第24話 信長海外へ
天下統一後、織田信長は関白職を信忠に譲ったのである。
朝廷も、信忠の関白世襲を許可した。
これには、左大臣龍之介の助言があったのは言うまでもないだろう。
征夷大将軍は譲らかったのは、海外進出には異国から日本を守るためとの大義名分が欲しかったからである。
ルイス・フロイスを案内役に、海外に出た織田信長は上海とマカオに行った。
日本では見ることの出来ない町を見た信長は大いに感動し、小さな港・島を買収して帰ってきたのであった。
帰ってきた信長は龍之介の元に訪れていた。
「左大臣殿、世界はおもしろいどんどん見て回りたい。
しかし、帆船は風任せ波任せの旅・・・・・・どうにかならんかの~」
織田信長の異国話と船の不満を聞いていた龍之介は、蒸気機関なら作れなくもないかと考え、龍之介は領地に戻ると蒸気機関の設計図を作図した。
それを甲冑師や鉄砲鍛冶師等に細かな設計図を渡して、蒸気機関の製作に取りかかったのである。
小さな蒸気機関の試作に成功すると実際船に乗せる大きさの蒸気機関製作に取り掛かった。
龍之介になぜそのようなことが可能だったかと言うと、前世では龍之介は「世界のHIT○CHI」のエンジニア・技術者であった。
取締役になる話もあったが現場にこだわり続け「取締役待遇社員」と言う肩書きをいただき生涯現役を貫いた。
この記憶と経験をもとに、蒸気機関の試作品を作ったのである。
蒸気機関の発明を百年ほど早めてしまった。
蒸気機関の構造は龍之介にとっては、極めて簡単であり技術者として現場でいろいろな物作りに携わった龍之介には簡単であった。
蒸気機関試作品は問題なく完成し、龍之介は信長の船に蒸気機関を登載、現世の江戸幕府幕末にアメリカから来たサスケハナ号のような蒸気機関外輪式推進船が完成したのである。
外輪船とは船の両脇に水車が付けられた形の推進式で速度は極めてゆっくりではあったが、風がなくても進める事に信長は大いに満足し喜ぶのである。
帆船と蒸気機関外輪式推進力の合体型であった。
このころの燃料と言えば木・炭であったが、龍之介は常陸・磐城を領地にした段階で石炭の採掘を早々に開始したのである。
龍之介の常陸に合わせて領地として磐城を選んだのは、石炭採掘場所がわかっていたからであった。
現世での常磐炭鉱である。
常磐炭鉱の石炭量は多く昭和末期に閉山した炭鉱ではあったが、埋蔵量はまだまだ有るほどの日本屈指の炭鉱である。郷土愛が溢れる龍之介は、郷土歴史にも詳しかった。現世のいわき市には常磐炭鉱の博物館もあるので興味があれば行くといいだろう。ちなみに常磐炭鉱の副産物の湧き出た温泉を利用したのが日本のハワイと言われるアミューズメント施設である。
蒸気機関燃料には、石炭が採用されこの船1隻の登場で世界は戦のであった。
もちろん、龍之介の双胴船も蒸気機関外輪推進式に改造されたのであった
これを機会に龍之介の領地の日立港・鹿島港には造船所が整備される。