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【後日談3】朱嘴鸛の贈り物
 それは、ユーリとアンジェリカの婚約の儀が間近に迫った、ある昼下がりのことだった。

 ことの発端は、アンジェリカの一言だった。
 この頃毎日のように午後のお茶を楽しみにやってくるアンジェリカが先ほど、オリーヴィアが飼っている蛙――訳あって引き取っている――の寝顔を見ながら、ちらりと口にした言葉。
『ユーリの眠っている顔はハインリヒと似ていますよね』
 蛙の顔を見ての発言である。どうしてもどういう思考回路で導き出されたのかが分からず、オリーヴィアはいくつか質問をした。その結果導き出されたのは、この結論。間違いない。
「じゃあ、アンジェリカさまは、既に『ユーリと何度も夜を共にされた』ということなのね?」
「ええと……蛙の、ユーリと、ですけれど」
 焦って部分的に否定するアンジェリカににっこりと女神のような笑みを向けると、オリーヴィアは腹の中では正反対の想いを繰り広げる。
 この弟の婚約者は歳の割に、しかもカストックと比べて恋愛に開放的なリュンベルクの姫の割に、〈何も〉知らないようなのだ。割合早熟な弟と比べても随分初心だった。こんな他愛も無い内緒話くらいで真っ赤になってしまうくらいには。
 ――可愛いわねぇ
 オリーヴィアはそう思いつつも、可愛ければ可愛いほど、虐めたくなる気持ちを我慢できない。
 昔から彼女はそうだった。もともと弟やその従者をからかうのも、彼らの困った顔や怒った顔、そしてこの頃は見せることは無いけれど、泣いた顔が可愛いからだ。この少女が困惑する姿はどれだけ可愛いだろうと思うと、今はまだひそめている牙を納めておけなくなる。
 しかも、彼女の溺愛する・・・・弟はこの頃随分幸せそうだった。待ちに待った婚約の儀を数日後に控えているからだろう。ようやく堂々と彼女と逢い引きが出来ると、十四歳の子供らしく喜んでいるらしい。
 しかし、どんな逢い引きの計画を立てているかは知らないが、オリーヴィアに言わせると、まだ三年は早い。カストックでは一応十五歳を成人と見なして、それ以降割合すぐに婚姻となるけれども、それは形式上のもののことが多かった。所謂政略結婚というもので、結婚後に皆恋をする。オリーヴィアとユーリの両親もそうだった。先に恋を掴んだユーリたちは例外中の例外で、だからこそ国民の皆が皆、この幸せな結婚を微笑ましく思っているようだった。しかし、オリーヴィアは少々面白くない。慣例に従って、もう少し清いお付き合いを続ければいいと思う。それは実のところ、彼女が叶わぬ恋をしているための八つ当たりに他ならないのだけれど。
 そして、一つ年下――十七歳のこの婚約者アンジェリカも、羨ましかった。
 好きな相手と一緒になれる。それがどれほどの幸せか。
 オリーヴィアは王女という自分の立場を分かっていた。だからいつかは諦めようと思っている。しかしそれもままならない。
 弟に先を越されようとしている今、彼女のところには毎日のように縁談の話が流れ込んでいた。それはまるで滝のようと言ってもいい。母はなんとか説得しようとしているけれど、オリーヴィアはそれを固辞していた。
 顔が駄目、太り過ぎ、もしくは痩せ過ぎ、背が低い、老けすぎている、もしくは若過ぎる、頭が悪い、趣味が最悪、様々な理由を付けて。なにより、オリーヴィアに釣り合う男にはまず相当な忍耐がいる。オリーヴィアの口から漏れる毒をにっこり笑って飲み込める人間は今のところ、一人を除いて居ない。何度か設けられた見合いの席で相手と喧嘩別れをした後、両親はオリーヴィアの好みを良く理解することとなった。
 いっそが自分を攫ってくれないだろうか。そんな風に夢を見る。
 しかしそれは絶対に現実にならないだろう。彼はまず、オリーヴィアの気持ちにさえ気が付いていないのだから。
 目の前で頬を染める少女は、オリーヴィアの内心も知らず、さらに恥ずかしげに口を開く。相談相手になっているうちに――といっても、アンジェリカがそう思っているだけで、オリーヴィアにとっては娯楽の一環でしかないのだけれども――、随分と懐かれたものだと思う。
「ええと……でも。実は、ずっと蛙だったわけでは無いのです」
「え?」
 それは初めて聞く話だった。洗いざらい吐かせたつもりだったけれど、ユーリはそんなことは一言も言っていなかった。

