7月21日 2
白い特急列車を降りて新宿駅に降り立った四人は、そのまま連れだって改札を抜けた。
「すみません、わざわざ改札を出ていただいて……」
みどりの車椅子を押しながら紺野が申し訳なさそうにこう言うと、前を歩いていた寺崎が振り返って笑った。
「見送りくらいさせてくれよ。ほんとなら、千葉まで送りてえくらいなんだから」
「やっぱりそうしましょうか。私なら平気よ。少しくらい遠くても……」
みどりの言葉に、紺野は目を丸くして慌てたように首を振る。
「とんでもありません。ここで十分です」
いつもながらの反応に、寺崎はくすっと笑う。幾分苦笑めいた、それでいて何とも寂しげな表情を浮かべながら。
新宿駅JR線改札は、帰途につく人の波でごった返している。その人波の邪魔にならない端の方で、四人は立ち止まった。
「じゃあ、ここで見送るから」
寺崎が言うと、みどりがにっこり笑って紺野に右手を差し出した。
「握手して、紺野さん」
「みどりさん……」
おずおずとその手を取った紺野に、みどりは優しく笑いかけた。
「約束してね、紺野さん。絶対、幸せになるって」
口元は優しく微笑んでいるが、その眼差しは真剣で、心なしか潤んでいる。紺野は言葉を返そうとしたが、唇が震えて言葉にならなかったらしい。その唇を引き結ぶと、無言のまま俯いた。項垂れた顔を覆う前髪の隙間から、小さな滴が一つぽつんと滴り落ち、コンクリートの床に黒っぽい丸印を描く。
みどりは幾分大げさに眉を上げると、やけに明るい笑顔を見せた。
「あら、だめよ紺野さん、泣いたりしちゃ……。せっかくの門出なのよ。明るくいきましょ」
隣で聞いていた寺崎が、苦笑混じりに肩を竦める。
「ほんと、おふくろの反応には俺も驚いた。紺野のこと言っても全然驚かねえし、何かやけに明るいし」
「だって、紺野さんがそう決めたってことは余程のことなのよ。それを周りにいる私たちがとやかく言っても仕方がないでしょう。私たちにできるのは、明るく送り出してあげることくらいだから」
そう言うとみどりは、俯いている紺野に何とも温かい眼差しを向けた。
「それに、あなたには帰るところがあるから」
紺野ははっとしたように俯いていた顔を上げた。
「順平さんの所は勿論だけど、うちだってそうなのよ。何か困ったことがあったらいつでも帰ってきて。待ってるから。いろいろ事情があるから、そうそう頻繁に顔を見せに来る訳にもいかないとは思うけど、何かあった時くらいは……」
笑顔で話しはじめたみどりだったが、最後の方は声が震えて言葉にならなかった。言葉を切り、目を伏せて、喉元の痙攣を必死で押さえているみどりの様子に、紺野も引き結んだ唇を微かに震わせた。
「あーあ、湿っぽいねえ。ダメダメ」
寺崎は首を振り振り大声でそう言うと、つかつかと項垂れている紺野の前に進み出た。両肩にポンと手を載せ、みどりの方を向いているその体を強制的に自分の方に向ける。
怖ず怖ずと顔を上げた紺野に、寺崎はにっと笑いかけた。
「俺からお前に言いたいことは、一つだけだ」
底抜けに明るく、屈託のない、すっかり見慣れたその笑顔が目に入った途端、胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、紺野は知らずその頬を強ばらせながら、瞬ぎもせずその顔を見つめた。
寺崎は、一語一語噛みしめるように言葉を発した。
「お前は、紺野秀明なんだ」
紺野の視線を真っ直ぐに受け止めながら、穏やかな、それでいて確信に満ちた口調で言葉を継ぐ。
