男はステージに立った。この演奏を聴きにきた物好きな客に頭を下げる。心なしか、男には客がにやにやと笑っているように見えた。まるで、これから始まることを楽しみにしているように。いや、本来、演奏者にとって、それは喜ぶべきことだ。しかし、今日の演奏は、その、本来、には該当しない。
男は指揮棒を高くかかげた。視線が男に集まる。男は演奏者の顔をざっと見た。泣いている者、おびえている者、ふっきれた様子の者、静かに笑っている者、男はそのすべての視線を受け止める。これをまとめるのが男の仕事。男は指揮棒を静かに振り下ろす。
ゆっくりとした、短調の曲が空間に広がった。
曲はどんどん続いていく。特に変わった曲ではない。なら、なぜこの演奏が本来、というのに該当しないかというと、この曲が、演奏者自ら、死ぬために用意した曲だからだ。この曲には、途中、134小節間、全部の楽器が休みの部分がある。その部分で、演奏者は自殺しようと考えていた。
彼らは音楽が好きだ。今までは、その、大好きな音楽をして暮らしていた。しかし、最近は不景気。演奏会を開いても客がこない。彼らは音楽だけでは暮らしていけなくなった。音楽なしでは生きていけない、そうして今日の演奏会が考えられた。
しかし、別に彼らは音楽をするなといわれたわけではない。彼らは死ななくても、他の仕事をしながら音楽はできた。男を含め、彼らはそれに気付いていなかった。もしかしたら、気付いていたかもしれない。
音楽が止まる。
彼らはそれぞれの方法で自殺していった。男は最後に自殺しなければいけない。それは、男が指揮者だからだ。男が死ぬと演奏が終わってしまう。男は、次々と死んでいく仲間を眺めていた。何かが違う、男の頭のなかの一部がそう告げる。男はそれを無視しようと努力した。それは段々と、まるでクレッシェンドをしているかのように強くなる。
男は指揮棒を落とした。まだ生きている仲間が男を睨む。
「違う」
初め、男はそれを言い訳をするような、弱々しい声で言った。声に出してそれは確信に変わる。
「違う!」
男は叫ぶ。仲間は男に襲い掛かった。
「間違ってた」
仲間に取り押さえられながら男は言う。
「死んだら音楽ができない」
男が言った言葉は的を射ていた。
「もう後戻りはできない。おまえができないなら、俺らがやってやる」
演奏は強制終了させられた。
異変に気付き行動したのは客達だった。客は会場をでると警察に通報。それから数分後、客は警察官と一緒に会場に入ったのだが、すべてが遅かった。
ステージの上には誰もいない。生きた人間はだ。
警察官に会場を追い出される時、一人の客が呟いた。
「彼らはきっと、天国で楽しく演奏してるんだろうよ」
その一言には皮肉もこめられていた。この客もまた、音楽を愛している一人なのだ。好きな音楽がずっとできればどんなにいいだろうと、彼もまたそう思う。だからこそ、彼は言いたかった。
「自分も音楽が好きなんだ。あんたらは音楽ができてたんだろ。俺は残業やなんやらで、最近まったく楽器にさわれない。あんたらの演奏、最後まで聴きたかったよ。なんとかならなかったのか? あんたらは俺の憧れなんだから」
客は心の奥底にそれをしまいこんだ。
客は何もできなかった。できるとしても、自分にたまったちょっとした不満を、少しうちあけることだけだ。自分の好きなことができる世界は、すごく幸せな世界なのだろう。客も、彼らも、きっとそう思っているに違いない。 |