後編
それはいつもの何気ない日常だった。朝の八時頃に赤のプレリュードで会社に出勤し、カメレオンのねちねちした嫌味やセクハラ発言を聞き流しつつ、月末締めの仕事に励んだ。今日の夜には恋人といつもの場所で、いつもの時間に会えるのだと、そう心に念じながら。
「ただいまー」
あたしは玄関で靴を脱ぎながら、今日はどの服を着ていこうかなと頭の隅で考えた。彼は露出度の高い服を嫌うので、それなりに上品でシックな装いのものを……でもダイニングキッチンに続くのれんをくぐった瞬間、空気がいつもとまるで違うことに気づいた。
「……お母さん?」
母は、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。その頬から顔全体に広がる赤味、目尻からこぼれる透明な涙を見て、兄に関する何かで母は泣いているのだと思った。もしかして、喧嘩になったとか? 何かの拍子にお兄ちゃんが切れて、お母さんに暴力を振るったとか?……いや、さすがにそれはないだろうとあたしは思いつつ、階段を二階へ上っていった。こういう時の母には何かを聞いても無駄だということが、あたしにはよくわかっていたから。
「お兄ちゃん、入るよ」
あたしは二回ノックして、暫くの間、ドアの外で待った。魚の形をした木の飾りに『千尋の部屋』と小学生らしい字で彫ってある。確か小学五年生くらいの時に、図工の時間に作ったものだ。あたしもうさぎの形のものを作ったけど、今は押し入れのどこかにやってしまって、探す気にもなれない。
「……お兄ちゃん?」
不思議なくらいしーんとした雰囲気が室内のほうから伝わってきて、もしかして久しぶりに出掛けたのだろうかとあたしは首を傾げた。それで、部屋のドアをそっと開け、中をのぞいた。部屋の左側に三つ大きな本棚があり、たくさんの文芸書や文庫本、法律歓喜得の分厚い書物などで、ずらりとそれは隙間なく埋まっている。そしてその隣に大きなオーク材の机。父が大学に合格したお祝いにと兄にプレゼントしたものだ。でもいつもそこにあるはずの兄の姿はなく、あたしは反対側、ベッドのあるほうへと視線を移した──そしてはっと息を飲んだ。
「……お兄ちゃん?」
反射的に、天井に目をやった。ロープが、中途半端な形でぷつりと切れている。そして兄の首に、輪になった先の部分が繋がっていた。
「お兄ちゃん!」
あたしはお兄ちゃんの183センチある大きな肉づきのいい体を何度も揺すった。そして涙を流しながら兄の心臓に手をやり、それからおそるおそる鼻と口のあたりにそっと手をやった……息をしていない。脈を測ろうと手首をとってもみたけれど、気が動転していて、脈が測れなかった。ガクガクと体に震えが走る。
「……お兄ちゃん!」
おかしな話、あたしはその時自分の兄を呼ぶ声にはっとなり、救急車を呼ばなくてはならないと、我に返った。そして震える足を勇気づけて立ち上がろうとしていると、背後に、いつの間にかやってきたのか、母の気配があった。
「もう駄目よ、千尋は……もう駄目……」
奇妙にうつろな声だった。母は結婚するまで看護師の仕事をしていたから、わかっていたのかもしれない。よく見ると、兄の半袖のシャツの胸のあたりははだけていた。たぶん心臓マッサージをするか何かしたのだろう。そんなことをしても無駄だとわかっていながら。おそらくは。
「でも救急車呼ばなくちゃ!……お母さん!」
