綵縷使い~さいるつかい~
春のファンタジー短編祭(武器っちょ企画)参加作品です。詳細は3/20活動報告にて。
●短編であること
●ジャンル『ファンタジー』
●テーマ『マニアックな武器 or 武器のマニアックな使い方』
その日は、暦の上では『啓蟄』に当たっていた。春の訪れを、虫たちだけでなく人々が肌で感じられるようになるにはまだほんの少し早い――そんな季節。
定時を過ぎて、少しのんびりした空気が社内に流れ始めた。営業に出ていた社員が戻ってきて一服したり、飲み会の相談をする声が聞こえたりしている。
「あ、やだ、ボタン取れそう」
同僚の吉沢梨沙が、キーボードから手を離して胸元に手をやった。
隣りの席の私がそちらを覗くようにすると、ほら、と吉沢が臙脂色のツイードジャケットのボタンを軽く引っ張る。ほつれた糸がヒラヒラしていた。
「あー、そのままにしとくとそのうちどこかで落としちゃうね。今、つけ直す?」
私は回転椅子に座ったまま少し下がると、軽く屈み込んだ。肩を滑り落ちる髪を抑えながら、デスクの下に置いてあったバッグを取り上げる。中から手のひらサイズの銀色のケースを取り出してぱくんと開けると、針と五色の糸、小さなハサミ、よくワイシャツなんかに使われているボタンなどが入っている。
ケースを差し出すと、吉沢は軽く目を見開いた。
「や、末広、ソーイングセット持ち歩いてんの? 女子力高っ」
「だって、いざ取引先との食事会! って時にスカートの上げが下りちゃったりすると気になるじゃない」
「あー、あるね。両面テープで応急処置したことあるけど、後でぺたぺたしちゃって」
「そうそう。それに……」
私は吉沢にちょっと顔を寄せた。
「この間電車で痴漢に遭った時に、針を取り出して手にブスリ……ってね」
「うわ、なるほど。ある意味、武器だ」
真顔でうなずくと、吉沢は私の手からソーイングセットを受け取った。
「ありがと、じゃあちょっと借りるわ。さすがに私もボタンくらいならつけられるし。……末広って裁縫は得意なの?」
「うーんそこそこ? 母親が和裁が趣味だし……名前に『布』入れちゃうくらいだから、娘も仕込まれたわけよ」
「あ、『由布』だっけ名前。ははは、大変だね」
吉沢は笑いながら上着を脱ぐと、自分のペン立てから取ったハサミでまずボタンを取った。そしてソーイングセットから赤い糸を引き出し、針に通して、
「これ絹糸?」
などと言いながらも手際良くつけ直し始める。
その間に私が書類をファイルしていると、後ろから声がかかった。
「末広さん、これ」
振り向くと、チャコールグレーのスーツが視界を埋めた。振り仰ぐと、一年後輩の加賀見俊輔と目が合う。ざっくりしたショートの黒髪、特に表情のない唇、穏やかそうな目元。手に、交通費の申請用紙を持っている。
「はい、処理しておきます」
差し出した私の手に、加賀見が用紙を載せた。
「お願いします」
目が合う。加賀見の左目だけが、室内の明かりをきらりと反射した。
彼が立ち去ると、吉沢が
「ありがと」
とソーイングセットをこちらに寄越しながら、そのアヒル口に含み笑いを浮かべてささやいた。
「加賀見って絶対、末広のこと好きだよね」
「何でよ」
「書類なんか、書類ケースに入れとけばこっちで処理するのに、わざわざ手渡し……ってあたり? いやー、あたし席外そうかと思っちゃった」
私は黙って肩をすくめるだけにしておいた。
書類を手渡しにするのは、俊輔からのサインだ。といっても、色っぽいものじゃない。
これは、会社とは別の仕事の合図。
東新宿の片隅にある会社を出ると、真っ暗な夜空を背景に伊勢丹や丸井などのデパートや数々のファッションビルが、照明で煌々と明るい通りに林立していた。
そんな街でも、通りを少しそれると雰囲気ががらりと変わる。築何十年だかもはや覚えている人もいないような古いアパートが、入り組んだ路地にひしめいていた。ただでさえ暗い道に、街路灯が今にも消え入りそうに瞬いている。
三月とはいえ、朝晩はまだまだ寒い。ベージュのスーツの上にしっかりコートを着込み、ヒールのかかとを鳴らして歩いていると、もう一つの足音が重なって聞こえて来た。やがて、私の斜め後ろで一定の距離を保ってついて来る気配。私は振り返りもせずに話しかける。
