三上龍之介正圀幕府の治世
龍之介はまず国民目標に「国民皆毎日三食」の目標を宣言し、農作物に期待できるとこには農業指導
土地が枯れているとこには養蚕業・織物生産に力をいれるようにしたのである
これは既に茨城国で成功している産業分担であった
さらには、やはり海岸沿いの住居は少しずつ山側に移された
街道の整備と港の往来を馬車を使う策で不満を押さえながら国作りをしたのである
それは震災被害軽減の為であることは言うまでもなく、巷では「慎重な将軍様だの~」と言われていた
さらに、蝦夷地開墾にも力をいれた
アイヌ民族と協和を大事に
琉球国とも正式な条約を帝の許しを得てむすんだ
日本国付属琉球の文書化であり琉球国王も署名捺印した
これにより、琉球は正式な日本になった
琉球国王は国に二人の国王が居てはおかしいので従三位権中納言琉球守との役職に就いた
統治は引き続き琉球守が行い、温帯特有の作物を栽培中心にし本土に売り、本土からは米を買う友好な関係の構築に力をいれたのである
伊達・最上は幕府の協力路線を崩さなかった
そこに密かに働きかけていたのが、羽柴台湾国王の羽柴秀吉であった!
秀吉は内部から日本国を崩し、日本国に返り咲きたかったのである
しかし、それは出来ないうちに病床に伏せる事になった
秀次が国王に就任したのは秀吉の死期が近づいてからであった
秀次は秀吉の教育により凡人ではなかったのである、さらに黒田官兵衛が現役であり石田三成もまた力をいれていた
日本国に戻ることを夢見て暗躍していたのだ
龍之介は、影鷹を肥前名護屋城城代に置き情報収集に力をいれていた
日本国は落ち着きを取り戻した段階で世界に使者を出した!
日本国王、帝の名のもとに
信長が手にいれた港・島の正式な契約書であった
国王同士の契約書は後生にも有効であったためだ
しかし、契約書を返してきたのは半数もなかった
さらには、明国からは属国の日本国とは契約しない!との返事が来たのである…
龍之介はやはりな!と、思うだけであったが帝は大変立腹し、明に対して報復は出来ないか?との知らせがきた
龍之介は帝を説得し、武力衝突は避けようとしたのである
龍之介は大名に出した命令には「幕府の許しなく国内外との武力衝突は自衛にだけ許される」で、あった
大名は個々に輸出入が許されていた為、地の利を活かした公益が盛んになったのである
その為、日本の蒸気機関鉄甲船が外国の港に行くこともあり武力での外交を強く禁じたのである
ただし、西洋諸国は日本国の武力の大きさに脅威を抱いていたのだった。
西洋の国々では蒸気機関鉄甲船を作ろうとしていたのである
表では交易をしながら、裏では敵対心があったのである