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桜の約束
作:石ころ


 三年生になってまだ一週間も経っていないというのに、わたしは寝坊をしてしまった。特別な理由があったわけではなく、ただ単純に目覚まし時計を入れ忘れただけに、自分でも嫌になってしまう。
 結局、家を出たのはもう一時限目が始まってしまった頃。昨日と違って風は穏やかになっていたので、わたしは自転車をかっ飛ばして学校へと急いだ。
「……あ」
 学校の敷地沿いの車道まで来て、わたしはあるものに目を留めた。一昨日まではまだ満開に近かった桜がかなり花を落としてしまっている。きっと昨日の強風のせいだ。桜は敷地内にあるけれども、飛ばされてか歩道にも大量の花弁があった。
 まだ新学期が始まって間もないのになあ……。
 そんなことを思いながら校門をくぐると、わたしは駐輪場へ向かった――けれども当然ながら空きはなかった。公立の貧乏学校はこれだから困る。極端に狭いこの駐輪場に収まりきらなかった自転車を、本来とめるべきではない場所にとめている人もいた。わたしも急いでいたなら同じようにしていただろう。けれどもいまから授業に出ても十分くらいで終わってしまう。それなら学校の敷地の隅っこにある誰も使わないような小さな予備駐輪場へわざわざ止めに行って時間を潰すほうがマシだ。
 わたしはそう決めると、校舎を背にしてグラウンド側へ自転車を押していった。目的地は体育用具用の大きな倉庫の裏だ。
 わたしは暖かい陽を浴びてあくびをしながら、ふと連なる桜を見やった。やっぱりどれも色彩が寂しい。
「あ、そいえば」
 そこでわたしは思い出した。かなり前――一年生になって間もない頃に一度だけ向かっている駐輪場を使ったことがあったけれども、その時そばに小さな木があったはずだ。たぶん桜だったと思う。もしそうだとしたらちょっと気になる。わたしはひっそりと咲く桜を想像しながら、駐輪場へと足を速めた。そして、そこへはすぐにたどり着いた。
 ――あった。
 倉庫が風を遮ったからかもしれない。ぽつりと立っている背の低い桜はまだ綺麗なピンク色に彩られていた。
 人目にも触れず、けれども人目を奪うほどの見事に咲いている桜を前にして、わたしは感嘆の息を漏らした。場所が場所なだけに、この桜を知っていて、さらにいまも鮮麗な花を保ちつづけていることに気づいている人は、わたしくらいだろう。惜しいな、と思うと同時に独り占めをしているようで、わたしは自然とニヤリとした。
 と、その時チャイムが耳に入った。時計を確認すると、ちょうど一時限目の終わりだった。さっさと教室へ行かないと次の授業が始まってしまう。わたしは誰も使っていない駐輪場に自転車を置くと、ちょっと名残惜しくもありながらも桜の木を後にした。

   ◇

 それから二日経った放課後、わたしはすぐに帰り仕度をして校舎を出た。まだ咲き誇る桜を見つけて以来、わたしはあの駐輪場を使い続けていた。そして花が完全に散ったら、駐輪場所はいつものところに戻そうと決めていた。べつに特別な理由があったわけじゃない。ただ、なんとなく……だ。
 今日は部活の活動日だったけれども予備校があるので休むことにしている。予備校はいま通っているところとはまた別にもう一つ掛け持ちを始めたので、これからはほとんど部活に出られないかもしれない。
 けどしょうがない――わたしはそう思っている。だって真面目に勉強をしてこなかったツケが回ってきただけなのだから。思えば去年の九月の文化祭が終わったあたりからか、休み時間にも参考書を開く人が増えてきた。そういう人はだいたい部長だったり生徒会役員だったりした。その時から努力してきたからこそ、彼らは三年生となっても自分のしたいことと勉強を両立できているのだ。そしていままで遊んできたからこそ、わたしは勉強に専念する心持ちでいかなければならない。
「あれ」
 やっと片隅の駐輪場に着いたところで、わたしはあるものが目についた。イスだ。折りたたみ式の小さいやつ。朝にはなかったものだから、放課後になって誰かが持ってきたのだろう。けれども見回しても人影はなかった。
 わざわざこんなものを何で? まさか花見じゃないだろうし。
 でも、こんなところで考えているのも時間の無駄だ。わたしはイスから目を離すと、さっさと自転車の鍵を外してサドルに跨った。
「……っと」
 最後に桜を振り返るのを忘れない。残念なことに一昨日と比べるとかなり色を失っていた。まあ、それでもほかの木と比べると断然と長持ちしているほうだけれども。
 明々後日ぐらいが引き時かな――そんなことを思いながら、わたしは自転車で駆けていった。

   ◇

 そしてその予想は大間違いとなった。天気予報でなんとなく危惧していたけれども、やはり桜は強風に花を散らしてしまっていた。点々としている残りも放課後には全て連れ去られてしまっているかもしれない。ここを使うのも今日でおしまいかな。
 それでもこれまでよくがんばってきたほうだ。わたしは桜の幹をなでてやった。これからはわたしががんばる番だろう。人生を桜のように美しく咲かすために、勉強をしっかりやっていかなきゃいけない。
「ありがと」
 わたしは桜にお礼を言ってから、学校へ歩いていった。