 続けて聞くと、どうやら、眠っているときには変身が解けていたようだった。魔法などというものは結局暗示に近いものだとオリーヴィアは考えている。睡眠時には暗示が解けやすくなっているのかもしれないなどと、魔法の効能についてオリーヴィアが考え込んでいると、アンジェリカは恥じらいながらも告白を続けた。
「私、髪の色を見て、ユーリとハインリヒとを間違えてしまって……」
 その名にオリーヴィアの耳がぴくりと動く。
「実際は全然違ったのですけれど。目を瞑っていたので分からなかったのです」
(ああ、それでさっきの話に繋がるっていう訳なのかしら?)
 オリーヴィアはこの話になるきっかけだった言葉を思い出した。
 そして、なにか思い出したのだろうか。アンジェリカはさらに赤くなる。
「と、とにかく、そのときに初めてユーリを見て、この男の子とお話をしてみたいと思ったのです」
 柔らかそうな頬を染めてなれそめを語り続けるアンジェリカは天使のように可愛らしい。むくりと黒いものがオリーヴィアの胸の内で起き上がる。抑えようと試みる。けれどうまく行かなかった。名を聞いたのがまずかったようだった。しかも、アンジェリカのいう「全然違う」というのは、きっと〈彼〉にとって失礼な意味で言っているのだろう。たしかに弟は美しいから。
 彼女は狩人のように罠を仕掛ける。ちょうど退屈していたのだ。余興にはもってこいだと思った。
 まずは確かめる。オリーヴィアには今までの経過から、もしかして、そう思っていたことがあった。
「寝所を共にされたってことは」
 秘密を共有する共犯者の顔で、耳に顔を寄せると囁いた。
「じゃあ、もしかしたら、朱嘴鸛シュバシコウ(※)が赤ちゃんを運んで来てしまったかも……――結婚前、それどころか婚約もまだなのに、どうしましょう」
 オリーヴィアの予想通りに、アンジェリカは目を見開いて青くなった。

 *

 アンジェリカの故郷であるリュンベルク王国は、南が海に開けていて、開放的な雰囲気が漂う国だった。
 南の風はロマンスをも運ぶのだろうか。恋愛についても比較的自由な国だった。彼女の姉であるベアトリクスなどは、よく浮き名を流していたし、恋人を自分の部屋に呼び、逢い引きを楽しむことも多々あった。
 もちろん浮き名は時に国中に広まることもあり、破局などとなると、大抵が民の口でおもしろおかしく語られた。ただ、平和な国だ。それが特別問題となることも無く、それどころか楽しいゴシップを提供するのは王族の務めのようなところがあった。
 アンジェリカはそんな国にあって、なぜか箱入り娘状態であった。原因の大部分はその姉たちのせい。彼女たちはアンジェリカにはまだ早いと、彼女に来る縁談をことごとく先に検分し、より条件が良いならば、特にすぐ上の姉――ベアトリクスは放っておかなかったのだ。

