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  輪廻 作者:代田さん
         6月28日 4
 怜璃の姿は一瞬かき消えた。寺崎の目にはそうとしか映らなかった。彼の動体視力をもってしても、怜璃の動きを捉えることはできなかった。
 そして次の瞬間寺崎が見たのは、義虎の腹に深々とめり込む怜璃の拳だった。
 寺崎は瞬ぎもせず、息を殺してその光景を凝視した。
 彼には分かった。義虎が、微塵も避けようとしていなかったことが。
 いかに総代である怜璃の攻撃でも、真正面から、しかも宣言までされたのだ。総帥たる義虎であればある程度かわすことは可能だったはずだ。だが、義虎は動かなかった。微動だにしなかった。怜璃の百%の力をこんなふうに正面から受け止めれば、無事でいられるはずがない。
 そして、それは怜璃も分かっていた。一歩踏み出した瞬間に目を閉じた義虎を見て、怜璃は彼の意図を察した。だが、それでも怜璃は()めなかった。今ここで止めることは、義虎に対して非常に失礼なことだと思ったのだ。
 同時に、父の思いも感じていた。
 父は多分、裕子を愛していた。
 珠子も、珠洲も捨てることはできない。加えて、親子ほどの年の差に対する羞恥心、そして社会的な自分の地位……そういった諸々のことが、彼を現実に引き戻そうとする。だが、それでも裕子への思いは断ち切りがたかった。一族の目的も、彼を後押しした。そうして、怜璃は今のような形で存在することになったのだ。
 父の心情は理解できないものではない。ある意味、そうなっても仕方のないことだったのかも知れないとさえ、思う。でも、怜璃には受け入れがたかった。妻も子どももありながら、中学生だった裕子に子どもを産ませ、その子を取り上げて彼女を捨てた父が。
 怜璃は全ての思いを、その拳に込めたのだ。
 
☆☆☆

 足下に落としていた目線を上げて、怜璃は義虎を見た。
 義虎は怜璃の拳を受け止めるように上半身を折り曲げ、両手をだらりと両脇に提げたまま、腹を庇う様子もなく俯いている。
 しかし、怜璃の拳は義虎の腹に当たってはいなかった。体に当たる寸前、後数センチのところで、怜璃の拳はまるで見えない壁か何かにぶち当たったかのように止まっていた。
 義虎の体をぼんやりと覆う、白い輝き。

「……紺野」

 怜璃は拳を収め、ゆるゆると振り返った。
 寺崎に血だらけの上半身を支えられ、肩で息をしながら俯いていた紺野は、怜璃の声に応えるように小さく頭を下げるような仕草をした。

「すみませんでした。口出しできる立場じゃないのは分かっていたんですが……」

 寺崎は目を丸くして紺野を見た。全く気がつかなかったのだ。恐らく、あの怜璃のスピードに合わせて、本当に一瞬だけ気を放出したのだろう。百%の解放により、紺野のコントロール能力も格段に上がっているらしかった。

「どうしてだ?」

 怜璃はどこか呆然とした様子でそう言うと、潤んだ目で紺野を見つめた。

「お前は、父様に散々酷い目に遭わされてる。今だって、そんな目に遭って……。それなのに、どうして父様を庇うんだ?」

 それまでじっと俯いていた義虎も、ようやく少しだけ顔を上げた。ゆっくりと、血だらけの紺野に目を向ける。
 怜璃の言葉に、紺野は目線を落としたまま小さくかぶりを振って見せた。

「誰も、悪くないんです」

 その頬に、悲しげな微笑みが浮かぶ。
  
「加害者なんて誰もいない。何かが少しずつ狂ったせいで、こんなことになっただけなんです」

 義虎は俯いたまま呟くように言葉を紡ぐ紺野を、瞬ぎもせず見つめていた。

「あなたの気持ちは、きっとお父さんに伝わっています。だからこそ、お父さんは何も抵抗しようとしなかった。自分が死んで、あなたを自由にするつもりだったんです。それが分かっただけで、もう十分でしょう? 何も本当にそんなことをしなくても、もうあなたは自由なんです」

