4月10日 2
放課後になり、賑やかな声が教室内外に響き渡り始めた。
部活動にまだ入っていない一年生も、この一週間は自由に見学をして入りたい部活を選ぶことができる。大方の一年生は、お目当ての部活の見学へ行くために、友達同士誘い合ったり、部活紹介のビラを眺めたり、すぐに下校する様子はない。
そんな級友達を横目で見つつ、寺崎はさっさと帰り支度を済ませて立ち上がった。
寺崎は部活に入る予定はない。怜璃の護衛役として、生徒会に入る予定だからだ。運動神経抜群の彼は運動部なら活躍間違いなしだろうが、仕事だから仕方がない。ということで、見学の予定もないので、寺崎は紺野のあとをつけてみようと思い立ったのだ。
寺崎はカバンを手に教室を出ると、壁際に張り付いて気配を消し、そっと窓際の紺野の様子を窺い見た。紺野も帰り支度をしているのでどうやら部活見学には行かないらしい。
と、後ろの方から宮野達の大きな声が響いてきた。
「清水ぅ、お前、まさか部活見学なんて行かねえよな」
「そうそう、俺たちと、放課後は行くところあるもんな」
――また、いじめか。
寺崎は不愉快そうに眉をひそめ、その様子も併せて窺っていた。
「さあて、そろそろ行こうぜ。今日はゲーセン付き合えよ」
「小腹も空いたな。そのあとなんか食おうぜ」
宮野達はどうやら清水におごらせる魂胆らしい。清水はというと、曖昧な笑みを浮かべたまま目線を泳がせて返答に窮している。はっきり断れない性格らしい。
――しょうがねえなあ、今日は紺野は諦めるか。
寺崎はため息をつくと、踵を返して後ろ扉の方へ向かった。
「やあやあ、清水君。お待たせ!」
勢いよく後ろ扉を開けて入ってきた寺崎は、ギョッとして固まった宮野と山根の間に殆ど無理矢理割って入り、清水の腕をむんずと掴んだ。
「な、何だ? お前……確か」
突然のことに、宮野は目を白黒させている。
「あ、どうも。同じクラスの寺崎っす」
そんな宮野には全くお構いなしに、寺崎はあっけらかんと答える。
「清水君と部活見学一緒に行こうって約束してたんだけど、あれ? 宮野さん達は?」
宮野と山根は一瞬口ごもったが、平静を装った。
「……え、俺たちも、これから一緒に帰ってやることあんだよ」
「あれ? おっかしいなあ。清水君、約束と違うじゃん」
清水は何が何だか分からないらしく、口をもごもごさせてうろたえている。
「とりあえず、俺の方が先の約束だったんだ。悪いけど、優先してくんねえ?」
寺崎はそう言うと、上方から殆ど睨むような目つきで宮野たちを見下ろした。体格がよく背も高い寺崎が凄むと、結構な迫力があるらしく、宮野と山根は言葉を飲み込んだ。
「……しょうがねえなあ」
渋々引き下がった宮野達に向かって、寺崎は先ほどの表情が嘘のような屈託のない笑顔で笑いかけた。
「サンキュ、すまねえな。じゃ、清水君、行こうぜ」
寺崎は強引に清水の腕を掴むと、彼を殆ど引きずるようにして教室を出て行った。
寺崎に引っ張られて清水は躓きそうになりながら歩いていたが、下駄箱までくると寺崎はぴたりと足を止め、ぱっと手を離した。おずおずと目線を上げた清水を、些か怖いくらいの表情で見下ろす。
「あ、あの……」
また口をもごもごさせている清水の様子に、寺崎は小さくため息をついた。
「お前さ、とりあえずこのこと、先生とか大人に伝えといた方がいいかもよ」
「え、……。」
「自分じゃやめろって言えねえんだろ。今は結構いじめに大人も敏感だし、多少は変わるんじゃねえか?何だったら、俺も証言してやるぜ」
清水はそれでもしばらくの間口をもごもごさせていたが、やがて呟くような声でボソボソと言った。
「……無理だよ」
寺崎は眉をひそめて清水を見下ろした。
「大人は何もできない。中学からずっとあの調子さ。告げ口すると、3倍くらいひどいことされるんだ。多分明日も、ひどい目に遭うと思う」
「だからさ、なおさら大人に言って……」
寺崎は口を噤んで目を見開いた。彼らの脇を、カバンを手にした紺野が無言で通り過ぎていったのだ。
「……とにかく、大人に言え! 俺も、明日なんかあったら助けっから。じゃあ、あいつらが来ないうちに部活見学でもなんでも行っておけよ!」
まだ口をもごもごさせている清水にそう言い捨てると、寺崎は慌てて靴を履き替えて昇降口を飛び出した。
☆☆☆
寺崎は校門を走り出るときょろきょろと辺りを見回した。一瞬見失ったかと思ったが、一本先の路地の信号で立ち止まっている紺野の茶色い髪が目に入り、ほっとしたように息をついた。
――よかったぁ。
寺崎は気配を消すと、紺野の後をそっと追い始めた。
三十mほど先を特に怪しいそぶりもなくすたすたと歩いていく彼のあとを、寺崎は完全に気配を消してついて行く。見事な尾行ぶりである。魁然家は並外れた運動能力を持つ一族であり、その遠戚にあたる彼もやはりそうした能力は優れている。そのため、こうした行動も得意中の得意なのである。
――それにしても、随分歩くな。
寺崎は首をかしげた。紺野が駅に向かわなかったので近所に住んでいるとばかり思っていたが、歩いても歩いても家に着かない。もうかれこれ、五十分近く歩いているだろうか。これでは、四駅分以上だ。
――何で電車で通わないんだろう?