「何だかすっかり、私とあんたが怪しい仲みたいに思われてるわよ」
俊輔の低い声が、淡々と答える。
「……俺にとっては、その方が近くでお守りできますので助かります」
「こっちは出会いがなくなって困るんですけどね。あの書類の合図、別のに変えなくちゃ」
ぶつぶつ言いながらちらりと横目で見ると、俊輔が通勤鞄からテーピングテープを取り出すのが見えた。鞄は手にかけておいて、手のひらから手首にかけて巻いて行く――左が終わって、次は右。仕事の準備なんだけど、手袋だと感覚が鈍るのだそうだ。それにしても歩きながら器用だな。
しばらく歩くと、神社にたどり着いた。新宿で、『それ』がよく現れる地点だ。
大鳥居をくぐって玉砂利の敷かれた境内に入る。まだ固いつぼみをつけた桜の木が、ぽつんと一本だけたたずんでいる脇を通り過ぎると、ビルを背景に本殿が見えた。石畳の途中で立ち止まると、遠くで聞こえていた都会の喧騒がすぅっと静かになった。
左には手水舎、右には稲荷神社があり、その手前には奉納された小さな赤い鳥居がずらりと並んでトンネルのようになっていた。街灯の光がかろうじて届いて鳥居を照らし、その下に影ができている。
――しかしそれは、鳥居の影ではなかった。人の形をした影……それなのに、そこには誰もいない。影の持ち主がいるはずの空間は、陽炎のようにゆらりと景色を揺らめかせているばかり。
私はコートをその辺に脱ぎ捨てると、バッグからさっきのソーイングセットを取り出した。銀製のケースの蓋を開き、縫い針を取り出す。ごく普通の長さの、一見何の変哲もない針だけど、銀でできている特別製。
これは、私の武器だ。
指先でつまんだ銀の針で空中に五芒星を描きながら、唱える。
「青・黄・赤・白・黒」
銀のケースの中の五色の糸がひとりでにほどけ、私の手をめがけて撚り合わさりながら伸びた。糸が針孔を過ぎるのと同時に、銀の針に力が満ちる。
それを確認した私は一息に鳥居に近づくと、地面の影に針を突き刺した。
次の瞬間、五色の糸は目標を捕えて陽炎に襲いかかった。シュウッ、という音を立てながら、糸が何もないように見える空間に巻きつく。
オオオーン……というような、声とも地響きともつかない音がした。糸が巻きついて形を作りつつある『それ』は、激しく身をよじり出した。
でも、大丈夫。いつの間にか『それ』の背後に俊輔が回りこみ、五色の糸の反対側の端を手に巻きつけるようにして固定していた。左目がぼんやりと白く光っている。
加賀見俊輔、彼の左目は『鏡』だ。太陽や月の光を鏡で受けることで、超人的な力を身にまとわせている。テーピングされた手に食い込む糸は、普通の人では支えられない。ここに『それ』が出現することを感知したのも、彼の一族の能力だ。
絹糸が空間に巻きついて作り上げたのは、西洋の棺のような形をした『繭』だった。普通なら蚕から繭になって絹糸を生む過程を、逆に絹糸から繭を作って遡る技。この中では時間が逆行する。繭はさなぎになって孵ることなく、中の物体は始まりの時へと還って行くのだ……。
「って、あれっ?」
「由布様。様子が変です」
素っ頓狂な声を上げる私に対して、俊輔は冷静に指摘した。
五色の糸で作られた『繭』は、暴れるばかりでちっともおとなしくならない。影に突き刺した針は今のところ動かないけど、反対側の俊輔の額には汗が浮かび、踏みしめた玉砂利がミシミシと音を立て始める。
待ってよ、五色……? 何だか、『繭』を形成する色が一色足りないような……。
「あーっ! 綵縷の赤がないっ!」
『綵縷』とは色糸のことだ。植物の花や実、樹皮や根など、古来から定められた素材で染める絹糸で、私の能力ならほんの数センチ糸があれば長さを自在に変えられる。
その糸のうちの、赤色を。
「さっき吉沢が使いきっちゃったのかー!」
ビシュッ、という音がして、『繭』の一部の糸が切れた。中から三本爪の昆虫の足のようなものが突き出したけど、すぐに糸が巻きついてそれを覆い隠す。あああ、でもやっぱり赤がないー!
