「第八話」 六須
「第8話」
2月13日 AM10:13 台輪中学校-中桐宅間街道
中桐はわき目も振らずひたすら、前へ、前へ、歩を進めていた。
その歩を進める中桐の姿は、全力疾走で中桐の視界は勢いよく後ろに流れる町の風景で、ただ目的の場所へ急いでいた。
(早く、早くあの人のところまで…!!!)
既に全力疾走を続ける中桐の肺は酸素が十分にいきわたらず、悲鳴を上げ、中桐の呼吸を不規則に乱していた。
中桐は尚も、走り続け、そして、
ついにあたりへと走らせる目線の端にあの白い長髪の人物を中桐は確かに捉えた。
忘れようもない外見。その姿は今朝自分を異世界へ誘おうとした張本人だった。
その人物は今朝中桐たちが見かけたのと全く変わらぬ出で立ちで、街道をぽつぽつと一人、静かに歩いていた。
中桐はその人物に駆け寄って声をかける。
「あ、あの……」
中桐の声はいつになく他人行儀で怯えたような、か細い声だった。
まるで、未知の生命体に交渉を図ろうとするような危うさすら中桐の声にはあった。
その白い男はゆっくりと中桐に振り向いて、ああ、と何か納得したようだった。
「おや、貴方は今朝お会いしましたね。 どうしましたか? そんなに息を切らして」
紳士のようなおっとりとした妙に高い声で男は言った。
その彼の表情は彼の長い真っ白な前髪が真っ直ぐ垂れ、彼の表情を隠していて、伸びた髪と髪の間に僅かに見える石膏のように白い肌以外うかがい知れなかった。
「あ、あの…あなたは……川上美佐子という人をご存じありませんか?」
すると、その男はほう、とため息のようなものを漏らし、その中桐の問いを待っていたように朗らかな口調で答えた。
「彼女は、ええ。大丈夫ですよ。あなた方の知る川上様はきちんとあなた方の世界へ戻します。川上様御本人もそれを望むでしょうし」
「え……?」
突然の男の返答に中桐は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「ご安心ください。川上様は本日中にこちらの世界へお戻りになります。この六須の一命をもって保証いたしますよ」
六須、と名乗ったその白い男は伸びた前髪を手でさらりとかき分ける。開かれ、見えた男の口元は緩やかなカーブを描いた、見るものを安堵させる聖母のように安らかな笑顔を見せた。
「…用心深い貴方でしょうから、今朝のように貴方の言う本当に貴方がたの世界の川上様が戻られる、という『証拠』が必要でしょう。 その証拠は必要ですか?」
六須の石膏で塗り固めたような真っ白な顔は中桐に優しく微笑みかけていた。
六須は中桐が求めている質問の答えをぺらぺらと言い当てる。
しかし、不思議なことに中桐はそんな異常な六須に違和感を覚えなかった。
それは、六須の言う異世界には中桐たちの理解の及ばないものであって、今や何があっても不思議に思えない。そんな違和感をかき消すような途方もない魔力が六須の一言一言に備わっていた。
中桐は六須の問いに答える。
「ええ。………証拠を見せてください」
六須は我が意得たりとほんのわずかにほくそ笑んだ。
中桐には六須のそれが小さすぎて見えなかった。
「では、――――――――
◇――――――――◇
渡瀬は出来るだけ、他の生徒達に気取られないように(実際は何人かに気付かれていたが)渡瀬雄吾の肉体が出しうるだけの最高速度で台輪中学校の校庭を駆け抜けた。
そして、その渡瀬の速度は緩まぬことなく、中桐の家へと一直線に向かっていた。
渡瀬の運動神経は、本人がつい先ほど琴乃の前で自負した通り、サッカー部のエースだった。
中学生離れした持久力、瞬発力など、卓越した渡瀬の能力は中学校入学当初から評価され、様々な部活からの勧誘があったほどだった。
そして、渡瀬の息は乱れることなく常に平均値を保ったまま、渡瀬は学校を抜けた真っ直ぐな街道をひた走る。
走りながら渡瀬は、辺りに目を走らせる。
もしかすると、中桐は家へ帰っていなくまだ、このあたりにいるのかもしれないという僅かな猜疑心が彼をそうさせていた。
すると、閑静な街道の中に渡瀬は左30メートル程先に、突如二人の人影を捉え、慌てて足を踏み込んでその方向へと目をやる。
人影は二つだった。
内、渡瀬の目は一つの人影に注視する。
「中桐…!!」
渡瀬は、中桐の姿を捉えるなり、彼を大声で呼ぼうとする。
そうして徐々に開かれた口元が不意に止まる。
中桐のそばにいるもう一つの人影、それは渡瀬の記憶に嫌でも残るイメージだった。
(アイツ……今朝のオッサンじゃねえか? なんで中桐と一緒に話してるんだよ…?)