 少しだけ顔を上げ、紺野は優しく怜璃を見つめた。

「あなたは本当は、お父さんが大好きなんでしょう」

 怜璃ははっとしたようにその目を見開いた。

「僕のシールドに当たる直前、あなたは自分の力を自分でセーブした。恐らく僕のシールドがなくても、魁然さんは大丈夫だったでしょう」

 何とも優しい、そしてどこか悲しげな微笑みを浮かべながら、紺野は静かに言葉を継いだ。

「素直になって下さい。そうして後何年かして、あなたが子どもを持つようになった時、きっとお父さんの気持ちが分かる時が来る」

 乱れた息を整えると、微かに震える右手で脇腹の傷口を押さえる。

「僕はあなたに会った時、正直言って驚いたんです。あなたはかなり複雑な環境で育ってきている。それなのに、あなたは明るくて、素直で、優しくて、本当にまっすぐに育っていた。普通なら、もう少し暗さがあったり、曲がっていたりしても不思議はないのに」

 そう言うと、その大きな目に涙をいっぱいに溜めながら半ば呆然と立ち尽くす怜璃に、何とも優しい眼差しを向けた。

「それはきっと、お父さんのお陰なんです」

 怜璃は息を呑んだようだった。何か言いかけるように半分開きかけたその口元を両手で覆い、数刻呼吸を忘れて立ち竦む。

「お父さんは、あなたが自分の生い立ちで苦しんだり悩んだりしないように、本当に気をつけながらあなたを慈しみ育てた。きっと、その結果なんだと思います」

 喉元が激しく数回上下動を繰り返したかと思うと、怜璃の目から堰を切ったように涙が溢れた。頽れるようにがくりと膝をつき、肩を震わせ嗚咽しながらその顔を両手で覆う。
 紺野は寺崎に目を向けると、ゆっくりと頷いて見せた。寺崎は寸刻逡巡したようだったが、すぐに小さく頷き返すと、そっと紺野から離れた。泣き崩れる怜璃の側に寄り添うと、その震える肩を包み込むようにしっかりと抱きしめる。
 紺野はそんな二人を心なしか潤んだ目で見つめながら、噛みしめるように呟いた。

「これで全て終わったんです。だからもうこれ以上、傷つけ合うのはやめて下さい……」

「何も終わっていない」

 するとその時、今までじっと黙っていた義虎が、突然口を開いた。血だらけでうずくまる紺野を見下ろしながら、地を這うが如き低い声を絞り出す。
 
「私は、カタをつけなければならない。十六年前起こった、あの出来事に。裕子が死んだあの瞬間から、私の人生はストップしたままだ。それにカタをつけない限り、何も終わりはしないんだ」

 紺野は肩で息をしながら義虎を見上げると、小さく頷いた。

「分かっています。僕はそのつもりでした。あなたに会って、気の済むようにしていただこうと……。僕は抵抗できないし、たとえできたとしてもするつもりはありません。あなたの思うようになさってください」

 そう言うと、目線を落として悲しげに呟く。

「僕はそれだけのことを、あなたにしてしまっている」

「勘違いするな」

 突っ慳貪に差し挟まれたその言葉の意味が分からず、紺野は訝しげに顔を上げた。
 紺野を見下ろす義虎の目には、先刻までの煮えたぎるような憎悪は影を潜め、代わりに何とも形容のし難い、悲しげな色が浮かんでいるように見える。
 義虎は紺野から微妙に目線を逸らすと、絞り出すようにこう言った。

「被害者は、お前だ」

 紺野も、そして、寺崎と怜璃も、その言葉に息を呑み、瞬きすら忘れたように動きを止めた。

「まだ十四歳の裕子と関係を持ち、産んだ子を取り上げ、その気持ちを顧みず、あんな結果を招いてしまった。全ての原因はこの私にあるんだ。私のせいでお前は、滅茶苦茶な人生を歩まざるを得なかったんだ」

 義虎は、その乾いた頬に自嘲的な笑みを浮かべた。

「私は、お前を必要以上に憎むことで、自分の罪から目を逸らそうとしていた。全てお前が悪いと、そう思いこもうとしていた。そうしなければいられなかった。自分が裕子を殺してしまった事実を、直視することなどできなかったんだ」