しっかりしてよ!と振り向きざまに呼びかけて、あたしは言葉を飲んだ。お母さんはぺたりとその場に座りこみ、愛おしそうに、息子の頬を撫でていた。
「苦しかったのね、きっと……勉強するのがもうつらかったのね。でもそう言えなかったのよ。弁護士になるっていう夢を諦めたら、もう自分には何も残っていないと思ったのかしら……千尋……」
それからお母さんは人形みたいに繰り返し、駄目なのね、もう、と真っ赤な頬に涙をこぼしながら言った。だって瞳孔も開いてしまってるもの、と。
あたしとお母さんはふたり、神々しいまでの美しい西日に包まれながら、しばらくの間、そこでただじっとしていた。その時あたしはある種の既視感に襲われて、山吹色とも茜色ともつかない光に包まれた兄の顔を、ただじっと見つめていた。とても安らかな死に顔だった。そして小学二年生の時、逆上がりのできなかった兄と、この光とまったく同じ中を、手をつないで帰ったことを不意に思いだした。
「うちのクラスの山本くんってマリコ知ってるか?」
「うん、知ってるよ。最近よくうちにくるようになった子でしょ」
「山本くん、マリコのことが好きなんだってさ。将来お嫁さんにしたいなってそう言ってたよ」
「ふうん。でもわたし、ああいうキツネみたいにずるそうな目つきの子ってやだな。お兄ちゃんみたいに優しい人がいいよ」
……どこか脳の奥のほうに埋もれていた記憶が突然甦って、あたしは涙がとまらなくなった。
「おまえんちの妹って可愛いよな」
お兄ちゃんはクラスの誰かにそう言われるたび、とても誇らしそうな顔をした。それであたしもお兄ちゃんに本当の友達ができればいいなと思って、適当にお兄ちゃんの友達に混ざって遊んだりしたことがあった。
「マリコは男泣かせだからなあ」
父も帰ってきていたある日曜日、動物園からの帰り道に兄がそう言うと、父も母も一緒に笑っていた。その時は幸せともなんとも感じなかったけれど、本当は二度とは戻ってこないあの瞬間こそが、家族の幸福そのものだった。
「ごめんね、お兄ちゃん……本当に、ごめんね」
──太陽が西の方角に没し、あたりが薄暗闇に包まれる頃、母は警察に電話をした。あまりにはっきりした声で「息子が二階で自殺を図ったんです」とお母さんが言うのを聞いて、なんだか嘘みたいだとあたしは思った。近所のよく知らないお兄ちゃんがどこか遠くで死んだのだと、そんな麻痺した感覚に襲われた。あるいは何かのまじないか儀式でも行ったなら、兄は息を吹き返して甦るのではないかと、そんな気がしてならなかった。
お兄ちゃんのお葬式は、身内だけでひっそりと行った。兄はとても頭がよく、素直な優しい性格をしていたせいか、親戚の人たちからとてもよく好かれていた。母の兄弟や父の姉妹の中には、「どうしてこうなるまで気づかなかったの」と言って両親を責める人さえあったけど──でも父も母も伯父も叔母もみな泣いており、ひどい言葉を吐きながらも暖かい何かが同時にそこには流れていた。
従兄弟たちもみな泣いていた。あたしも含めてみな、涙を流す黒い自動人形か何かのようだった。総一郎さんも弔問にきてくれたけど──何故かあたしは彼と目を合わせることさえつらくて、慰めようとしてくれる彼にひどい言葉を浴びせかけて、追い返してしまった。そして自己嫌悪に陥りながら、もう彼とは別れるしかないと、そんな追い詰められた思いで、通夜の夜を過ごした。
総一郎さんと連絡をとらなくなってから、三週間ほどが過ぎた時、あたしは自分の体の異変に初めて気づいた。つわりだった。
(もしかして、妊娠……?)