寺崎の疑問は、程なく解けた。
紺野は河川敷から狭苦しい路地をくねくねと抜け、ようやく彼の住居らしいアパートに入っていった。
そのアパートを見て、寺崎は一瞬凍った。
ぼろぼろの、今にも倒れそうな黒ずんだ波板の壁に、数十年前の物かと思われるひびの入った磨りガラス。外置きの洗濯機が所帯じみた雰囲気を醸し出し、鉄製の外階段は錆びて今にも崩れ落ちそうだ。紺野はその朽ち果てた階段を登り、二階の一番手前の部屋に入っていった。
――こんなとこに住んでんのかよ。
寺崎は絶句したまま、呆然とアパートを見上げた。
寺崎も決して裕福な育ちではない。母一人子一人で慎ましく暮らしてきている。が、一応国から出る補助金や一族からの支援もあり、人並みの生活はできている。ここまで墜ちた生活はしていない。寺崎は今日の彼の質素な弁当を思い出しながら、しばらくの間その場から動けずにいた。
「あんた、何だ?」
いきなり声をかけられて、寺崎はドキッとした。彼にしては珍しく、気配に全然気がつかなかったのだ。かなりぼうっとしていたらしい。
慌てて振り向くと、汚らしい上着を着た背の低い老婆が、後ろ手に手を組んで上目遣いに寺崎を睨み付けている。
「なんか、用でもあるんか?」
「あ、いえ、あの、俺はですね、あそこに住んでいる紺野ってやつの友だちでして、……そう、一緒に帰ってきたとこなんです。怪しい者じゃありません」
しどろもどろに寺崎がそう弁解すると、老婆は目を丸くして、ああと頷いた。
「秀ちゃんの? そうなの。わたしゃてっきり不審者かと思って……すまんね」
「いえいえ、こちらこそすみません。驚かせて」
寺崎はほっとしてにじみ出た汗を拭った。
「わたしゃね、秀ちゃんの隣に住んでる、石川っちゅうもんだで。よろしくな」
「あ、は、はい。よろしくです」
「ところであんた、秀ちゃんの友だちかい」
寺崎が頷くと、老婆は嬉しそうに頷きながら何やら勝手にしゃべり始めた。
「そうかい。あの子もやっと友だちができたかい。中学ん時は一人も友だち連れてこんかったけど、高校になってやっとできたんだねえ。よかったよかった」
「紺野って、ずっとここに住んでんですか?」
その言葉に、老婆はいやいやと首を振った。
「そりゃあんた、中学なってからだよ。でも、中学で一人暮らしすんのだって偉いと思うよ、わしは。最近の若いもんに比べたら、あの子は立派だよ。ほんとに」
「一人暮らし?」
寺崎が聞き返すと、老婆は驚いたように眉を上げた。
「何だ、あんた、知らないんかい? 秀ちゃんはね、親いないんだよ。生まれたときかららしいよ。ずっと、施設で暮らしてたって大家が言ってたもん」
寺崎は二の句が継げないまま、老婆のよく動く皺だらけの口元を見つめていた。
「高校もさ、国から金もらってさ、奨学金だっけねえ。あの子優秀だから。それでやっとこ行けたらしいよ。でも、さすがに大学までは無理だろうけどねえ。もったいないねえ。あの子、ほんと優秀なんだよ。うちの孫とは比べものにならないよ。うちの孫も高校生だけどねえ、ろくろく通ってないらしいんだ。やっぱり母親が働いてて家にいないから……」
老婆は寺崎の反応などお構いなしに、もはや一人で勝手にべらべらしゃべっている。寺崎はそれを聞き流しながら、呆然と紺野の部屋のあたりを見つめていた。
☆☆☆
「ただいまあ」
寺崎は古びたマンションの鍵を開けると、頭をぶつけないようにちょっと身をかがめて中へ入った。
「お帰り、紘」
台所から女性の声が返ってきた。同時に、ほんのりと漂ってくる甘辛い匂い。寺崎は目を輝かせ、思わず鼻をひくつかせた。
「お、今日はひょっとして、肉じゃが?」
