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千尋の空  作者: ルシア
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前編

 私の名前は早乙女万里子さおとめまりこという。なんだかちょっとロマンチックというか、おセンチな名前だ。あるいは万葉集の歌人をなんとなく彷彿とさせるような名前。でもあたしはこの仰々しい名前が実はあまり好きじゃない。小さな頃、兄の千尋ちひろに向かって「どうしてお兄ちゃんが千尋で、あたしの名前が万里子なのよ!」と怒鳴ったこともある。早乙女という苗字はまあ、先祖伝来のものであるとして、仕方がないと諦めもしよう。でも万里子という名前……せめてどうして真理子とか毬子という漢字をうちの両親は使ってくれなかったのだろうか。おかげで「早乙女万里子のリを抜くと……」なんていういちいちつきあうのも馬鹿らしい、やんちゃ坊主の標的に、幾度されたことか。

 といっても、成長して二十四歳のレディになった今では、あいつらが何故そんなにも執拗にあたしに絡んできたのかがよくわかる。それはわたしの容姿が可愛いから……ほほほ。なんとでもお言い。誰がなんといおうと、わたくし早乙女万理子は容姿的にイケている。B88、W58、H87、身長は163センチで体重は当然のことながら秘密。小さな顔にくりくりしたリスみたいな茶色の瞳、細い眉、整った鼻の下の、思わず男がキスしたくなるようなふっくらとした唇……え?ちょっとナルシスト入ってるんじゃないかって?じゃあわたしがこれまでつきあった男全員に聞いてみてよ。たぶんみんな、マリコは性格はともかくとしても、容姿は確かに美人で可愛かったって、そう言うはずだから。あたしがこれまでにつきあった男の数は全部で七人だけど、みんなベッドの中で言ってたもの。マリコは可愛い、こんな可愛い娘と寝るの、生まれて初めてだって。

 そして二十四歳という結婚適齢期の一歩手前となった年齢のあたしには、この時ひとつの大きな悩みがあった。通算七人目の彼である常盤総一郎ときわそういちろうという四十七歳の妻子持ちの男に、プロポーズされてしまったのだ。

「え?だって奥さんと子供さんは?」

 あたしは思わず、他人ごとみたいにそう聞いていた。いつも待ち合わせ場所にしている、『リリィ』という名の喫茶店で。

「前から言ってるだろ。マリコと結婚するためならどんなことでもするって。来年、娘も成人するし、やっと今そういう時期がきたんだって、そう思うんだ。女房は昔から潔癖な性格で、彼女が十年も前にヘルニアの手術をしてから、夫婦の性生活はない。お互いの関係がずっと前からギスギスしてるのは娘にもわかっててね……別れるとしても自分は賛成だって、そう言ってくれてる」

 随分、理解のある娘さんなのね、とまたしても他人ごとのように言いかけて、あたしは口を噤んだ。いくら離婚に賛成してくれてるとはいえ、その相手が自分と五つしか違わないことを知ったら……心中複雑なものがあるのではないかと、そう思ったからだった。

「結婚しよう、マリコ。僕はもう一度、君と新しい家庭を築きたい」


 ガーガーガー、ガシャン、ガーガーガー……


「コピー機、紙詰まりを起こしてるみたいよ、早乙女さん」

 あたしは中川女史の声にハッとして、コピー機の停止ボタンを押した。真ん中あたりの蓋をあけると、ローラーとローラーの間に千切れた紙が挟まっているのが見える。あたしはその紙を引き抜くと、もう一度スタートボタンを押した……ところが今度はインク切れの赤いランプが。やれやれ面倒くさいなと思いつつ、隣のダンボールの箱から黒のインクをとりだしていると、後ろで上司カメレオンの声がした。

「どうしたんだね、早乙女くん。仕事中にぼんやりしたりして。紙は一枚でも会社の大事な資源。それと、いくら古いからってコピー機を粗雑に扱わないように。君だって、このコピー機のリース料がいくらかくらい、帳簿をつけていて知ってるだろう?」

