おぃ、起きろ――。
誰かに叩き起こされた。だが、周囲には誰もいない。
漆黒の闇の中、いるのは自分ただ一人。
あぁ、アイツか……。
頭で叩き起こした人物を理解し、寝ていたベッドから身を起こした。
コンコン
「姉さん、入ってもいい?」
ドアのノックと共に少し高めの声が聞こえた。
彼女には聞き覚えのあった声である。
「あぁ」
彼女はそう言いながら、上着を脱ぎ始めた。
ドアが開き、入ってきた10歳ぐらいの少年は彼女の姿を見て、ため息をついた。
「姉さん、いい加減に人前でそんな格好をするのをやめたら?」
「別に、見るのはお前ぐらいしかいないからな」
パサッと服をベッドの上に脱ぎ捨てた。
漆黒の闇だった部屋の中が小さな飾り窓から月の光が彼女の背中を照らした。
左肩から右腰までに至る大きな傷。
何年も前、トラックの下敷きになり、その時についた傷である。
傷はもう癒える事もなく、消える事もなく、彼女の色白の背中に無残に刻まれている。
普通、この様な大傷を受けたのなら、死んでいるはずだ。
しかし、彼女は生きている――。
「今日も仕事か。由宇、私の代わりに行ってくれないか?」
「無理に決まっているじゃん。僕の担当は昼間。
こんな夜中じゃ、力も出ないし。第一、力の温存の為にこの姿なんだから」
由宇と呼ばれた少年は彼女に言い返した。
言っている言葉の意味を理解しているのは由宇と彼女だけであろう。
「それぐらい分かっている。ただの独り言さ」
彼女はそう言いながら、ドアの近くにかけてある黒いコートを手に取り、羽織った。
「それじゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい、由貴姉さん」
都内某所――高層ビルが建ち並び、死角が多い。
「けっ、しけてんなぁ」
茶髪でいかにも悪と言う男性が財布の中身を見て、そう言った。
茶髪の男性は財布からお札だけを取り出し、先程まで殴り気絶した男性に空となった財布を投げた。殴られ、顔が誰だか分からないほどになった男性は壁にもたれかかり、「ヒーヒー」と呼吸をしていた。
「じゃーな」
茶髪の男性はそう言って、その場から去っていった。
しばらく歩いていくと、茶髪の男性は誰かとすれ違った。
すれ違う時、お互いの肩が当たった。
「おい、何しやがるんだ」
男性は肩が当たった人物のコートの襟を掴んだ。男性に掴まれた人物は下を向いていた顔を上げた。由貴である。男性は由貴の顔――色白で整いすぎている顔立ち、心の奥底を見明かされているような黒い瞳――を見て、少し後ずさったが、すぐに思考を変え、口元を緩ませた。
「おい、姉さん。よくも俺の肩にぶつかってくれたなぁ。
それなりの礼をしてくれるんだろうな」
「礼だと……?」
クックックッっと笑いを抑えているような笑いが由貴の口元から吐き出される。
「私はお前のような罪人に礼をする理由がない。だから、礼をする必要がない。
それに私はお前を裁きにきたのだからな」
由貴はコートを掴んでいる男性の右手を振り払い、男性と少し距離を置いた。
「は? 何言っていやがるんだ」
男性は由貴の言葉を理解できていなかった。まぁ、理解することなどできないであろう。彼には難しすぎる意味が含まれているから。
すると、由貴の頭上から一枚の紙切れが落ちてきた。その紙切れはなぜか光り輝いており、まるでこの世のものではないものである。
「閻魔王はお前をじかに責めたい様だ。
地獄の娘、黄泉が裁く。
笠霧哲哉、大焦熱地獄の刑に処する」
そう由貴が言い終わると同時に由貴の背後に地面からまるで扉のような物体が出てきた。扉のような物体は音も立てず、中心から開いた。開くと同時に中から爪の伸びたどう見ても人間の手ではない手が出てきて、男性の体を掴んだ。
「な、何だよ、これ。おい! 聞いているのかよ!」
「自業自得であろう。私はただ閻魔王の代わりに裁くだけ。
まぁ、お前にぴったりの詩をやろう」
由貴が喋っている間に男性はどんどん扉の方へと連れて行かれる。
男性は必死に抵抗をするが、全然効果はないようである。
「地獄より 聞こえし声に
かくのごと すでにおそるる
地獄にて 焼かるるときは
乾きたる 薪草を焼くごと
焼ける火は まことの火かは
悪業の 火の焼けるなり
火の焼くは 消ゆべきものを
業の火は 消すことかたし」
由貴が口を閉じたと同時に男性は扉の中に入り、扉は閉ざされた。扉は地面の下に戻るように消えていった。扉が消えると同時に由貴の背後に黒髪の男性が現れ、由貴の首元に腕を回し、もたれかかった。
「もたれかかるな、聖」
「別にいいじゃないか。減るもんじゃないし」
「だからといって、こんな人前にひっつくな。てか、出てくるな」
由貴は聖の腕を振り払い、スタスタと歩き始めた。
「……最近、つっこみが厳しくないか?」
聖は由貴に付き添うように歩く。
「で、今日は何の用だ?」
由貴は歩きながら、コートのポケットの中に入っている煙草の箱を取り出し、1本、口に銜えた。
すると、聖が由貴の口から煙草を取った。
「身体に悪いよ」
「それぐらい分かっている」
由貴は言いながら、聖が手にしている煙草を奪い取った。
「……後々、つらい思いするのは黄泉なんだよ」
「煩い。そろそろ地獄に戻った方がいいんじゃないか、聖観音様」
由貴は聖を真正面から見た。突き刺さるような視線――まるで誰も近づけさせないような感じである。聖はため息をついた。
「分かったよ。僕は帰るよ。宵によろしくね」
聖はそう言うと、由貴に背を向けて、歩き出した。
ふと、何かを思い出したように聖は足を止め、由貴の方を向いた。
「煙草はやめなよ。後、千年は生きるんだから」
そう言い残すと、聖は暗闇の中に消えていった。
運命を変えられた。別に後悔はしていない。
後悔していないはずなのに、どうしても自分を苦しめる。
心残りなのは弟の由宇だ。
私が願ったばかりにこんな運命を背負わせてしまった。
……過去を振り返っても仕方がない。
もう時は進み、運命は動く。
私はもう前を向いて歩くしか道はない。
地獄の娘、黄泉として――
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