 おかげで、アンジェリカはユーリに出逢う前に男の生態を知る機会を得ることは叶わなかった。彼女が知っているのは、結婚した男女は一つの寝台を共にして眠るようになり、そして、そうしていれば、そのうちにシュバシコウがやって来て子が授けられるということだけだった。
 アンジェリカは部屋の中をぐるぐると歩き回りながら、ため息をつく。
 テーブルの上には婚約の儀の手順が書かれた紙。そしてそのときに着る衣装が部屋の隅にまるで花のように飾られている。アンジェリカによく似合う、淡い桃の花のような、そんな柔らかいドレスだ。
 彼女は、今、昨日までとは別の意味で何も手に付かなかった。昨日までは儀式が終わればユーリと人目を憚らずに会う事ができるとうきうきしていたというのに。
 今は何か切羽詰まったような気分で、ユーリに会いたい、話をしたいと切望していた。
(――寝台を共にすれば、子を授かるなんて。ああ、でもそんな話をベアトリクスお姉さまから聞いたことがあったかも。……結婚もしていないのに、どうすればいいの)
 もちろんベアトリクスの言った意味はもう少し違う意味だった。しかしアンジェリカは見事に誤解して、苦悩した。
 リュンベルクで母である王妃が、よく『恋はいいけれど、子供ができるようなことだけは結婚するまでは止めてね』と懇願していたのを思い出す。
 父もよくアンジェリカに慎みを持つようにと言い聞かせた。
 その会話に具体的な内容は無かった。なんといってもロマンスの溢れる国。そういった本もちまたに溢れていた。当然、読書など興味の無いアンジェリカが手に取ることは無かったけれど。
 そんなお国の事情もあり、実のところリュンベルクの両親も姉たちも、皆が皆、誰かが教えているだろうと思っていたのだ。そうして内容が内容だけに皆、確認もせずにいた。知らぬまま嫁いで来たアンジェリカは戸惑うばかりだ。
 確かなのは、アンジェリカがユーリと寝台を共にしたという事実。その事実はアンジェリカが思っていたより遥かに重大なことらしかった。
 父王はユーリが蛙だから気を許していたのかもしれない。まさか人の姿に戻るなどとは考えてもいなかっただろうし、アンジェリカだってあれが蛙のユーリだとは思いもしなかったのだから。
 常識的に考えて、蛙との間に子ができる訳は無い。さすがに神も間違って子を授けることもないだろう。しかし――人の姿ならどうだろう。アンジェリカは彼が人の姿に戻ったことを誰にも――当の本人以外には口にしていない。しかも本人はおそらくアンジェリカが寝ぼけてみた夢か何かだと思っている。
『ユーリと相談した方がいいと思うの』
 オリーヴィアは、ユーリにこっそりと連絡をしてくれると言ってくれた。まだ正式な婚約前なので二人だけで会うことも叶わない。そうアンジェリカが不安がったら、いつものようにオリーヴィアが立ち会ってくれるという。
 頼りになるお義姉様だと、心強く思いながら、オリーヴィアに任せる。しかし、もう半日経ってしまった。――待てども待てども、なかなかユーリからの連絡は来なかった。

