が何者なのか、意識を集中すると、石棺の下のあたりに石の足が見えた。はっきりと見たわけではないけれど、イメージとしては、バリ島やアンコールワットの寺院にある石像といった感じがした。彼らの体の関節の動きは、あたしの死体を食べれば食べるほど、どんどん滑らかになっていくようだった。
「ふうむ……」おばあさんは暑さのせいではなく、脂汗を流しながら、なおも水晶の上に両手をかざし続けた。黒水晶の色が再びまりものような深緑に、また深い海の底のような暗紫色に変化し、最後に真っ黒く沈黙する。
「一番簡単で手っとり早い方法は、結婚することなんだけどね――でももちろんこれだって、誰でもいいってわけじゃないから、難しい話さね。ようするにあんたには、あたしや敦子と同じく、ある種の巫女としての能力が備わっているんだ。敦子なんかは、わりと小さな頃からその能力が顕著であったために、あたしたちの世界に入るのも早かった。でもあんたはずっと、自分の中のそうした能力に気づくことさえなく、これまでずっとそれを抑圧し続けてきたんだ。将来は自分でマンションの一室でも買って、優雅なひとり暮らしを夢見てるんだろ?でもあんたの心はいつまでも石のようなまんまだ。もともとあった能力を活かそうとしなかったツケがまわってきて、そう遠くない将来、あんたは精神病を発症するだろう。あたしの話、あんた信じるかい?」
あたしは喉に石が詰まったみたいに、何も言えなかった。たぶん、精神神経科で来週あたり診察してもらったとしても、病的な兆候など何も見られないだろう。せいぜいが、精神安定剤を処方されて終わりといったところだ。でもこのおばあさんの言うことは本当で、確かに間違いないと、そんな気がした。
「信じます。わたし、おばあさんのこと……でも、結婚すれば発狂しないで済むって、それはどうしてなんですか?」
「いいかい。あんたは今、自分ひとりだけのために生きてる。お国に税金を払い、年金をきちんと納め、ゴミもきちんと分別して投げてるかもしれないさ。誰にも迷惑かけずに生きてるって、自分ではそう思ってるかもしれない。でもね――このままいったらあんた、絶対に間違いなく、交通事故にあったり、精神病じゃなくても、重い病いにかかって『どうしてあたしがこんな目に』っていう運命に出会うよ。そして言うのさ。『真面目にコツコツがんばって生きてきただけなのに、何も悪いことなんかしてないのに、どうして』ってね。あんた、運命を呪いながら惨めな最期を迎えたいかい?」
あたしは大きく首を振った。ささやかながらも幸せに、それが万民の願いというものだろう。
「じゃあ、今日から早速、ライフスタイルを変えなさい。いきなり百八十度変えるっていうのは難しいだろうから、一日ひとつでいい、いつもと違うことをするように心がけることだよ。それと今勤めている会社はなるべく早く辞めなさい。あんた、その若さにしてすでに、今結構貯金があるだろう。そんな金、このままいったら結局全部無駄になるんだと思って、もっと別のことにお使いなさい。なに、心配しなくていい。あんたは物凄い金運の持ち主だ。金が一円もなくなったらどうしようなんて、これっぽっちも考える必要はないよ。そろそろなくなりそうでどうしようって頃に、必ず収入がある。そういう星回りなんだ。ただその星回りを自分の利益のためだけにしようとすると、運命の軌道に狂いが生じる。まあ事故にあったり病気になったりしても、早い段階ですぐ改心すればいいんだけどね――難しい人間にはいつまでたっても難しい話さ」
「ありがとうございます、おばあさん」あたしは正座したまま、畳の塵に額をつけるようにして、闇川ヨミさんにお礼を言った。「でも、ライフスタイルを変えるって、具体的にはどうしたらいいんでしょう。いつもと違うことをひとつって言われても……それは具体的にはどんなことなんでしょうか?」
「そうさね。まず今日は家に帰って会社にだす退職願いを書きなさい。あんた、顔色悪いけど、きちんと朝ごはんは食べてるかい?ここへきてあたしに会ったことで、悪い夢の影響は一時的に抜けるだろうけど――言いつけどおりにしないと、今よりもっと悪くなるからね。まず美味しいものをしっかり食べて、栄養を十分蓄えなさい。いつもと違うことなんて、考えればいくらでもあるはずだよ。これから毎日朝は納豆を必ず食べるとか、そんなことでいいのさ」
「はい、わかりました」
あたしはもう一度闇川さんに深々と頭を下げ、バッグの中のお財布に手をのばした。見料はただでいいと言われたけど、二千五百円どころでなく、二万五千円くらい払いたいような気持ちだった。
「そんなことは本当に気にしなくていいよ。あたしも久しぶりに面白い人間を観ることができて、忠告のしがいがあったしね。それと最後にもうひとつ……あんた、真面目そうな感じのインテリが好みみたいだけど、そういうのとははっきり言って相性悪いね。むしろ逆に正反対のタイプを選ぶようにしなさい。といっても、これはなかなか難しいことだとは思うけどね――人はどうしても、自分の内なる基準を元にして異性を見るから」
「はい。肝に命じておきます」
あたしは三度、おばあさんに向かって深々とお辞儀をすると、闇川ヨミさんの不思議なお宅を辞去することにした。
玄関をでて振り返ると、表札に闇川と黒く彫られているのが目に入った。本名なのかどうかわからないけど、とても変わった名前だ。でも何故かあのおばあさんにぴったりの名前だとも思った――見た目はどうってことのない、普通の小柄なおばあさんだし、次に街中で会っても闇川さんと気づくかどうかわからない。そのくらい没個性的で、平均的な日本人のおばあさんという感じではあったけど――あのおばあさんの名前は何故か、闇川ヨミ以外考えられないと、そんな気がするのだから不思議だった。
その日、あたしは帰り道の途中でコンビ二に寄り、有機丸大豆の納豆を三パック買って帰った。そしてコンビ二のポイントを計算しながら、こんなケチケチしたことを考えるのももうやめにしたほうがいいのかなと思ったりした。
(背に腹は変えられぬ。お金で命は買えりゃせぬってやつよね)
あたしは平岸のアパートに戻ると、早速とばかり白の便箋に退職願いを書き――本当に久しぶりにきちんとした食事を作ってそれを深く味わった。今日もあの不気味な夢を見るのではないかとの、神経症的な不安が心から消え去っているのが不思議だった。夢なんか絶対に見ない、見たとしてもそれはお花畑で花を摘んでいるといったような、他愛のない夢だろうと、絶対的なまでに確信していた。