 言葉を切り、堅く目を瞑り拳を握りしめる。震えているのが、端から見てもはっきり分かるほどだった。

「だから、お前が私を殺せ」

「魁然さん……」

「ひと思いに殺してくれ。お前のその力で、跡形もなく消し去ってくれ」

 紺野はしばらくの間何も言わなかった。だが、やがてゆっくりとその首を横に振った。

「できません」

「何故だ?」

 紺野は顔を上げた。その顔には、何とも優しい、それでいて悲しげな笑みが浮かんでいる。

「あなたには、大切な人たちがいるでしょう」

 義虎ははっとしたように目を見開いた。
 ゆるゆるとその視線を、寺崎に肩を抱かれ、涙に濡れた目で自分を見つめている怜璃に向ける。

「しかもあなたは、社会的に非常に重要なポストに就いていらっしゃる。あなたの下には、あなたの指示を待っている何千人もの人々がいる。死んでいる場合じゃないでしょう?」

 そう言うと紺野は、悲しい目で遠くを見つめた。

「裕子のことは、僕はあなたの責任だとは思わない。敢えて言うなら、それは我々の血のせいです。でもそれは運命で、抗えようもない。だから、あなたが責任を感じることは一切ない。あなたの話を聞いて、僕はそう思いました」

 言葉を切り、微かに目を伏せる。

「そうは言っても、責任を感じてしまう気持ちも、僕は良く分かります。それは仕方のないことです。でもそのことで、あなたが死ぬ必要は一切ない。そんなことより、……生きて下さい」

 義虎は瞬ぎもせず紺野を見つめていた。

「生きて、誰かの役に立つことで初めて、亡くなった人たちに報いることができると……あの時僕は、京子さんに言われました。その通りだと思います。僕はこれからそれを探さなくてはなりませんが、あなたはその仕事を通して大きく社会に貢献することができる、非常に恵まれた立場にいらっしゃる。本当に羨ましい」

 紺野は口を噤んだ。しばらくの間苦しそうにゼイゼイと肩で息をしていたが、やがてその顔を上げると、弱々しく微笑んだ。

「だから、生きて下さい。裕子の分まで。裕子だって、無下にあなたが死んだりしたら、きっと悲しむと思うから……」

 そこまで言った時、紺野はふっと意識が遠のいたようだった。がくりと、その上半身が崩れ落ちる。義虎が即座に反応してその体を支えたが、足下に広がる血だまりを見て息を呑んだ。

「紺野!」

 紺野は薄く目を開き、掠れた声で呟いた。

「僕を……許して、くれますか……」

「許すも許さないもないだろう!」

 義虎は堅く目を瞑り、きつく噛みしめた奥歯の隙間から言葉を紡いだ。

「お前に許してもらわなければならないのは、私だ。私の方こそ、お前にそう聞かなければならない」

 皺深いまなじりに涙を滲ませ、唇を震わせながら、掠れた声を絞り出す。

「私を、……許してくれ」

 紺野は長い睫毛を伏せ、微かに笑ったようだった。

「……はい」

 義虎の腕に体重を預け、紺野はそれきり動かなかった。意識が途絶えたようだった。

☆☆☆ 

「紺野!」

 寺崎は弾かれたように立ち上がると、紺野のもとに駆けよった。義虎の腕の中で紺野は目を閉じ、血のついた口を何か言いかけているようにほんの少し開けている。何とも穏やかな表情だった。
 義虎は何を思ったのか、紺野を寺崎に渡すとポケットから携帯を取りだした。どこにかけるつもりなのか、慌ただしく番号を押し始める。
 と、その時、病室の扉がすっと開いた。
 怜璃も、寺崎も、そして携帯を手にした義虎も、驚きを隠せない様子で動きを止め、入室してきたその人物を瞬ぎもせず凝視する。

「かけても留守ですよ、ずっとここにいましたから」

 そう言って神代亨也は笑うと、寺崎に抱かれている紺野の元に歩み寄った。幾分足を引きずってはいたが、その力強い足取りは体調の確かな回復を感じさせた。
 紺野の状態を見ながら、亨也はちらっと義虎に目を向ける。

「外していただけますか?」

「分かっている」

 義虎は即答すると、ポケットからICカードを取り出し、亨也の首に装着されているリングに触れた。リングは軽い音とともにいとも容易く外れ、床に涼しい音をたてて転がり落ちた。
 リングが外れた瞬間から、亨也の手元は待ちきれないように銀色の輝きを放ち始めていた。目映く輝くその手で紺野を寺崎から受け取り、傍らのベッドに横たえると、すぐさま治療を開始する。
 入口近くに佇んでいた順平は、しばらくの間何も言わず入り口近くでその様子を見ていたが、ふと義虎と目が合うと、徐にその傍らに歩み寄った。

