4月9日
4月9日(火)
「じゃあ、MDはこれで全部か?」
「多分大丈夫です。あ、あと、式次第貼るんで、脚立と画びょう持って行けっていわれてます」
「わかった。じゃあ柴田、お前脚立持って行ってくれ。陸川は画びょうと式次第頼む」
「わかりました!」
陸川と柴田が教材準備室の方へ走り、怜璃と岸田と滝川がマイクやMD、コード類を抱えて体育館へ走る。
今日はこれから一年生を全校生徒に紹介する集会が行われる。その中心になって会を進めるのはまたしても怜璃達生徒会役員であり、五人は早朝から生徒会室に集まってその準備に追われていた。全く、新学期早々休む暇もない慌ただしさだ。
三人は、体育館へ続く長い渡り廊下をほとんど走りながら渡る。
この渡り廊下からは、朝日に照らされた校庭がぐるりと見渡せる。昨日ギリギリ満開だった桜並木からいっせいに舞い落ちる花びらが、雪のように校庭中に降りそそいでいる。
駆け抜けざま、そんな桜の木々にふと目を向けた怜璃の脳裏を、昨日のあの少年の姿が過ぎった。
じっと満開の桜を見上げていた少年の、日に透けて金色に輝く茶色い髪。
刹那。
怜璃のつま先が、渡り廊下のちょっとした段差に引っかかった。
「……あ!」
反射的に体勢を立て直したので転びこそしなかったものの、両手いっぱいに抱えていたMDが派手な音を立てて渡り廊下に散乱した。衝撃で、ケースから中身が飛び出してしまったものまである。運動神経抜群の怜璃らしくない失態だった。
「ありゃ、魁然にしては珍しいな」
岸田の言葉に怜璃は苦笑すると、荷物を足下に置いて散らばったMDを拾い集め始めた。
「ごめん、岸田達は先に行っててくれ」
怜璃の言葉に、両手いっぱいにコード類を抱えていた岸田は頷いて体育館の中へ消えたが、岸田の後ろにいた滝川は持っていたマイクスタンドを廊下の端に置くと、かがみこんでMDを拾い始めた。
無言のまま眼前に数枚のMDをつき出され、怜璃は面食らったように滝川を見た。
「あ、ありがとう……」
怜璃は滝川に対してあまりいい感情を抱いていなかったので、少々複雑な思いでそのMDを受け取り、軽く頭を下げた。滝川は無反応なままだったが、再びかがみこむと黙って散らばったMDを拾い集めてくれている。
――案外いいやつなのかな。
怜璃がそんなことをちらっと思った時だった。
廊下を飛び出し校庭の方に転がっているMDを拾おうと手を伸ばした滝川の動きが、突然止まった。腰をかがめた中途半端な姿勢のまま、校庭の右端に顔を向けて固まっている。
さっきまで素早く動いていた彼が急に動きを止めたので、怜璃は訝しげにその目線の先を追った。
滝川の視線の先にあるのは、彼らから二十メートル程離れた校舎脇に立つあの桜の木だ。すっかり咲ききって赤っぽい軸が目立ち始めた枝が緩やかな春風に煽られる度、花びらが一斉に中空を乱舞する。
その木の根元、花びらに囲まれて佇む一人の少年の姿に、怜璃ははっと息をのんだ。
舞い散る花吹雪に煽られてサラサラ揺れる茶色い髪と華奢な背中。怜璃はその後ろ姿に見覚えがあった。
――あの子だ。
確かに入学式で見かけた、あの少年だった。昨日と同じく、またあの桜の木を見上げている。何か思い入れでもあるのだろうか? 怜璃が首をかしげて少年を見つめ直した、その時。まるで二人の視線を感じたかのように、少年がゆっくりと首をめぐらせて怜璃たちの方を見た。
長い前髪に見え隠れするどこか虚ろな少年の目が、怜璃のそれと一致した、瞬間。
怜璃の全身を、まるで電流に貫かれたかのような感覚が一気に駆け抜けた。
「……!」
頭の芯がじんと痺れるような、全身の体毛が一本残らず直立するような、何とも形容のし難いその感覚に、怜璃は息を呑んで凍り付く。
――何? これ……。
たじろぎながらも、まるで吸い付けられたかのように少年の顔から目が離せない。
彼は意外なほど整った顔立ちをしていた。通った鼻筋に、長いまつげに彩られた切れ長の目元。肌はどちらかと言えば白く、サラサラの茶色い髪が日の光に透けて金色に輝いている。うまくすれば一部の女の子達からは熱烈な支持を集めそうな容貌だが、無表情で暗い雰囲気が漂っており、あまり友人はできそうにないタイプに思えた。
にもかかわらず怜璃は、激しい胸の動悸と背筋を貫くあの感覚に、少年から目を逸らすことすらできずにいた。一体何故こんな感覚にとらわれるのか、自分で自分が分からなかった。
その時、プラスチックが叩きつけられる尖った音が、渡り廊下一帯の空気を切り裂いて鳴り響いた。
はっと我に返った怜璃が目線を移すと、渡り廊下の真ん中で呆然と立ち尽くす滝川の姿が視界に入った。彼が拾い集めたMDは大半が足下にぶちまけられ、手元に残った数枚のMDが、震えているのだろうか? さっきからかちゃかちゃと小さな音をたてている。
「……滝川、どうしたんだ?」
恐る恐る怜璃が声をかけると、滝川は夢から覚めたかのようにはっと身を震わせ、どこか慌てた様子で足下にまき散らしたMDを拾い集め始めた。
「あの子がどうかしたのか?」
「いえ……すみません。何でもありません」
何でもないとはとても言えないような様子だったが、怜璃もそれ以上は追求せずMDを片付け始めた。
片付けながら、もう一度ちらっと桜の木を見やる。予想通り、既に少年の姿はなかった。
