ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
  輪廻 作者:代田さん
         5月3日 2
 受付で聞いて驚いた。紺野は一般病棟に移っているというのだ。再度確認したが、やはりそうだという。

「さすが、神の手を持つ外科医……」

 エレベーターに乗りながら、寺崎は呟いた。何だかものすごく安心した。紺野は死んでいないと言うことだからだ。怜璃も同様だった。二人とも、無意識に病室へ向かう足が速まった。
 恐らく、空いている個室がなかったのだろう。彼は今までの個室ではなく、大部屋に移されていた。八〇三号の扉をノックし、周囲の患者さんに挨拶しながら窓際の紺野のベッドへ向かうと、閉まっているカーテンの外から怜璃が遠慮がちに声をかける。

「……紺野」

 返事はなかった。
 怜璃は寺崎とちょっと目線を交わすと、恐る恐るカーテンをめくってそっと中を覗いた。
 仄暗いベッドの上で、紺野は穏やかな表情で眠っていた。酸素マスクも取れ、仰向けの体勢になっている。呼吸も規則的で、静かだった。
 二人ともそのまましばらくカーテン際から、静かに眠る紺野を見つめていた。
 さらさらの茶色い髪に、長いまつげ。昨日あんな凄惨な目に遭ったことが、まるで嘘のような穏やかなな寝顔だった。紺野の規則的な呼吸がただただ嬉しくて、怜璃は紺野の枕元の丸椅子に腰を下ろすと、視界に滲んだ涙を拭おうと、バッグからハンカチを取りだした。
 その時だった。

「あれ、来てたんですか」

 急に背後から聞き覚えのある声が響き、怜璃は慌てて涙を拭って振り返った。
 そこに立っていたのは、神代亨也だった。回診だろうか、可愛らしい看護師を伴い、白衣姿でにこやかに微笑んでいる。

「神代先生!」

 寺崎は頓狂な声を上げると直立し、何度も何度もバッタのようにお辞儀を繰り返した。

「今回は、ありがとうございました!まさか、ここまで回復してるとは思いませんでした!」

 寺崎の勢いに押されながらも、亨也はいえいえ、と手を振った。

「もう心配いりませんよ。あとはゆっくり回復を待てば……ただし、退院は少し長引きそうですが」

「どのくらいですか」

「そうですね。一週間ほど余計にかかりますでしょうか。でもまあ、退院後の生活についても考えなければならなかったわけですから、ちょうどいいんじゃないですか」

 その言葉に、寺崎ははっとした。昨日、会合で言えなかったあのことを思い出したのだ。

「あの……神代先生、ちょっとお話しても大丈夫ですか?」

「?ええ、いいですよ」

 寺崎は紺野の枕元に座っている怜璃にちらっと目をやった。

「ちょっと外に出てもいいですか」

 亨也が頷くと、寺崎は怜璃に少し席を外す旨を伝えて、廊下に出た。

「済みません、お忙しいのに。昨日の会合で言おうと思っていたんですが、あんなことがあったんで言えなかったんです」

 寺崎はそこまで言うと、言葉を切って息を整えた。

「……実は、退院したあとあいつを、俺の家でしばらく預かれればって思っているんです」

 亨也は驚いたように目を丸くした。

「寺崎さんの? でも、あなたの家は、確か……」

 寺崎はゆっくりと頷いた。

「あの事故の被害者です。ただ、そうであるからこそ、あいつもめったなことはできないんじゃないかと思うんです。実はこれ、母親の提案なんです。母親は足がない。身の回りの手伝いをしてもらいたいと、こう申しておりまして……」

「そうですか、お母様が……。我々としても、そうしていただければ管理の手間が省けて非常に助かります。ただ、分かってらっしゃいますか?」

 そう言うと亨也は、心なしか鋭い目で寺崎を見つめた。

「彼を預かると言うことは、様々な危険が身近に起こりうるということです。ご存じの通り、彼自身もあの子どもに狙われている。その余波が、あなた方の身に降りかからないともかぎりません。また、彼自身も本当に安全な存在かどうかは保証できません」

 寺崎は数刻言葉もなく、亨也を見つめ返すことしかできなかった。
 言われてみれば確かにその通りだった。これまでに三度、紺野はあの子どもに襲われ、死にかけている。今後も同様の攻撃が続くことは十分考えられることだ。薄いながらも魁然の血が流れている自分はまだいい。だが、母親に危険が及ぶことまでは寺崎は考えてもみなかった。
 亨也はそんな寺崎を優しい表情で見つめた。