一応、避妊には気をつけていたつもりだったけど、記憶をたぐり寄せてみると、自信のないことが数回あった。そして隣の部屋の兄の不在、その喪失感に打ちのめされていたあたしは、耐えきれぬ寂しさから、すぐに総一郎さんに連絡をとっていた。
「うん……そんなことは気にしなくていいよ。君がどんなにお兄さんのことを思っているかは、僕もわかっているつもりだから。じゃあ、リリィにいつもの時間でいい?もしかしたら少し遅くなるかもしれないけど……そうだよな。それは毎度のことだものな」
彼の声を電話越しに聞いただけで、心の安定と平安が得られるのを強く感じた。そんなはずはないとわかっているのに、お腹の中の芽生えはじめた小さな命が、パパの声に喜んで耳を傾けているのではないかと、そんな気さえする。
総一郎さんの誠実な、しっかりとしたトーンの声を久しぶりに聞いて、
(やっぱりあたしはこの人のことがこんなにも好きなんだ)
と、強くそう思った。頼りがいがあるというか、本当の大人の男にしかない優しさと包容力を感じる。もし彼が妊娠のことを聞いてもいつものように動じず、優しい態度のままだったとしたら……一方的に堕ろせとか、今はそういう時期じゃないかとか言わなかったとしたら……もしもこれから苦しくつらい荊の道を歩まなくてはならないとしても、彼と結婚しようって、そう思った。
「それは、本当に確かなのか?」
総一郎さんの、眼鏡をかけた理知的な顔が一瞬曇ったのは、気のせいだろうか? 昭和五十年代を思わせる、古い趣の喫茶店の店内には、いつものようにクラシック音楽が静かに流れている。胎教、という言葉がふと頭の中に思い浮かんで、あたしはお腹のあたりになんとなく手をやった。
「間違いなく、確かよ。今妊娠十二周目ですって。出産予定日は来年の五月」
「そうか」
総一郎さんはエスプレッソコーヒーのカップをソーサーに戻すと、喫茶店の出窓に並んでいる、観葉植物をじっと見つめていた。その窓の背後には、ススキノのネオンに彩られた、深く心地好い闇がある。
「それで、どうするの? 産むつもりはあるのか?」
彼は後ろの、懐かしのインベーダーゲームに興じている若い青年を振り返り、言った。こういう時、本当の意味での男の本性が現れるものだ。
「わたし、あなたが反対しても絶対産むわ。兄が死んでから、両親も相当参ってるし……孫の顔を見せて、新しい命の誕生を喜びあいたいの。そのためだったら、シングルマザーになってもいいってそう思ってる」
「そうか。よかった」
総一郎さんは突然晴れやかな表情になると、黒い革の鞄の中から、群青色の小さな四角い箱をとりだしていた。中を開けると、そこには大きなダイヤの指輪が、天井の照明の光を美し反射していた。
「ダイヤモンドは永遠の輝きってね。これはデビアスの受け売りだけど、君はこれ、受けとる気ある?」
「……それはつまり、産んでもいいってこと?」
ああ、もちろん、というように、彼はゆっくりと力強く頷いていた。
「もともと、子供は大好きなんだ。自分がひとりっ子だったせいか、できれば兄弟を持たせてあげたいなって思ってるんだけど……君はそこらへんどう?もしかして中国のひとりっ子政策に賛成しているような感じ?」
ううん、とあたしは嬉し涙をこぼしながら首を振った。まずい。ここのところ涙腺が緩くなっていて、ちょっとしたことにもすぐ涙してしまう。昔のわたしは、こんなことで泣いたりするような、弱い女ではなかったはずなのに。
「わたしも、子供はふたり以上絶対に欲しい。兄がいてどんなにわたしが助かったか……言葉では言い表せないくらいだもの。それで、子供には絶対千尋と名づけたいの。男でも女でも。ふたり目以降の名前はあなたが自分でつけてくれて構わないから」
あたしはそれから、総一郎さんに会えなくてこの三週間どんなに心細く寂しかったか、恋しかったか、肉体的に飢えていたか、少しも隠さずに素直に全部話した。彼はいつものようにただ黙って優しく頷き、あたしの手をとってひやりとする金属の指輪を薬指にはめてくれた。
