花冷え
「ああ、あなたにはこの桜が見えるのですねえ……」
女は切れ長の目を細めて、僕に笑いかけた。
「お招きした甲斐がありましたわ。嬉しいこと」
冷たい風に乗って、花びらがとめどなく舞い落ちる。
僕の髪に肩に降ってくる薄紅色のそれらは、まるで薄い血を含んだ雪のようだった。
春だというのに、季節が逆戻りしたような冷たい風の吹く夕方だった。
自動改札から出てきた僕は、背を丸め左手をコートのポケットに突っ込んだ。右手には携帯電話を握っている。
初めて降りる駅前の風景は、当然のことながら他人行儀だった。バス停のあるロータリーに沿って、コンビニや飲食店の入った低い雑居ビルが立ち並んでいる。ごく最近整備されたらしく、それらの店舗も、案内板やアスファルトや街路樹に至るまで、よそよそしいほどに真新しい。
再開発されたばかりのこぎれいな街のようだった。機能的ではあるがあまり生活感がない。
だが、東京郊外の私鉄沿線によくあるそんな街並みも、僕の目にはどこか微笑ましく映った。
ここに彼女が住んでいると思えば。
僕はスマートフォンの画面で地図ソフトを開いて、彼女の住まいへの経路を確認した。住所はすでに登録してある。道に迷わないよう、電車の中で何度も地図を辿っていた。
『今、駅に着いたよ。お待たせ』
もう1台、別の携帯を取り出して彼女へメールを送る。
返信はすぐにやって来た。
『遅かったねー。お詫びにコンビニで甘い物買ってきなさい!』
『了解。ロールケーキとシュークリームならどっち?』
『両方! 今夜は寒いからヒデくんの好きなつみれ鍋を作ったよ。待ってまーす』
鍋とハートマークの絵文字を微笑ましく眺めて、僕は携帯を閉じた。聞き慣れた彼女の声が耳元で弾むようだった。
僕は幸せな気分で、ロータリーの横断歩道を横切った。
彼女――遥香は、僕の恋人だ。出会ってちょうど1年になる。
去年の今頃、新入社員として今の会社に就職した僕は、職場の花見の席で隣に座った遥香に一目惚れした。
僕より1年先輩の遥香は、ほっそりとした立ち姿の綺麗な、清楚な感じの美人だった。それでいて笑顔は輝くように明るく、唇から覗く整った歯並びが好もしかった。彼女は、相手の目を正面から見て会話のできる屈託のなさを持っていて、黒目がちな明るい眼差しに見詰められた僕はドギマギした。
すっかり舞い上がって飲みすぎてしまい、夜桜の下で酔い潰れた僕に、遥香はミネラルウォーターを買ってきてくれた。
明日から仕事で挽回すればいいよ、と苦笑交じりに励ましてくれる彼女の長い黒髪に、白い花びらがはらはらと降り注いでいた。
約束通りコンビニで甘いものを買い込んで、僕は道を急いだ。
独り暮らしをしている彼女のアパートを訪ねるのは初めてのことだ。というか、女性の部屋に行くこと自体経験がなく、僕は少々緊張していた。
すっかり暗くなった空は春らしく霞んでいて、星は少ない。それなのに風は相変わらず冷たくて、薄手のコートを突き抜けて冷気が身体に染み渡るようだ。
早く遥香に会って、彼女の作ったつみれ鍋が食べたかった。
繁華街を抜けて住宅地に入ると、途端に空気に生活感が溢れた。
昔からの住民の広い一戸建てと、最近できた建て売り住宅がパッチワークのように入り混じった、都市近郊によくある住宅地だ。ところどころ畑や空き地が残っている。これから人口が増えていけば、それらもまた一戸建てか賃貸アパートで埋められるのだろう。
僕と同じように買い物袋を手にした人たちが、1人、また1人とそれぞれの住居の方向へ散っていく。明かりの灯った家々のどこかから、わずかにカレーの匂いが漂ってきていた。
遥香も毎晩こんなふうに食材を買って帰っているのだろうか。それとも週末にまとめて買い出しをするのだろうか。
考えてみるとそんなことも知らないんだな――彼女の住む近所を実際に見たことで、僕は何だか新鮮な気持ちになった。
ここを曲がれば彼女のアパートが見える、はずの角を曲がると、なぜか鬱蒼とした木立が目に飛び込んできた。
白い玉垣、古びた鳥居、並んだ石灯籠――どう見ても神社である。
僕は手に持った携帯に目を落とした。地図上で見ると、神社があるのは一本南側の道だ。どうやらGPSの精度が今ひとつだったらしい。
