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気象予報士 【第1部】 作者:235

これが本当の始まり

41

「蒼羽さん」

 草原の中を歩きながら、緋天がぽつり、と言葉を落とした。
 レンガ作りの建物がもう目の前に見えている。風に乗ったその声が、耳に柔らかく入って。
 
「ん?」

 何気なく返事をするのが、随分と難しく思えた。
 そんなこと、今まで一度も気にかけたことがなかったのに。自分の名前を紡いだ緋天の声に、心臓が震えた気すらした。
「あのね、昨日、あたし、前のバイト先に謝りに行ったんですよ」
 緋天の足が止まっている。
 少しだけ空いた距離が、もどかしい。
「なにも・・・何も分かってなかったのに、いきなり辞めてごめんなさい、って言ったら。店長がね。日曜だからすっごい忙しいのに、休憩室に連れて行ってくれて」
 うつむいて、彼女は言葉を続ける。
 これは、緋天が自分だけに言おうとして、だから、こうやって道の途中で止まっているのだと。何となく、そう思った。とにかく緋天は必死で何かを伝えようとしている、そんな風に思えたのだ。

「・・・それで、あの時はごめんね、って逆に謝られて。店長と、デパートの支店長に怒られた時に、事務室にいたんですよ。あたし達は、テナントの人間で。周りは全員、デパートの社員で。支店長の前で、店長があたしを庇ったら、これからの仕事に支障が出るから、ってそう思って。厳しくあたしを叱ったんだ、って・・・。嫌な思いしたでしょ、本当にごめんね、って。大人なのに、あたしに、頭、下げてくれて」

 視線をいつまでも下に向けたまま、緋天が小さい声で言うので。
 泣いているのかと思って、手を伸ばそうとした。

「本当にあたし、何も分かってなかったんだ、って思ったら。店長が、わざわざ来てくれてありがとうって言うんです。人に教えられてやっと分かったんです、って、蒼羽さんが話してたことを言ったら。その人はなんだかすごいね、って。あたし、それが、すーごくうれしかったです」
 顔を上げて、笑って、自分を見る。
 その笑顔にどこかほっとした。
 
 緋天の髪が傾きかけた日に光って、とてもきれいだと、心から思う。
 つややかな黒髪が明るい茶色に透けていて。
「髪。染めないのか?」
「え?・・・えっと、別に必要ないですし」
「お前の年代のアウトサイドはみんな染めてる」
「うーん。でも、なんて言うか、自分の髪の色、嫌いじゃないですから」
 唐突に出した問いに、困惑した顔を見せはしたものの。
 真面目に答えるその様子に、口元が緩んでしまう。

「ん。・・・きれいだ」
 
 左手が、自然と緋天の肩口におりた髪に伸びる。ようやく縮まった距離なのに、もっと彼女に近づきたい、と思う。
 そのまま、一房を手につかんで、そっと持ち上げた。
 指先に触れた、手触りのいい緋天の一部。

 それだけで、経験のない充足感を覚えて。
 信じられないほど、それが愛しい。
 ああ、壊してしまう、と思いながらも不思議と心は落ち着いていて。
 緋天の目を見ながら、そのきれいな髪に口付けた。
 

「そ、蒼羽さん・・・?」
 気付いたら、緋天が驚いた顔で自分を見ていた。その頬が染まっている。
 拒否をされていないという事実は嬉しかったが、これ以上彼女の傍にいるのは、今は痛かった。緋天から離れる。
「・・・悪い。先に帰ってろ」
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