「君も知ってのとおり、今のワイフは僕と同じ弁護士だからね。実は親権のことだとか、財産の分与については、大体のところ話し合いがついてるんだ。娘もそれで納得してるし……この間は一年って言ったけど、なんとか今年中に籍を入れて一緒に暮らしはじめよう」
ずっと彼方、遠いところに引いていた海の波が、満ち潮になって一気にあふれてきたみたいだった。人生における満ち潮。あたしはそれからすぐに会社に退職願いを提出し、これまでの人生でなかったくらい、真の読書家となった。みな、出産や育児に関する本や雑誌ばかりではあったけれど。
父と母は総一郎さんが今現在結婚しており、年齢が四十七歳であること、年内に離婚する予定だが、その前に同棲しようと思っていることなどを話すと、ふたり一緒に軽い目眩のようなものに襲われたようだった。それでも実際に常磐総一郎という人間に会うと、この人ならという安心感というのか、満足感を感じたようだ。彼にはそういう人を魅了する魔力を持っているようなところがある。またわたしもそういう彼に惹きつけられて、二十三歳という年齢差を越え、不倫という道徳的な壁さえも越えて一緒になろうとしているわけだったけれど。
父と母は、兄をああした形で亡くしたことに対して、強い罪悪感や自分を責める感情でいっぱいになっているようだった。父は自分が仕事の都合で土日や祝日しか家に帰ってこれなかったこと、また母は自分の子育てに何か決定的な落ち度があったのではないかと、そのことを悔やんでも悔やみきれない思いで逡巡しているようだった。
わたしはそんなふたりに対して、無理に明るく振る舞おうとしたけれども、あまり効果はなく、手入れのいき届いた小さな庭に囲まれた我が家には、随分長いこと、死の匂いが払拭されずに立ちこめていた。
兄の部屋からそこはかとなく漂ってくる、自殺の残り香のようなもの……それに一度肺をやられると、ノイローゼになってしまいそうな気がするのが怖かった。特に母が夕方頃、西日のいっぱいに差す兄の部屋でぼんやりとたたずんでいるのを見るのは、たまらない光景だった。
それでも、わたしが兄の死にショックを受けてヤケクソで結婚しようとしているわけではないとわかってからは、家の中の空気に幾分か新しいものが交じり合うようになった。古い死の脱け殻の下から力強い生命の音、その胎動の音が大きく響いてくるかのように、何かがゆっくりと変化していく兆しのようなもの……一条の微かな光。それが兄の死を土台にして、新しい芽を静かに結ぼうとしている。その音なき音、声なき霊の声のようなものに耳を澄ますと、小さな慰めの歌が聞こえてきそうだった。
そして子供が妊娠二十六週目になる頃、あたしは意を決して兄の部屋に足を踏み入れた。母は兄の葬儀の終わった翌日から、彼の部屋で長く時間を過ごしているようだったけど──わたしは怖くて、とてもそこに入る勇気はなかった。まだあまりにも死が生々しすぎるのがつらかった。でも、兄の部屋の前の魚の形の木彫りや、西日の明るさを見ていると、部屋の内側に永遠に通じる扉が存在しているような錯覚に捉えられ、やがてその誘惑に打ち勝つのが難しいようになってきた。
兄の部屋の中は、彼が死んだ時のままだ。
机の上には、分厚い法律関係の本が雑然と並んでいて、真ん中あたりに兄の書いた遺書が、裏返しにして置かれている。私も一度だけ目を通したけれども、もう一度読む気にはあまりなれない。この手紙を読むには、どうしてももう少し時間が必要だった。
不思議な西日が部屋を満たす中で、あたしは母がよくそうしてぼんやりたたずんでいたように、お兄ちゃんのベッドに腰かけて、室内をただなんとなく眺めた。
(お兄ちゃん、わたし結婚するんだよ。いわゆる出来ちゃった婚ってやつ。しかも相手はふたまわり近くも年上の、妻子持ち。でもとても幸せなの。今のお兄ちゃんにならわかるでしょ? 世間一般的にはちょっとどうかっていう条件がみんな揃ってるけど……天国でどうか見守っていてね。なんて、ちょっと調子よすぎる?)