寺崎が台所に入ると、寺崎の母親、寺崎みどりが料理をしているところだった。小ぶりの車椅子に乗ったみどりは、実に器用に調理をしたり、テーブルに皿を並べたり、くるくると忙しく動いている。調理台は、特別な仕様で車椅子でも楽に調理ができる高さに調整してあるらしい。
「正解。手を洗って着替えたら洗濯取り込んでちょうだい」
「おっけい」
洗濯は主に寺崎の仕事である。みどりは両足の膝から下がない。この家は段差や仕切りの壁を極力減らすなどバリアフリーに改造してあるのだが、さすがに車椅子のままではベランダに出たり高いところに手を伸ばしたりすることは難しい。なので、寺崎が夜の間に干しておき、朝外に出して、帰宅後取り込んで畳むという一連の仕事を請け負っている。
掃除も、大体朝出かける前に寺崎がしている。その代わり、みどりは特注の調理台で料理を主に受け持つ。買い物も、電動車椅子で行ってくることができる。そうして、日々の生活を二人で協力して行っているのだ。
毎日の仕事なので、寺崎の手際はいい。あっという間に洗濯物を畳み、それぞれにしまった。その間に、夕食もすっかりでき上がったようだ。テーブル上でおいしそうな湯気を立てる夕食に、台所に戻ってきた寺崎は目を輝かせた。
「やったあ、俺肉じゃが大好き〜」
「何なの? 子どもみたいに」
みどりがよそった味噌汁を渡す。寺崎がそれを受け取ってテーブルに並べ、あっという間に配膳して席につくと、二人は手を合わせた。
「いっただっきまーす」
早速肉じゃがを口いっぱいにほおばる寺崎の様子を、みどりは苦笑交じりに見やった。
「紘、高校はどんな感じ?」
「ん、いい感じ」
「総代とは会ったの?」
寺崎は頬張ったジャガイモを咀嚼しながら大きく頷いた。
「今日会った。話もしたよ」
「何だって?」
「うん、何か俺のクラスのやつで、気になるやつがいるっていうんだ。今日はそいつのことちょっと調べた。」
「そう。誰なの?」
「紺野とかいうやつ。静かで目立たないやつなんだけど。頭もいいし。」
そう言うと寺崎はちょっと箸を止め、遠くを見るような目つきをした。
「驚いた。そいつ、親いないんだって」
「え、そうなの?」
みどりも驚いたようにそんな寺崎を見つめ直した。
「うん。今日そいつのあとつけて家まで行ったんだけど、それがうちなんかより遙かにひでえアパートでさ、そいつの隣に住んでるばあちゃんがいろいろ話してくれたんだけど、そいつ中学のときからそこで一人で暮らしてるらしい。高校も奨学金でやっとこさ通ってて、高校まで五十分かけて歩いて通ってるんだぜ」
目を丸くして頷きながら話を聞いていたみどりだったが、やがて感心したようにため息をついた。
「なんか話だけだと、すごく偉い子のようだけど」
「けど、総代は何かそいつのこと気にしてた。生徒会で気になるやつがいて、そいつが紺野のこと妙に気にしてたって。よく分かんねえけど、しばらくこいつ見張ってようかと思って。それくらいしか、今のところ仕事ねえじゃん」
その言葉に、みどりはくすっと笑った。
「そうね。護衛って言っても、何かおおっぴらに危険があるわけでもないし」
そうそう、と寺崎も頷いてみせる。
「だからおいしいんじゃん。これで月二十万もらえんだぜ。給料日いつだっけ」
「さあ。二十五日とかその辺じゃない?」
「初給料でさ、何か買ってやるよ」
みどりは驚いたように目を丸くして息子を見つめたが、ふっと優しい笑顔を浮かべると頭を振る。
「何言ってんの。そんなことより、あなたの好きな物買いなさい」
「いいからいいから。考えといてよ」
寺崎はそう言って屈託なく笑うと、肉じゃがを口いっぱいほおばった
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