玉垣に刻まれた寄進者の氏名の擦り減り具合や、大きく育った雑木林から、そこが古くからある神社だと分かった。真新しく整備された駅前のすぐ傍に、こんな場所が残されていたとは意外だった。
黒々とした木々の葉が風に揺らされて、ざわと鳴った。
当然のことながら、道路から眺める暗い境内には人気はなく、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。神聖な、というより不気味さが先に立った。
僕はもう一度地図を見て、その場を立ち去ろうとした。
その時、僕の鼻先を、小さな白いものが掠めた。
僕は思わず身を引いたが、薄闇の中をゆっくりと漂うように落ちていくそれは、淡い色の花びらだとすぐに分かった。
桜だろうか? でも今年は厳冬のせいで平年よりも開花が遅く、関東ではまだ咲いていないはずだが……。
花びらは途切れ途切れに数枚ずつ、境内の奥から流れてくる。風に乗って儚げに舞いながら僕の前を横切って、また暗がりの中へ消えてゆく。
もう咲いている桜があるのなら、遥香にも見せてあげたい。
そう思って、僕はまるで誘われるように、神社の鳥居を潜った。
木立に囲まれた境内には、幸運にも端の方に街灯が1本だけあって、足元が見える程度の明るさは保てていた。
それほど大きな神社ではない。擦り減った石畳の参道が20メートルほど続き、両脇には背の低い石灯籠が2基。正面に小さな拝殿があって、同じく小ぶりな狛犬が1対、いかつい顔で僕を睨みつけている。
社務所と思われる建物は見当たらないので、常駐の神職がいるわけではなく、氏子になっている住民が当番で管理をしているのかもしれない。僕の故郷の田舎にある神社も、確かそういうシステムだった。
僕はとりあえず拝殿の前に立って、ポケットの小銭を賽銭箱に投げ入れ、お参りをした。
それからきょろきょろと周囲を見回すうちに、先ほどの花びらが、拝殿の裏の方から流れてくるのに気づいた。
参道を降りると、足元は玉砂利のようなものではなく、踏み固められた土だった。
僕は木造の拝殿を迂回し、裏手へと回った。
「うわ……」
思わず声が出た。
拝殿の裏にはさらに小さな社があった。たぶんこれがこの神社の本殿なのだろう。石だか何だかが祀られているはずだ。
その古ぼけた社の脇に、とても立派な桜の大木が立っていた――。
地面を鷲掴みにする荒々しい根茎。大人2人の腕で抱えても余りそうなほど太い幹。そして幾筋にも分かれて広がった枝。一目でかなりの樹齢を重ねていると分かる老木である。
この神社の神木であることを示す注連縄が、慎ましげに巻かれていた。
そしてその枝はどれも、白々とした重たげな花をみっしりとつけていた。
まだ関東ではどこの桜も開花さえしていないはず。それなのに冬のような大気の中で、夜目には純白に見える花々は、枝を覆い隠すほど豪勢に咲き誇っている。花が多すぎて、枝の向こうに夜空を透かし見ることができないくらいだ。節くれ立って苔むした黒い幹とは対照的な生命力を感じさせた。
それは、花が意思を持って瀕死の生き物に寄生し、最後の生気を吸い上げているかのようだった。
病的で、凄艶で、不気味で、でも美しい――。
すでに満開は過ぎているらしく、風が枝を揺らす度、大量の花びらが勢いよく降り注いでくる。この一部が神社の敷地の外まで流れ出していたのだろう。
僕はしばし言葉を失って、その光景をただ見詰めていた。
だから、木の陰にずっとその女が佇んでいたのにも気づかなかった。
「ああ、あなたにはこの桜が見えるのですねえ……」
耳元をくすぐるような艶のある声ではあったが、いきなり話しかけられて僕は飛び上がった。
僕の目の前に、女が立っていた。
若い女である。僕よりも年下かもしれない。綺麗な顔立ちをしていたが、薄闇の中にいるせいか肌の色が異様に白かった。薄い紅色の無地の和服を身に着けていて、腰まである髪が風に揺れている。
ある意味この場に相応しい、だが普通に考えると異様な風体である。
冷ややかな夜の空気が、さらにその温度を下げていくような気がした。