渡瀬は30メートル先で話す中桐と白い長髪の男とが話している光景を捉えた。
(ここからじゃ、よく聞こえねえな……)
渡瀬は街路樹に隠れながらこっそりと向かおうとするが、どうやら時期を逃したらしい。
二人の内、白い男の方が渡瀬が近づこうとするやいなや、全く渡瀬の存在は気付かれていないのにかかわらず、中桐のもとを去って行ったのだった。
それでも、渡瀬はなお、その去りゆく白い人影を追おうとして街路樹の陰から飛び出して男を追った。
「おらぁ! 待てよ!」
渡瀬が声高に男に罵声を浴びせるも、男は煙のようにいつの間にか渡瀬の視界から消え失せていた。
「くそっ、逃げたか……」
悔しそうに、舌打ちをした渡瀬のそばには呆然と立ち尽くす中桐がいた。
渡瀬は中桐に気付き声をかける。
「よ、中桐」
渡瀬は普段と変わらない声であいさつをかわそうとする。
が、中桐は影を潜めた無表情で、
「うん……」
と、小さく言うにとどまった。
渡瀬はそんな中桐の顔色を窺う。
「中桐…どうしたんだ? お前あのオッサンと何か話してたみたいだけど、なんか変な事でも言われたのかよ?」
中桐は答えなかった。
渡瀬は険しい表情をみせ、続けざまに中桐へと質問を浴びせかける。
「お前、アイツに何言われたんだよ? 今朝アイツ、異世界がどうとか言ってたよな。 やっぱりあの川上センセは……」
「渡瀬」
おし黙っていた中桐が重たい声で友人の言葉を制する。
「大丈夫だよ。 ……明日になったら先生、いつも通りの川上先生に戻ってるよ。さっき行った六須さんがそう言ってた」
「……本当かよ、それ」
渡瀬は熱に浮かされたように呆けた様子で話す友人の言葉を言葉通りに信じよいか、と悩んだ。
「…ま、戻るのならそれが良かったに越したことはないが…。とにかくだ」
渡瀬はそこで言葉を切った。
「中桐、とっとと学校戻るぞ。川上センセの事ならアイツに見つかんなかったらきっと大丈夫だろうし。……あと、琴乃さんからも頼まれてるしな」
「何て言ってた…?」
「お前に『戻ってきて』ってな。あんまり琴乃さんに余計な心配かけるんじゃねえぞ」
「わかった。……ありがとう」
中桐が僅かに嬉しそうにそう呟くのを聞いた渡瀬は所在無いように首の後ろをぽりぽりと掻いた。
「うるせえ。ここまで全力疾走して来た俺の身にもなれよな」
「うん、ごめんね。僕のことで苦労かけちゃって」
「あー、構うな構うな。じゃ、ぼちぼち学校に戻るか」
二人は、学校の方へと続く街道を歩き出す。
その中で、普段はよく話す渡瀬が何も言わないのに中桐はふと気になった。
「渡瀬、どうしたの?」
隣を歩く渡瀬の顔は、いつになく真剣だった
「………俺さ、今朝、お前が他の誰かにマジギレしたの初めて見たよ」
中桐の表情が幾分強張った。
「そりゃあ、お前にだって怒る時ぐらいはあるよな…? それでも俺、川上の襟首掴んだ時の中桐にはマジでビビったよ。お前みたいな聖人サマが他人に怒る事なんてめったにないよな?」
渡瀬は、中桐におずおずと聞く。
中桐はあの快活な渡瀬に似合わずこんなに遠まわしに質問してきたのがどこかこそばゆかった。
「……………僕が怒ったらおかしい?」
中桐は意図が見え透いている質問に対して、突き放つような声をいつの間にか出していた。
その聞きなれぬ中桐の感情のこもった声を聞いて、渡瀬は取り繕う様に、
「い、いや…そんなつもりじゃ」
「僕だって、怒る時くらいはあるよ。…ただ、それを見せても皆に迷惑がかかるだけで何の得にもならないから自分で押し殺してるだけ」
「中桐…?」
戸惑う渡瀬を無視し、中桐の言葉は決壊したダムから流れ出した水のように、続けざまに溢れ出す。
「僕はいつも皆の気持ちを考えてる。誰かの気持ちを無視したような自分勝手な言葉で踏みにじるのは僕には出来ない。 それでも……やっぱり本当は心のどこかで人を踏みにじったり、嘲け笑ったりしてる。 そんな汚い自分がいることも僕は今までは押し殺してきたはずだったんだ。けれど、僕は琴乃が川上先生に叩かれた時に……」
―――皆の前で川上に手を上げてしまった。
中桐自身はそんなことをしても何の解決にもならないとわかっていながら、行為に踏み切ってしまった。
ふとした瞬間に垣間見てしまった自分の残虐性を中桐は整理しきれないで、自分の中の怒りへと繋がっていたのだ。
「でも、そりゃ川上センセは琴乃さんに体罰振るってんだし、あの時、お前が怒るのも無理ねえって」
「そうなの、かな……?」
「ああ、お前は大丈夫だよ。気にすんな」
渡瀬の顔はいつもと同じの笑顔だった。
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