「これから行く先で会う人は、お前の過去を何も知らない。お前はようやく過去から解放されるんだ。東順也……もとい神代順也は、十六年前死んだ。お前は紺野秀明だ。紺野美咲さんが命がけで産んでくれた……だから、生きろ。紺野秀明として、美咲さんに恥じない人生を生きるんだ。わかったな」
紺野は寺崎を見つめたまま、数刻微動だにしなかった。
自分に注がれる寺崎の温かく優しい眼差しを半ば呆然と受け止めながら、何を言おうとしたのか微かにその唇が震える。だが、言葉は僅かに周囲の空気を揺らしただけで消え、紺野は諦めたようにその長い睫毛を伏せると、無言のまま深々と頷いた。
それを見た寺崎は、俯いた紺野の頭をいつものように遠慮会釈なくぐしゃぐしゃっと撫で回した。
「俺は絶対、怜を幸せにする」
寺崎はみどりの目の前で、初めて怜璃のことを「怜」と呼んだ。みどりも、そして怜璃も、驚いたように寺崎を見る。
「お前に負けねえくらい、お前のことなんか思い出す間もねえくらい、幸せにする。だから安心しろ」
紺野は俯いていた顔をゆるゆると上げると、微笑んだ。いつもの、あの穏やかな笑顔だった。
「よろしくお願いします」
「ああ。任せとけ」
寺崎はにっと笑って親指を立てて見せた。
「……紺野」
そこで初めて、寺崎の隣に佇む怜璃が遠慮がちに口を開いた。
「本当にすまない。お前一人に、いつも責任を負わせるような形になって……」
「とんでもないです」
紺野は大きく首を横に振ると、笑った。
「僕はある意味、自分のためにこの道を選んだんです。あなたが責任を感じるようなことは何もない。敢えて言うなら、……寺崎さんと幸せになって下さい」
そう言って視点を遙か遠くに移す。
「そうなることを、裕子もきっと望んでいるはずです」
「……分かった」
怜璃は頷くと、滲んできた涙を指先で拭い、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「お前もな、紺野。お前も幸せになれ。絶対だぞ」
「そうよ、紺野さん」
その言葉に、みどりも深々と頷いた。
「あなたには絶対に幸せになって欲しい。東京の母からの、これが唯一のお願いよ」
紺野はみどりに真っ直ぐ体を向けると、深々と頷いた。
「約束します」
みどりはほっとしたような、それでいて寂しげな微笑みを浮かべながら、ゆっくりと頷き返した。
傍らに立つ寺崎はその様子を黙って見ていたが、徐に手にしていたスポーツバッグを紺野の目の前に差しだした。
「……行けよ」
紺野は寺崎からバッグを受け取ると、ゆるゆると目線を上げた。
目の前に佇む三人の姿が、ゆっくりと視界に映り込む。
車椅子に座るみどりは、両手を膝の上でまるで祈るように組み、微笑んでいるような、それでいて今にも泣き出しそうな、何とも複雑な表情を浮かべながら、愛おしむように自分を見つめている。みどりの右側には、寺崎と、彼に寄り添うようにして怜璃が佇んでいる。こちらは既にその薔薇色の頬を涙でぐっしょりと濡らし、一定間隔でしゃくり上げながらやはり胸の前で祈るように両手を組んでいる。寺崎はそんな怜璃の肩を左手で優しく抱き、右手を腰に当てて、幾分斜から紺野を見ている。片頬を引き上げ、ちょっと皮肉めいた笑みを浮かべ、それでも何故か自分に対する全幅の信頼と、深い愛情が痛いほど伝わってくる、そんな表情で。
その刹那、四月に彼らと出会ってからの出来事が走馬燈のように紺野の脳裏を駆け抜けた。
突き上げてくる感情の奔流に流されまいと、紺野は拳が震えるほど強くバッグの持ち手を握りしめ、せり上がってくる喉の奥の強ばりを飲み下し、震える唇を引き結んで俯いた。
数刻俯いたまま呼吸を整えていたが、やがて意を決したようにその顔を上げると、微かに戦慄く唇からやっとのことで掠れた声を絞り出す。