一瞬、めまいを感じた。影に針を固定している力が揺らぐ。ぐっ、と俊輔が唸る声。
このままでは、逆に『繭』の中で成長したモノが孵ってしまう。伝承では、あの虫のようなものは人を喰らうのだ。
私はとっさにもう一本の針を取り出すと、一気に左手の人差し指に突き刺した。ぷつり、と血の赤が珠になって浮かぶ。
その指で影に突き刺した銀の針に触れると、白の綵縷がすーっと血の赤に染まりながら『繭』へと駆け上った。『繭』に赤い筋がいくつもよぎる。
――『繭』が、一瞬動きを止めた。
断末魔なのか、もう一度オオオーン……という音が聞こえ、『繭』は二、三度大きく身体をよじってからドッと玉砂利の上に倒れた。きりきりと音を立てて、糸が強く締まる。
やがて、巻きついていた糸が端から勝手にほぐれ出し、空中に霧散し始めた。その中に、もうあの昆虫のようなものはいない。
糸が全て霧散すると、銀の針がひとりでに倒れた。
境内には、私と俊輔の二人だけになった。
しゃがんで銀の針を拾うと、私はその場にへたり込んだ。
「……あっぶなかった……」
今ごろになって、私の額にも汗がにじんだ。街の喧騒が耳に届いて来る……俊輔の作った鏡の結界が解けたのだろう。もしも『繭』から虫が孵っていたら、あの喧騒は人々の悲鳴にとって代わっていたに違いない。とんだ啓蟄もあったものだ。
俊輔が、私の横にすっと膝をついた。そして、テーピングした手で私の左手を取ると人差し指を口に含んだ。
別にこのくらいの傷、すぐにふさがるのに……と思いつつ好きにさせておくと、俊輔の熱い舌が数度傷口を舐め、離れた。ご丁寧にも濡れた指先をハンカチで拭いてくれる。そこにはすでに、刺し傷はなかった。
「他には何もされていませんか」
私の左手を握ったまま、俊輔が尋ねてくる。
「見てたでしょ? 他はどこも怪我してないよ」
私が答えると、俊輔は軽く私を睨んだ。
「痴漢です」
「……はい?」
「痴漢に遭って、針を刺したのでしょう? 俺は聞いていませんでしたが」
吉沢との話を聞いてたのか。って、そんなことこいつにわざわざ報告することじゃ。
「大したことなかったし、珍しい話でもないわ」
「珍しいかどうかではありません。由布様が傷つかれた、そのことが問題です」
「傷つくって……」
そりゃ、それ以来誰かに後ろに立たれるとつい振り向いちゃうようにはなったけど……。
「由布様が通勤を別になさりたいとおっしゃるので別にしていましたが、やはり俺はおそばに」
言いかける俊輔の言葉を遮るように立ち上がりながら、私は彼の手からさっと左手を外した。コートを拾い上げて羽織る。
「過保護は勘弁してよ、一緒に通勤なんかしたらますます怪しいじゃないの。ほら、帰るよ。いつもみたいに私はJR、俊輔は地下鉄」
「由布様っ」
あーあ、今日の不手際がバレたら“刀自”に怒られる。帰ったら急いで赤の綵縷を補充しなくちゃ。
後を追ってくる俊輔を無視してさっさと歩き出しながら、私は軽くため息をついたのだった。
【綵縷使い 完】
参考文献・石沢誠司『七夕の紙衣と人形』ナカニシヤ出版
レファレンス協同データベース「七夕で使う「五色の短冊」の五色は何色か。また、その色の意味は?」
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000033828