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お隣は貴公子 作者:みくも
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11 平間さん

 私は最近、ちょっと回復の見込みのないレベルで落ち込んでいる。原因は、淵野だ。
 あれから十日程が経ち、その間、私なりにのた打ち回って過ごした。
「父ちゃんがさー、お肉送ってきたんだ。ふみさんにもどうぞって。僕焼くからさ、今からおいでよ」
 仕事帰り、ちょうど淵野と一緒になった。隣の部屋の玄関を開けながら、当たり前みたいに彼は言った。
 何かもう、駄目だ。
 この瞬間、そう思った。
「やめとく」
「えー。ワインもあるよ」
「今日はいい」
 今日は――。今日は? 玄関扉に鍵を差し込み、回そうとした手が止まる。
 今日、じゃないなぁ。胸の中にそんな言葉がぽつりと浮かんで、考える前に口が勝手に言葉を紡いだ。
「こう言うの、やめよう。ご飯とか、もういいや」
 淵野銀次郎は、美しい男だ。
 ふわふわきらきら。髪も肌も瞳も輝き、貴公子の様に甘い容姿を持っている。
 そして同時に面倒で、ふざけた男だ。
 厄介な程やたらともてて、それなのに中身はゆるゆるのふわふわで頼りない。
 けれど、私は。その事に、どこかで安心してはいなかっただろうか。
 このきれいな男が面倒でふざけていなければ、恐らく私は、接点を持つ事すらなかったと思う。
 欠点がなければ関わる必要もなかったし、そうさせる近寄り難さが彼の端正な外見にはあった。
「ふみさん、待って。何それ。どう言う事?」
 淵野は困惑する様に眉を寄せ、鍵を回す私の手をつかんで止めた。
「何か……もう、無理なんだよ。悪いけど」
「……何それ」
 低くぼそりと呟いて、淵野は私の手を強く引く。そのまま自分の部屋のドアを開いて、私をその中へ押し込んだ。
「淵野、どいて」
 玄関の中で、扉を背にした淵野を見上げる。彼はまるで怒った様に、甘いはずの顔を険しくしていた。
「帰ってもいいよ。理由を教えてくれたらね。やめるって何? 急に何で? 僕、何かした? それとも誰かに何か言われた?」
「それは今更だろ」
 お前が何かやらかすのも、誰かに何か言われるのも。
「じゃ、何で」
 問う声は静かだ。だけど声を荒げない様に、淵野が必死で抑えているのが解る。
 そうか。このまま許してはくれないか。
 できれば何も言わずに逃げ出したい。だけど、それは無理そうだ。もしかすると、そうしてはいけないのかも知れなかった。
 私はちゃんと、自分の狡さや、臆病さや、今も叫び出したいくらい恥ずかしい勘違いを、認めてさらけ出さなくてはいけないのかも知れない。
 私はその場で通勤用のバッグや上着をぼとぼと落とすと、淵野の部屋に上がり込んだ。キッチンで適当にグラスを取り、示す。
「いい?」
「……いいよ」
 ダイニングテーブルに向かい合って座り、私は淵野が出したワインをかぱかぱと空けた。何杯目かのお代わりをもらって、何とか、重たい口を無理矢理に開いた。
「調子に乗ってたんだよ、私は。その事がやっと、今になって解ったんだ」
 恋人でもない癖に。
 淵野と淵野に迫る女性の間に入る時、よく言われた言葉だ。
 うっせぇな。恋人じゃなかったら、困ってるのも助けに入っちゃいけないのかよ。
 私はそんなふうに答えたものだが、本当に、そうか?
 私は恋人気取りではなかったか? 淵野が甘えてくるのをいい事に、優越感でぶくぶくと面の皮を厚くしていただけじゃないのか。
「淵野さぁ、ふざけた感じで私に言うじゃん。夫婦みたいだねー、とか。もう結婚しちゃおうよー、とか。あれ、ほんと駄目だからな。本気にしたつもりなんかなかったのに、私、自分で思うより全然その気になってたわ」
「え……いや、それは本気にしてよ」
「そうやってへらへら甘えてくるのを甘やかしてるつもりで、ほんとは私が甘やかされてたんだよ。勘違いして調子に乗って、淵野には私がいなきゃ駄目みたいに思ってたんだ」
「ふみさん、ふみさん。僕ふざけてるけど、あれ別に冗談じゃないから。ふみさん、聞いて。それ別に、勘違いじゃないから」
「酒」
「えぇー」
 聞いてー、と言いながらワインを注ぐ淵野の顔はへにゃへにゃしていた。
 私は、これに騙されていたのだ。いや、違う。勝手に勘違いしてただけだ。
 情けなくて頼りないから、私が面倒を見てやっているのだと。
 そんなのさぁ、余計なお世話だ。淵野も大人だ。何とかなんだよ、そんなもん。多分。
 本当は、浅野さんの時も私が出しゃばる必要なんかなかった。お父さんとお兄さんに任せれば、全部何とかしてくれたはずだ。
 でも私は、わざわざ自分で喧嘩しに行った。
 確かにむかついていて、一言くらい直接言いたかったのはある。でも何か、お前は馬鹿かと。愛人と戦う嫁かよ、と。
 すごくない? 私、勘違いすごくない?
