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届かない声
 ――ああ、今日もお話しできなかったわ

 アンジェリカはハインリヒの背中を見送ると、部屋に入って大きなため息をついた。
 彼は、毎日ユーリをアンジェリカに預けに来て、そうしてその足でベアトリクスの部屋へと向かう。
 ユーリの身の安全のためだと、そういう訳らしいのだけれど……。
 その割にハインリヒが楽しそうにしているのをアンジェリカは知っていた。
 しかし、アンジェリカの方も、ハインリヒと毎朝顔を合わせても、どんな話をしていいやらと頭を悩ませてしまうのだ。
 アンジェリカは思い描いていた夢の中の少年とハインリヒとのずれが次第に大きくなっていくのを感じていた。
 話したことも無い相手なのだ。当然かもしれない。

 ――もっとウキウキして、……一緒に居て楽しいものだと思っていたのに

 アンジェリカはユーリと話をしている方がずいぶんと楽しいし、気も楽だということに気がついていた。
 ユーリの前だとまったく気負わなくても良いし、何だって話せる。
 アンジェリカの言葉でユーリが怒ったりしたとしても、また、その逆だとしても、すぐに仲直りが出来る自信があった。

 ――ハインリヒ殿とも、このくらい楽に話せたらいいのに……

 アンジェリカはいつもそう思う。
 ハインリヒがベアトリクスと話しているのを見ると、そこにはまったく気負いがなく、ひどく似合いに見える。このごろは、自分でもあきらめがついたのか、前ほど胸は痛まなくなり、嫉妬というよりはただ羨ましく感じるだけだった。

「せっかく送り迎えしてもらってるんだからさ、少しは話でもしたら?」

 ユーリが床の上からアンジェリカを見上げて呆れたように言う。
 少しだけその表情が曇っているように感じた。

「だって、何を話していいか分からないのだもの」

 アンジェリカは口を尖らせる。

「何でもいいだろ、天気の話でも、この間読んでた絵本の話でも」
「いやよ、子供っぽいって思われちゃうじゃない」

 アンジェリカは綺麗な挿絵の入ったおとぎ話などを読むのが未だに大好きだ。
 そういう本は、読んでいて心が暖かくなるような気がするのだ。小さい頃に貰って、ぼろぼろになるまで何回も読んだ。寝る前にそれらを開いてその美しい世界に入り込むのが彼女の楽しみだった。

「……俺の前では嬉しそうに話すくせに」
「ユーリの前で格好つけても仕方ないでしょう」

 頬を膨らませると、アンジェリカはユーリを持ち上げてテーブルの上に乗せる。

「それにしても……なあに、その格好」
「……」

 ユーリは一気に不機嫌になり、目の間に深いしわを寄せる。

「緑に赤って……」

 ――聖誕祭クリスマス用のオブジェみたいだわ。

 アンジェリカはクリスマスツリーの隣にユーリが飾られている光景を思い浮かべて思わず吹き出した。

「もっと渋い色の方が似合いそう」

 ――聖誕祭にはまだ早いもの。……そういえば、いい色合いのハンカチがあったかも
 アンジェリカは鏡の前のもの入れを探して、深緑色のハンカチを取り出した。

「私がこれで作ってあげる」

 ユーリは驚いたように目を開く。

「どういう風の吹き回しだ?」
「こっちのほうがおしゃれだし。……ペットは可愛い方がいいでしょう?」

 何気なく言うと、ユーリは少し目を細めて口をへの字に曲げる。悲しそうな顔だった。

 ――まただわ

 ユーリのその表情を見ると、アンジェリカはなぜだか胸が苦しくなる。
 でも、なぜユーリがそんな顔をするのか、アンジェリカにはいくら考えてもどうしても分からないのだ。
 ユーリはその指を口に突っ込み、少し深刻そうに考え込むと、ふとこちらを見つめて口を開く。

「アンジェリカ……俺さ……」

 アンジェリカはその雰囲気になんとなくどきりとして、次の言葉をじっと待った。
 なんだかとても重要なことを言われるような気がした。

 ――しかし

「……ゲコ……」

 聞こえてきた『鳴き声』に首を傾げる。

 ――カエルが鳴いているような声が聞こえるんですけど?