心の中でそんなふうに話しかけていると、ふと正面にある、三つの大きな本棚が目の前に迫ってくるような感じがした。目の錯覚だろうかと思い、手の甲でごしごし目頭をこする。すると、次に瞳を開けた瞬間、微妙な本の配置の違いに、あたしは気づいた。
(?もしかして……)
お兄ちゃんは本に関してとても潔癖なところがあり、いろいろ順番であるとか、自分だけの法則というか、こだわりを持っていたようなのだ。その配置が微妙に乱れているというか、最後にこの部屋に入った時とは何か印象が異なっていた。誰かが少しだけ動かして、股元に戻したような……あたしは何かに引かれるように、何冊かの本を手にとった。もちろん、お兄ちゃんが並べていたとおり、元に戻すため、その位置だけはきちんと覚えておくことにする。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、太宰治の『人間失格』、大江健三郎の『燃えあがる緑の木』……などなど。正直、普段ほとんどまともに本というものと向きあったおとのないあたしは、それらの文庫本をぱらぱらめくっただけで軽い目眩に襲われた。お兄ちゃんがこういった本を読んで、何をどんなふうに感じたり考えたりしたか、知りたいような気もしたけど……(ごめんね、お兄ちゃん。頭悪いあたしには、そこまでの根性、ちょっとないかもしれない)心の中でそう、手を合わせた。
でも本をぱらぱらめくっていると、幾つも幾つも、鉛筆で線が入っていることにあたしは気づいた。
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宮沢賢治『よだかの星』
(一たい僕は、なぜかうみんなに嫌がられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたやうで、口は裂けているからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちていた時は、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかへすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ……)
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで飢えて死なう。いや、その前に鷹が僕を殺すだらう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向ふに行ってしまはう)
夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました……つくいきはふいごのやうです。寒さや霜がまるで剣のやうによだかを刺しました。よだかははねがすっかりしびれてしまひました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。さうです。これがよだかの最后でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに笑って居りました。
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『銀河鉄道の夜』
「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか……僕はおっかさんが、ほんたうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんの幸なんだろう」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、一番幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ」カムパネルラは、なにかほんたうに決心しているやうに見えました。
「蠍の火って何だい」ジョバンニがききました。「蠍が焼けて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ……むかしバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かってたべられさうになったんですって。さそりは一生けん命遁げたけどたうたういたちに押へられさうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ。もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたといふの。
ああ、わたしはいままでいくつものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられやうとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもたうたうこんなになってしまった。ああ、なんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびただらうに。どうか神さま。わたしの心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。って云ったといふの。そしたらいつか蠍はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんたうにあの火それだわ」