「ありがとうございました」

 順平は目を潤ませてそう言うと、深々と頭を下げた。俯いたまま小さく首を振ると、義虎も順平に倣って頭を下げる。

「いろいろと失礼なことを申し上げて、申し訳なかった」

「とんでもない。我々の方こそ、あなたにご心労をおかけして……」

 そう言って順平は、滲んでくる涙を指先で拭った。

「亨也がESP反応を感じたので、監視の方には少々眠っていただいて、ここまで来たんです。でも、何だか立ち聞きするような感じになってしまって……申し訳ない」

「そうだったんですか」

 義虎は頷くと、振り返った。
 寺崎に肩を抱かれ、寄り添うようにして佇む怜璃の姿が目に入る。
 義虎の目線に気づいたのか、怜璃も俯いていた顔を上げた。
 やがて義虎は、ゆっくりと佇む二人の方に向かって歩き始めた。噛みしめるようにその歩を刻み、ゆっくりと近づいてくる義虎を、寺崎も怜璃もしっかりと体を寄せ合ったまま緊張した面持ちで見つめている。
 二人の目の前で足を止めた義虎は、数刻寄り添う二人をじっと見つめたまま黙っていた。

「怜璃」

 ややあって、低い声で自分の名を呼ばれた怜璃は、緊張に幾分頬を強ばらせながらその顔を上げた。

「はい」

「好きな男とは……その男か?」

 一瞬の間の後、怜璃は目線を義虎に合わせたまま深々と頷いた。

「はい」

「そうか」

 義虎の目にどこか寂しげな色が浮かんだ。

「大学にも、行くのか」

「はい」

 怜璃は義虎を見つめる眼差しにより一層力を込め、きっぱりと頷いた。
 義虎はしばらくの間、そんな娘をじっと見つめていた。少し寂しそうに、そして微かに嬉しそうに。
 それから義虎はこれまでの全ての蟠りを吐き出すかのような、深く、長いため息をついた。

「好きにするといい」

 怜璃は寸刻呼吸すら忘れて立ち竦んだ。寺崎も大きくその目を見開き、半ば呆然と義虎を見つめている。
 義虎はそんな二人の視線から逃れるように、少しだけ目線を逸らして続けた。

「ただし、この先の人生、何があっても自分で責任を取れ。大学に行く金を出すとか出さないとか、そういうことじゃない。お前の選んだ道の先で困難が降りかかっても、お前はそれから逃げてはいけない。自分の選んだ道なんだ。自分の責任で、その道を立派に歩き通してみろ」

 怜璃の頬が痙攣するように震え、喉元が激しく上下に振動する。

「……はい」

 掠れて、裏返った声を絞り出した途端、耐えきれなくなったようにその頬を涙が伝い落ちた。

「ありがとうございます、父様……」

「いや」

 義虎は目線を逸らしたまま小さく首を振ると、その目を寺崎に向けた。

「寺崎くん、だったか」

「は、はい」

 まるで睨み付けるように自分を見据える義虎の視線を、寺崎はその目に緊張を走らせて幾分頬を引きつらせながらも、正面からしっかりと受け止める。
 そのまま数刻、まるで睨み合うように寺崎と視線を交わしていた義虎は、やがてふっとその表情を緩めると、ぽつりと一言、こう言った。

「怜璃のことを、よろしく頼む」

 寺崎は大きくその目を見はり、足りなくなった酸素を一気に供給するかの如く胸一杯に空気を吸い込んだ。
 蟠っていた緊張とともにそれを一気に吐き出すと、万感胸に迫る思いを込めて返答する。

「……はい!」

 押し寄せる感情の波に押し流されるように、怜璃は嗚咽しながら寺崎の胸に飛び込んだ。一瞬驚いたように動きを止めた寺崎も、すぐにその震える体を両腕で包み込むように抱き締める。
 義虎はそんな二人から目を逸らすように、窓の外に目を向けた。
 雨は上がっていた。厚い雲の隙間から、まるで定規で引いたような光が真っ直ぐに地上に降りそそぎ、雨上がりの町を明るく照らし出していた。


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