 *

「は? 今なんて言った?」
 夕食後のことだった。ユーリは食後に突然尋ねて来た姉の言葉に固まっている。
「だから、〈おめでた〉よ」
 もう一度聞いたけれど、聞き間違えではなかったようだった。
(何言ってんだ、この馬鹿は)
 姉に勘づかれれば死にかねないので、ユーリは心の隅だけでそう叫ぶ。
「んなわけないだろ」
 ユーリは結局僅かに鼻で笑ってしまった。直後咳払いをして誤摩化す。オリーヴィアはそれに気が付かずにニコニコとしていた。その女神にも似た温和な笑顔はあまりに珍しくて気味が悪い。こんな顔をするときはろくなことが無いのだ。――きっと例の暇つぶしという名の『遊び』だ。面倒ごとが近づくのを感じて、ユーリはうんざりした。ただでさえ、婚約の儀に向けて準備がいろいろと押し迫っていると言うのに。
「アンジェリカさまにお話を聞いて来たのよね、さっき」
「ああ、そう」
 ユーリは耳半分で相手をしようと、儀式の手順が書かれた紙に目を落とす。これが終わればと心を躍らせながら何度も読み返したそれは、端が縒れて皺になっていた。オリーヴィアは聞く耳を持たないユーリを前にしてでもまだ穏やかな笑みを浮かべている。
「きちんと聞いておいた方がいいと思うけれど?」
「だから、俺とアンジェリカは、まだそういう段階じゃないわけ」
 それは、正直に言うと少々悲しいことだ。ユーリはもう少しリュンベルクで羽目を外していれば良かったと常々後悔しているくらいなのだ。あの出来た王も、かえるの姿であったからだとは思うけれど、ユーリとアンジェリカが寝所を共にすることを許したくらいだ。今更キスの一つくらいで文句もいわないだろう。
 ユーリは彼女と過ごした幾夜を思い出してため息をつく。
 そして思い出す。男が隣で寝ている夢を見たと言っていたことを。その夢も本当に隣で寝ているだけという、話すのにそこまで照れることも無いような内容なのに――だって雑魚寝と何も変わらない――、彼女は真っ赤になってたなあなどと。
(あぁ――可愛かったよな)
 思い返せばあのときにユーリは彼女に恋心らしきものを抱いたのだ。
 こほん、というハインリヒの咳払いに、ユーリは思わず緩みかけた頬を慌てて引き締める。彼はユーリがだらしない顔をしそうになると、そうやって忠告してくれるのだ。特にオリーヴィアの前では。
 しかし、ユーリの頭には、先ほど思い出したアンジェリカの顔に触発されて、突然一つの懸念が頭の中に浮かんだ。
 もともとユーリは結婚したあとの夫婦生活にもやや不安があった。アンジェリカはもう十七になるというのに随分と子供だ。実のところ……無事に初夜を迎えられるかどうか、正直ユーリはまったく自信が無かった。
(だれか聞いて、知らないようだったら教えてやってくれ)
 と思うものの、その役目を――本来ならば実に適任であるはずの――この姉には絶対頼まないようにユーリは心に決めている。おそらくそんなことを頼もうならば、全く別のことをアンジェリカは吹き込まれて、恐れを成した彼女が直前で拒むなどということになりかねない。自分のことで精一杯なユーリがもしそんな目に遭えば、おそらくそれ以降は……実行不能で、その上、きっと立ち直るまでに時間がかかるに決まっている。
「ともかく。あの初心なアンジェリカが、その、に妊娠だって?」言い慣れない言葉にユーリは吃る。なんだか額に変な汗も滲み出る。「い、一体何の冗談だよ。あれだろ、俺をからかっておもしろがってるんだろう」
 馬鹿も休み休み言えよ、ついぽろっと出かけたそんな言葉をユーリは飲み込み、そして傍にいたハインリヒに目をやる。同意を求めて。
 そのハインリヒはユーリを見ること無く、いつしか姉の姿に見とれている。それもいつもの光景だ。文句を言う気にもならなかった。
 多少の同情もあり、ぼんやりハインリヒを見ていると、オリーヴィアが言う。
「でも、アンジェリカ様は、何度も〈人の姿の〉あなたと一緒に過ごしたって」
「へ?」
「つまりそういうことでしょう? 思わず手を出しちゃったのでしょう? しょうがない子ね」
「な――――」

「あぁ!」
 ハインリヒがそこで変な声をあげる。
「そういえば、そうでした! ユーリ様、眠っておられる時には人の姿でした! 私も見ました!」
「なんだって?」
 お前も見たのか――ユーリは、驚いた。ってことは、アンジェリカが言っていたのは寝惚けてみた夢ではないのか。
 寝台の上で二人でよりそう男女。はてさて、その意味は。
「………………え?」
 二人分の視線がじいっとユーリを見つめている。一人は疑惑の、もう一人は驚愕の表情だった。
「いや、や、――そんな覚えないし! あったら勿体なくて忘れる訳無いし!」
 焦りで余計なことまで口走るユーリにもオリーヴィアは追及の手を休めない。
「覚えが無いことなんてよくある話でしょう。酒を飲んで意識が飛んでいたとか、ほら、いろいろと」
 この姉は、一体このお堅い国のどこでそんな情報を仕入れているのだろう。年の功だろうか。そんな感想は置いておいて、ことは随分深刻だ。
 現に、ユーリはすでに真っ青な顔だった。
「酒……?」
 そういえば、アンジェリカと過ごすようになった最初の日。
 刺身にされるため酒で洗われて、多少酔っぱらっていたような気もする。
 随分前のことだったので、記憶は既に曖昧だった。
「ユーリ様はお酒全く駄目ですからね……そうかぁ、確かに服を着ていらっしゃらなかったし」
 ハインリヒが妙に感心したような声で言う。
 しかし、ユーリは最後に付け加えられた言葉に愕然とする。
「――は!?」
(え? 服を着てないって、俺、脱いだわけ?)
「カエルに変身されたときに服は全部脱げてしまいましたものね、よく考えれば小さくなるので当たり前ですが。呪いが解けたときもそういえば、何も着ていらっしゃらなかったし……。そうか……もうユーリ様もコドモではないのですか……」
 ハインリヒの声にはとても残念そうな響きがあった。
 コドモではない――その言葉に込められた意味にとうとう真っ赤になりながら、ユーリはさすがに否定する。「ちがうって!」
 ユーリの名誉は置いておいて、アンジェリカの名誉の為には、ここはしっかりと否定する必要があった。しかし――まさか、という想いが心の隅には燻っている。