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。ぼくはもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」「うん。僕だってさうだ」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう」ジョバンニが云ひました。「僕わからない」カムパネルラがぼんやり云ひました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ」カムパネルラが少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云ひました。「僕もうあんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう」「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるよねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
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太宰治『人間失格』
めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。
自分には、禍いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が背負ったら、その一個だけでも十分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思ったことさえありました。
それは、自分の人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
世渡りの才能。……自分には、ほんとうに苦笑の他はありませんでした。自分に、世渡りの才能! しかし、自分のように人間をおそれ、避け、ごまかしているのは、れいの俗諺の「さわらぬ神にたたりなし」とかいう怜悧狡猾の処世訓を遵奉しているのと、同じ形だ、という事になるのでしょうか。ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。
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頭の悪いあたしは、ストーリーを楽しむというより、とにかくお兄ちゃんが線を引いた箇所にしっかり目を通していった。ところどころ二重線が引いてあったり、赤や青、緑のボールペンで線を引いてあったりする。あたしは夢中になって貪るようにその傍線の箇所を読んでいった。一冊読み終わると二冊目、二冊目が終わると三冊目……読んでいると、何故お兄ちゃんがそこに線を引いたのかがよくわかってきて、じんわりと涙が滲むことさえあった。そしてふと気付くとあたりは薄暗闇に包まれており、あたしは照明を点けて、さらに十冊二十冊と読み進んでいった。
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お父さん、お母さん、万里子……僕はもうすっかり勉強することに疲れ果ててしまいました。燃えつき症候群です。かといって人に会うことさえ億劫で、弁護士にならなかったとしたら、どうやって生きていったらいいのかわかりません。ただ、これは僕個人の問題であって、お父さんやお母さん、万里子が気に病むことはありません。お父さんが僕のお父さんで、お母さんが僕のお母さんで、万理子が僕の妹でよかった。もし天国という場所があるのなら、そこからみんなの幸せを祈っています。今まで育ててくださって、本当にありがとうございました。
千尋
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兄の短い遺書の文面が時々脳裏を掠めて、読書をしながら、あたしは本の文章が滲んでいくのを感じた。親戚に兄の死ぬ前の数週間の様子について話すと、みな「鬱病だったのではないか」とか「もっと早くに病院へいくなりなんなりしていれば」と口々に言った。それらの親戚たちのある意味思いやりの言葉が、どんない父と母を打ちのめしたか……そういったこととも合わさって、感情がごっちゃになって、あたしは本の上にとめどもなく涙をこぼした。
(お兄ちゃん、あたし来年の五月に赤ちゃんを産むよ。それで、男でも女でも千尋って名づけるの。大丈夫。わたしがもう一度産んであげるから……そして力いっぱい幸せにしてあげるからね。大好きな、万里子のたったひとりのお兄ちゃん……)
思えば、わたしがお兄ちゃんから学んだことは数知れなかった。ただ単に勉強を教えてもらったとか、そういうことではなくて、もちろんそういうこともあるけれど、お兄ちゃんには人間として、本当に一番大切なことを色々教えてもらった。小学生の時のあだ名が特殊学級でも、逆上がりができなくても、カナヅチでも、わたしにとってお兄ちゃんはこれ以上もないくらい最高のお兄ちゃんだった。たぶん、わたしがひとりっ子で、お父さんとお母さんに甘やかされて育っていたとしたら……とんでもなく我儘で、今以上に嫌な娘に育っていたに違いない。でもお兄ちゃんがいたから、お兄ちゃんが知らない間にも色んなことを教えてくれたから、あたしはわりとバランスのとれた人間に育つことができたのだと思う。
そして今、お兄ちゃんが読んだたくさんの本に囲まれながら、お兄ちゃんが引いた傍線の箇所をいっぱい読みながら、新たな感慨のようなものにあたしは襲われていた。
(たぶん、お兄ちゃんの死はきっと、きちんとした意味があるんだね。うまくいえないけど、本当はわたしやお父さんやお母さんが背負わなくてはいけなかった不幸のようなもの……それをお兄ちゃんが全部引き受けてくれていたんじゃないかって、そんな気がするの。本当はそれを、家族がみんなでちょうど四分割できたらよかったんだろうけど……お兄ちゃんは優しいから、誰にも何も言わずに、全部それをひとりで背負ってしまったんだね。それがどんなにつらくて大変なことだったか、お兄ちゃんが死んだあとになって初めて気づくなんて……)
まだ涙の乾かぬ目で、ふと時計を見上げると、時刻はもう十二時近くだった。きゅるるるう、とお腹が空腹を訴えている。わたしは自分がもう自分ひとりの体ではないことを思いだし、そっとお腹をさすった。
ごめんね、今栄養をいっぱいあげるからね、と優しく話しかけながらお腹をさすると、その向こうからは力強くて元気な返事が返ってきた。
終わり