「……はい」と、とりあえず返事をしながら、(べつにリースなんだからいいじゃんよ)とあたしは心の中で爬虫類にそっくりな顔の、自分の上司に舌をだした。隣で肩を竦めて溜息を着いているのは中川さん。彼女は中堅の不動産会社である我が清苑不動産に勤務して二十二年という、大ベテランだった。

「それじゃあたし、ちょっと銀行まわりにいってきます」

 不動産売買契約書のコピーをファイルに綴ると、あたしは黒の事務用鞄を持って新鮮な外の空気を吸ってくることにした。その人が部屋にいるというだけで、空気が濁ったように感じることがあるけれど、上司カメレオンはまさにそのような人物だった。経理部門のあまり広いとはいえない室内にはたったの三人しかいないのに、彼がいるといつも空気がピリピリして、次は一体どんなことにいちゃもんをつける気だろうと、ほとほと疲れるものを感じる。

「こんな会社、早く辞めて結婚したいのは山々だけどさあ」

 あたしは社用の軽自動車にエンジンをかけながら、ぽつりと呟いた。何分ポンコツなので、このクソ暑いというのにエアコンがほとんどきかない。あたしはくそーと思いながら、手動で窓を全開近くあけた。白石駅そばの郵便局へ寄ったのち、銀行を三軒ほど回らねばならない。

 そしてその間にもあたしの脳裏に思い浮かぶのは、総一郎さんのことだった。正直、彼がデートのたびに<結婚>の二文字を口にしても、あたしはほとんどそれを真剣に受けとめていなかった。彼がいくら奥さんとの性格の不一致を口にしても、そのこともあんまり信用していなかった。

(そんなこと言って、実際に家に帰ったら、それなりに親子三人でうまくいってたりするんじゃないの?)

 実をいうと、不倫をするのはこれが二度目であるあたしは、以前の経験からひとつのことを学習していた。不倫相手には決して本気になってはいけない、と。嗚呼、思い出すも悲しい、カラオケでのテレサ・テンメドレーの日々……。

 銀行の店内で、ぼんやり呼ばれるのを待っていると、マガジンラックのところに週刊誌が何冊かあるのに気づいた。某アイドル歌手が表紙の女性週刊誌を手にとり、ぱらぱらとめくる。すると紙面に<不倫>の二文字が踊っているのが目に入り、あたしは天の啓示を受けたかの如く、そのページを速攻開いていた。

『ビルはヒラリーのことを、コールド・ビッチ(冷たいあばずれ女)と呼んでるわ』

 それはクリントン(元)大統領の浮気に関する記事で、(元)愛人たちの赤裸々な発言がそこには幾つも掲載されていた。

(ふうん。でも結局のところ、ヒラリーは愛人たちに勝ったっていうことなんじゃないかしら? 愛人たちとは浅はかな性の関係しかなかったかもしれないけど、ヒラリーはクリントン大統領にとって生命線のような存在だったわけだし……)

「清苑不動産さま」

 社名を呼ばれてはっとなったあたしは、窓口で会社名義の口座から下ろした現金を受けとり、それを封筒に入れて鞄の中へとしまいこんだ。次はATMのほうに回って、新聞の公告料など、幾つかの支払いを済まさなくてはならない。


 あたしはその三十度近くにもなった真夏の午後、仕事をしながらずっと総一郎さんのことを考えていた。

「実際に離婚するまでにはあと一年くらいかかると思うけど、それまで待っていてほしい」

(あたし、あと一年も待てるかしら……)

 午後三時の休憩のお茶を飲みながら、あたしは灰色の事務机をじっと見つめた。いつもより口数が少ないことを不審に思ったのか、向かいの机の中川女史が、気遣わしげな視線を送ってくる。

「どうしたの、マリコちゃん。あまり元気がないみたいだけど」

「ああ、はい」とあたしはぼんやり言った。カメレオンは今喫煙室に煙草を吸いにいっている。このまま二度と戻らなければいいのになと思いつつ、あたしは中川さんにいつもしている恋愛の相談をした。