 ユーリはシュバシコウがコドモを運んで来ることが伝承だということを知っていた。今は亡きルーツィエは昔幼いユーリにそう教えてくれたけれど、それが子供騙しだというのは、ユーリも他の勉強を続けているうちに分かって来た。たとえば野に咲く花がどのように実を付けるのか、そして、大地を駆ける動物たちや、空を飛ぶ鳥たちがどのように命を育むのか。生き物である人間も同様だと結びつかないほど、ユーリは愚かではなかった。
 アンジェリカに触れたい。そういった想いが、命を繋ぐ行為に結びつくことは自然なことなのだと彼は幼いながらにも知っていた。
 しかし――
(あれ? でも、俺、あの時、別にあいつのこと好きじゃなかったような……?)
 飼い主としてしか意識していなかったかもしれない。いやでも――風呂に一緒に入って、茹だっていたから、……あるいは。
 ユーリはだんだん混乱して来た。考えれば考えるほど、自分が自分でないような感覚に陥る。
「と、ともかく、じゃあアンジェリカに話を聞く」
 と言ったものの、なんて言えばいいのか分からない。
 とりあえずは「姉さんも同席してもらえるか?」と頼んでみる。嫌だったが、彼女がいなければ顔を合わせられないのだから仕方なかった。
 姉オリーヴィアはまるで薔薇の花が開くかのように華やかな笑みを浮かべた。

 *

(あーあ……オリーヴィア様はまた良からぬことを)
 ハインリヒは目の前の麗しい女性を見つめながらため息をつく。
 この女性はユーリをからかうのを大変楽しみにしていて、週に一度は何かの策を土産にこの哀れな弟君のところへと遊びにやってくるのだ。
 今回のいたずらはどんなものだろうと、半分くらいわくわくしながらハインリヒは待っていたのだけれど、随分と手の込んだものに感じられた。
 というより、珍しく信憑性がある。もし、作り話ならば、このところのいたずらの中でも群を抜いて出来がいいかもしれない。ハインリヒでさえ、本当かウソか、今回はとっさには判断が付かなかった。というか不覚にも一瞬ユーリとともに騙された。
 真意を確かめたくて、そうっとオリーヴィアの方を見ると、彼女はしっかりと目で制して来る。
『教えては駄目よ』
 つまりは、いつものように板挟みだった。もちろんハインリヒの主はユーリであって、正しい助言をするのが従としての役目。しかし、この場では力関係が多少違った。主の上がいるとすれば、それに従うしかない。今はどうも騙されているふりしか無い。
 ため息をつきつつ自らの主人に目をやる。
 彼は未だ青い顔で過去を必死で探りながらぶつぶつと呟いている。
 そんな風に未だ罠にはまったままのユーリがまた哀れで、そして愛らしい。ハインリヒにとっても弟みたいなものだから、オリーヴィアの気持ちがわからないでも無かった。
(しかし、まあ、ご懐妊とは……)
 どう考えてもそれは有り得ない。そう思った。
 なんといってもあのユーリとあのアンジェリカなのだ。あれほどその言葉が似合わない、それどころか夫婦という言葉自体が似合わない二人も無いだろう。
 ユーリは「今さらオトモダチから始めろって言うのかよ」などと言っていたけれども、きっとオトモダチから始めた方がうまくいくと思っていた。おままごとがそのうち本物になればそれでいいと。
 なぜなら、年齢の割にませているユーリはともかく、アンジェリカはほぼそちら方面の知識を持っていないように思えた。きっとカストックの娘に多い、子はシュバシコウが運んで来ると信じ込んでいるタイプだ。ロマンスの国、リュンベルク生まれの姫でありながら、不思議ではあるけれど。
 なので無理に色恋に発展させようとすれば、きっと拗れる。ユーリには多少我慢してもらって、結婚後に地道に接触を増やしていけばいいのではないかと思っていた。この国の伝統的な結婚と同じく、結婚後にゆっくりと恋のステップを踏んでいくのだ。
 ハインリヒのその考えは、計らずともオリーヴィアの考えと一致していた。もともと彼女のやることには恐ろしくて口出しをする気も出来る立場も持ち合わせていないけれども、やはり若い二人が心配なのは、兄代わりとしては当然であった。そのため、ハインリヒは、ある思いつきについてはひとまず心の中にしまってしまうことにした。