「本当に、……ありがとうございました」
寺崎は苦笑混じりに肩を竦め、目線を落として頭を振った。
「礼を言うのはこっちだぜ」
顔を上げ、心なしか潤んだ目で紺野を見つめながら、にっと笑ってみせる。
「ありがとな、紺野。お前に会えて、ほんとに楽しかった」
その視線を受け止めきれず、耐えきれなくなったように目線を逸らして俯いた紺野の目の際から、とうとう涙が一滴、白い頬を伝い落ちた。それを見た寺崎も、慌てて目元をごしごし擦りながら苦笑した。
「なんだよ、もう! いつもながら涙腺緩いんだから。うつっちまうじゃねえか!」
半分怒ったようにそう言ってから、強引に紺野の体の向きを改札口方向に変え、その背中をぐいぐい押す。
「ほら、行け! これじゃきりがねえ」
寺崎は紺野を改札のギリギリ手前まで押しやると、みどり達の方に戻った。紺野は名残惜しそうに振り返って三人の方を見たが、後から来る人波に押される形で改札を通った。
改札を抜けて少し行ったところで、紺野はもう一度振り返った。三人は大きく手を振ってそれに答える。紺野はしばらくの間そんな三人を何とも言えない表情で見つめていたが、やがて居住まいを正して深々と一礼すると、踵を返してホームの階段の方に歩き始めた。
寺崎は言いようのない感情が胸にこみ上げてくるのを感じた。いてもたってもいられないような衝動に駆られて改札に走り寄ると、自動改札脇の柵に両手をつき、半分身を乗り出すようにしながら、人混みに消えようとしている紺野の後ろ姿を目で追った。
「紺野!」
寺崎は叫んだ。騒がしいコンコースいっぱいに響き渡ったその声に、階段の一段目に足をかけたまま紺野は立ち止まった。振り返り、驚いたように動きを止めて寺崎を見る。
寺崎は胸一杯に息を吸い込む。周囲の視線など、彼にはもう関係なかった。ただ、大事な親友にその思いを届かせたい一心だった。
「絶対、幸せになれよ!」
紺野が大きくその目を見開き、口を僅かに開いて息を呑む。視力三.〇の寺崎にはそれが分かった。見開かれた紺野の目から瞬きとともにこぼれ落ちた涙も、彼の目にははっきり見えたのだ。
紺野は荷物を足下に置いて両手を口に当てると、これまで聞いたことの無いような大声を張り上げた。
「寺崎さんもですよ!」
寺崎は苦笑すると、その拍子に零れ落ちる涙を拭いもせず、時折掠れて裏返るほど声を張り上げて叫び返す。
「俺は当然だ! お前の方が心配なんだよ!」
紺野もその言葉に少し笑うと、両手を口に当て、体全体を使って叫び返した。
「約束します!」
「絶対だぞ!」
言い終えると、寺崎はにっと笑って親指を立てた。紺野も寺崎に倣って親指を立てる。それから、改めて三人に向き直り、居住まいを正して深々と頭を下げると、足下の荷物を手に取り踵を返した。ゆっくりと、階段を上り始める。
紺野は振り返らなかった。踏みしめるように階段を上るその後ろ姿は、見慣れたスニーカーを最後に階段上に消えた。
紺野の姿がホームに消えても、寺崎はしばらくの間改札脇に立ちつくして動かなかった。後から後から頬を伝い落ちる涙を拭いもせず、戦慄く唇をきつく引き結び、拳を堅く握りしめたまま、ただじっと紺野の歩き去った階段を見つめていた。
寺崎はその時、確信していた。恐らく一生、あの男のことは忘れないと。そしていつか必ず、再び会える日が来ると。それは全く何の根拠もない直感に近い思いだったが、彼にとってはそんなことどうでもよかった。ただ、そう信じていたかった。
大切な親友に、いつかまた会える日が来ることを。
-END-
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