オバケだ、オバケに違いない――僕はそう思って、後ずさった。自分には霊感なんかないと思っていたが……。
「お招きした甲斐がありましたわ。嬉しいこと」
女は切れ長の目を細め、袖で口元を覆って笑う。その仕草はぞっとするほど妖艶で、僕はなぜか動けなくなった。
「この樹はずいぶん前から花をつけなくなってしまったのですよ」
「どっ、どういう意味ですか……? こんなに綺麗に咲いているのに……」
「ほら、ご覧なさいな」
白い指先が指した地面に、僕は目をやった。
そしてようやく気づいた。とめどなく降っている花びらが、地面には1枚も落ちていないのだ。本来ならば土の色も見えぬほど散り敷いているはずなのに。
落ちてくる花びらの1枚を注視していると、それが地に触れる直前で、ふっと闇に飲まれる様が見えた。掌で消える雪の結晶のように。
呆然とする僕の前で、女はさらに笑った。
「これが見える方はそうはいないのです」
「咲いてない花が……何で僕に見えるんだ? これは何なんだ? あんたは誰なんだよ?」
「この咲かない桜の由来をご存じですか?」
僕は首を振った。
幻を見ているのだろうか――ひどく混乱する。それでもやはり、目の前の桜は怖いくらいに美しかった。
――昔、この辺りの地主の一人娘が、旅回りの役者に恋をしました。
娘はこの桜の下で役者に想いを打ち明け、彼もそれに応えて、2人は結ばれました。
でも娘は地主の大事な跡取り、役者と一緒になるなど、親が許そうはずもありません。
思い詰めた娘は家を抜け出して、役者の楽屋へ忍んでいきました。一緒に逃げてと迫るためです。
役者は、しかし、出番前の楽屋で他の女と戯れていました。そして娘の願いをせせら笑い、冷たく突き放しました。一座の花形である彼にとって娘は、旅先で欲望と自尊心を満たすための、数多い女の1人にすぎなかったのです。
娘は本当に役者に恋焦がれていましたから、可哀相に気が触れてしまって、髪に飾っていた真鍮のかんざしで役者と相手の女を刺し殺してしまいました。
そのまま芝居小屋を逃げ出し、乱れた長い髪を引きながら走って走って。
ここに辿り着くと、満開を迎えていたこの桜の枝に自分の帯を掛けて。
首を括って死んでしまったのでした。
「翌年からこの桜の樹は春になっても花をつけず、かといって切り倒そうとすれば必ずよくないことが起こりました。人々は死んだ娘の恨みだと恐れて、この樹を神木として祀ることにしたのですわ」
女は黒い樹皮に優しく手を添えて、顔を上げた。
視線の先にあるひときわ太い枝が、彼の娘がぶら下がっていた枝なのだろうか。
激しい恋の末に愛しい男を手に掛け、桜の花と一緒に自らの命を散らせた娘。
男の不誠実さを見抜く聡明さも、裕福な家に生まれた代償への自覚も、自分の行動によって不幸になる人々への想像力も持ち合わせてはいなかった。持っていたのは、ただ若いが故の情熱と壊れやすい感受性だけ。
可哀相で愚かで、身勝手な娘。
悲恋のお手本のような、見事に不幸な結末だと思った。けれど第三者の理性でそう判断できても、恋愛の渦中にいる当事者には、賢い選択などは決してできないのだ。
しばらく考え込んで、僕は尋ねた。いつの間にか、女に対する恐怖心は薄れていた。
「……誰にも見えない花が、本当は毎年咲いていたってわけ? それは死んだ娘の呪いか何か?」
「娘は、自分の気持ちを分かってくれる人が欲しかったから。あんたは悪くないよって言ってくれるのを待っているんです」
「悪いけど、僕にそうは言えないよ。似た者同士の傷の舐め合いは趣味じゃない」
僕が言うと、女は初めて悲しげに眉根を寄せた。
この女が何者か、もう僕には分かっている。着物の衿から覗く白い喉元に、赤黒い染みのような痣が見て取れる。
後から後から降ってくる花びらの雪は費えることがない。僕の身体はすっかり冷え切ってしまっていた。
「綺麗な桜が見られてよかった。でももう行くよ。僕には待っている人がいるんだ」
僕は鼻を啜り上げながら別れを告げた。
女はますます悲しげに、しかし薄い微笑みをその口元に刻んだ。
「やはりそうですか……ではそのお方を精一杯愛おしんであげて下さいませね」
僕は答えずにもう一度桜を見上げた。
