塀
秋らしい夕景の中に熟れた柿の甘ったるい、酔ってしまうような香りが含まれている。僕はこの匂いが苦手だった。
通学路の途中に木の塀があった。
僕はいつもこの塀の向こう側が気になって仕方がなかった。なぜかと問われても上手く説明することが出来ない。本当にありふれた塀なのだから。ただその塀の向こうから漂ってくる異質な空気みたいなものを感じていた。なぜか恐ろしくってその塀の前は足早に通り過ぎるのが常だった。
一度だけ勇気を出してその塀の前に立ち止まったことがある。鼓動が大きくなるのを感じながらしばらく佇んでいると塀の向こうで大勢の子どもの笑い声がした。
思わず叫んで、飛んで家に帰った。
ある土曜日、同級生のひろし君が家に訪ねてきた。
「今日遊べる?」
ひろし君は僕より活発で僕以外にも友達がたくさんいたようだけどなぜだか僕をよく遊びに誘ってくれていた。僕は「ちょっと待って」といってよそ行きの服に着替えて家を出た。
「さびいね」
「うん」
「コンビニいかない?」
ひろし君にお金を持ってないことを伝えると彼はにっこり笑って「おごってやる」と言った。
僕たちはコンビニで買った肉まんをほおばりながらしばらく歩いた。
「なにして遊ぶ」
そういわれたとき不意に塀の事を思い出した。僕はその塀について話すとひろし君は目を輝かせて「面白そうじゃん!行こう行こう」と叫んだ。
昼過ぎの秋風が頬を撫でた。烏が遠くの空で鳴いていた。
ひろし君は塀をじっと眺め。
「これ?」と言い。車道にはみ出さないように後退すると助走をつけて飛び上がり、塀の上に手をかけた。
「何してんの!」僕は思わず叫んだ。
「ちょっと見るだけ!」
ひろし君はうんうん言いながら体を持ち上げていき、ついに塀の上に顔を出した。
その瞬間。ひろし君は固まった。
「どうしたの」
返事はない。ひろし君は上半身を持ち上げたまま動かない。と思っていたらすっと力を抜いて地面にストンと着地した。
「何があったの?」
その顔は明らかに青ざめていた。
「ごめん。帰る」
ひろし君はそういうと踵を返して走しりだして曲がり角に消えた。
月曜日、ひろし君はいつも通りに学校に来ていた。顔色もよくなっていて少し安心した。僕はひろし君に何があったか聞いた。
「信じてもらえないだろうけど」
僕がいたんだよ。とひろし君は言った。自分そっくりの子どもが、自分と同じように塀から上半身だけ乗り出して、こちらを見ていたそうだ。
「怖かった」とひろし君は言って。少しだけ顔色を悪くした。
ひろし君が死んだのはその三日後のことだ。
僕と一緒に公園で遊んでいた。僕はいつもそんなことはしないのに、ふざけて滑り台の上でひろし君を脅かした。ひろし君は驚いて柵を超えて下に消えた。ゴツ。と嫌な音がした。
僕は焦って下を見るとひろし君が倒れていて、頭から血が流れているのが分かった。
僕は頭が真っ白になって。なんとかしようと思った。
僕は滑り台を降りてひろし君に駆け寄った。目が驚愕によって見開かれていた。開いているのにその瞳は何も映していなかった。
僕は急いでひろし君を担いでライオンの遊具の中に隠した。
それから。何をしたらよいのか思い浮かばずに家に帰りたいと思って駆け出した。
全身が汗によって冷えていた。頭の芯がガンガンと痛んだ。猫が昼寝をしていた。買い物途中のおばちゃんたちが楽しそうに談笑している。それはいつもの穏やかな夕方だった。町の中で僕だけが焦っていると思った。
ふと自分のシャツの袖に血がついているのに気が付いた。これではお母さんにすぐにばれてしまうだろう。
そうして僕は立ち止まった。丁度、あの塀の前だった。
「交換してあげようか」
塀の向こうから、そう聞こえた。
「服、脱いで。こっちに投げて」
僕は半ば馬鹿になったようにTシャツを脱いで、丸めて塀の向こうへ投げた。
しばらくすると全く同じものが塀の向こうから投げ返された。でも血は付いてなかった。
その夜、僕は再び公園に向かった。公園に行く道の途中であの塀の目にビール瓶のケースをあらかじめ置いておく。ライオンの遊具の中にまだひろし君は居た。もうすっかり冷たくなっていた。
力を入れて彼を背負った。ひろし君の家の洗剤の臭いと混じって微かに血の匂いがした。
塀の前についた。僕は声を待った。
「それもかい?」
塀の向こうから聞こえたその声は僕の声によく似ていた。
「君は、頭がいいね」
僕はビール瓶のケースに上がり渾身の力を振り絞って、ひろし君を塀の向こうへ何とか押し込んだ。
しばらくすると塀の向こうから顔がぬっと出てきた。
「こんばんは」
ひろし君だった。
それから僕はひろし君と疎遠になった。ひろし君も僕を遊びに誘わなくなった。そんななか親の転勤が決まり僕は引っ越すことになった。
あれから九年の月日が経ち。大学生になった僕は再びこの町に来た。あの日の出来事はどうも現実感に欠け、輪郭が曖昧ですべて夢だったような気がしていた。
あの塀はまだあった。ところどころに傷が目立ったがまだしっかりしていた。
そして塀を目にした瞬間に、やはりあれは現実に起こったことなのだと認めざるを得なかった。僕の行動が鮮やかに思い出された。たしかにあの日、僕は顔を真っ赤にしながらひろし君を塀の向こうへ押しやったのだ。
塀の向こうはやはり異様な雰囲気を孕んでいるように思えた。
僕は思い切って塀の木の板の隙間から向こう側を覗いた。そこには一人の男性がいた。
不意に既視感を覚えた。そしてその人がひろし君にとても似ていることに気が付いた。
「また、交換してくれないか」
その声は震えていた。
「人を、殺してしまった」
その人は何かを負ぶっていた。よく見ればそれはぐったりした僕だった。
「いいよ。こっちに投げて」
僕がそう言うと塀の上から僕がどさりと落ちてきた。僕はそれを数秒よく見た。着ている服も同じものだった。
僕は塀の上に手をかけ勢いよくその向こう側へ飛び込んだ。
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