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  輪廻 作者:代田さん
         5月9日 1
 5月9日(木)

「本当か?!」

 思わず大きな声を出してしまい、怜璃は慌てて口元を抑えて周囲を見回した。
 下校する生徒達が、訝しげに振り返りながらそんな怜璃を見送っていく。

「本当っす」

 苦笑しながら寺崎が言うと、怜璃は口元を抑えたまま目をまん丸く見開いた。

「いつから、なんだ?」

「退院予定が明日なんで、明日からっすかね」

「そうかぁ……」

 怜璃はまだ驚きさめやらぬ様子で、はあっと息を吐いた。

「よかったなあ、そうか、お前んとこに……」

「すいません、報告が遅れて。本当はこの間の会合の時に言うはずだったんすけど、あんなんで言いそびれて、それからいろいろあってやっと決まったんです」

 怜璃は(かぶり)を振ると背の高い寺崎を見上げ、何とも温かい笑顔でにっこり笑った。

「ありがとう、寺崎」

 その笑顔に、寺崎は何だか頬が熱くなってくる気がして、慌てて目をそらす。

「あ……いえ、別に、それほどのことじゃないっすから……」

「それにしても、偉いな。お前のお母さん」

 寺崎は深々と頷いた。

「俺もそう思います。俺なんかはまだ生まれてなかった訳だから、あの事件にそれほどこだわりがない。けど、おふくろはリアルタイムでその渦中にあったんっすから」

「どうして、そう思ったんだろうな」

「それは、あいつの手……」

 寺崎は突然、言いかけた言葉を止めた。

「? あいつの、なんだ?」

 怪訝そうに怜璃が聞き返すと、寺崎は曖昧な笑みを浮かべながら慌てて手を振った。

「……いや、何でもないっす。とりあえず、総代はこれから会議ですか?」

「いや、今日は何もない。それより、さっきの続きは何だ? 手?」

「いえいえ、ほんと、何でもないっす。じゃあ、これで帰りですよね。俺、今日もうちの方の準備しなきゃならないんで、帰ります。それじゃ、総代、お先に失礼しまーす!」

 寺崎はそう言い捨てると、まだ何か言いたげな怜璃を残し、あっという間に校門の向こうへ走り去ってしまった。

☆☆☆

――紺野の、手?

 エレベーターに乗り込んだ怜璃は八階のボタンを押し、階数表示を見上げながら、先ほどの寺崎の台詞を思い返していた。

――一体何を言いかけたんだろう? 手が、どうかしたのだろうか。

 首をかしげつつ、怜璃はエレベーターを降りると、ホールから廊下を抜け、八〇三号室をそっと覗いた。静かな病室の一番奥、紺野のベッドはカーテンが閉まっていて、中の様子は分からない。怜璃は他の患者に会釈をしながら一番奥まで来ると、カーテンの隙間から紺野のベッドを覗いた。
 ベッドには、誰もいなかった。
 怜璃はちょっと拍子抜けして周りを見回したが、まあ、恐らくすぐに戻ってくるだろうと思い直し、枕元の丸椅子に腰掛けてしばらく待つことにした。

☆☆☆

 その頃紺野は、亨也の診察室にいた。
 一通り診察が終わり、紺野は亨也から説明を受けるために丸椅子に腰掛けて待っていた。
 しばらくして、亨也が入ってきた。側にいた看護師にちょっと席を外してくれるよう頼むと、亨也は手元のカルテに目を通しながら回転椅子に腰を下ろした。

「大体、いいようですね」

 一通りカルテを見終えると、亨也は微笑んだ。

「明日の退院で、大丈夫でしょう」

「本当に、何と申し上げればいいか……。ありがとうございました」

 深々と頭を下げた紺野に亨也は首を振ると、何やらがさがさとカバンを探っていたが、やがて一枚の紙を取り出し、紺野に手渡した。
 それは、何かの契約書のようだった。氏名を書く欄や捺印をする欄がある。

「これは?」

「契約書です。怜璃さんを護衛するにあたっての。一応大人同士の取り決めですから、書いておいてもらった方がいいでしょう」

 紺野にペンを手渡すと、亨也は説明を始めた。

「怜璃さんの護衛にあたる時間や、報酬のことが詳しく書いてあります。一応、基本は日給一万円で、登校から下校までのだいたい八時間労働です。まあ、特別に何かあったときは柔軟に対処していただきますが。これは、寺崎さんの契約とほぼ同じ内容です」

 紺野は頷きながら、早速氏名欄に整った楷書で名前を書き入れる。

「捺印は拇印で結構ですよ。……ただ、寺崎さんと違う点は二点ほど。一点はあなたに支払われる報酬のうち、七万円は天引きさせていただくということ。これは、今回の入院手術費、総額で四百三十二万円になりますが、その返済に充てていただきます。もう一点はおわかりだと思いますが、怜璃さんに万が一あなたが手を出した場合、バグのスイッチを押させていただくこと、この二点です」

