9.自殺
順也は鉄骨の上に佇み、呆然と遠くきらめく町の灯りに目を向けていた。
ここは建設中のビルだろうか。あの留置場から自分がどうしてこんなところにとんだのか、何となく感じてはいたが、そんなことはどうでもよかった。
辺りはすっかり夜の闇に包まれている。所々にある裸電球だけが光源のためか、非常に暗い。足下がようやく見えるか見えないかという状況の中で、彼は鉄骨によりかかったまま、まだ震えていた。
今、背後に感じている邪悪なものの気配のせいではない。先程の警官の悲しげな顔が、頭にこびりついて離れないのだ。
――本当に、僕は殺してしまったのか?
そのあまりにも受け入れがたい事実に、体の震えは止まらず、四肢には全く力が入らない。彼は両手で自分の肩を抱き、目を固く瞑った。
【コロシタ】
彼はゆっくりと振り返った。
そこは暗闇に閉ざされ何も見えないが、彼の鋭い五感は先刻から、そこにあいつの気配を感じとっていた。
【コロシタ】
含み笑いの、気配。
「……何がおかしい」
やつはしばらくそうしてくすくすと笑っているようだったが、その笑いを収めると皮肉めいた薄笑いを浮かべて……顔は見えなかったが、そんな感じだった……こう言った。
【オナジ】
「どういう意味だよ?!」
順也は声を荒げた。
「僕とおまえがか? 冗談じゃない! 何が同じなんだ? 僕はお前みたいな化け物じゃない!」
返ってきたのは、赤子の含み笑いの気配だけだった。
「何笑ってんだ? そうして余裕かましてられんのも今のうちだ。お前が何度生き返ったって、僕は絶対にお前を殺してやる! 今ならお前はまだ赤ん坊だ。体力では僕に勝てない……」
彼は姿勢を低くし、意識を集中した。白く輝く気が見る間にその手元に集積し、目映い閃きを放ちながら球形に凝縮される。
――そうだ。今は、こいつを殺すことだけ考えていればいい。そうすることが僕の責任なのだから。
彼は赤子の気配のする方向に、その白い気の塊を一気に放出した。
辺り一帯は一瞬、昼間以上に明るくなり、同時に、鉄骨が崩れ落ちる轟音がそこかしこから響き始めた。どうやら赤子は、建物のかなり重要なところにいたらしい。彼の周囲も次々と崩れ始め、足下を支えていた鉄骨も箍が外れたように落下を始める。
「……!」
彼の体は重力に引かれるまま、地上へ墜落し始めた。
――いけない! このままでは死ぬ……。
そう思った瞬間。彼の体はふわりと宙に浮いていた。
何もない中空に、まるでそこに体を支える何かがあるが如く、直立の姿勢を保って立つ。今までただひらすら力を隠してきた彼にとって、それは初めての経験だった。しかし、そんなことに驚いている暇はない。
眉根を寄せ、彼は前方の暗闇をすかし見る。
目の前の空中に、もう一人誰か浮かんでいる。誰かとは……あいつに決まっている。
そいつは相変わらず薄笑いを浮かべていた。今度は街の明かりではっきりとそれが見える。一体何がおかしいというんだ。彼は無性に腹が立った。
「死ね!」
叫ぶと同時に鋭い輝きを放つ白い気の塊を放出する。だがなにぶん初めての空中戦のこと、姿勢が安定せず方向が定まらない。白い気は赤子の脇をすり抜けて中空に消えた。
「くそっ!」
諦めず、二発目、三発目を撃つ。だがそれも、皆間一髪で赤子には当たらない。避けているのだ。どうやら空中戦は赤子の方が上らしい。順也は焦ってきた。
「当たれ……!」
最高の念を込めた四発目も、赤子の体を紙一重ですり抜けていった。
撃ってから、順也ははっとした。薄笑いを浮かべる赤子の背後に、高層マンションの窓の明かりが輝いている。
順也は息を呑み、何か言いかけるように口を開きかけた。
辺り一帯が、一瞬目も眩むほどの白一色に染まる。
その輝きが収束していくにつれ、ちょうど真ん中辺りからぼきりと折れるように崩れ落ちる高層マンションのシルエットが、薄明るい夜空に浮かび上がる。