「このことは、もう少し考えてから答えを出した方がいいでしょう。あなたのお母様にもそのように伝えてみてください」

 その言葉に、寺崎は黙って頷くしかなかった。
 再び病室に戻ってきた亨也の姿を見ると、紺野の枕元に座っていた怜璃は席を立った。

「……亨也さん」

「紺野さん、よく眠っているようですね」

 にこやかに話しかけてきた亨也から、怜璃は恥ずかしそうに目線を逸らしながら頷いた。

「起こすのも可哀想ですね、回診はまた後できます。……ところで、怜璃さん」

「はい」

「ちょうどいい。ちょっとお話があったんです。少しつきあっていただいてもいいですか?」

 急な誘いに戸惑ったような表情を浮かべた怜璃に、そんな二人の様子を黙って見ていた寺崎は後押しするように頷いて見せた。

「行ってきてください。俺も、紺野の荷物を置いたら帰りますんで」

 怜璃は寺崎を見て、今度はチラッと亨也を見やり、それから遠慮がちに小さく頷いたようだった。

☆☆☆

 この病院の中庭は、都心とは思えないほど豊かな緑に囲まれている。5月らしくすっきりと晴れて爽やかな日和の下、その庭を患者や見舞客がゆっくりと散歩したり、小さな子どもが追いかけっこをして遊んだりしている。
 穏やかな風景を横目で見やりながら、怜璃は少し先を行く亨也の背中におずおずと声をかけた。

「……あの、亨也さん」

 先を歩いていた亨也は、その声に足を止めて振り返った。
 日差しに透ける茶色い髪が爽やかな風になびき、端正なその顔の周りで輝く木漏れ日がキラキラと目に眩しい。白衣の白もやけに目に染みて、怜璃はそんな亨也から慌てて目線を逸らすと、深々と頭を下げた。

「本当に、いろいろとありがとうございました」

 亨也は些か困ったような笑みを浮かべると、小さく首を振った。

「総代として当然のことをしたまでです。あの男も、多分神代の血を引いていますから」

「……やっぱり、そうなんですか?」

「おそらくは。血液の成分があそこまで一致しているとなると、そう考えざるを得ないでしょう。」
「だとしたら、一体誰の……」

 亨也は大きな桂の木のにあるベンチを示して怜璃を座らせると、その隣に自分も腰を下ろした。

「細かい出自は分かりません。ただ神代としては、彼の存在を認めていこうということになりましたから」

 亨也はいったん口を噤むと、数刻の間黙ったまま隣に座る怜璃の横顔に目を向けていたが、ややあって徐に口を開いた。

「怜璃さんは昨日、彼を護衛役にする話を聞いてどう思われました?」

 怜璃ははっと目だけ見開いたが、それ以上何も言わず下を向いたまま動かなかった。

「最初、怜璃さんが言われていたように受け取っていいですか?あの男に護衛をさせることに、賛同していると……」

 その言葉が終わらないうちに怜璃は顔を上げた。その大きな目でまっすぐに亨也を見つめながら、きっぱりと首を横に振ってみせる。

「紺野に護衛はしてほしくありません」

 亨也は先ほどと全く同じ優しい表情でそんな怜璃を見つめながら、静かに口を開いた。

「高校に通うのを諦める……そういうことですか?」

 その穏やかな表情からは思いも寄らない厳しい言葉に余程驚いたのだろう、怜璃は隣に座る亨也を、思わずまじまじと見つめた。

「私は、神代側の護衛なしであなたが高校に通うのは反対です。神代側の護衛をつけることはこちらとしても最大限の譲歩なのですから」

 亨也は眉一つ動かさず、淡々と続ける。

「厳しいことを言うようですが、あなたの身の安全が最優先です。神代側の護衛なしでは、あなたの身の安全は確保できませんから。私が守って差し上げられれば一番なんですが、申し訳ない、私も仕事の最中は抜けられないことも多々あります。今現在、あなたと同年代の神代の者は、あの男を除いて他にいないんです」

 亨也はそう言うと、顔を強ばらせて自分を見つめる怜璃に優しい目を向けた。

「でもそれだって、最良の策というわけではないんです。あの男もあの子どもに狙われている。かえって危険を呼び込む可能性もあります。……ですから、考えてください。すぐに答えを出さなくても、あの男の退院は一週間は伸びますから。あの男の護衛を認め、危険を覚悟で高校に通うか、高校に通わずすぐに私のもとに来ていただくか。……私的には、後者の方がお勧めですが」

 硬い表情で俯く怜璃をちらっと見やって、亨也はちょっと笑った。

「ただ、後者ではあなたはきっと納得できないでしょう。別にいいんです。あなたの思うとおりになさってください」

 そう言うと亨也は、怜璃の返事を待たずに席を立った。

「さて、そろそろ仕事に戻ります」

 怜璃は顔を上げると、何か言いたげに口を開きかけたが、途中で黙り込んで下を向いた。亨也はそんな怜璃に優しく微笑みかけた。


「またお話する機会があるといいですね……今度はもっと楽しい話題で」

 そう言って俯いたまま動かない怜璃に目礼すると、亨也は病棟の方へ歩き去った。
 怜璃は木漏れ日の揺れるベンチに座ったまま、動かなかった。爽やかな五月の風に吹き散らされた髪が俯き加減の顔を覆ったが、それをかき上げようともしないまま、怜璃はじっと足下に揺れる光の水玉模様を見つめていた。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。