――一体何なんだろう。
滝川の様子もさることながら、怜璃は自分自身の反応に戸惑っていた。あんな感覚を味わったのは生まれて初めてだった。一体何故あの少年を見たことであんな反応が起きるのか、その理由も全く見当がつかなかった。
ようやくMDを拾い集め、再び体育館へと足を急がせながら、怜璃はちらりと後ろを振り返り、あの桜の木を見た。
風が吹き付ける度に枝を揺らして花びらを舞い落とすその様は、まるで風に揺れるレースのカーテンのようだった。
☆☆☆
あれこれと仕事を済ませてようやく怜璃が帰宅できたのは、八時を少しまわった頃だった。
高級住宅街を抜け、怜璃はその中でも一際大きな邸宅の門をくぐった。見事な日本庭園を通り、邸宅の指紋認証の鍵を開ける。
「ただ今戻りました」
怜璃はそう言うと静かに引き戸を開け、中に入る。
こざっぱりした中年女性が奥の部屋から出てきて、怜璃に向かって恭しく頭を下げた。
「おかえりなさいませ、総代。今日はずいぶんと遅かったようですね」
「すまない。生徒会の仕事が立て込んでいて。連絡したから、食事は先に済ませてくれたんだろう」
「はい、私は先ほど。珠洲はまだ戻っておりません。総帥は間もなくお帰りとのことですが。」
「じゃあ、私も総帥と一緒にいただく。準備をお願いします」
「かしこまりました」
カバンを受け取った中年女性が一礼して奥へ下がっていくと、怜璃は靴を脱ぎながらふうとため息をついた。
あの女性は召使いではない。魁然珠子という、戸籍上はれっきとした彼女の母親である。しかし怜璃に対しては、ごく小さい頃から珠子はああいう姿勢を崩していない。怜璃は魁然家にとって、特別な存在なのである。
外部から見れば非常に特殊なこの状況も、怜璃にとってはごく当たり前の日常である。彼女はそうして育ってきたのだ。魁然家「総代」として……。
制服を着替え明日の支度をしてから、怜璃はダイニングルームに入った。食事の支度がもうすっかり調ったダイニングテーブルの一席に座ると、程なくして恰幅のよい、堂々たる風格の男性が入ってきた。怜璃は居住まいを正し、その男性に礼をする。
「お帰りなさいませ、総帥」
「総帥」と呼ばれた男は頷くと、もう一つ用意されていた席に座った。男の名は魁然義虎。怜璃の父親にあたる。
「お前も今からか?」
「はい。生徒会の仕事が長引いてしまいました」
「生徒会か。あまり根を詰めるのもよくないな。人に任せられる部分は任せてしまうといい。お前は今年、大事なことを控えているのだから」
「……はい」
怜璃は頷きながらも、父親の顔から僅かに目線を逸らした。
義虎はそんな娘の様子に気づくそぶりもなく、カレイの煮付けをつつきながら口を開く。
「そうそう、日取りが決まったぞ」
「え、目通りのですか?」
義虎は、満足そうな笑みをその厳つい顔に浮かべて頷いた。
「お前の誕生日、四月十五日だ」
珠子がよそった飯を受け取りながら義虎がそう言うと、怜璃は驚いたように顔を上げた。
「え、でも、その日は平日では……」
「あちらの都合がその日しかつかなかった。仕方ないだろう、何せあちらは忙しい仕事だ。何でも、休日診療にあたらなければならないそうなんだ。いいじゃないか。別に何もまずいことはなかろう」
怜璃は黙っていた。学校を休むことについては、父親は意に介していないようだった。だが、怜璃にとって学校は大事な場所なのだ。できれば休みたくはなかった。
「……父様のお仕事は、大丈夫なのですか?」
「私か? 大丈夫だ。その日一日くらい何とでもなる」
「でも、大事なお仕事ですのに……」
「一族にとってもお前にとっても大事な日だ。一日くらい休んだって大丈夫だ」
義虎はさらっとそう言うとイカと里芋の煮物を口に運んだ。
彼は警視総監として重責を負い、多忙な日々を過ごしている身である。簡単に休める身分ではない。だが、四月十五日は何があっても空けておかなければならない。それほど怜璃の目通りは、彼自身にとっても大切な日なのである。
怜璃はそのことについてはもうそれ以上言っても何も変わらないと悟ったらしい。カレイの煮付けをつつきながら話題を変えた。
「ところで、新しい護衛がつくそうですね」
その言葉でやっと思い出したのか、義虎はああ、と頷いた。
「そうそう、そのことも言わなければいけなかったな。末端の者だが、どうしても役職に就きたいと強く希望してきていたんだ。お前と同じ高校に入るのが条件だったんだが、がんばったようだな。名前は前にも言ったかな。寺崎……紘、とかいうやつだ」
「何組なんでしょうか?」
「一年B組だったかな。面通ししておくといい」
「分かりました。私の方でやっておきます」
怜璃は頷きながら、父親に気づかれないようにそっとため息をついた。
義虎の言うことには、結局いつも逆らえない。義虎自身が、大事な仕事を休んでも優先させようとしている、目通り。それほどまでに、義虎にとっても一族全体にとっても大事な日だということなのだ。学校を休みたくないなどと言う怜璃の甘ったるい望みなど、所詮通る訳がないということは、怜璃自身分かりすぎるほど分かっている。
怜璃は気を取り直したように顔を上げると、大皿の揚げ物に箸をのばした。
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