「あの、前に言っていた不倫の彼氏……彼にこの間の日曜日、プロポーズされたんです。奥さんとは一年以内に必ず別れるから、そうしたら結婚しようって」

「そう、それは思い悩むわね」

 中川さんはこのくそ暑いのにホットコーヒーを飲んでいる。あたしは冷たい麦茶を口許に運びながら、取引先の会社が持ってきた和菓子の包みをあけた。きな衣の可愛いお菓子。

「もう半年以上の前の話になるけど、その時中川さんに占ってもらったじゃないですか。そしたら中川さん、その彼とはたぶん結婚することになると思うって……正直あたしその時、中川さんの言葉をあまり信じてなかったんです。彼には奥さんも子供もいるし、結局は家庭に戻っていくタイプの人だって、そんなふうに思ってて……」

 眼鏡をかけた丸顔の中川さんは、うんうんと繰り返し、何度も優しく頷いている。こういうなんでも話せてしまうタイプのおばさんというのも珍しいと思う。

「でも、マリコちゃんの場合は成りゆきとかただなんとなくずるずるっていうのとは全然違ったじゃない? 話を聞かせてもらってる限りだと、その総一郎さんっていう人、とてもよさそうな感じの人だし……生年月日を見ても、マリコちゃんとはとても相性がいいの。もちろん御本人さんにお会いして、手相や人相も見せてもらわないと、それだけではなんとも言えなかったりはするんだけどね」

「それでも結構、当たってましたよ」

 あたしは半年前、中川さんに占ってもらった時のことを思い出して、思わず苦笑いした。

『この人、見た目は優柔不断そうなお坊ちゃまっていう感じだけど、実はとても決断力のある人ね。商運もとてもいいし、何があっても最後には笑う運命の下に生まれているわ。武将でいうなら徳川家康。啼かすなら、啼くまで待とうホトトギスよ』

 その予言めいた占いの結果を聞いた時、あたしはまだつきあいはじめたばかりということもあって、中川さんの言葉を軽く受け流していた。でも今にして思えば、驚くほどその占いは当たっていたように思う。彼は今IT企業の顧問弁護士をしていて、離婚が成立したあとは独立したいと話していた。よほどのことでもない限り、彼が新設しようとしている弁護士事務所が潰れることはないだろうと、そんな気がする。

 カメレオンが十五分きっかり休んで戻ってきたため、不倫相談室はそれきりとなってしまったけど、あたしは頭の隅っこのほうに中川さんの言葉を置いて、彼との結婚について真剣に検討してみることにした。実を言うと本当は、彼と結婚すれば幸せになれるだろうということは、とっくにわかっていた。ただ……本当にこんな形で幸せになってもいいの?という因果応報的な不安が、あたしに結婚への決断を鈍らせていたのだった。


 あたしは平岸にある実家から、白石にある会社まで車で通勤していた。愛車は弁護士の彼が買ってくれた赤のプレリュード。父も母も兄も、あたしが「彼氏に貢がせた」と言っても、全然驚かなかった。何故かというとそれまでの間にも、恋人からのブランド物のプレゼントなんかは数百万円相当に上っていたからだ。男というのはどうしてこう、好きな女に金品をプレゼントするのが好きなのだろうと不思議に思う。「マリコの喜ぶ顔が見たいから」……本当にそれだけか?といった感じもするけど、まあそれだけのものをこちらも体で返していたのだからチョンチョンといったところだろう。

