36・ 古びた鏡
――ぼくにもこんな感情が残っているのか。 復讐じゃない、何かを求めている心。
「何か思い出した?」
自分の動揺を隠そうと慌てて聞く。 それに、素直に答える少女。
「わたし――前に兄様とここに何度も来たことが。そうだわ、何で忘れていたの? わたしの大好きだった兄様」
「ダリウス様のことか?」
後ろを振り返ったエスペラントが頭を振る。
「違うわ。クロード兄様よ」
「クロード?」
その名前にステファンは表情を暗くする。 それは国王クライブの双子の弟の名前ではないのか?
変わった名前では無論ないが、この国では今や禁忌とされている名前だ。 この国を混乱に貶めた者の名前。
そしてもう一つはステファンにとっての……禁忌の名前。
「ねえ、アリスローザ様のところに連れて行ってくれない? 彼女と話がしたいの」
エスペラントはアリスローザが何か知っているとこの前、彼女と会ったときの会話を思いだしていた。
「エスペラント! 自分勝手にここの連中を振り回すのは止めなさい。大事な目的のためにいるんだからね」
妹の顔を見た途端にダリウスの小言が始まる。
「お兄様、クロード兄様はどこなの?」
「クロード――兄様?」
ダリウスは妹からの返事にわけが分からずに後ろにいる自分の両親を振り返る。
「エスペラント様、思い出したの?」
黙るダリウスに代わって喜びの声を上げたのはアリスローザだった。
「何を言っているのか、わたしにはさっぱり」
分からないと言おうとしたダリウスの言葉は母親の声に遮られる。
「ダリウス、あなたにはユリウスと、クロードという弟がいたのよ」
「何を言っているんだ?」
これには後ろで聞いていたハーコートが堪らず口を挟む。
「あなたも、ダリウスも。男って忘れ易いのかしら。三年前まであなたの子どもとして魔道師のイーヴァルアイとクロードがモンド州にいたのよ」
ゆったりとした物言いで夫も息子も即座に黙らせて夫人は続ける。
「十年も一緒に暮らしていたんですよ。その間、わたしは城下の町に館を構えてあなた方と離れていました。寂しかったわ。でも、三年前のある日わたしの部屋に竜門が開いて……」
刺繍をしていた彼女の目の前に現れたのはこの国の魔道師の祖、イーヴァルアイとその後ろからのぞくようにこちらを見ている十四、五歳の少年。
しかし、彼女は初めて会うわけではなかった。
始まりは十年前。 彼がモンド州の州公の息子になるために邪魔だからと一方的に城を出るように言いに来たとき。
「いくら、魔道師庁長官であるあなたの申し入れだからと言ってこんな理不尽ななさりようには納得出来かねる」
モンド州州候、バルザクト・ロイス・ヴァン・ハーコート公爵が、この国の魔道師の重鎮ガリオールにきっぱりと断りの言葉を伝える。
「あなたの弟の子どもを養育して欲しいというのがそんなに理不尽ですか? 大事をとって魔道師を一人お付けすると言っているだけですよ、公」
「なんでその魔道師までわたしの子どもになる道理があるのか、お伺いしたい。下の娘はまだ三歳なのだ。母親と引き離すなど論外だと思われませんか」
「まあね。無茶苦茶なのは分かっているけど。でも今の雛ちゃんは自分を魔道師だとは思わずに育って欲しいんですよ。で、兄としてつけることにしたんですけど。お二人とも黒髪ですし……」
横からレイモンドール国の魔道教の本山を統べるルークが口を出す。
「公、悪いがこれは決定事項だ。王陛下の許可も取ってある。了承も何も決まった事にこれ以上何を言われてもこの決定は覆らない」
ガリオールは聞く耳を持たないとばかりに言い切って後ろを振り返る。 そこにいるのは七歳くらいの亜麻色の髪の少女の容貌を持つ少年。
「話はついたのか。わたしの名は、ユリウスだ。ハーコート公、州城にある離宮のどれかをわたしの住まいに用意しろ」
この場にいる誰よりも偉そうな口を利いた少年は、それからいくらもしない頃、婦人の住む城下の館に長身の従者を一人連れて現れたのだ。
「これは、ユリウス様。どうされたんです?」
夫人は突然現れた二人に驚く様子も無く、自らお茶を入れようと立ち上がる。
「公妃様、お茶ならわたしがご用意いたします」
青年が手を出すが。
「あら、いいのよ。ここに来て何でも自分で出来るようになったわ。でないと何もすることも無いし。それにあなた方が来ている事をあまり人に知られたくないのではなくて?」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
従者の青年が素直に引き下がる。 椅子をすすめたが固辞して椅子にふんぞり返る少年の後ろに立っている。
「今日は、これを持って来てやった」
ユリウスが言うとすかさず、青年が丸い古ぼけた銅鏡を婦人に差し出した。
「これは?」
「ハーコートの奴が親の敵のようにわたしを見るので適わん」
ぶすっと言う少年は説明する気はさらさらないようだ。
意味が分からず婦人は困惑する。
それを見てため息をついて青年が口を出す。
「これは自分の見たい者を映します。長い時間は無理ですが。これでご家族の様子をご覧になれますよ。少し、簡単な呪文を覚えていただきますがよろしいですか?」
青年の指導の下、何回か練習して鏡に呪文を唱えてみる。 途端に銅鏡の表面の曇りが取れていき、鈍い鏡面に何かが映る。 自分の顔では無いそれ。
「エスペラント。寝ているのね」
ぷっくりとした顔の幼女がすやすやと女官の腕の中で寝息をたてている。
「ありがとうございます。ユリウス様」
顔を上げてにっこりと笑って手を出す婦人に、億劫そうに手を出す少年。
「おい、何なんだ」
手を引き寄せられて抱きしめられたユリウスが慌てて声を上げる。
「だって、ハーコートの息子ならわたしの息子でしょう? ユリウス様。抱きしめられないエスペラントの代わりに暫くわたしに付き合ってくださいませ」
「なっ!」
「公妃様、いけません」
若者が気遣わしそうに近づく。 気難しい自分の主人は気安く自分の体に触れられるのが事のほか嫌いなのだ。 自分でも世話を焼く以外に触ることなど適わないというのに。
|