 しかしユーリの顔は真剣そのもので、あまりにもその格差がひど過ぎてアンジェリカは思わず吹き出した。

「あの? ユーリ?」

 ユーリは目を見開いて、口をぱくぱくさせている。

「……ひょっとして……聞こえなかったとか!?」
「今のは聞こえたけど……なあに? ふざけてるの?」

 アンジェリカはくすくすと笑いながら、ユーリにハンカチを被せる。

 ――うん、いい色合い。これならきっと可愛い上着が出来るわ

「じゃあ、ちょっと待ってて。これで作ってみるから」

 アンジェリカはそう言うと、ハインリヒが作った上着を元に、型を取る。
 鼻歌を歌いながらいい気分で作業を進めるアンジェリカの隣で、ユーリは呆然とその身を固まらせていた。


 *


『ユーリ様を愛しているもの、それか、子供のような心を持つもの。そういった方があなたの声を聞くことが出来るそうです』

 少し前に聞いたハインリヒの言葉がユーリの頭をよぎった。

 ――ハインリヒは前者だろう。……じゃあ、リュンベルク王、アンジェリカは?

 王については、どうだろう。博愛主義者の彼だ。何に対しても愛情を持っている気もした。
 でも――アンジェリカは……。
 明らかに後者だった。


『アンジェリカ、俺さ。……お前のこと……好きなんだよ』

 さっき真剣に言った言葉は、伝わらなかった。
 嫌な予感は前からあったのだ。

 ――アンジェリカは変わったから。

 今だってこうしてユーリのために上着を縫ってくれている。以前からは考えられない行動だった。
 少しずつだけれど確実に大人の階段を上っていく彼女が、子供のような心を失っていくのも時間の問題なのかもしれない。
 ユーリは焦る。

 ――もし言葉が全然伝わらなくなれば……

 ユーリが元の姿に戻ることは確実に無くなる気がしていた。
 それ以上に、ユーリはアンジェリカと会話が出来なくなる、そのこと自体耐えられない気がしていた。それでは、本当にペットになってしまう。

 ――言葉が通じるうちに何とかしないと

 目の前で慣れない手つきで針を動かすアンジェリカの白い手を見ながら、ユーリはそう思った。


 *


 ふと気がつくと、目の前が薄暗い。

 ――あれ?

 西側の窓から窓枠に区切られた橙色の細長い光が、床の上の絨毯を鮮やかに染めている。
 いつの間にか日が暮れているようだ。

 ――また寝ちゃったのか

 体を持ち上げると、ぱさりと深緑色の上着がテーブルの上に落ちる。
 縫い目がガタガタだった。所々、まつり忘れで、ほつれた糸がはみ出ていた。ハインリヒの作った赤い上着の方が、色のことを考えたとしても数倍見栄えがいい。

 ――へったくそだな

 そう思いながらも、ユーリは心が暖かくなるのを感じていた。夕方のひやりとした空気も気にならないほど、体もポカポカと暖かい。
 アンジェリカがユーリのために作ってくれた上着。ユーリは何とも言えない気分になり、思わずそれにほおずりした。
 横を見ると、アンジェリカもいつの間にかテーブルに俯せて居眠りをしている。
 長い睫毛の影が、夕日に照らされてそのバラ色の頬に伸びている。長い金色の髪の毛が、一筋、唇の上に乗っていた。
 ユーリは髪の毛を払おうと、手を伸ばしかけたけれど、結局その小さな手をぎゅっと握り、動くのを我慢した。
 自分でも分かっていたのだ。

 ――今動けば、この間みたいに

 早く目を逸らさなければ。ユーリはそう自分に言い聞かせたけれど、その余りにも美しく、胸が痛いその光景からどうしても目が離せなかった。
 固まるユーリの耳に扉が叩かれる音が届く。
 ユーリの体が鞠のように飛び跳ねた。

「ユーリ様、お迎えに――」

 ハインリヒが扉から顔をのぞかせる。

「あれ?」

 ユーリは着地に失敗して、床の上でひしゃげていた。
 焦りで、ユーリは顔が急に熱くなるのを感じる。

 ――見られてないよな?

 何もしていないけれど、何かしそうだったのを悟られるのが恥ずかしかった。
 ハインリヒは眠っているアンジェリカに気がつくと、急にその顔を引き締める。
 扉を静かに閉めると、ユーリめがけて血相を変えて近づいてきた。
 軍人が役目を預かり、任地に赴く時に見せるような、何か、覚悟を決めたような、そんな顔だった。

「な、なんだ? どうした?」

 あまりの剣幕に焦るユーリをぐいと持ち上げると、ハインリヒは幼い顔に似合わない不敵な笑みを浮かべる。

「今です! ユーリ様!!」
「は? 何が?」
「アンジェリカ様! 申し訳ありません!!」

 体がすごい勢いでハインリヒの手から離れるのを感じ、ユーリはぎゅっと目をつぶる。
 柔らかいものが口に触れるのを感じた。
 おそるおそる目を開くユーリの目の前には、今までに経験したことのないくらい近くに、アンジェリカのアメジスト色の瞳があった。


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