「お母さん、お兄ちゃんは今日も部屋で勉強してるの?」

「ええ……さっき夕飯持っていったら、六法全書を片手にぶつぶつ言っていたから、黙ってそっとテーブルの上に置いてきたんだけどね」

「ふうん、そっか」

 あたしは戸棚の中に母の手作りのマドレーヌがあるのを見つけて、それを一口ぱくっと食べた。口をもぐもぐさせながら、ポットの中のアイスティーをコップに注ぐ。

「次の弁護士の試験、いつだっけ?」

「口述式試験は十月よ。いつも短答式と論文は通るのに……これで三度目だものね。今度こそ受かるといいけれど」

 わたしはとてもはかなげで繊細です、といったように母がやさしく微笑む。お母さんはまるで専業主婦になるためにこの世に生まれてきた、というような感じの人で、彼女の家事能力はほとんど完璧だった。ただ残念なことに子供としては反発のしようがないというか、私の我儘な性格はたぶん、母に甘やかされたせいも間違いなく関係していると思う。

「じゃあちょっと、様子見てくるね」

 ダイニングキッチンの椅子から立ち上がると、あたしは二階へ上がっていった。階下に三つ、二階に二つ部屋があるこの家には、父は土曜日と日曜日、それと祝日にしか帰ってこない。某製薬会社に研究員として勤務している父は、会社の規定により寮生活をしているのだ。わたしが物心着いたときからそうだったので、そのことに対して特別違和感というのはない。本当は家族用の住宅というのも、会社のそばに用意されているのだけれど、父は母の神経質な性格を考えて、ひとり淋しいワンルームの寮生活をすることに決めたようだ。父が薬剤の開発・研究の仕事に携わっているのは知っているけれど、だからといって何故寮生活?しかもそう会社の規定で決まっているのは案是?とあたしはそれほど詳しく父に訊ねたことはなかった。

「どうしてかよくわからないけどね、会社でそう決まっているんだよ。なんていうかこうね、会社の機密に関わる仕事でもあるから、そういう規定があるんだね」

 父のしゃべり方は森本レオにとてもよく似ている。正直いって、父と母がふたりでしゃべっているのを聞くと、時々いらいらすることさえある。「君枝、明日は雨が降るそうだよ」、「まあ、それはまたどうして?」、「さっきそう天気予報で言っていたからね」、「じゃ明日はお洗濯できないわね」、「でもモノポリーや人生ゲームはできるだろう」……なんというのだろう、彼らの会話はいつも平坦で、かみ合っているのかいないのか、よくわからないことが多かった。時々、本当に相手の話を聞いて返事をしているのかと疑いたくなることさえある。そんな両親だったから、あたしも兄にもこれといって反抗期のようなものはなかった。なんというか反抗してもするだけ無駄、というか。たまにはあんまりいらいらして、あたしなんかは怒鳴り散らすようなことはあったけど──兄の千尋が両親に対して声を荒げるようなことは、ただの一度としてなかった。

「お兄ちゃん、入るよー」

 あたしは二度ほどノックして、返事がするのを待ってから、兄の部屋に足を踏み入れた。茜色の西日の差す窓から、夏特有の匂いのする風が吹きこんできている。あたしは全開になっている窓から身を乗りだして、アパートやマンションばかりの立ち並ぶ景色を、ただぼんやりと眺めた。

「毎日お仕事ごくろうさん」

 お兄ちゃんは分厚い本ばかりが積み上げられている机から目を離すと、あたしのほうを振り返って言った。仕事帰りのあたしにかける、いつもの決まり文句。

「お兄ちゃんこそ、毎日勉強ごくろうさん。いつも思うけどさあ、あたしの頭の悪さとお兄ちゃんの頭の良さをシェイクして、きっちり二等分できたらいいのにね。世の中不公平だよ」

「マリコは決して頭悪くなんかないよ。それは僕が保証する」

 生真面目な兄は、馬鹿と頭悪いとか、あるいはデブとかブスとか、そういう差別用語的なものにとても敏感だった。だから冗談でも軽く受け流すということがどうしてもできない。

「あたしが経理の専門学校いって簿記の資格とれたのって、絶対お兄ちゃんのお蔭だよ。小学校の時からずっと思ってたもん。もしあたしにお兄ちゃんがいなくて、自分ひとりで勉強するなり塾いくなりしてたとするじゃない? 今でも頭悪いけど、きっともって今以上に救いようのない馬鹿だったかもって」