(それにしても)
 ハインリヒはやはりオリーヴィアを見つめる。ユーリを見るのと同じく穏やかな眼差しで。
 もとより心に鍵をかけるのは得意だった。叶わぬ恋だから、ハインリヒの中でその想いは育たないようにと注意深く仕舞い込まれていた。幼馴染という気安さがあろうとも、彼女は雲の上の人なのだ、と。
 そんな風に、ハインリヒは自分の恋のことは随分昔に諦めていた。ともかく彼はユーリの傍に一生寄り添っていく。そうしていれば、こうやって姉である彼女の幸せもすぐ傍で見守ることができる。それで十分だった。それ以上は望まなかった。
 幼い頃から見守って来た二人の姉弟。
 幸せになって欲しい。心からそう願うだけだった。
 しかし、このところ、その彼女の周りには縁談が洪水のように流れ込んでいると聞く。そしてそれをことごとく蹴っているとか。縁談自体はユーリの結婚にあわせての動きなのだろう。せめて婚約くらいは決まっていなければ、披露宴での体裁が整わない。齢十八。歳のことに触れれば射殺されそうな目で見られるのでユーリと同様、決して口にしないけれど。
(ご結婚……されないつもりなのかなあ)
 ハインリヒは心配になって来る。彼女の幸せの為には、一日も早く良い縁談がまとまるのが一番なのだ。それがなかなかまとまらないのは――
 ハインリヒは彼女の美しい横顔を見ながら夢想する。
(あれほどの美貌を持ってでも、お断りされるとなると……やっぱりあの性格が問題なのかもしれないなあ)
 美しい花には刺があるとよく言われる。
 彼女は薔薇のような容貌通りの女性だった。美しく鋭い刺がある。――そして、大抵の麗しい女性はそれを隠してしまうものなのだ。リュンベルクで出逢ったベアトリクスしかり。二人とも花のように美しいが、決定的に違うのは、その部分だった。オリーヴィアのように刺を隠さずに堂々としている女性も珍しく、ハインリヒはこの女性に常々尊敬の念を抱いていた。
 ユーリほどに我が儘な人間を見たことが無いと、昔ハインリヒは言った覚えがある。しかしユーリが太刀打ちできないほど我が儘な人間――それは割と身近にいた。これも絶対に口にできないけれど。
 ユーリのように一度蛙になってもらえば。そうして性格矯正でも行わなければ、嫁の貰い手はなかなか無いのかもしれない。いや、――本人が矯正する必要を感じていないようなので無理なのかもしれないが。
(しかし王はどう思われていらっしゃるのか)
 まさか今後、自分がその渦中に巻き込まれることとなることなど、今の彼は想像もしていなかった。


【朱嘴鸛の贈り物 了】
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