 すごいよ。知ってるよ。だからのた打ち回ってるよ。もうさ、ほんと。穴掘って叫びながら埋まりたい。
 気付いたのも、あの日だ。十日程前の、あのパーティーの日。淵野の言葉で気が付いた。
「淵野、お兄さんに言ってたでしょ。淵野がちゃんとしたら、私がびっくりして逃げるって。あれ聞いて、やっと解った。淵野の頼りないとこに付け込んで、保護者気取りの恋人気取りで増長した私の事をさ、淵野が許してくれてるだけなんだって。解ったんだ」
「あー、あれ? あれは、ちょっとした見栄って言うか……えぇ―……そんな気にする?」
 だってそんなの、他の女と変わらない。身勝手に思い込み、自分の好意を押し付ける。あんた達とは違うのだと彼女達を蹴散らしておいて、結局自分も同じ様なものだった。
 いやきっと、もっと悪い。誰より狡く、誰より卑怯で、そして何よりも臆病だ。
 私はそれが、叫びたいくらいに恥ずかしい。
 俯く私に、淵野が言う。
「だったら、その前のセリフも気にしてよ」
 彼はワインボトルを手放して、困った顔で頬杖を突いていた。輝く様な白い頬を大きな手で支えながらに、短いが、確かに聞き覚えのあるセリフを諳んじる。
「――僕が欲しいのは、一人だけ」
 甘さはなく、熱もなく。当たり前の事みたいに、余りにさらりと。
 だからこそまるで、本心の様で。
「僕ね、色んな人から好きってすごく言われてきたんだ」
「だろうねー。知ってた」
 お前がもてるのは嫌と言う程知っている。
「でも、好きって言った事はなかった。ふみさんに会うまで、誰にも言った事がなかった」
 淵野が何を言っているのか、よく解らなかった。言葉の意味が私の頭に染み込む前に、彼は少し話題を変える。
「初めて会った時さ、覚えてる?」
「……あぁ、女の子に声掛けられてた時?」
 エレベータ―の前か何かで、すごく邪魔だったのは覚えてる。
「ふみさん、すっごい迷惑そうな顔してさ。他でやれ、って。それで僕に、おめーも嫌ならちゃんと断れ! って怒ったんだよ」
「……そんな事、言ったっけ」
 私達は、初対面からそんなだったか。
「あれ、ちょっと衝撃だったんだよね。そっか、断ればいいんだ。って」
「それ、普通だから」
「うん。普通なんだよね。だけど僕、ふみさんに言われるまでそんな事も解らなくなってたんだ」
 僕の顔、こんなでしょ?
 淵野は笑いながら言ったのに、どうしてだか笑っている様に見えなかった。
「昔から女の人に色々言われて、勝手な理想とか押し付けられて、都合のいいおもちゃみたいだった。みんながそうで、ずっとそうだった。だからもう、自分でも諦めちゃっててさ。あの時も、引っ越したばっかりなのに、こうなるのかーって。あぁ、ここにきても変わらないのかー。って、がっかりしてた」
 いや、がっかりする前に断れよと。
 私はそう思うけど、あの頃の淵野にはそれが頭からすっぽ抜けていたらしい。
「僕ね、最近びっくりされるんだ。知り合いに会うと、感じ変わったって。何か、人間らしくなったって。父ちゃんとか母さんとか、兄ちゃんもそうみたい。自分でも、そう思う」
 ヘーゼルの瞳は不安げに、少し熱っぽさを滲ませながら私を見詰める。
「ふみさん、勘違いじゃないよ。僕は、ふみさんがいないとダメなんだよ。甘やかしてるんじゃない。許してるんじゃない。僕が、ふみさんを離したくないんだ。何でもいいからそばにいて。これからは僕が守るから」
 まるで告白でも受けた様なその熱に、思わず、私は。
「いや、守るのは無理だろ」
 そこだけスッと冷静になって、ゆっくりと首を振った。
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