「そんなことないよ。馬鹿なことをするのが馬鹿な人で、マリコはそういう意味では決して馬鹿じゃない」

「それってもしかしてガンビズム? 人生はチョコレートの箱みたいなものだったっけ?」

「うん、そう」

 お兄ちゃんはたくさんの本がずらりと並ぶ本棚から、『ガンビズム~フォレスト・ガンプの生きる知恵~』という本を取りだしてきて、あたしに見せた。

「ほら、ここに書いてあるだろ」

 あたしはふんふん頷きながら、お兄ちゃんから本を受け取り、ぱらぱらとそれをめくった。お兄ちゃんが他に持っている、びっしりと活字の並んだ本と違って、これなら頭の悪いあたしにも読めそうだった。

「お兄ちゃん、この本借りていってもいい?」

「うん、いいよ」

 再び机に向き直る兄を見て、あたしは部屋からそっと出ていくこおtにした。テーブルの上にはお母さんが作った手作りのチーズハンバーグやごはんやお味噌汁、サラダなんかが並んでいる。冷めないうちに早く食べれば?とはあえて言わなかった。食べたくなったらそのうち食べるだろうとそう思ったから。


 実をいうと、兄の千尋が引きこもりになって、今月の八月で丸二年になる。お兄ちゃんは今二十七歳で、弁護士の試験を受けるのは三度目だ。お兄ちゃんの部屋の本棚には<苦節十七年、今年やっと弁護士の試験に合格しました!>とか、その手の体験談の本などが何冊もあって、父も母もわたしも、お兄ちゃんは何度挫折しても弁護士になるつもりでいるのだろうと、そうとばかり思っていた。だから最初に弁護士試験に落ちた時から猛勉強しはじめたのを見手、ずっと部屋に閉じこもりきりでも、あまり申告に心配したりしなかった──しばらくの間は。でもやがて家族とも食事をしなくなり、以前は時々ふらりと気分転換にでかけていたのに、そうしたことも一切なくなったのを見て、さすがにあたしも両親も心配になってきた。

(これってもしかして、今ちまたでよく言われている引きこもりってやつ?)

 でもあたしも父も母も、<引きこもり>という言葉を家の中で使ったことは一度もない。お兄ちゃんは弁護士になるために一生懸命勉強している、そのために家族全員で何があろうと応援しよう、口にだしてはっきりとそう言わなくても、そうした家族の結束は堅かった。でもまさか、そうした家族の思いやりが兄の精神を追いつめることになろうとは──この時のあたしには、少しも予想できないことだった。


 兄の千尋の人生を一言で表現するとしたら、<努力>の二文字、もうこれしかないといった感じだ。兄は幼稚園の頃から高校生になるまで、いつもえげつないいじめの標的にされていた。今はすっかりよくなったけれども、吃音というのが中学生くらいまであってよくクラスの人たちに物真似されては笑われた。それと兄はどことなく大人びた顔つきを小さな頃からしていて(いってみれば親父顔)、肩幅が広く、がっしりとした体格の上、背がやたらと馬鹿でかかった。小学一年生の時には小学五六年生に間違われ、小学五六年生の時には中学生に、中学生の頃には大人に間違われていたことさえあった。お兄ちゃんが小学校の頃、よくバスの運転手さんに呼びとめられていたのを思いだす。

「お兄ちゃん、ちょっとお金が足りないんじゃないかい?」

「そんなことはありません。僕は小学四年生です」

 兄はいつも、真っ赤になって言い返していたっけ……そうなのだ。兄は昔から正義感が強く、間違っていることを正しいとされたり、正しいことを間違っているとされるのを何より嫌っていた。今はそんなことないけど、兄は思春期という季節を通りすぎるまで、とても感情的で激しやすい性格をしていた。たとえば、クラス内でいじめがあったとしたら誰かれ構わず絶対にかばう。でもいつもいじめっ子には馬鹿にされ、いじめられっ子にも相手にされないという始末だった。そしてそんなふうにして兄自身がクラス全員のいじめの対象になっているのだった。