枝一杯に咲き誇るのは、死んだ娘の狂気。あまりにもエゴイスティックな、純粋な想い。
なぜ僕の目には見えるのか、何となく分かった気がした。
僕は女と桜に背を向けて、もと来た方へ戻って行った。
そのまま立ち去るつもりだったが、拝殿の表へ回り込む時、抗い難い欲求に駆られて一度だけ振り返った。
舞い落ちる花びらが、薄い血を混ぜた紗のように視界を覆う。雪と例えるならばこれは吹雪だ。
その中で、女の身体は、太い枝に釣り下がってゆらりゆらりと揺れていた――。
インターホンを押すと、遥香は相手を確かめもせずにドアを開けた。
フリースにゆるいハーフパンツ、ごく薄いメイク――気の抜けた部屋着姿の彼女も可愛らしかった。
「遅いっ! 何してたのよヒデくん……え?」
怒りながらも安堵した遥香の表情が、僕を直視した途端に強張った。
僕は微笑んで、コンビニの袋を差し出した。
「約束通りお土産買ってきたよ、ほら」
「な……何……なんで阿川くんが……?」
「いい匂いがするね。鍋できてんの?」
室内からは暖かな空気と、食欲をそそる出汁の匂いが漂ってきていた。冷え切った顔が温まってピリピリした。
僕が玄関へ足を踏み入れると、遥香は我に返ったようにドアを閉めようとした。が、それより先に僕は身体を割り込ませた。
「どうしたの、遥香?」
「い……いやあっ!」
遥香は悲鳴を上げて、三和土から廊下へ上がった。
「来ないで! 出てってよ! ヒデくんは……秀人はどうしたのよ!?」
「ああ、遥香につきまとってたストーカーのこと? 君が困ってるだろうと思って、黙らせてきたよ。おかげでここの住所が分かって助かった」
僕は靴を脱ぎながら、ポケットから出した携帯電話を見せた。駅前で彼女にメールを送った携帯だ。僕のスマートフォンではない。彼女はそのメールをあの男からのものだと勘違いしたようだけど。
遥香の引っ越し先を教えろと佐山秀人に迫ったら、あいつはせせら笑った。
――誰のせいで引っ越したと思ってんだ。おまえが彼女につきまとって自宅にまで押しかけるようになったからじゃねえか。
――おまえ、新しい住所教えろって人事課にしつこく掛け合って、それが原因で会社クビになったらしいな。
――遥香は俺の彼女だ。これ以上近づくんじゃねえ!
同期入社のくせに偉そうにそう言って、あいつは俺の胸をどんと突き飛ばした。
優越感と蔑みに満ちた視線を向けられて、僕はとても悔しくなって、だから――。
僕はその場を立ち去るあいつの背中に、解雇されて以来持ち歩いていたナイフを突き立てたのだ。
「ストーカーはあんたの方じゃないの! 出てって! 警察呼ぶわよ!」
遥香は別人のように顔を歪めて金切り声で叫んだ。
いつもは綺麗で優しげな彼女の表情がそんなふうに変わることが、僕にはとても悲しかった。どうしてそんな表情を向けられるのか訳が分からなかった。
誰よりも彼女を愛しているのは僕なのに――。
「遥香、落ち着いてくれ。僕は話をしたいだけなんだ」
「いやっ、触んないで! 助けて!」
肩に触れようとした僕の手を、彼女は勢いよく降り払った。衝撃で僕の持っていたコンビニの袋が宙を舞い、狭い廊下の壁にぶつかった。
彼女は僕に背を向けてよろけながら部屋の奥へと逃れる。着ていたフリースのポケットから携帯を取り出すのを見て、僕はさすがに焦った。110番されるのは少し困る。
僕は大股で彼女を追いかけて、その腕を後ろから握った。悲しくて泣きたかったが、なるべく怯えさせないよう精一杯の笑顔を作って、
「遥香、お願いだから……君が好きなんだ」
黒目がちの両眼が、肩越しに僕を見る。いつもと同じく真っ直ぐに見返してくるその瞳にはありありと恐怖が浮かび、僕の顔を映していた。
「離して……離してよ! キモイんだよ!」
白い花びらが、僕の視界の隅を掠めて舞い落ちた。
僕があの場所に招かれたのは、死んだ娘と同じような恋をしていたから。
愚か? 身勝手? その通りだ。
あの桜は、要するに、人殺しにしか見えない桜なのだろう。
僕は自分の笑顔が冷たく凍りついていくのを感じながら、コートの内側に手を入れた。
花見に行って風邪をひいて思いついた話です。
やはり少し病的になってしまいました。