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黒髪の少年
 翌朝、アンジェリカはその長い髪を侍女に梳かしてもらいながら、考え込んでいた。

 ――なんだったのかしら、昨日のあれは。

 アンジェリカは、ぼんやりと記憶を辿る。

 本当に綺麗な男の子だった。
 見たことの無いような漆黒の艶やかな髪、同色のりりしい眉に長い睫毛。通った鼻筋に、幼さの残る柔らかそうな頬。
 アンジェリカは最初女の子かと思ったのだ。
 しかし――なんと、彼は裸だった。
 慌ててシーツを掛けたので、よくは見えなかったけれど、その胸には少しの膨らみも無かった。
 アンジェリカは激しく音を立てる胸を押さえながら、彼の顔をまじまじと観察し、胸にたまった重苦しいものを吐き出そうと、ため息をついた。
 そのうち、どうしてもその瞳を見てみたくなり、彼を起こそうと、その手で肩に触れたとたん、彼の姿は霧のように消えてしまったのだった。
 あまりのことに、アンジェリカは、それは全部夢だったのだと思い込んだ。
 そうして、そのまま横になると何事もなかったかのように眠りについたのだった。
 しかし、起きてみて改めて思い出してみると、あまりにも現実味がありすぎる。枕に付いた匂いを嗅いでみても、微かにオレンジみたいな香りがするような気がして、アンジェリカは余計に混乱した。
 彼女のまぶたの裏には、もう、しっかりと彼の容貌が焼き付いていた。いくら振り払ってもそれが消えることはない。

 ――へんよ、私ったら。

 彼女はひどく戸惑っていた。こんな気持ちになったことが今までに一度もなかったのだ。
 どうして良いか分からずに、彼女は浮かない顔をしたまま、朝食の席へと向かおうとした。

「オイ、俺を忘れるなよ」

 ガラガラした声が部屋に響く。

 ――あ、忘れていたわ。

 カエルが、アンジェリカをそのギョロリとした目で見上げていた。
 口をへの字に曲げ、少々恨めしそうにしているようにも見えた。おそらく……気のせいだけれど。
 アンジェリカは、やはりハンカチでカエルを掴むと、カエルが動けないように包み込む。
 どうしてもそのぶつぶつヌメヌメした肌に、直接触ることはためらわれる。

 ――多分これだけはいくら慣れても無理だわ。

 そう思うのだ。

「なあ、その汚いものを触るようなのって、いい加減止めないか? ひどいだろ、傷つくんだよ」
「だって、気持ち悪いんだもの」

 カエルはハンカチの中で黙り込む。

 ――傷ついたのかしら? カエルが? ……まさかね。

 アンジェリカはカエルのその様子にも、さして何も思うことなく、食事へと向かった。


 *


 食卓にはすでに皆そろっている。父の方針で、食事は家族全員そろってから、と決まっていた。誰が欠けても食事が始まらない。少し遅れてしまったアンジェリカは、姉二人に冷たく睨まれる。
 その視線に縮まりながらアンジェリカが席に着くと、食前の祈りが始まった。

「主よ、この食事を祝福してください。身体のかてが心のかてになりますように。今日、食べ物に事欠く人にも必要な助けを与えてください。アーメン」

 アンジェリカが普段通りに淡々と十字を切ると、目の前のカエルが、神妙な様子でその先の丸まった手を組み合わせている。
 その様子が、あまりに滑稽なので、アンジェリカは思わず吹き出し、慌ててごまかすように咳払いをした。

 ――いったいなんなのかしら、このカエル。お祈りしているカエルなんて、初めて見たわ。

 ふと隣を見ると、姉たちも一様に妙な顔をしてカエルを眺めている。
 そんな中、父だけは、感心したようにカエルを見つめていた。

「あなたは、なかなかに信心深いようだ。……ええと、そういえばお名前を伺っていなかったな。お聞きしてもいいだろうか」
「……ユーリ……と言います」

 カエルは、なぜか一瞬苦しそうに口を歪め、もごもごと口をうごかした。

「ほう」

 父は、少し眉を上げて、何かを考えるような表情になった。
 一方アンジェリカは、再び吹き出すのを我慢できなかった。

 ――ユーリですって!? あの醜い姿でそんな優美な名があるなんて。似合ってない、似合ってないわよ!!

 そんなアンジェリカを、姉たちは不審そうに見る。

「一人で何をニヤニヤしているの」

 上の姉のイザベラが少しほつれた栗色の髪を耳にかけながら、不愉快そうに口を開く。その茶色の瞳が神経質そうに光るのを見て、アンジェリカは笑いを引っ込めた。
 二つ年上のこの姉は、とにかく自分に分からないことがあるのを嫌がる。アンジェリカのちょっとした言動にいちいち目くじらを立ててきて、まるで嫁いびりをする小姑のようだ。アンジェリカはいちいちお説教を聞くのが面倒なので、なるべく気に障らないようにと気を付けているのだった。

「だって、あのカエル……」

 言い訳をしようと、アンジェリカは口を開いたけれど、イザベラを誤摩化す事は出来なかった。彼女はアンジェリカを冷たい声で問いただす。

「そういえば、昨日の夜も変だと思ったけれど……お父様もあなたもあのカエルの言うことが分かるの?」
「え? イザベラお姉様には分からないの?」

 アンジェリカは驚いて目を丸くする。

「分かるわけ無いじゃないの。カエルの言葉なんて」
「アンジェリカは、昔から変なものが見えてたもの。妖精が見えるとか、手の上に小人が居るとか。……カエルの言葉が分かってもおかしくはないわ」

 下の姉のベアトリクスが馬鹿にしたように笑って割り込んで来た。

「ベアトリクスお姉様にも?」
「当たり前でしょ」

 ベアトリクスはその金色の真っ直ぐな髪を揺らしながらくすくすと笑う。母譲りの茶色の瞳が明るく輝く。その笑顔はそこだけポンと花が咲いたかのように華やかで魅力的だった。
 この笑顔に内面が伴えば、どれほどいいか――とアンジェリカはこっそりため息をつく。
 このひと際美しい姉は、昔から、アンジェリカにひどい対抗意識を燃やしている。イザベラともアンジェリカとも歳が一つしか違わないため、幼い頃父母に甘える時間が一番少なかった。その上、アンジェリカの姉としての自覚を促されるので、末っ子で何かと可愛がられるアンジェリカが鼻につくらしい。
 こうやって何かあるごとにアンジェリカを貶めて楽しんでいるのだ。それはもう趣味の領域。
 しかし、今、胸に湧いて来る優越感でアンジェリカのその不快さは吹き飛ばされる。

 ――そうなんだ、カエルの声は、私とお父様にしか聴こえないんだわ。

 アンジェリカが少しその余韻に浸っていると、カエルがふいに口を挟み、その思考を邪魔した。

「なあ、その肉食べないのか?」

 なんだか胸がいっぱいになっていて、食べる気がしない。アンジェリカはぼうっとしながら、肉をユーリの方へと押しやった。

「いいのよ、太るから。あなたにあげるわ」
「もったいないだろ。……そっちの野菜も残してるし」

 カエルが咎めるように言うのが、アンジェリカの癇に障る。

 ――何? カエルのくせに私に意見しようって言うの?

「――いちいちうるさいわね! カエルなんかに指図されないわ!」

 思わずカッして言うと、カエルはムッとしたように黙り込んで、彼女が残した食べ物を黙々と平らげていった。


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