 今も思うけれど、お兄ちゃんはよくあの状況で九年間も義務教育というものを受け続けたなとつくづく感心してしまう。その不屈の闘志、頑張り、血の滲む努力といったもののことを考えると、あたしはいつも神さまのことを考えた。

(神さま、お兄ちゃんはこんなにがんばっているので、きっとあなたがいつか最後には幸せにしてくださいますよね?)と、そんなふうに。

 あたし自身は兄が体育館でいじめにあったり、あるいはグラウンドで仲間はずれにされたりしていても、特に何も感じなかった。冷たい妹だと思われるかもしれないけど、あたしはお兄ちゃんがいじめっ子にいじめられて涙と鼻水を一緒に流していても、べつにそのことを格好悪いとは全然思わなかった。

「おまえの兄ちゃん、特殊学級に入ったほうがいいんじゃねえか?」

 と同級生にからかわれても全然平気だった。何故かといえば、わたしはお兄ちゃんのことが本当に大好きだったから。だからお兄ちゃんが誰にどんなふうにいじめられていても、兄に対する尊敬の念は消えることがなかた。もし自分が兄の立場だったとしたら、妹になんて絶対かばってもらいたくないだろうし、見て見ぬふりをしてもらったほうが絶対いいに決まっている……ずっとそう思っていた。そして兄が家に帰ってきたら、転んだといって赤くなっている膝頭や目の下の痣なんかを黙って手当てしてあげた。お母さんにも話を合わせて、転んだということにしておいた。お兄ちゃんの優しさやプライドのためにそういうことにしておきたかった。でも、兄が首を吊って自殺してしまったあとでは──「お母さん!お兄ちゃん本当はいじめられているんだよ! 先生に言ったほうが絶対いいよ!」そうはっきり言うべきだったのではないかと、後悔の念がいつまでもつきまとって消えることはなかった。


 何故なのかはわからないけど、小学生の時のことで、今もはっきりと思いだせるふたつの小さなエピソードがある。ひとつ目は西日がいっぱいに差しているグラウンドで、兄が一生懸命逆上がりの練習をしていた光景。鉄棒にジャージの上着をくくりつけ、そこに足をかけてなんとかうまくぐるりと回転しようとしていた。あたしは校庭にあるジャングルジムで友達と遊びながら、お兄ちゃんが練習をやめるのをずっと待っていた。やがて友達が帰ったあとも、あたしはお兄ちゃんのがんばる姿をじっと見続けていた。結局、最後までお兄ちゃんは逆上がりができないままだったけど……彼があきらめてジャージの上着を着るまで、あたしはとにかくずっと待ち続けていた。

 ふたつ目は、仲のよかった友達が、お兄ちゃんのことを馬鹿にしたので大喧嘩になった時のことだ。彼女のお姉さんとあたしの兄がたまたま一緒のクラスで──体育のプールの授業でどんなにあたしの兄が無様な泳ぎを見せたかを、彼女はお姉さんから伝授されたらしい実演付きで解説してくれた。

「ざぶーん!ざぶーん!」

 ミヨちゃん(それがその子の名前だった)は両手を大きく振りながら、実際にその場面を見たわけでもないのに、げらげらと笑っていた。

「お姉ちゃんから聞いたけど、泳いでるのか溺れてるのかわかんないような変な泳ぎだったって!ざぶーん!ざぶーん!」

 次の瞬間、あたしはミヨちゃんの頬をひっぱたいていた。お兄ちゃんが馬鹿にされたりいじめられたりするのは見慣れた光景ではあったけど──仲のいい信頼してる子にそんなふうに言われるのだけは我慢がならなかった。たぶんあたしは、それが他の子が言ってることだったとしたら、そんなに気に留めたりはしなかっただろう。でも「あんたあたしの親友でしょ!親友のお兄ちゃんのこと、悪く言わないでよ!」と、そんなふうに怒りが一気に爆発してしまったのだ。