 そう言うと、亨也は朱肉を用意しながらちょっと笑った。

「まあ、後者に関しては私はもう心配してはいません。せいぜい我々の方が、悪用されないようスイッチの管理を徹底するくらいです」

 紺野は丁寧に拇印を押すと、契約書を亨也に手渡しながら申し訳なさそうに言った。

「いいんですか? 報酬までいただいて……」

 亨也は当たり前のように頷いた。

「労働に対してそれに見合う報酬をお支払いするのは当然のことです。あなただって、生きていかなければならないんですから」

 生きていく……紺野はその言葉を聞くと、どこか神妙な顔つきになった。亨也はそんな紺野を優しい目で見つめた。

「生きてください。あなたが生まれ変わったのには、私は意味があると思いますよ。というより、意味を持たせなければ、美咲さんも浮かばれないでしょう」

 ますます小さくなって俯いた紺野を見て、亨也は少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「すみませんね、嫌なことばっかり言って……。一応、これでも同い年として接しているつもりなんです。だから、甘いことは言えません。大人ですから」

 すると紺野は、下を向いたまま大きく首を振った。

「そんなことはありません。言っていただいて本当にありがたいんです。自分でも思うんです、子どもだと……。もっと、しっかりしなければ」

 亨也はほっとしたように微笑むと、契約書の写しを紺野に差し出した。

「あなたは抱えているものが大きすぎるから、仕方のない部分もあるでしょう。とにかく、これで契約は結ばれました。改めて、よろしくお願いします」

 亨也が頭を下げると、紺野も慌てて頭を下げた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 亨也は顔を上げると、少しの間紺野をじっと見つめていたが、ややあって静かに口を開いた。

「……で、退院後のことは、寺崎さんから連絡していただいたとおりでよろしいですね」

 紺野は目線を手元に落としたまま、黙って頷いた。少し緊張したような面持ちだった。亨也はそんな紺野を静かに見つめていたが、やがて一言、こう言った。

「がんばってください」

 その言葉に、紺野は俯いたまま、「はい」と短く答えた。
 紺野が診察室を出る時、入れ替わりで沙羅が入ってきた。沙羅は契約書の写しを手に病室へ戻る紺野を戸口に佇んでしばらくの間見送っていたが、部屋の中の亨也に顔を向けると、くすっと笑った。

「総代、あの男には妙に親切ですよね」

 亨也は「そうかな」と言うと、ちょっと恥ずかしそうに笑った。

「いや、何だろうね。どうも、ほうっておけない感じでね」

 沙羅は微笑みながら、本当に何気なく呟いた。

「まるで、総代の弟みたい」

 その言葉に、亨也は微かに目を見開いた。
 亨也はしばらくの間カルテを手にしたまま、じっと紺野の去った戸口を見つめて動かなかった。

☆☆☆

 エレベーターで、紺野は契約書にもう一度目を通した。
 日額一万円を支給と明記されている。
 紺野は、働くのは初めての経験だった。三十年以上生きてきたとはいえ、その殆どが子どもとして過ごした時間だったため、必然的に労働という経験をしないままここまで来てしまっていた。
 紺野はどきどきしていた。自分の労働で、賃金がもらえる。自分で、自分の生活を成り立たせていくことができる。自分で、自分を生かしていくことができるのだ。何だか嬉しいような、緊張するような、不思議な気分だった。
 八〇三号室に戻り、自分のベッドのカーテンをくぐって、紺野は目を見開いた。
 丸椅子に座り、ベッドに倒れ込むようにして、誰か眠っているのだ。
 紺野を待っている間に眠ってしまったのだろう。閉じた瞳を彩る長い睫毛、通った鼻筋、花の蕾のような唇。……魁然怜璃だった。
 紺野は戸惑ったように辺りを見回した。声をかけようと思ったのか、その肩に手をのばしかける。だが、規則的で安らかな呼吸を繰り返している怜璃の姿に、その手が止まった。
 紺野はベッドの反対側にもう一つ丸椅子を出すと、そこへ腰掛けた。
 紺野の座っている位置から、怜璃の寝顔が少しだけ見える。何とも、気持ちよさそうに眠っている。幸せそうなその寝顔を眺めていると、不思議なことに紺野自身も、ゆったりした気持ちになっていくのを感じていた。
 紺野は今日洗濯して先ほど畳んだばかりのジャージの上着を手に取ると、眠っている怜璃の肩にそっとかけた。そうして再び丸椅子に腰を下ろすと、手元にある契約書にもう一度目を通し始めるのだった。


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