耳を劈く轟音が辺り一帯に轟き渡り、爆風が吹き荒れ、まるで砂でできていたかのように見る間に崩れ去る高層マンション。だが順也には、それはまるで無声映画をコマ送りで見ているように、ひどく長いものに感じられた。
そこで生活していた何百人もの人々。崩落の瞬間に彼らが見、感じ、思ったことが、怒濤のように彼の頭に流れ込んでくる。その直前まで、いつものように一日を終え、いつもと変わらない日常を送っていた彼らを襲う、突然の理不尽で強制的な、死。穏やかな生活も、ささやかな幸せも、平凡な日常も……全て一瞬のうちに、他ならぬ彼の撃った一発によって、無惨にも崩れ去っていこうとしている。
「……!」
彼は無言のまま、叫んだ。もはや声にはならなかった。
赤子はにやりと笑うと、ゆっくりと先刻の台詞を繰り返した。それはまさに、死刑の宣告に等しかった。
【オナジ】
背筋を駆け抜ける戦慄に、順也は呼吸すら忘れて凍りついた。
――そうだ。同じだ。僕はこいつと同じだ。訳の分からない力を使い、多くの人を死に至らしめ、その生活を奪い……。
凝然と目を見開き、震えながら目の前で不敵に笑う赤子を見る。
――そうだ。僕もこいつと同じ化け物なんだ。こんなにも恐ろしい化け物がすぐ側にいたことに、今の今まで気がつかなかった。こいつを殺すより先に、もっと簡単にできることがあったのに……!
ショック状態から来る一種の錯乱とでも言うべきか。だがこの事は、以前から彼の心のどこかにずっとあったことだった。裕子との出会いで暫く忘れていたが、このショックで再びそれが更に強くなって表出しただけのことなのかもしれない。
彼は自分の体を支えていた力を解いた。
放出されていた白い気が、空気中に拡散するドライアイスさながらに消失するとともに、彼の体は、重力の法則に従って落下を開始する。彼の表情はしかし、安らぎとは程遠いものがあった。自分の死で全てが償えるわけがないことは、彼自身重々承知の上だった。だが、そうせずにはいられなかった。これ以上、生きていたくなかった。
赤子は、その一部始終を黙って見ていた。
☆☆☆
この事件は、バブル崩壊直後の日本全土を震撼させるものとなった。
TV、新聞は毎日のようにこの事件を取り上げ、順也を「恋人を妊娠させた上、それが分かると逆上し、惨殺に及んだ性格異常者」と位置づけて、彼の生い立ち、いかに彼が人と違った環境で育ったかを垂れ流すように報道し続けた。翌日起きた原因不明のマンション倒壊事故と合わせて、数日間はその話題で新聞もテレビも持ちきりだった。
しかしそんな中、一人の赤ん坊がこの小さな病院に届けられたことは、殆どの人は知る由もない。
届けたのは、日課のジョギングをしていた若い女性だった。
「こんな寒空の下で、かわいそうに……。それにしても警察、遅いですね。時間、大丈夫ですか?」
看護師は赤ん坊の状態を確認しながら、警察の到着を待つ女性に話しかけた。
「大丈夫です。きっと忙しいんでしょう。警察も大変ですよね、このところ大事件の連続で」
そのうら若い女性は、苦笑いをしながら看護師を見やる。
「本当に、ひどい世の中になったもんですよ。あの事件の犯人も、孤児だったって言うじゃないですか。こういう風に子どもを軽々しく捨てたりする母親がいるから、あんな事件は起こるんですよ。まったく」
「自殺したんですよね、その犯人」
点滴の処置をしながら看護師はため息をつきつつ首を振った。
「頭がおかしかったんでしょ。マンションは倒壊するし、今の世の中何が起こるか分かりませんからね、お嬢さんも気をつけてジョギングして下さいよ」
看護師の言葉に、女性は笑って頷いた。
いつもと全く変わらない一日が、始まろうとしている。
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