 結局そのあと、ミヨちゃんとは関係がまずくなって違うグループの友達を遊ぶようになった。小学校時代の、苦くセンチメンタルな思い出だ。


 あたしと兄は、とてもアンバランスな兄妹だった。まず顔が似ても似つかなかったし──中学時代はよく先生方に「おまえの兄ちゃんはあんなに頭いいのに、おまえの成績は一体どうなっちゃってるんだろうな」と冗談まじりにからかわれたものだった。容姿はイケてるかもしれないけど、頭はカラッポの妹と、とてつもなく頭はいいのに、容姿には強いコンプレックスを抱いている兄──ふたりの人間の塊みたいなものをくっつけて遠心分離器にかけたとしたら、もしかしたらバランスのいい人間が誕生していたのかもしれないけれど、あたしと兄の人生の川は、いつまでたっても交じりあわないままだった。


 小学校時代は「あいつ、なんで特殊学級に入らないんだろうな?」とからかわれ続けた兄だったけど、彼は小さな頃からとにかく成績だけズバ抜けてよかった。そして中学生の時まではいじめにいじめられたけど、高校生になってからは──頭のよい子たちばかりが集まる進学校に進んだせいか、いじめというような下品なことはおさまった。やがてその頃からどもりや赤面症というようなこともなくなっていき、兄は高校の三年間、とても幸せそうに勉強ばかりしていた。あたしは頭が悪かったので、この世に「勉強が三度の飯よりも大好き」という人間がいようとは──兄を見て育たなかったとしたら、とても信じられなかっただろう。とにかくそんな兄だったから、あたしも父も母も、好きなように勉強させてあげたいと、そんなふうに兄のことを暖かく見守っているつもりだった。


 あたしは三流以下の私立の高校を卒業後、経理の専門学校に進学して、簿記の二級と珠算の二級、そして情報処理検定の三級を取得して経専を卒業した。よくも頭の悪いあたしが、あの三年、あんなにも勉強したものだとつくづく感心してしまう。高校時代、親しかった友人はみな、情報処理の専門学校とか、アニメーター学院とか、音楽の専門学校とか、美容師になるための学校とか、みんなそれぞれそういうところに進学していった。なかには就職した子もたくさんいたけど、あたしには全然、自分のやりたいことがなんなのか、さっぱりわかっていなかった。たぶんそれは今も同じだと思う。どちらかというとあたしはいつも恋愛に夢中で、つきあった男からは必ずといってもいいくらい最後にはプロポーズされた。高校時代につきあっていた彼にはじまって、経専の頃の彼、就職してから四年の間につきあった、五人の男たちからも──でも何故あたしは、彼らのうち六人の求婚を断ったのに、今総一郎さんの申し出を受けようとしているのだろう?それが自分でもわからなかった。

 経専に通っていた頃つきあっていた彼とは不倫で、たぶん奥さんの恐ろしい復讐劇のようなものがなければ、あたしは彼と結婚していたかもしれない。恋の熱がすっかり冷めてしまった今では、あのまま彼と結婚していてもうまくいかなかったことがよくわかるけど──若気の至りによる手痛い失恋だった。あの時、もう決して二度と妻子ある人を好きになったりはすまいと心に誓った。それなのに何故、またしてもそういう人を好きになってしまったのか……。

 総一郎さんとは半年くらい前、弁護士よろず相談という相談会で知りあった。公民館の狭い一室に細長い茶色いテーブルが並んでいて、彼の他に弁護士らしき人が三人くらいいた。もちろんプライバシーに関わる問題の場合は別室で個別に相談、ということになっていて、あたしは彼と小さな古ぼけたような薄ら寒い部屋で、熱いお茶を飲みながら三十分ぐらい話をした。

「消費者金融に借金が三百万円……それで自己破産を考えておられるのですか?」

 総一郎さんは四十七歳という年齢にも関わらず、とても若々しくて、三十代後半くらいにしか見えなかった。素敵な紺のスーツを着ていて、身なりも髪型もきちんとしていたし、正直、あたしはこんな格好のいい人に借金が三百万円もあるなんて告白するのは、とても恥ずかしかった。