   ◇

「な、なんでこんなとこにいんの?」
 放課後、駐輪場に着いたわたしは素っ頓狂な声を上げた。見知った人間がそこでイスに座っていたのだ。彼はこちらを振り向くと、怪訝な表情を浮かべて言った。
「……なにが?」
 その手にはスケッチブックと鉛筆があるのを見て、わたしはようやく思い至った。そういえば、こいつは美術部だったっけ。ということは絵を描いていたのだろうか。
「いや、こんなところにほかの人がいるなんて思わなかったから……」
 二年から同じクラスの高垣は「べつにいいじゃん」とそっけなく答えてスケッチブックへと顔の向きを戻した。無愛想だなとむっとしながらも、わたしはちょっと興味が湧いて彼に話しかけた。
「なに描いてんの?」
 わかってはいたが、とりあえずありきたりな言葉をかけてみた。高垣は手を止めると一息置いてから、もうほとんど花を残していない桜を見上げて口を開いた。
「昨日、まだ咲いている桜を見つけて描きはじめた。途中で帰らないで一気に書き上げてりゃよかったな……」
 そう言って高垣はデッサンに戻った。わたしは「見てもいい?」と尋ねた。頷いたのを認めて、スケッチブックを覗く。芸術分野は音楽選択だったので詳しいことはわからないけれど、鉛筆だけの素描でも情景がよく描き込まれていて凄い。ただ、桜の木に花が描かれていないのが残念だけれども。
「いいなあ、好きなことをできる余裕があって」
 言ってから皮肉に聞こえちゃったかなと内心で慌てたが、高垣は気にした様子もなく「なんで? そっちは?」と聞き返してきた。
「勉強してこなかったせいでヤバいから……。昨日、予備校の模試結果が出たんだけど、第一志望が絶望的な判定だったし。いまからがんばっても間に合うかどうか、って感じ」
「大丈夫だろ。まだ本格的に勉強を始めてないやつだって多い。努力すりゃなんとかなる」
「……そうかな。うん、まあ、ありがと」
 わたしは苦笑をしながら自分の自転車へ近づいた。でも、わたしの第一志望の大学名を聞いていれば簡単には言えなかっただろう。それほどいまのわたしのレベルからすれば無茶なランクの大学だ。
 自転車の鍵を外してサドルにまたがる。最後にあいさつをしようとしたところで、向こうが先に口を開いて質問をした。
「こんな遠いところ、なんで使ってんの?」
 わたしは返答に窮した。どうでもいい無意味な理由を言ってもいいものなのだろうか。しかし高垣が眉をひそめたので、わたしは素直に答えることにした。
「遅刻した日にたまたまここに停めて、それでなんとなく桜が散るまでここを使おうってことにしたの」
「ふぅん」
 高垣は生返事をしたが、ふとスケッチブックからわたしへ顔を向けた。
「じゃ、明日は?」
「どうせ完全に散っちゃってるでしょ。いつものところを使うよ」
「まだいくらか残ってるし、わかんねぇじゃん」
 わたしは桜を見上げた。そりゃそうだけど、そんなの万が一の場合だろう。わたしが笑うと、彼はいたって真面目な顔で言った。
「賭けてみるか」
 高垣はよくわからないことを提案した。わたしが「なにを」と返すと、「そっちで決めてくれ」と来た。向こうから言い出してそれはないだろうとちょっと呆れながらも、わたしは思いついたものを口にした。
「それなら、明日も花が残っていたらわたしは第一希望を目指して鋭意努力、残っていなかったら――その絵ちょうだい」
 わたしは彼のスケッチブックを指差した。高垣は「なんだ、べつにジュース一本とかでもいいぞ」と笑った。言われてそっちのほうがよかったかもしれないと思ったが、言ってしまった手前で気が引けるので変更はなしにした。
 あんまり意味のない賭けを約束してから、わたしは高垣と別れた。クラスでは彼との関わりはほとんどなかったが、こうして話してみると印象も違ってくるものだ。いつも参考書を開いている姿しか知らなかっただけに、なんだか面白い。
 さあ、明日はあいつから絵をもらえる。そしてあの駐輪場を使うのも最後になるだろう。もの寂しさを感じながらも、わたしは自転車で疾駆していった。

   ◇

 春の暖かい微風に頬をなでられながら、わたしは自転車を押す。この程度の風でもあの桜の花を散らすには十分なはずだ。当たり前だけれども賭けはわたしの勝ちだろう。
 わたしは一つ大きな伸びをした。賭けに勝った、といってももちろん勉強をしない口実にはならない。三年生、がんばっていこう――そんなことを心に決めながら、わたしは駐輪場に着いた。
 桜は全ての花を落としていて、そして満開でもあった。
 わたしは根元に立てかけられたスケッチブックの紙を手に取った。その絵はちゃんとペン入れがされて、丁寧に色づけもされていた。
 まったくよくやるもんだ。わたしは笑いながらその絵を貰い受けた。














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