「御主人はそのこと、知っておられるのですか?」

 そう彼が聞いた時、あたしは恋がはじまる時に感じる、強い引力のようなものを感じた。でもテーブルの前で手を組み合わせている彼の指には結婚指輪が光っていて──そんなはずはない、気のせいだと一生懸命自分に言い聞かせようとした。

「あの、わたしまだ結婚はしていません。清苑不動産っていう、中規模の不動産会社で事務員をしています。わたしの兄が弁護士を目指しているので、それとなくわからないように聞いてみたんですけど、ある一定の収入がある場合はその中から少しずつ支払いをしていくことになるだろうっていうことだったんです……正直今、お給料のほとんどが借金の返済にまわされている状態ですので、返済金額が少しでも減ればいいかなって思って、今日ここに相談しにきたんです」

 借金の用途は大体、エステにブランド物のバックやコート、高級化粧品といったところだった。はまりはじめるとあれもこれもとやめられなくなり、ローンの請求書ばかりが積み重なっていった。

「そうですね。おっしゃるとおり、まず自己破産は認められないでしょうから、月々の返済金額を減らして借金を返すという申し立てを裁判所のほうにすることになると思います。もしよろしければ、無料で詳しく相談に乗りますから、こちらのほうに御連絡ください」

 彼がくれた名刺には、彼が勤める弁護士事務所の連絡先と、携帯の電話が書いてあった。もしかして、いつもこんなふうにしてナンパしてるのかしら?と一瞬勘繰りそうになったけど、他にどこに相談してよいかもわからず、次の日には彼の仕事用の携帯のナンバーに連絡していた。電話にでた彼はとても嬉しそうな声で、

「もしよかったら食事がてら、相談に乗らせていただきたいのですが」と明るく言った。正直、うまいこと借金が帳消しになるようにするかわり、一晩俺と……イヒヒというような展開が待っているのではないかと心配になったけど、とにかくとりあえず彼の指定した喫茶店にまででかけていくことにした。そして借金の肩代わりをしたいと言われて、あたしと総一郎さんはつきあいはじめたのだった。


「ねえ、こんな借金が三百万もあるようなだらしない娘に、どうして声をかけたりしたの?」

 初めてラブホテルにいった時、事が終わったあとで、あたしは総一郎さんにそう聞いた。

「どうしてかな。君はエステにお金を使っているせいか、とても綺麗だったし──目の輝きがね、普通の娘とは全然違った。たとえば君に貯金が三百万円あったとしたら、逆に僕はあまり君に魅力を感じなかったかもしれない。いや、やっぱり正直にスケベな親父心が疼いたと告白すべきなのかな。もちろん逆に君から訴えられる可能性だってあった。三百万肩代わりするかわりに愛人にならないかって誘われました、あなたの弁護士事務所の常磐っていう男はサイテーですってね」

 あたしはくすくす笑いながら、セックスのあとの甘い余韻を楽しみ、これで三百万が帳消しになるんだわと喜ぶよりも、総一郎さんに出会えたことに感謝していた。愛人という名の荊の道を再び歩むとしても、会う時には結婚指輪をしてこない、彼の左の薬指を信じようって、そう思った。


 それから総一郎さんと離れられないのには、もうひとつ理由がある。それは体の相性が抜群にいいということだった。たぶん彼と別れてしまったら、自分は若い男とはもう二度とつきあえないだろうという気がした。だから彼の離婚が成立して結婚することは、あたしの人生にとってももっとも良い選択であるはずだった。でもあまりにも話がうますぎるというか、こんなにとんとん拍子に何もかもが進んでいく裏で、何か深刻な落し穴が待ち受けているのではないかと、そのことが怖かった。前に不倫していた時、相手の彼が奥さんに離婚を切りだしたその数日後に、恐るべきストーカー行為および復讐劇がはじまったように。

 ──そしてあたしがまったく予期せぬ方角から、その事件は起こったのだった。




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